人物伝

続・伊能忠敬物語

200前回「伊能忠敬物語」では、現役を引退して50歳になってから江戸で学び、正しい暦づくりのため、「地球の緯度1度の正確な距離を知りたい」と、足かけ17年をかけて日本全国を自分の脚で測量。伊能図と呼ばれる『大日本沿海輿地全図』を完成させた伊能忠敬の生涯についてお話しするとともに、香取市佐原にある記念館の展示で伊能図の正確さに感動した立川志の輔が創作した、2時間にも及ぶ新作落語「大河ドラマへの道-伊能忠敬物語」のことを紹介しました。

忠敬が亡くなったのは1818年。伊能図の完成はその3年後の1821でしたから、今年はその200周年にあたります。それを記念して、志の輔はこの4月17日、江東区文化センターにおいて伊能図完成200 年記念落語会で「伊能忠敬物語 -大河への道-」を演じています(左上図)。また、お正月恒例の「志の輔らくごin PARCO」では、新装なった PARCO 劇場における約1カ月間のロング公演、「伊能図完成200年記念『大河への道』」を計画。しかしながら、その直前にご本人が肺炎になってしまい、急遽中止となってしまいました。

Photo_20211225180301このため、200周年には間に合いませんでしたが、来年の1月「志の輔らくご in PARCO 2022」としてリベンジ公演「伊能図完成200+1年記念『大河への道』」が企画されています。1枚7200円と落語会としては破格の高額チケットなのにもかかわらず、発売直後に20公演全てが完売。彼の人気のほどを示しています(左図)。

忠敬の生涯に興味をそそられて訪れた記念館の展示で、衛星画像に基づく精緻な日本全図と伊能図が見事に重なるのを見た感動と、館外で目撃した「忠敬没200年記念に大河ドラマ化を」とののぼり旗から、「伊能忠敬物語 -大河への道-」という大作を創り上げた志の輔の想像力に感服します。

私がこの噺を2014年に初めて聴いた時の演題は、「大河ドラマへの道-伊能忠敬物語」だったのが、今では単に「大河への道」に進化。内容もきっと公演を重ねるに連れ磨きが掛けられているのではと思わせられます。

さて、「大河への道」は起承転結の構成になっています。まず志の輔は、30分にも及ぶマクラの部分で忠敬の非凡な人生、すなわち、50歳で天文学者の高橋至時に弟子入りし、55歳から日本全国を自分の脚で測量、73歳で亡くなるまでに地球一周分の距離を踏破したその生涯を語ります。

次いで「承」では、地元の偉人を主役にした大河ドラマの実現を目指す「伊能忠敬大河ドラマ推進委員会」の一大プロジェクトの顛末が描かれます。委員会は大物脚本家の加藤に脚本の作成を依頼。しかし、最終プレゼンの土壇場になって加藤は「出来ませんでした」と推進委員会の主任池本に詫びます。激怒する池本に加藤は「日本地図を完成させたのは、伊能忠敬ではない。」と思いもよらぬ発見を伝えます。実は地図完成の3年前に忠敬は亡くなっていたのです。

ここから舞台は江戸時代にタイムスリップする「転」の部分へ。主役は高橋景保で至時の息子です。彼は忠敬の死を伏せながらその事業を引き継ぎ、3年後の1821年に伊能図を完成させます。江戸城で将軍に拝謁し、忠敬の死を打ち明けて日本全図を披露します。「これが余の国か」と感動した将軍は、「伊能、大義であった。余は満足じゃ、ゆっくりと休め」と今は亡き忠敬に優しい言葉を掛けるのです。

ここで、再び場面は大河ドラマ推進委員会へ。結局加藤には忠敬の大河ドラマの脚本は書けず、書けたのは景保のものだったのですが、主任はその意味を深く理解し、提出書類にこう書きます。「伊能忠敬なる人物、ドラマにするには大きすぎた」。そして舞台は暗転してこの噺のクライマックスの「結」へ。パラグライダーで空撮した海岸映像がスクリーンに大写しされます。やがて画面上に衛星画像を元に作成された正確な日本地図が出現、続いてその横から歩測で得られた伊能図が現われて、両者がピタリと重なるのです。志の輔が伊能忠敬記念館で感動したシーンの再現です。

Photo_20211225180201ところで、この「伊能忠敬物語 -大河への道-」が映画化され、来年の5月20日から全国で上映されます。主演は中井貴一で、志の輔の落語に感動した中井が「この落語、映画化したら面白いと思うんです。ぜひやらせてもらえませんか」と志の輔に直談判。中井をはじめ、松山ケンイチ、北川景子ら若手からベテランまでの個性豊かな俳優たちを揃えて、それぞれが一人二役で、大河ドラマ制作の行方を描く「現代劇」と、200年前の日本地図完成に隠された秘話を描く「江戸の時代劇」の2つの世界を行き来する不思議な映画となりました。予告編はこちらをクリックすると見られます。https://movies.shochiku.co.jp/taiga/
ちなみに、映画には原作者の志の輔も二役で登場しています。

甲斐 晶(エッセイスト〉

 

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伊能忠敬物語

Photo_20211221104301落語が好きであちこちの落語会に良く出かけます。最近は立川志の輔にはまっていて、YouTubeにある彼の噺をせっせとダウンロードしては、iPodのファイル形式に変換して取り込んで楽しんでいます。彼は新作ものが多いのですが、中でも「親の顔」、「みどりの窓口」、「買い物ぶぎ」などが秀逸で大いに笑わせられます。

そんな中、2014年5月のことです。町田市民ホールで行われた彼の落語会に出かけ、2時間もの長講一席「大河ドラマへの道-伊能忠敬物語」を聴きました。足かけ17年をかけて日本全国を自分の脚で測量し、伊能図と呼ばれる『大日本沿海輿地全図』を完成させた伊能忠敬にまつわる話と2018年の彼の没後200年を記念してその生涯をNHKの大河ドラマにしようとする地元関係者の奮闘ぶりを描いた噺でした。その中で、彼の記念館が千葉県佐原(香取市)にあると知って興味をそそられ、出かけて見ました。

Photo_20211221103801 さして大きくもない記念館に入るとボランティアの方が展示物の説明をしてくれました。団塊の世代が定年退職し、社会奉仕のためあちこちでガイドを勤め始めたのは歓迎すべきことです。

館内最初の展示物は、裃を着て座る彼の肖像画(掛け軸)で、皆様もきっと教科書でお馴染みのことでしょう。その横には、巨大な映像パネルがあって、彼が前近代的な測量器具で実測して完成させた伊能図と最新の衛星画像による国土地理院の日本全図の二つが左右に示されています。見ていると両図は次第に近づいて画面中央でオーバーラップ。何とほぼぴったりと重なり合うのです。彼の仕事の偉大さを感じさせる展示ぶりです。

彼は17歳で佐原の酒造業を営む伊能家に婿入り。その商才によって傾きかけていた家業を見事に立て直すとともに、米取引、運送業、金融業など事業の拡大に成功し、多大な財産形成をします。一方、36歳で名主となった忠敬は、天明の飢饉の際には身銭を切って貧民救済に乗り出し、佐原村からは一人の餓死者も出しませんでした。

Photo_20211221110701 49歳で引退し家業を長男の景敬に委ねると、かねてから興味のあった暦学を志して江戸に出、天文学者高橋至時に弟子入り。その時忠敬は50歳、至時は19歳も年下の31歳でしたので、忠敬の決意のほどを伺い知ることが出来ます。

正しい暦づくりには地球の緯度1度の正確な距離を知る必要があり、日本ではこれを成した人物はいないことを至時から聞いた彼は、この偉業を成し遂げて後生に名を残そうとしたようです。
正確な値を出すためには、江戸から蝦夷地ぐらいまでの長距離を測れば良いとの至時の提案を受け、忠敬は蝦夷地南辺の測量を目指します。当時南下しつつあったロシアに対抗するためにも正確な蝦夷地の地図が必要との幕府の思惑とも合致し、至時の口添えで「御用」(幕府の公務)として蝦夷地測量の旅が忠敬55歳の寛政12年(1800年)閏4月19日に開始されるのです。

180日間の測量の旅(蝦夷地滞在117日)から戻り、約20日で完成させた蝦夷地の地図が幕府から高く評価され、追加の測量を命じられた結果がその後の全国踏破、ほぼ地球一周の4万㎞に及ぶ旅に繋がるのです。全国測量を終えた忠敬は全国図の完成を見ずに73歳で死去。その死は隠され、至時の息子景保を中心に作図作業が続けられ、ついに1821年に伊能図が完成するのです(左上図)。
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記念館を出て「江戸優り」と称された当時の面影を残す町並みを散策していると、忠敬没200年記念に大河ドラマ化をと記されたのぼりが目に付きました。志の輔は噺の中で「一年間、測量姿の場面だけでは魅力が無い。かといって行く先々の名所旧跡の案内では『ぶらり途中下車の旅』と変わらない。各地の名物料理の紹介なら単なるグルメ番組となってしまう。」と揶揄していました。
ところが既に井上ひさしが「四千万歩の男」(全五巻)という長編小説を書き上げ、これが元で加藤剛主演の「伊能忠敬-子午線の夢-」という映画が出来ているのです。小説はどこまでが史実でどこからが創作なのか分からないほど、ドラマチックで面白い作品です。名脚本家を得さえすれば、きっと興味深い大河ドラマとなることでしょう。

甲斐 晶(エッセイスト〉

 

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世界に続く道

Img_5313 昨年(2019年)7月に道半ばにして急逝された、天野之弥前IAEA(国際原子力機関)事務局長の書かれた回顧録、「世界に続く道」(かまくら春秋社)を興味深く読みました。天野さんとは、仕事上の関係もあって大変親しくさせて戴きました。

天野さんと最初にお目にかかったのは、駐日パキスタン大使公邸でのディナー。たまたま私ども夫婦と天野さんご夫妻の席が隣同士になり、会話が弾みました。回顧録によれば、当時、お二人はご結婚後間もかったようで、天野さんはマルセイユ総領事時代の半ばに幸加夫人と結婚され、外務本省に戻って軍備管理・科学審議官組織の次席審議官に就任されたばかりでした。その後、私は、核不拡散や保障措置、核セキュリティ分野の業務に従事することとなり、軍縮・核不拡散をライフワークにされていた天野さんと業務上深い関係となった次第です。

20051209-amano-vic-62sagsir すなわち、天野さんの前任者であるエルバラダイ事務局長の保障措置問題に関する諮問機関、次いで核セキュリティ問題に関する諮問機関のメンバーに任命され、しばしばウィーンでの会議に出向くこととなり、当時ウィーン駐在でIAEA担当大使であった天野さんに、会議の模様をご報告したり、会議の合間に大使公邸での会食にお招き戴いたりしました。(写真左:2005年12月天野大使主催のレセプションで。大使の右は幸加夫人。)

回顧録を読んで強い印象を受けたのは、この回顧録が、「私の人生に起こった出来事をありのままに記すことを目的とした」とはしがきに書いておられるように、ご自分の身に起こったことについて良いことも悪いことも、名誉なことも不名誉なことも、赤裸々に綴っておられることです。不遇だった子供時代のことや人生における失敗簞なども包み隠さずありのままに書いておられます。

回顧録は、生い立ちに始まって、社会人になるまでの青少年期の出来事、そして外務省に入ってからご自分のライフワークを見出すまでの外交官生活の遍歴が綴られ、ついには、ウィーンの国際機関日本政府代表部大使に着任し、熾烈なIAEA事務局長選挙に打って出て勝利するところで終わっています。事務局長選の顛末の詳細な記述は回顧録全体の5分の1を占めており、天野さんの人生における重さを示しています。惜しむらくは、事務局長に就任してからの出来事もお書き戴いていたらなあと思わされました。

Simg_1354r 回顧録を読んで初めて知ったのは、ウィーン駐在の国際機関日本政府代表部大使に着任することになった時から、既に、エルバラダイ事務局長の後任を目指して、国を挙げて事務局長選の準備を周到に進め、見事に制したことです。(写真左:2017年10月ホテルオークラでの講演会で)

事務局長としての天野さんの功績は、多岐にわたります。まず、ライフワークの核不拡散の分野では、イランと主要国との核合意の成立と履行に主要な役割を果たされました。

さらに、IAEAの使命の3本柱である、保障措置・安全確保・平和利用の促進のうち、開発途上国における農業・医療・工業分野での原子力技術の利用に力を注がれました。アイゼンハワー米国大統領の提唱によって設立された当時から使用されてきたIAEAのモットー”Atoms for Peace”(平和のための原子力)に”Development”(開発)を加え、” Atoms for Peace and Development”(平和と開発のための原子力)としたのもその表れです。Renualbanner1000x250 また、陳腐化したIAEAサイベルスドルフ原子力応用研究所の近代化プロジェクトReNuALを立ち上げ、加盟国からの特別拠出を得て、新たな装置や研究棟群の設置を成し遂げました。そして、故天野事務局長の功績を記念して「天野之弥研究棟」(The Yukiya Amano Laboratories)と命名された新研究棟の開所式が本年6月に行われたのです。(写真上:サイベルスドルフ原子力応用研究所全景。出典:IAEA

天野さんとの個人的会話の中でお聞きしたことが回顧録でも言及されていて、その背景などを知ったことが幾つかありました。例えばある時、「私は、理科が好きな少年でした」と言われたことがあります。回顧録で子供の頃に野山や海で遊んだ記述に、虫や草花の名前が豊富に出てくるのに気づきました。理科好き少年の片鱗でしょう。そして、生化学を目指して東大の理科Ⅱ類に入学するのですが、数学で挫折。今度は外交官を目指して文科Ⅰ類に入り直されたというのは初耳でした。

Magochatei_2 また、前述のパキスタン大使公邸での会話で、家内が天野夫人から「主人は鯵が大好物」と伺って、その頃仕入れたばかりの「アジ(味)な丼」(鯵の干物を炊き込みご飯風にした上に鯵のタタキを乗せた2種類の鯵が楽しめる特製の丼)の話題になり、「きっと主人も喜ぶ」との言葉に、そのレシピを後日夫人宛にお送りしたことがありました。(写真上:アジな丼。出典:おいしんぐ!

回顧録の湯河原(天野さんの生地)の項で、「戦争直後とはいえ、よく『アジが安いよ。』という威勢のいい掛け声とともに、オート三輪でアジを売りにきた。バケツ一杯100円だった。子供のころ食べたものは忘れられないと言うが、私が今でも一番好きな食べ物はアジフライである。」との文章を見て、なるほどと思った次第でした。

甲斐 晶(エッセイスト)

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比翼連理

 比翼連理と言う四字熟語をご存じでしょうか。白楽天がその長編詩、長恨歌において、玄宗皇帝と楊貴妃の仲睦まじさを描くのに、「天にあっては比翼の鳥、地にあっては連理の枝とならん」と表現したことから、相思相愛の夫婦仲のことです。

 今から80年ほど前に国際結婚した中国人男性とオーストリア女性の夫婦が激動の51xbkfdxwpl
時代変化の中で、お互いに深い愛情を育んで生きた姿を描いた映画「愛に架ける橋」(英語名:
On the Other Side of the Bridge2002年中国製作)を見て感動し、この言葉を思い出しました。かなり脚色されていますが、この作品は実話に基づくもので、故国オーストリアを捨て、当時は文化の果つる地で生きることを選択した女性、Getrude(映画ではFannyという名:1916-2003Wagnerの一生を描いています。

  彼女がウィーンの警察学校に留学中の中国人青年Du Cheng-Rong (杜承榮、当時24)と出会ったのが19301月。(彼女の父は警察学校の教官の1人でした。)若い二人はいつしか惹かれ合い、愛情が芽生えます。ところが193312月、Du帰国。日増しに恋焦がれるGetrudeは、「中国に渡って、彼と結婚したい。」と父に告げますが、許されません。しかし、彼女の決心は固く、18歳になった193412月、計画を実行。Duの財政的支援を得てイタリアから船で上海に渡ったのです。

彼女の両親は遠い国に旅立つ娘を良しとしませんでしたが、彼女は5年後には戻るからと約束して故国を離れたのでした。そして、19352月、風光明媚な浙江省杭州で結婚。Getrudeは中国名のHua Zhi-Ping (華知萍)を得ます。25834_w470_h470

彼らは、Duの故郷、浙江省東陽市上盧鎮湖滄村でも伝統に従った結婚式を挙げ、田舎の農村生活を開始。Getrudeは優しい思いやりのある夫に助けられ、不便ながらも次第に土地の風俗習慣に溶け込んで行きます。Duは、結婚して数年したら、彼女を連れてその両親に会いに行くつもりでした。

しかし、平穏な生活は長く続きません。混乱と災難が次々に到来。国民党と共産党との抗争に加え、1937年の日本軍の侵略により一家は国内を転々。重慶では日本軍による空襲を受け、命拾いをします。そして、1944Duは国民党の支配下だった温州の警察学校長を拝命します。

1945年日本軍の降伏によって第2次世界大戦が終わりますが、国民党軍と共産党軍による内戦が勃発して、Duは故郷に帰還。混乱の中、貧困生活を余儀なくされ、Getrudeは母から貰った腕輪を仕方なく売って長男の学費などに充てたのです。この頃、国民党に協力的だったとしてDuは共産党の反革命分子狩りや大躍進運動(1958-1961)の標的となって迫害されます。また、政治運動や悪天候による大凶作(1960-1962)のため、困窮の度が増します。この間、1950年代初めや1960年代初めには、オーストリア政府やGetrudeの両親が帰国の手筈を整えますが彼女はこれを拒み、夫や家族と一緒の道を選ぶのです。

そして文化大革命(1966-1976)が追い打ちをかけます。裕福な家庭の出身で、国民党の親派、しかも西欧人と結婚していることで、Duは紅衛兵からの厳しい追及、総括を受ける羽目に。余りにもひどい責め苦にDuは自殺を考えますが、Getrude の愛に接して思いとどまるのです。1979年文革が終わり、Duはやっと72歳で名誉回復を遂げます。Gertrude_wagner

ようやく彼ら二人の平穏な生活を取り戻せました。そして、彼女の弟が中国にあるオーストリア大使館に働きかけて彼女へのオーストリア旅券の再発行を求めたのです。

幸福な生活は10年ほど続きましたが、1989Du は癌に冒され、健康が衰えて行きます。翌年4月、最愛の妻が手に入れたばかりのオーストリア旅券を眺めながら83歳で息を引き取ります。

その年の末、Getrudeはウィーン市長Zirkの招きで56年ぶりに帰国。55年間一緒に暮らし、二男三女をもうけた最愛の夫が一緒でなかったのが唯一悔やまれたことでした。

「愛に架ける橋」が中国で封切られたその前日の2003219日、彼女は86歳の生涯を終え、愛する夫の傍らに安らかに眠っています。

甲斐 晶 (エッセイスト)

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ルドルフ・ディットリッヒ

  モーツアルトのオペラ「魔笛」は意外にも日本と関係があって、Interview_vol9_04その初演の台本では王子タミーノが「きらびやかな日本の狩衣をまとって」登場するとされています。しかしながら、本格的に日本を舞台にしたオペラと言えば、やはりプッチーニの「蝶々さん」でしょう。

 ただ、日本人の演出家によるものでない限り、我々日本人が見ると登場人物の服装や所作などが噴飯もののことが多いのです。蝶々さんの着物が左前なのは、西洋のドレスの感覚からして止むを得ないとしても、綿入れのどてら風だったりするのは戴けません。その他、畳間に椅子とテーブルが並べられていたり、土足のまま居間に上がり込んだりと、違和感を覚えるシーンが多々あります。

ところで「蝶々さん」には、「君が代」を始め、「宮さん、宮さん」、「お江戸日本橋」など日本のメロディーがあちこちに出てきます。日本に来たことのないプッチーニがどうやって、日本の音楽を知ったのでしょうか。それには当時の大山久子駐伊日本大使夫人が果たした役割が大きいのです。

大山夫人は、プッチーニと再三会って日本の音楽や文化について貴重な情報を提供するとともに、自ら日本の歌を琴で演奏したり、日本から楽譜やレコードを取り寄せたり、自分が所有するレコードをプッチーニに貸したりしました。また、最近Nippongakuhu_image2の研究では、西洋と日本の音楽の橋渡しをしたお雇い外国人、 オーストリア人のルドルフ・ディットリッヒ(Rudolf Dittrich:1869-1919)が出版した日本歌曲の楽譜集が大きな影響を与えたようで、プッチーニは、楽譜集所載の端唄、さくら、お江戸日本橋、地突き歌の4曲を取り 入れています。

我が国の近代化を進めた明治政府は、学生や政府高官を海外に派遣する一方で、多くの外国人専門家を大学教授や政府顧問として我が国に招聘し、欧米の諸制度や科学技術、芸術・文化のRudolfdittrichlores吸収に努めました。こうしたお雇い外国人の中のひとりが上野音楽学校(現在の東京芸術大学)で教鞭を取り、日本における西洋音楽の発展に貢献したディットリッヒなのです。当時、日本に派遣する音楽家の選任の任にあったのがウィーン駐在の日本国公使、戸田伯爵でした。当初、彼が白羽の矢を立てたのは、ワルツ王ヨハン・シュトラウスでしたが、これはいかにも無理で実現しませんでした。その代わりに音楽教授として招聘されたのがブルックナーの薫陶を得ていたディットリッヒでした。

バイオリンとパイプオルガンの演奏に秀でていた彼は、上野音楽学校で教鞭を執って優れた日本の音楽家を育成する一方、鹿鳴館の舞踏会で指揮を務めたりピアノやバイオリンの演奏をしたりしています。このように素晴らしい功績を収めたディットリッヒでしたが、1894年の日清戦争の勃発が日墺関係に影を落とし始めたことから、故国に戻ります。その後も音楽活動を続け、1906年から亡くなる1919年までウィーン音楽大学でパイプオルガンの教授を務めました。

 ところで、彼にはPetronellaという奥さんがいましたが、任期半ばの1891年に亡くなってしまいます。そして、彼に日本の音曲を教えたことが切っ掛けだったのか、三味線師匠の森菊と関係ができ、1893年8月に息子の乙(おっと:独名、Otto)が生まれます。このあたり蝶々夫人のピンカートンを彷彿とさせますが、違うのは、帰国するにあたり「非嫡出子Ottoのため毎年少なくとも銀貨60円を菊に前払いする。ただし、私の求めに対してOttoの引き渡しを拒む場合、この義務は無くなる。」との誓約書を領事館で書いていることです。G2005102508negami

 結局、森乙がオーストリアの父の元に加わることはありませんでしたが、彼は、父の才能を受け継いでプロのバイオリニストとして活躍します。そして、なんとその長男が、歌手ペギー葉山とおしどHirasawa_image1り夫婦として有名だった根上淳でした。

  ディットリッヒの伝記を著してこのことを明らかにした平沢博子女史は、2007年9月に彼の子孫を訪ね(ウィーンに戻った彼は1900年に再婚、息子二人が誕生しています)、ウィーン中央墓地にあるその墓に根上淳の遺灰の一部を収めています。なんとなく心温まるお話しですね。

             甲斐晶(エッセイスト)

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三島良績先生の想い出

 1997年の春早々、三島良績先生が急逝され、Img_kanei_2そのご葬儀が上野の寛永寺輪王殿において、ご親族や関係者多数の参列の下、盛大な中にもしめやかに執り行われました。ご交友関係の広さを反映してか、祭壇には数多くの生花が飾り付けられていました。その贈り主の名前の多彩さを見るにつけても、先生がご専門の原子炉燃料や材料ばかりでなく、野球、切手、猫の会など、幅広いご趣味をお持ちであり、何れの面でも第一人者であられたことを伺い知ることができました。

 先生は座談の名手であられ、酒脱な語り口は先生の講義でも同様。東大原子力工学科三大名講義のひとつとして、学生に大いに人気がありました。 私もIAEA在勤中に、会議などでお見えになった三島先生をウィーンの我が家にお招きする機会が何度かありました。夜の更けるにつれ、先生のお話はますます楽しく、本職の核燃料の分野に留まらず、草野球、切手、印刷と広範多岐。いずれも大変蘊蓄に富んでいて、開く者を飽きさせず、ふと気がつくと深夜であることもしばしばでした。

 Img_01311 先生は並外れて几帳面です。これが遺憾なく発揮されたエピソードがフランクフルト空港での置き引き事件。カウンターでの搭乗手続き中、ふと足下に置いた鞄が盗まれてしまったのです。

 この鞄の中には知人に頼んで入手したナチ時代の珍しいオーストリア切手や貴重な日記などが入っていたそうです。切手はまた買えば済むものの、日記の方はその日の天気や出したり受け取ったりした手紙の内容などを克明にメモしたものだそうで(そこまで記録するところが、先生のまめなところです)、諦めるに諦め切れません。

 その日の天気の方はご令息の日記と照合するなどし、その他はご自身の記憶を辿って、ようやく日記を再構築したところ、盗まれていた鞄が出てきたとの朗報。価値ある切手は残念ながら盗られていましたが、泥棒にとって無価値の日記の方は幸いにも鞄に残されていたそうです。早速、書き直した日記と戻ってきたオリジナルとを比べて見たところ、その内容はほとんど違っていなかった由。それ程の記憶力なら日記など付ける必要はないわけで、何とも凄い先生です。

 先生はまた印刷物の蒐集家でもあられました。その昔、原子力発電所の安全審査の現地調査でお供をした新幹線の車中。食べた駅弁の箸袋と外側の包装紙をしっかり集めておられたのが記憶に残っております。お話によれば、旅の記念に切符や入場券などはもとより、機内食に出るチーズやジャムのラベルも蒐集されておられたとか。Pen これに、愛用のオリンパス・ペンで撮った、おびただしい数の旅の写真が加わります。その整理だけでも大変だと思うのですが、これまたまめになさり、我々のごとき者までにも、スナップ写真やお書きになった随筆の写しなどを、時機を失せずに送って下さり、恐縮することもしばしばでした。

 こうした資料の保管のために、ご自宅には荷重計算はもとより、耐震設計、浸水対策を施した本格的な書庫を設けておられたほどです。Yasudakodoそして、卒業25周年の教え子の集まりなどに呼ばれると、大学紛争の当時に配られた「卒業式粉砕!」の全共闘のアジビラなどを書庫から持ち出して披露。集まりの場の雰囲気を盛り上げておられました。

 ご専門の金属学の分野で、さすがと思わされたのは、三島家代々のお墓の納骨室の扉の件です。先生がまだ現役時代のこと。御尊父だったでしょうか、どなたかがお亡くなりになって、いざ納骨という段になり、久しぶりに納骨室の扉を開けてみたところ、すっかり腐り果てていたとか。Ingotこれでは「紺屋の白袴」で金属屋の名折れだとばかり、当時はまだ珍しく、高価で生産量も少なかったチタンに着目され、納骨室への扉とその支持枠を総てチタン製にされたそうです。

 「これでもう納骨室の扉は未来永劫もの。納骨室にはまだ余裕があるが、次にそこに入るのは、年から言って自分かな。」などと当時冗談を仰っておられた先生でした。今や、ご自分の設計された、朽ちることのない納骨堂の扉にしっかり守られて、安らかに眠っておられることでしょう。

             甲斐 晶(エッセイスト)

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ミチコ・タナカ

 前回(ユリウス・マインル)、有名な「コーヒー王」ユリウス・マインルⅡ世の夫人が日本人声楽家の田中路子女史だったこと、133242_2 そして今でも、ユリウス・マインルのグラーベン店2階にある紅茶のコーナーで、彼女の名前を冠した「Michiko」というシリーズが売られていることを紹介しました。

 私が彼女のことを知ったのは、2度目のウィーン勤務で赴任して早々の1988年5月18日、彼女の逝去の報に接した時のことです。Michiko002 今回、彼女のことをもっと深く調べたくて、今は絶版になってしまった「ミチコ・タナカ 男たちへの賛歌」(角田房子著、新潮社)をAmazonで入手し、読んで見ました。

著者の角田房子が文藝春秋の勧めによって取材のため1960年にベルリンの路子を訪ねます。両者は年齢も近く、戦前に子女を海外に遊学させることが可能な家で育ったという似通った境遇にあったからなのでしょう、すぐに「ミチ」、「フサコ」と呼び合う間柄となります。以来20年以上に渡って交友を重ねた中からこの本が書かれましたが、路子が晩年を過ごした高級老人ホームで会った1981年の記述でこの本は終わっています。

路子は1909年、日本画家田中頼の娘として神田に生まれ、裕福に育ちます。小学校の同級生には中村勘三郎(17代目)がいたそうです。女学校時代から「恋多き女」の片鱗を見せていましたが、声楽を学ぶために入った東京音楽学校の本科1年の時に、当時ドイツから帰国したばかりだった新交響楽団(現在のN響)のチェリスト齋藤秀雄と深い仲になります。彼にはドイツ人の妻があり、道ならぬ恋に驚いた両親は路子をウィーン留学、いわば体のいい「国外追放」としたのです。

C_unt_julius2 当初ウィーンではハープの勉強をするよう新響指揮者近衛秀麿から勧められていたのですが、現地でプリマドンナ、マリア・イェリッツァの「サロメ」を聴いて、歌の道を歩む決心をし、ウィーン国立音楽学校声楽科に入学。後見人役の駐墺公使にかわいがられ、ウィーンの社交界にも出入りするようになるのですが、そこでユリウス・マインルⅡ世と運命的な出会いをし、求婚されます。彼は妻を亡くした身でしたが、路子とは親子ほども年が離れていました。

実は、当時、路子は社交界で自由奔放に振る舞っていてウィーン日本人社会における彼女の評判は芳しくなく、公使館によって「本国送還」命令が下される寸前になっていたのです。いわば、渡りに船で彼女は彼の庇護の元へ。マインルの手筈で彼女はオーストリア国籍と旅券を手に入れ、彼と結婚。この時彼は57歳、彼女は21歳でした。Michikode003

マインルは実業家だっただけではなく、教養ある文化人で、芸術にも大変造詣の深い人物でした。彼女は、彼のもとで文学者や芸術家との交流、声楽の修行を続け、オペラや映画界へのデビューを果たします。しかし、恋多き妻は夫公認で多くの男性との恋の遍歴を重ね、劇作家カール・ツックマイヤー、国際的映画俳優早川雪舟、そしてドイツ演劇界の大スター、ヴィクトール・デ・コーヴァと激しい恋に陥ります。そして、マインルの立ち会いの下、デ・コーヴァと再婚するのです。

社交的で世話好きな2人の性格から、ベルリンのデ・コーヴァ邸は第二次世界大戦の戦中・戦後の混乱期を通じて「私設日本領事館」といわれる存在になり、路子の世話になった日本人は数多いのです。政治家、財界人、学者、芸能人、音楽関係者と実に多彩で、特に音楽留学生に対する面倒見の良さは格別だったようです。そんな一人に、路子の最初の恋人、齋藤秀雄に指揮者としての薫陶を受けた小澤征爾がいます。Ozawaphoto9q Book_ozawa

小澤が指揮者の世界コンクールで次々に優勝した当時の自叙伝「ボクの音楽武者修行」(音楽之友社)には、路子の世話になったことが何と8回も出て来ます。事実、彼女の引きもあって、巨匠カラヤンの弟子入りを果たしたりしています。

路子は好き嫌いの気性が激しく、好きになった人物にはとことん入れ込みますが、一旦、気に入らなくなると徹底的に敬遠したようです。そんなエピソードに小澤の「燕尾服事件」があるのですが、残念ながら紙数が尽きました。原本でどうぞ。

甲斐 晶(エッセイスト)

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