機内食

長時間にわたる飛行機旅行の楽しみの一つに機内食があります。経費削減のあおりでエコノミークラスでは余り期待は出来ませんが、航空各社とも最近、収益向上のために営業収入の主体を占めるビジネスクラスやファーストクラスでの機内食の質の向上に力を入れ、顧客増加に努めています。例えば、有名料理店のシェフが機内食の監修を行ったりしています。

 スカイトラックス(Skytrax による世界の航空会社の2011年ランキングでは、09_imageaua_2オーストリア航空がビジネスクラスの機内食部門で1位を獲得しています(2位:トルコ航空、3位:カタール航空)。ちなみにエコノミークラスでは、タイ航空が1位(2位:トルコ航空、3位:アシアナ航空)、ファーストクラスではエティハド航空(UAEの国営航空会社)が1位(2位:シンガポール航空、3位:カタール航空)でした。どうやら中東とアジアの航空会社が頑張っているようです。

 オーストリア航空では、その名も「空飛ぶシェフ」(Flying Chef)が機内食に腕をふるっています。通常、機内食のサービスは、客室乗務員Flying_chef_2
が機内食の調理(といっても地上で調理済みのものの再加熱が主体です)と配膳を行いますが、オーストリア航空の長距離ビジネスクラスの場合、ウィーンの有名レストラン、
DO&COで訓練を受けたシェフがギャレーにおいて料理人姿で調理し、盛りつけを見栄え良く行います(こうした作業の場を確保するため、通常よりも広いギャレーが用意されています。)配膳は、客室乗務員が行いますが、顧客に対する料理選択の助言はシェフが行っています。こうしたサービスは乗客にも好評で、その努力が実った結果、ランキング1位の名誉を獲得したのでしょう。

DO&CO
の空飛ぶシェフの構想は既に1996年からあって、最初はチャーター便が主体のLauda_air_logoラウダ航空(有名なオーストリアのF1チャンピオン、ニキ・ラウダーが創業)と連携して実現させました。オーストリア航空の成功にあやかったのか、エティハド航空も昨年初頭から主要なファーストクラスに空飛ぶシェフを搭乗させており、このためシェフ100名を採用するとともに、機内食のメニューを一新。昼間のフライトにはアラビア料理の6皿コースが登場しているそうです。

ExteriorviewDO&COは、シュテファン寺院の真向かいにあるハース・ハウス内でホテルとレストランそれにカフェー/バーを経営しています。ウィーンでの赴任が終わりに近づき、いよいよ去るにあたって、家族揃ってここを訪れましたが、シュテファン寺院を間近に眺めながらのひと時はいつまでも記憶に残るものとなりました。現在、レストランでは、お寿司や刺身も楽しめるそうです。

 この他、DO&COは、新鮮なロブスターや牡蠣などの海鮮料理で有名なレストラン「ケルバン・サライ」や有名なハプスブルグ宮廷御用達のコンディトライ「デーメル」も傘下に収めるなど、手広く経営しています。

ある時、オーストリアの友人からアルベルティーナ美術館に併設されたDO&COのレストランにお招きを受けました。市民公園を見下ろすテラスから、暮れなずむウィーンの夕まぐれを楽しみながらのお食事でしたが、一手間掛けた質の高いお料理の数々を堪能しました。

 ところで、機内の気圧は地上よりも低く、湿度もサハラ砂漠並に極めて低くて乾燥していることから、味覚が大いに変化することが分かっています。実験結果では、地上に比べ塩味や甘みの感覚は半減してしまいます(旨味については地上とあまり変わらず)。その上、再加熱によって食材の水分が大いに失われてパサパサになり、食感も損なわれます。美味しい機内食とするためには、それなりに多くの工夫が必要で、旨味主体の料理(和食)にしたり、スチーム・オーブンを導入して再加熱でもパサつかないようにしたりしているとか。

 機内食がまずいとお嘆きの皆様。スカイラックスのランキング結果を参考に、航空会社を乗り換えて見るのも一案かも知れません。ただ、旅の安全性のランキングではないことにご注意願います。

甲斐 晶 (エッセイスト)

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アイゼナハ

Imagedisplay 今からかれこれ20年ほど前、ウィーンに勤務していた頃のことです。イースターの休暇を利用して、当時はまだ東独に属していたアイゼナハ(アイゼナハ)を車で家族ともども訪れたことがあります。歴史上重要な出来事の舞台となり、また、複数の音楽家にゆかりの場所でもあったこの地に機会があれば行ってみたいと常々願っていました。(画像:http://jp.hotels.com/ho127276/shutaigenberuga-hoteru-turinga-hofu-aizenaha-doitsu/#maps

 ウィーンから陸路東独に入るには、西独経由かチェコ・スロバキLrg_13677500 ア経由のいずれかによりますが、当時の国境検問の厳しさから、前者を選びました。ウィーンからまず北西に進み、パッサウから西独のバイエルン州に入って、共産圏との国境線を迂回しつつヘッセン州内の森に囲まれた自動車道を進み、アイゼナハと国境を接する西独の小さな町で宿を取りました。背後にテューリンゲンの森が広がる田舎町です。りんごジュースの炭酸水割りをウィーンではApfelsaft gespritztと言うのですがhttp://servus.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-db5e.html、さすがにここまで来ると全く通じませんでした。(画像:http://4travel.jp/overseas/area/europe/germany/eisenach/travelogue/10232656/

Lrg_13677570 翌朝、国境を越えてアイゼナハへ。まず目指したのは音楽の父、J・Sバッハの記念館でした。彼は1685年にこの地で生まれ、少年期を15歳まで過ごしたのです。ここは彼の生家ではありませんがバッハ一族の住まいとされ、彼の生涯や作品に関する展示、当時の生活の様子を偲ばせる様々な家財道具とともに古楽器の見事なコレクションがありました。別室で古楽器によるミニ・コンサートが始まるから是非聴いて行くようにと強く勧められたのですが、子供連れだったこともあって断念してしまったのが今となっては悔やまれます。(画像:同上)

Lrg_15615101 次に目指したのは、郊外の小高い丘の上にあるヴァルトブルグ城。1999年に世界遺産への登録を果たしたことからも分かるように、大変由緒あるお城でその歴史は1067年にまで遡ります。テューリンゲン伯であったルードヴィヒ跳躍伯が山頂を見て、「待て(wart)汝我が城(burg)となれ」と言って築城を命じたのがその由来とされ、以来、200年以上にも渡ってその一族が神聖ローマ帝国内で最も影響力のある方伯(Landgraf)の一人としてこの地を治めたのです。(画像:http://4travel.jp/overseas/area/europe/germany/eisenach/travelogue/10318978/

Lrg_13677520 お城の入り口でオーディオ・ガイドを借りましたが、何と日本語。共産圏の片田舎のお城で何故と思わされましたが、ワグネリアンにとってここはバイロイトと並ぶ「聖地」なので日本からの観光客が多いからなのでしょう。実は13世紀初頭ヘルマン1世の治世にこの城の「歌人の間」でミンネジンガー(吟遊詩人)による歌合戦が行われたとされ、これを題材にワーグナーが楽劇「タンホイザー」を作っているのです。(画像:http://4travel.jp/overseas/area/europe/germany/eisenach/travelogue/10232656/

Rosenwunderaf597 タンホイザーには、彼を純愛するヘルマン1世の姪エリザベートが登場しますが、そのモチーフになったと思われるのは、4歳でこの地に連れて来られ1221年にルートヴィヒ4世と結婚したハンガリー王女エリザベ-トです。彼女は、結婚して間もなく貧しい人や病人を助け始めましたが、夫が十字軍従軍中に病死すると城から追われます。結局マールブルグに移り住み、そこで財産を寄進して病院を建て、貧しい人や病人に尽くしましたが、弱冠24歳で夭折。その墓で多くの奇跡が起こったことから聖人に叙せられました。城内には、彼女の生涯をフレスコ画に描いた部屋があります。(画像:http://tommy-music.blog.so-net.ne.jp/2012-04-02

Lrg_17460812 このお城を訪ねた最大の目的は宗教改革者ルターにゆかりの部屋を見ることでした。1521年5月、異端宣告された彼をこの城に匿ったのはザクセン選帝候フリードリッヒ3世で、この間にルターは聖書をドイツ語に翻訳したのです。板張りのとても粗末な部屋で陶器製の暖炉があり、木の机と椅子だけが置かれ、中央に初のドイツ語訳聖書がガラスケース入りで展示されていました。翻訳中に現れた悪魔に投げつけたインク瓶が割れて出来たという壁の染みが今でも残っています。観光客が記念に板壁を削って持ち帰るのでしょう。ガラスで全面が保護されていたのがとても印象的でした。(画像:http://4travel.jp/overseas/area/europe/germany/eisenach/travelogue/10394858/

アイゼナハと聞いて、オッフェンバッハのホフマン物語を思い浮かべた方は、余程のオペラ通です。冒頭、彼が登場して最初に唱う軽妙なバラードが「昔、アイゼナハの宮廷に」なのです。

甲斐晶(エッセイスト)

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欧州の十字路

Img02島国である日本は、四方の海が天然の障壁となり、長年にわたり異民族の支配を受けないで来られました。唯一の例外は、第二次世界大戦における敗戦後の進駐軍による支配、北方領土のソ連軍による占領でしょうが、マッカーサー連合軍総司令官による本土統治は僅か7年間で終わりました。

Strasbourg しかし、こうした事例は、世界を見渡すと珍しい方でしょう。特に、国同士が地続きであるヨーロッパの場合には、ある地方が隣接する国によって取ったり、取られたりを歴史的に何度となく繰り返すことが少なくありません。その良い例が独仏の国境を成している、ヨーロッパ水上交通の大動脈であるライン河のほとりにある街、アルザス地方の州都ストラスブール(Strasbourg)です。

「街道の街」というその名が示すとおり、この街はヨーロッパ交通の要衝に位置し、180pxalphonse_daudetまた、この地方に良質の炭田を有していたことから、その支配を巡る独・仏間の係争に巻き込まれ、何度となく国を変わらざるを得なかった悲しい歴史があります(過去100年間に、実に3回も属する国が変わっています)。このあたりの事情を描写した、A・ドーデの「最後の授業」というお話を国語の教科書で読んだ方も多いのではないでしょうか。

第二次世界大戦中のストラスブールの小学校でのこと。ある日、フランツ少年が遅刻して学校にいくと、いつもと違って教室は、静まり返っています。先生が、「フランス語での授業は今日までで、明日からは、占領軍の国語、ドイツ語で授業が行われる。」と説明したのです。4591098524少年は、教室の外の楽しそうにさえずっている鳩たちも、「明日からは、ドイツ語をしゃべらなければならないのか。」と思ったと言う筋だったように思います。そんな記憶があったので、当地を初めて訪れた際には、特別な感慨がありました。

こうした悲しい歴史を抱えているからこそ、アルザス州もストラスブール市も第二次世界大戦直後から、歴史上の悲劇が再発するのを防止するため、欧州の十字路としての地理上の特徴を逆に生かして、欧州統合の象徴である国際都市の構築を目指し、欧州議会や欧州評議会の誘致を積極的に推進し、これに成功したのです。

Logohfsp こうした国際都市化の一環が、1987年、当時の中曽根首相が先進国首脳会議(サミット会合)で提唱した、生命科学及び脳科学研究を支援する国際基金、HFSP(ヒューマン・フロンティア・サイエンス・プログラム)事務局の誘致でした。現在、ヴィナッカー事務局長以下約30名の職員を擁するHFSP推進機構が当地に設置されています。これまでのところ、歴代の事務局次長及びHFSPの運営にあたる評議委員会の会長は、いずれも日本人が勤めています。Strasbourg_24

ユネスコの「世界遺産」にも指定されているストラスブールの歴史は古く、1989年には建都二千年を祝っており、また、先に述べたような歴史的な経緯から、

ラテン文化とゲルマンの両文化が融合した独特な佇まいを見せています。旧市内の「小フランス」地域にある美しい木組みの家々は、ドイツのロマンチック街道の町並みを髣髴させますし、20081110_421031 ドイツではザワークラウトと呼ばれる郷土料理も、ここではシュークルートと呼ばれて、フランス風にアレンジされています。

「アルザスの人々は夕方5時まではゲルマン民族の勤勉さで働き、5時以降はラテン民族の陽気さで過ごす。」と言われます。こうした質の高い労働力、豊富な資源・エネルギー、豊かな自然環境、積極的な企業誘致が相俟って、この地方の経済活動は目覚しく、1人当りの輸出高、外国企業の進出数が国内第1位、国内総生産、1人当りの売上高が国内第2位との統計が得られています

Stras07 ストラスブールの旧市内には、当地で活版印刷事業を目論みながら頓挫したグーテンベルグの名を冠した広場があり、その中央には「そして光あれ」との旧約聖書の1節が刻まれた印刷物を手にした彼の銅像があります。私が訪れた時には、悪戯されてその上に定期市のポスターが貼られていましたが、住民のラテン気質を見たような気がしました。

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ハルデン・プロジェクト

 04_a_halden060130162_27888d 2002年の秋に、北欧ノルウェーのハルデンにあるOECD/ HRP(ハルデン炉計画)を訪問する機会を得ました。今日の我が国の原子力研究・開発の指導者達の多くがその若い日にハルデン炉施設(HBWR)に派遣され、ここにおいて研鑚を重ねて得られた知見がその後の我が国の原子力開発利用に活かされて来たことをしばしば耳にしていたことから、前々から機会があれば是非一度尋ねてみたいと望んでいただけに、ようやく念願が叶った次第です。

 Haldensijaintikartta ハルデンは、ノルウェーの首都オスロから南西約100kmに位置しており、スウェーデン国境に近く、オスロフィヨルドに面した、古い歴史を有する小さな町で大変風光明媚な場所です。この地は、歴史的にデンマーク王の領地であったことから、町の外れの小高い丘には、デンマーク王フレデリックの中世の城塞が残されており、瀟洒なハルデンの町並みを眺望できる市民の憩いの場所にもなっています。

  HBWRは、当初、ノルウェー国内の肥料工場の副産物である重水とオランダから供給された天然ウランを用いた、天然ウラン燃料、重水沸騰水型炉(25MWth)として、ハルデンの町中の製紙工場に隣接した岩山の中に設置されました。その特徴は、なんと言っても、原子炉建屋全体(容積4,500㎥)がすっぽり天然の岩屋の中に納まっていることでしょう(原子炉を覆う岩の厚さは50m)。Q214_hrp_model外から見た限りでは、とてもここに原子炉があるようには思えません。どこかの独裁者が聞いたら、大いに喜びそうな設計です。また、材料照射の目的のための利用に加え、プロセス蒸気の製造も行っており、隣接するパルプ工場に供給しています。

 Logo_ife ハルデン研究所の運営主体IFEInstitute for energyteknikk: エネルギー工学研究所)の前身、IFA (原子力研究所:Institute for atomenergi) は、1948年にオスロ近郊のシェラーで発足し、1954年にハルデン炉の設置を決定しています(19596月臨界)。Logo11958年には、HBWRを用いた国際共同照射研究であるOECD/HRPが発足しており、我が国は、1967年にその加盟を果たしました。現在、HBWRでは、20ヶ国の参加を得て共同で行っているOECD/HRPとこれと予算的には同規模の参加国機関との二国間契約に基づく照射研究を行なっています。OECD/HRP予算の約30%は、ホスト国のノルウェー政府がResearch Council経由で負担しているほどの力の入れようです。Large

  同研究所には、炉工学部門と人間工学部門の2部門があり、訪問当時全職員は約280名で、うち炉・照射施設の運転等に約80名が従事。この他、我が国を含め約20名の派遣研究者が駐在しています。

 OECD/HRPがこれまでに大きな成果を生み出し、その意義が認識され、参加国が拡大してきている理由として、Logo2漫然とプロジェクトを継続するのではなく、3年間に研究期間を限定し、研究計画についてのきめ細かい事前・中間・事後評価を行って、さらに継続するかどうかを判断してきたことが大きいのではないかとの印象を受けました。

  原子力発電国でもないノルウェーが積極的に国際プロジェクトを立ち上げ、40年以上にもわたってこれを継続し、世界の原子力安全に多大の貢献をして来ていることに深い感慨を覚えました。

 ところで、訪問時に在オスロ日本国大使のK氏と経済担当書記官Mさんとは、その昔、一緒に南太平洋を訪問したことがありました。出張計画の立案に際して、ハルデンからオスロに戻った際にお二人に表敬したい旨申し入れていましたところ、大使から、折角の機会なので、ハルデン研究所の所長以下関係者も含めて、夕食に公邸へどうぞとお招きを受けました。大使公邸は、有名なオリンピック・ジャンプ台の近くにあり、邸内には素敵な日本庭園もしつらえてあったりして、きっと外国人のお客様には印象深いものだったことでしょう。

 大使のご趣味がフィッシングだと聞き及んだハルデン研究所の日本人部長M氏は、大きな専用ボートを所有しているその道の大ベテラン。お二人はすっかり意気投合し、早速一緒に出かける約束をしていましたが、その後の釣果はどうなったのか、いささか気になるところです。

 甲斐 晶(エッセイスト)

 

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チェコ再訪

 2002年の夏、天皇皇后両陛下が中東欧をご訪問されましたが、お出かけになられたプラハ、ワルシャワ、ウィーン、ブタペストは、いずれも筆者が実際に住んだり、訪れたりしたことのある場所でしたから、個人的にも大いに関心がありました。

Ambf101b 初めてプラハを訪れたのは、今から20ほど前の夏休み、まだ共産政権下の時代で、家族で出かけました。国営旅行社のチェドックを通じて宿の手配をしたところ、「プラハの春」の際に反体制派の民衆が集まったことで有名な、街の中心部ヴァーツラフ広場(ご訪問に際し、両陛下が献花を行なわれました)にあるアンバサダーホテルを割り当てられました。値段は超一流でしたが、共産圏の常で、朝食などのメニューは貧しく、コーヒーも色の付いたお湯と言ったところで、とても飲めた代物ではありませんでした。

Dscf1119_m しかし、2001年の晩秋、自由化後初めて、チェコを再訪しましたが、同ホテルは見違える程の変りよう。値段の高いのは、相変わらずですが、英語もしっかり通じますし、サービスも格段と良くなっていました。部屋のバスには、ジャグジーまで備わっています。ヴァーツラフ広場の周りも、以前は殺風景だったのが、洒落た感じのお店が並ぶようになり、マクドナルドまでありました。

Karlovy20vary 日程が週末にかかっていたので、これを利用してチェコの有名な温泉保養地のひとつ、カルロヴィ・ヴァリ(ドイツ語名カールスバード)を訪れてみました。プラハから北西120kmほど離れたドイツ国境に近いボヘミア地方にあります。日本では入浴が主体であるのに対して、ヨーロッパでは温泉に行く目的は、もっぱら飲泉、すなわち温泉水を飲んで胃腸病などを治療することにあります。

Odbget カルロヴィ・ヴァリは、こうした飲泉保養地として、ヨーロッパにおいて中世から良く知られた有数の温泉地です。その存在を個人的に知ったのは、2001年9月のことでした。遅い夏休みでしたが、家内のひざの状態が思わしくないので、湯治を兼ねて草津まで出かけた時のこと。Pop10_p温泉街に入る手前にある道の駅の一角が「ベルツ記念館」となっていて、これに立ち寄ったところ、ベルツに大変造詣の深い沖津館長が草津温泉とベルツ博士の関係、博士の功績など、実に詳しく熱弁を振るって説明して下さいました。

ベルツ博士は、明治時代、東京医学校(のちの東京大学医学部)の外国人教師として招かれ、日本医学の近代化に大きく貢献した人物で、日本人女性、花と結婚。彼女を記念した日本庭園が草津の姉妹都市であるカルロヴィ・ヴァリにあることを耳にして、大いに好奇心をそそられました。Balz02

 カルロヴィ・ヴァリへは、運転手つきのガイドを雇い、日帰りで出かけました。ガイドは日本文化への関心が高い初老の婦人。道中、ビロード革命のこと、ハベル大統領の人となり、モラビア対ボヘミアの民族・文化論、自由化の功罪など興味深い話を沢山してくれ、片道2時間弱をあっという間に過ごすことができました。

カルロヴィ・ヴァリは、谷合にあり、小川の両側に遊歩道が設けられ、瀟洒な宿やお店が並んでいます。どことなく日本の温泉街に似た雰囲気もありますが、洒落たコロナーダと呼ばれる泉源があちこちにあり、 Lrg_10403793扁平で吸い口の付いた独特の形状の陶製カップを手にしたお客が競い合うように温泉の湯(4472℃)を飲んでいる姿が違います私も試してみましたが、生理食塩水並みの薄い塩味で、そう沢山は飲めそうにありません。しかし、湯治客は、サナトリウムと呼ばれる宿に投宿し、数週間、毎日一定量の飲泉を処方され、運動のために小川の畔の散歩が義務づけられるそうです。

共産党時代には、ソ連が最上の建物を占有し、フルシチョフなど歴代の首相が好んで訪れていたのが、時代が変わって、今では、ロシアマフィアが進出。高級ホテルなどを買い占め、温泉地を闊歩している姿にガイドは、眉をひそめていました。Hana_stone_garden

ベルツ・花の石庭をガイドは知らなかったのですが、案内所で尋ねるとすぐ判りました。温泉街の外れ、リッチモンドホテルの入口で、ひっそり辺りの草木の中にすっかり溶け込んでいました。

甲斐 晶(エッセイスト)

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インド事情

今回も、インド在住の日本の友人の招きで、デリー、ジャイプール、アグラのゴールデントライアングルを駆け抜けて来た時の見聞録です。

インドの交通事情について前回詳しく述べましたが(「インド交通事情」参照)、ひとつ書き漏らしたのは、スクーターに一家総勢4人が乗っているのが当たり前だと言うことです。父親が運転し、後部座席に横座りでサリー姿の奥さんが乗っているというのは、我々にとってもそう不思議な光景ではありませんが、よく見ると、両親の間にちょこんと小さな子供が座って、父親にしっかりしがみついているではありませんか。さらによく見ると、父親の前に、もう1人、大きな子供が乗っているのです。いやはや。Id0001

民族衣装のサリーで、女性がお腹を出していてもインド男性は、何も感じないようなのに、スカート姿には、好奇な視線を向けるので日本女性は服装に注意が必要です。サリー以外のインド女性の服装は、スカートではなく、足首までしっかり隠すパンジャビ(ズボン)スタイルだからです。

因みに、このパンジャビから英語のパジャマと言う言葉が出来たようです。05125この他、ヒンディー語から英語に入った言葉に、フルーツ・ポンチで代表される「パンチ」があります。ヒンディー語で「五」の意味のパンチからの派生語で、もと5種類の成分を混ぜ合せたことから来ているのです。

インドを旅していて、現地の人々との騙し騙されのやりとりが煩わしいと思っている間は、余り愉快なものではありませんが、これもインドとゲーム感覚で割り切れるようになれば、しめたものです。私達も、あれこれ興味深い体験をしました。

まずは、乗り物編。タクシーひとつ乗るにも一筋縄では、行きません。メーターが無い場合が多く、まずは、値段の交渉です。無事に交渉が成立しても安心は出来ません。行き先のホテルの名前を告げても、もっと良いところがあると、リベートが貰える自分の知り合いのところへ連れて行こうとするので、喧嘩腰に断らねばなりません。0118

ジャイプールの名所、アンバー城を訪れた時のことです。山上の城まで、象かジープで往復するのですが、麓の駐車場に我々の車が着くやいなや、英語を操れる客引きが寄ってきます。値段を聞くと象なら400ルピーでジープなら100ルピーとの返事。どっちを勧めるか尋ねるとジープだとの答え。お前がジープを持っているからだろうと言うと、ニヤリと薄笑い。図星だったのです。

城の見物が終わって、駐車場への帰路、頼みもしないのに土産物屋に連れ込まれます。見るのは只だからと、しつこく勧めるのを断るのにまた一苦労。通常の神経では、参ってしまいます。

次は、見学編。ここでも油断は出来ません。車から降りて、入口に向かう間中、アマゾン川に落ちた子牛に群がるピラニアのように、次々に押し寄せて来る土産物売りや自称「公式ガイド」を振り切ら無ければなりません。無事に中に入っても、気が許せません。ガードとおぼしき人物が親切に説明を始めたら要注意。後で、たっぷりガイド料をせびられることもあるのです。

タージマハールで廟に入るには、裸足になる必要があります。雨上がりだったので、ためらっていると、現地人がオーバーシューズを貸してくれました。幾らだと尋ねると、”As you wish.”と言うので、10ルピー渡したのですが、不満顔。これでは、”As you wish.”では、ありません。Img0399b774zik8zj

公衆トイレで、お金をせびられるのも不愉快です。ここは、公共施設だろうと言うと、いや、プライベートなトイレだと言い張ります。見るからにおかしいので、じゃあ、出るところに出ようと強く言うと、なにやらもごもご口ごもっておしまい。全てが、ダメもと精神のようです。

これは、インド在住の友人の経験なのですが、ある時、タージマハールを訪れると、生憎と閉まっています。思案に暮れていると、「旦那、私に付いて来れば、見せてあげるよ。」とインド人が接近。

狭い路地をあちこち通り抜けながら、連れて行かれたのは、何とタージマハールが裏から見える地点でした。文句を言うと、「タージマハールは、左右対称なので、どこから見ても同じ。」との返事には、開いた口が塞がらなかったそうです。

甲斐 晶(エッセイスト)

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インド交通事情

 前回(インド駆け歩き)に続いて、インド在住の日本の友人の招きで、デリー、ジャイプール、アグラのゴールデントライアングルを駆け抜けて来た時の体験記です。Sp1010005_bus_fullpeople

 友人から運転手付きで車を借り受けて3地点を回ったのですが、ジャイプールとアグラ間が片側1車線であったのを除き、いずれも片側2車線以上の比較的整備された、「ハイウェイ」と称する国道でした。しかし、後述するように、よほどの運転技術を備え、インドの交通事情に慣れていなければ日本人ではとても無事に目的地に着けそうもない状況でした。幸いにも、運転手のハラシュは、終始安全運転で大いに助かりましたが、披潤万丈のインド交通事情に、こちらは緊張の連続で、車内で安心してウトウト居眠りする心境には到底なれませんでした。

  Sp1010022_jeep_camelまず、「ハイウェイ」をラクダ、犬、牛などありとあらゆる家畜・動物が闊歩しています。街道筋の小都市・集落に入れば、これに豚、山羊、ロバなど多彩な動物が加わり、これらが道のど真ん中で休んでいたり、餌をあさったりしていて進路を塞ぎます。人間はと言えば、歩行者は勿論のこと、自転車、リヤカー付き自転車、輪タク、オート三輪(リキシヤ)、お客で鈴なりのミニジープやバス、荷台に人や荷物を満載したトラクターやトラック、そして乗用車などあらゆる形態の車両が四方八方から前触れもなく次々に現れますから、これを上手く交わしながらの運転です。Sp1010008_goatherd

  無秩序の秩序とでも言うのでしょうか。交通渋滞時のエトワールを想像していただくのが良いでしょう。相手が必ず避けてくれるものとの前提で、これらが車の前を横切って行きます。事故が起きないのが不思議なほどですが、さすがに途上で、時折、接触事故を起こしているのを目撃しました。

  Sp1010027_localtown_cowcamel中央分離帯のあるハイウェイでも安心は出来ません。下り(デリーから離れる方向の)車線にあると想定してください。脇道から出て来た上り方向に行きたい車は、下り車線を進んでその先の分離帯の切れ目で右折して上り車線に入るのがルールです。ところが分離帯が長過ぎて途中に切れ目が余り無い設計となっているので、先まで進むのが面倒なのでしょう。脇道から上り方向に行きたい車がいきなり下り車線を逆走して来るのです。初めてこれを目撃したときには、我が目を疑いましたが、現実です。大型トラックが猛スピードでこちらに向かって逆走してくるのに立ち向かうのは、実にスリル満点。まるで映画の1シーンのようでした。Sp1010039_3persons_on_scooter

  実は、ハラシュも逆走せざるを得ないことがしばしばありました。故障車があったり道路工事中の箇所では、前触れもなく突然、路上に小枝や小さな岩が置かれ、進路が塞がれていますから、その近辺の分離帯の切れ目で反対車線に入り込んで進まざるを得ないのです。そんな場合に、日本でならば、プラスチックの三角錐を並べて上りと下りの車線を分離し、安全が図られるのですが、インドでは、全く運転手の技量に委ねられるのです。Sp1010036_cycles

 前述した事情によって、ハイウェイの走行車線を人間や動物が闊歩し、ラクダに引かれた荷車などがノロノロ進んでいます。トラックやバスなどのスピードの遅い車も、いちいち進路変更してこれらを追い越すのは面倒なので、ともすれば追い越し車線をそのまま進行しており、しばしばこちらの行く手を阻みます。そうした場合、ハラシュは、クラクションをけたたましく鳴らして、先行車に警告を与え、これが走行車線に寄ったところで追い抜きます。相手が方向指示器の合図を出さずに進路変更してくる可能性があるからです。

 わずか、3日間のインドでの車による旅でしたが、強烈なインド式ドライブ方法がしっかり体に染み込んでしまったようです。無事、デリーから成田に戻り、空港ホテルの駐車場に預けていた車をピックアップして、家路に着いた時のこと。高速道路で追い越し車線を走行中に、走行車線を進んでいる先行車を追い抜こうとして、インド式に思わずクラクションを鳴らしそうになりました。ここは、日本だぞと言い聞かせながら、それでも夫婦して、口で「ブー、ブー」と警笛音を発しながらの帰宅でした。

甲斐 晶(エッセイスト)      

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インド駆け歩き

 2002年の初め、インド在住の友人(日本人)の招きで、夫婦共々、デリー、ジャイプール、アグラのゴールデントライアングルを正味3日の滞在で、駆け抜けて来ました。Mapindia2何も好き好んでインドまで出かけなくてもといぶかる周囲の声も有りましたが、インドに惚れ込んで商社勤めを辞めて独立し、インドに住み着いている私の友人の場合もあるわけで、インドの魅力を探りたいと願ったのです。

 インドと日本の時差は、3時間半。3時間でも、4時間でもなく、半端な30分のおまけが付く厳密さに、ゼロの概念を発見したインドらしさを感じます。こうした抽象思考が得意な国民性に加え、英語を自由に操れる人材の豊富さ、アメリカ西海岸とほぼ12時間ある時差を有効に使って作業し得る地理的優位性などから、インドのIT産業、特にソフトウェア 産業が目覚ましい発展を遂げています。とりわけ、南部3州の州都、チェンナイ(昔のマドラス)、バンガロール及びハイデラバードは、ITトライアングル と称され、ハイテク・パーク造りが盛んです。そこでは、外界から隔絶された敷地内に、オフィスビル、宿舎、発電所、通信設備などのインフラが整備され、ハイテク産業が誘致、集積され、著しい業績を上げています。

 28年前にデリーからアグラまで国内線を利用した際には、搭乗手続きを当時外国では当たり前になっていたコンピューター端末ではなく、分厚い大福帳で処理していたことを思い起こすと、実に隔世の感があります。信号待ちの際、日本では、残り時間の目安が赤い逆三角形の棒グラフによるアナログ表示となっていますが、首都ニューデリーでは、残り時間の秒数をデジタル表示しているのを見て、さすが、IT先進国と思わされました。

  インドを形容するもう1つの表現に「世界最大の民主主義国」というのがあります。10india1確かに、人口は、10億を超え米国を遥かに凌いでいますから民主主義体制の国として世界最大には違いないものの、一方でカースト制は、厳然として存在します。それを指摘すると、「バジパイ首相は、最下層出身にも拘わらず、現在の地位まで上り得た。機会は均等である。」との反論がインド人からは返ってきます。理屈が立つ、自己主張が強い、へこまない、ダメもと精神なども国民性なのでしょうか。

買い物や観光地でタクシーに乗るのにも正価が無く、いちいち交渉しなければならないのも、骨が折れます。短期滞在の旅行者では相場が分からずにごまかされ、後味の悪い体験をすることもあります。Ph_10bタージマハールを訪れた際のことです。排気ガスによる汚染を規制するため、1.5㎞手前の駐車場で車を降り、電気自動車タクシーなどに乗り換えなければなりません。昼時なので、途中のホテルのレストランで食事をする間、待っていて貰ってから、タージマハールを訪れ、駐車場に戻るとの約束で、100ルピー(Rs)の値段で交渉が成立。 ところが、食事が終わって出てみると約束の時間を10分過ぎてもくだんの運転手は現れません。フロントに聞くと、流しのタクシーが表を走っているので、捕まえれば、1人片道5Rsで行けるとの話。吹っ掛けられていたのです。まあ、ゲームだと思って楽しむに限るようです。

現地の人々とのふれあいも楽しいもの。車で移動中に休憩のため立ち寄ったレストランで、清掃作業者の監督とおぼしき人物に一緒に写真に入るよう誘うと、何と今まで床の拭き掃除や外の掃き掃除をしていた労働者達数人も加わってきました。デジカメで撮った映像をその場で見せてあげると、今まで苦虫を噛み潰したような監督の顔がニッコリ。いずこも変わらぬ人間性を感じました。

A0029889_11501916衛生状態にそこそこの注意を払えば、料理は、美味しく、値段も安いのが魅力です。多種多様なカレー料理は勿論、朝食の時に、好みの具を入れて目の前で調理してくれるオムレツの味は格別。ナーンの他、チャパティ、パラータなどパン類の種類が多い他、デザートも豊富です。

民族的な柄の刺繍やプリントの綿、絹、ウール製のショールやテーブルクロスの他、手の込んだ金・銀製の細工物など、驚くほどの安さ。どうも家内はインドの魅力にはまってしまったようです。

甲斐 晶(エッセイスト)

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ビジネス・エチケット

 世界を股に飛び回るビジネスマンにとって、エコノミスト誌のウェブサイトは、心強い味方でしょう。無料で提供されるスクリーンセーバーは、宇宙空間に浮かぶ、回転する大きな地球がモチーフです。地球上の地点をクリックすれば、該当する国(地域)の経済指標のみならず、社会、保健、教育などの統計数字が即座に表示されます(世界66ヶ国/地域を網羅)。日本時間の他に、ニューヨーク時間(EST)、ロンドン時間(GMT)及び香港時間が常時表示されますから、時差と戦いながら活動している方々には、実に便利なツールです。Economist_logo   

また、ビジネス先の国々についての経済概況、最近のニュースなど基礎データも充実しています。さらに、外国人ビジネスマンがその国独特の習慣にまごつかないようにと、現地でのエチケット集も載っています。

Tours_moscow3 例えば、モスクワでは、①玄関越しに握手するのは、縁起が悪い、②自宅に招かれた時の手土産は、奇数本の花か箱詰めのチョコレートとする(偶数本は、墓参用)、③酔いつぶれたくなければ、初めから全く禁酒中である(尊敬の的の由)と宣言する、④レストランなどでコートは、受付に預ける(イスの背に掛けるのは顰蹙もので、冬期にはコートに付いた雪が溶けて、床がびしょ濡れになるから)とのことです。

Par_001 パリでは、①ビジネス会合の場合には、割りと時間厳守であるが、食事になると話は違い、定刻どおりに出向くのは、礼儀に反する(フランス人だと招待状の時刻の1時間遅れでも平気で、8時のディナーが9時45分に開始となっても不思議ではない)、②同僚と仕事帰りに一杯というのは余りなく、週末にレストランや自宅でのお茶に招くのが普通、③これまで喫煙には寛容であったが、20081月以降レストランやカフェーでは完全禁煙である、④ビジネスでの服装は、フォーマルな方が賢明、⑤相手と余程親密でない限り、頬への接吻は避け、握手にするのが無難なようです。

Berlin ベルリンっ子は、①単刀直入で真面目なので、商談では冗談を避けること(皮肉や当てこすりは誤解の元)、②自分では大口を叩くのに、尊大さは軽蔑の対象となる、③出会いにも、別れ際にも握手が大好き、④自分のプライバシーに関しては、寡黙で話したがらない、⑤一斉に乾杯する前に飲みだすのは、非礼、⑥嫌煙権を主張するのは、今でも若干不作法だそうです。

Samerica001 さて、地球の裏側のブエノスアイレスでは、どうでしょうか。①商売では、攻撃的態度となる、②口約束は、当てにならない(契約書以外は、信用するな)、③コネが幅を利かす、④挨拶は、相手が男性ならば握手、女性ならば頬と頬を寄せた接吻を一回、⑤全体に遅めの時間帯で執務する(会合が8:30に始まることもあるが、10時になっても誰も出勤していないことも稀ではない)、⑥1月に商談で訪れるのは、最悪(暑い上、夏期休暇で誰もいない)、⑦夕食の開始は遅く、10時は普通で、11時半も稀ではないとあります。

 3mexmexc0009 メキシコ・シティの場合、①赤の他人にも挨拶を交わす、②相手に非礼だと考え、直裁的に「No」とは言わないので、「多分」、「ひょっとすれば」、「チェックしてみます」などの返答には要注意(いずれもNoの意)、③服装は、かなりフォーマル、④昼食が何時間にも及ぶことがある(最低、2時間は見ること)、⑤肩書きを重視するそうです。

 E9a699e6b8afefbc91 香港では、①暑い気候にも拘わらず、服装は、フォーマル、②まず、両手で名刺交換してから握手に移る、③多くの人が中国名に加えて、英語のニックネームを持っているが、アイスとかタバスコ、ペプシなど奇妙な名前も見かける、④結婚しても女性は独身時代の名前のままで、夫の姓は名乗らない、⑤面子を大事にする、⑥置き時計は、贈ってはならない(発音が「死」に通ずるため)、⑦漁船が転覆するとの迷信から、魚を食べるのに身を皿の上でひっくり返さないことと有ります。

 ところで、東京についてどう書かれているかですが、これは、皆さんがご自身でお確かめ下さい。

甲斐 晶(エッセイスト)

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セキュリティ・チェック

 Pan_am_747_lax 2001年9月11の民間航空機を用いた米国多発テロ事件の前のことでしたが、国際線・国内線を問わず、米国の航空会社の便に乗ろうとすると、搭乗手続きの際に必ずなされるセキュリティ上の質問が2つありました。第1は、「お預けになる荷物は全てご自分のものですか、誰かから運ぶように頼まれたものは無いですね」。そして、「荷物を詰めてから、ずっとあなたが管理されており、目を離されことはありませんね」というものです。198812月にスコットランド、ロカビー町の上空でロンドン発ニューヨーク行きパンアメリカン航空103便が、Image1 リビアのテロリストが積荷に仕込んだ爆弾により空中爆破され、乗員乗客など270名の命が失われた事件以来、持ち主不明の荷物を積み込ませないよう、厳重なチェックが行なわれるようになったように思います。

一時期、例えばフランクフルトで米国の航空会社の便に乗り換えると、チェックイン済みの自分のスーツケースがタラップの下に並べられており、搭乗前にそれを指差し確認しないと、その場に取り残される程の厳しさでした。従って、当時、米国の航空会社は敬遠されたものです。(その後も、インドの国内線の一部や中央アジアの一部の路線では、治安上、同様の厳しい措置が取られました。)

Img10574653421 しかしながら同種の事件が久しく起こっていなかった2001年9月11日以前には、随分と簡略化されており、その直前、米国の国内線を利用した際には、この質問を紙に印刷したものを係員が指で示して、イェスかノーかを尋ねるだけでした。

ある時、この質問に余りに馬鹿正直に答えたために、ひどく手間取ったことがありました。ホテルをチェックアウトしてから空港に行くまでにかなりの時間が有ったので、その時間までポーターに荷物を預けたのですが、搭乗手続きの際にそのことを係員に正直に告げました。すると、一瞬係員の目が輝き、私は、荷物と共に別室に招き入れられたのです。スーツケースを開けさせられ、中の品物をひとつひとつ、見慣れぬ怪しいものは無いかどうか、しっかり確認させられてしまいました。私は、パッキングの名人を自認しており、靴の中に下着をぎっしり詰めたりして、限られたスペースを有効に使い、Johntierney要領良く最大限に品物を詰めてあります。取り出すのにも、元通りに詰め直すのにも大いに手間・暇を要し、苦労しました。以来、この種の質問には好い加減に答えるようになりましたが、 似たような体験により同様の結論に達したJohn Tierney 氏の書いたニューヨークタイムズのコラムに意を強くしました。

 彼は、国際線で十年以上前から、国内線で1995年から行なわれてきたこれらの質問によって、どれだけ乗客の安全が確保されたかを計るのは難しく、真面目に答える意義があるのかとしています。「米連邦航空局(FAA)は、0409faa_logo過去15年間に3個の爆弾が発見されたことから、この質問の継続を主張しているが、いずれも国外の空港での事例であり、国内では、ほぼ半世紀前の1955年に、ある男性が保険金目当てに自分の母親に爆弾入りの包みを渡し、乗っていた飛行機が爆破された事例である。しかし、仮にこれらの質問が当時なされていたとしても、その母親が自分の息子からの包みをあえて申告した確率はどれ程のものか。」と論じています。米国の国内便を利用する延べ65千万人の乗客の半数が、この質問に一回あたり15秒間真面目に考えたとして、年間では、約8,100分=154年にもなり、毎年ほぼ二人分の生涯が費やされることになり、一人の命も救ったことがない規則の犠牲になっていると試算しています。

しかし、2001年9月11日以降、内外の空港でのセキュリティ・チェックは、一層厳しくなりました。先の質問は廃されるとともに、これまで引っかかったことの無かった、Vm_54091_sol_a02 キーホルダーに付けたミニ・ナイフ(刃渡り3.5cm)でさえ、航空会社に預ける荷物の中に入れるように指示されます。米国では、セキュリティチェックの際に、ハサミやナイフが見つかると、没収されるか、お客が旅先から戻ってきて受け取るまでの間の保管料を請求されるそうです。まあ、安全上、ある程度の不便は我慢せざるを得ないのでしょう。

甲斐 晶(エッセイスト)

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