サイバー先進国エストニア

Qpanoramic-view-of-tallinn_20200813110001 ほぼ1年前のことになりますが、サイバーセキュリティの調査のため、この分野の先進国、エストニアの首都、タリンを訪れました(左写真:タリン旧市内の眺望)。タリンでは、教育・研究機関であるタリン工科大学(Tal Tech)、サイバーセキュリティに責任を有する行政機関である国家情報システム庁(RIA)、サイバーセキュリティ分野におけるNATO加盟国間の協力推進を行うNATOサイバー防衛協力センター(CCDCOE)(写真:CCDCOE加盟国の国旗掲揚。出典:ERR)などを訪問。Ccdcoe649845h63f1t27 専門家との意見交換や情報交換を通じて、我が国の約100分の1の人口で、面積が約9分の1の小国、エストニアがどのようにしてサイバー先進国となったか、その秘密を探ることが出来ました。

古くからエストニアは外国列強による支配が繰り返されて来ました。すなわち、14世紀から18世紀にかけて、ドイツ(騎士団)、スウェーデン、ロシアによって領有されます。ロシア革命(1917年)の翌年にようやく独立を果たしますが、第2次世界大戦中の1940年に今度はソ連に併合されてしまいます。そうして、ソ連にペレストロイカの波が生ずるに及び、ようやく1991年に独立を果たすのです。こうした歴史から、バルト三国の中でも、いち早くNATO加盟、EU加盟を果たし、脱ロシア・欧州の一員への移行を進めるとともに、IT・サイバー防衛の先進国としての地位を確立するに至ったのです。

Eid すなわち、独立後のエストニア政府は、まず、旧ソ連時代の非効率さを根絶し、投資を呼び込むためにIT分野の人材育成に力を入れたのです。また、国家予算の1%を効率的な電子行政サービスシステム(e-Estonia)の構築にあてました。これにより、ポータルサイトState Portal “EESTI.EE”を通して、出生や転居、税申告、教育、選挙投票など「ゆりかごから墓場まで」に必要となる公共サービスのほとんどがオンライン化されるようになり、国民の圧倒的な支持を得ています。例えば、このシステムを通じて子供の出生届を出しておくと、その子の保育園入園の時期になれば、どこそこの保育園へどうぞとの入園案内の通知が親御さんの元にくるようになっているとか。至れり尽くせりの血の通ったシステムなのです。また、15歳以上の国民全員が電子認証・署名の機能を持つ電子IDカード(eID card)を所有するようになっています(上写真。出典:総務省)。これは、公共サービスを使用するために必要な個人証明として使用され、モバイル版も存在しています。民間を含む電子サービスでの電子認証・電子署名としても使用され、非居住者向けにもe-Residency Card(一部制限あり)が発行されているそうで、あなたも申請すれば持つことができるかも。

2qimg_3633 さて、エストニアにおける調査では、訪問先のどの機関においても、エストニアがサイバー先進国となるきっかけとなった、2007年に起こった(ロシアによるとされている)大規模なサイバー攻撃のことが話題になりました。すなわち、2007年、タリン市の国立図書館前にあった戦没ソ連兵慰霊碑を郊外の軍人墓地に移転したことを巡り、ロシア語系住民の抗議活動が暴動・略奪に発展。治安部隊の介入により1名が死亡、約170名が負傷、1000名以上が逮捕。ロシアがエストニア政府の対応を批判する中、エストニア政府及び民間企業のウェブサイトがロシアからと思われる大規模サイバー攻撃(DDoS攻撃)を受け、一時的に機能不全に陥ってしまったのです。これを機に、エストニア政府はサイバー対策に本腰を入れるようになり、Tal Techによるサイバーセキュリティの修士コースの設置(2008年)、CCDCOEの誘致(2008年)、サイバー防衛関係の国際学会CyConの開催(2009年。以降、CCDCOEが毎年主催)、RIAの設立(2011年)に繋がっています。このため、事件の発端となった戦没ソ連兵慰霊碑を是非訪れてみたいと願い、CCDCOEの近くにくだんの軍人墓地があると知って、同センターを訪問した際の帰路、タクシーでホテルに戻る途中に、わざわざそこに寄って貰い、写真を撮ることが出来ました(左写真)。

2qimg_3509 ところで、今回の調査ミッションの日程が、たまたま一年で昼の長さが一番長い夏至(6月23日)の時期と重なってしまいました。タリンヘは、フライトの都合で、直前の調査国であるハンガリーの首都ブダペストから、まずヘルシンキに向かって飛び、そこで一泊し、その翌日タリン行きのフェリーに乗るというスケジュール。ところが、ブダペストからヘルシンキへの移動日に、ホテルに到着したのが真夜中に近いというのに、日没直後の残光が明るく、昼間と間違うほどでした。白夜なのです。(写真:運転席上のデジタル時計の時刻参照)

落語家の柳家権太楼師匠が「白夜」を見たくて、わざわざアイスランドのレイキャビクに訪れたところ、単なる真っ昼間に過ぎないことが分かってがっかりしたとの逸話があります。「白夜」→「北欧」→「オーロラ」→「美しい」との連想から、「白夜」にきっとロマンチックな光景を期待したのでしょうね。

甲斐 晶 (エッセイスト)

| | コメント (0)

日本のパスポートの秘密

前回の記事「世界の魅力的なパスポート」において、世界の多くの国のパスポートでそのビザのページがブラックライトで幻想的に浮かび上がる素敵な隠し絵が印刷されていることを紹介しました。日本のパスポートではどうなっているのか知りたくて、早速、ブラックライトをネットで購入しました。

Bl-img57192386 送料込みで200円台の中国製の安価なものが多数Amazonで売りに出されていました。しかし、コメント欄を見ると、①安かろう、悪かろうで、結局、粗製濫造品を掴まされ、すぐ壊れてしまった、②中国から送られて来るので商品が着くまでえらく長く待たされたなどの書き込みが多かったので、これは少々高くても日本製をと考えました。色々、ネット検索した結果、日亜化学工業社製のUV-LEDを搭載したPW-UV343H-03Lという商品を選びました。税込み・送料込みで1,880円しましたが、注文してわずか2日で無事配達されてきました。

90445_jpg 早速、今回発給された2020年パスポートの前に使っていた旧パスポートを確かめてみました。身分証明のページは、写真が薄いフィルムでコーティングされており、ページを上下に傾けるとページの中央から右の部分に富士山と小さな桜の花びらのホログラムが現れます。この桜の花びらは角度によって雪の結晶に変わるのが芸の細かいところです。写真の部分のホログラムは、複数の波線が写真を覆うように現れるとともに、丸に山桜の家紋や大小多数の桜の花びらが現れます。別の意匠の家紋も現れ、これら二つの家紋が角度によって全く別の家紋に変化するのですが、デザインが細かすぎて、私の目では何の家紋かを判別するのは困難です。またビザの各ページには大きな桜の透かしが漉き込まれています。

Soldppidpage まず、身分証明のページにブラックライトを当ててみました。すると、ICチップに記録されている顔写真がページの右側にモノクロで楕円形の縁取りの中に現れるとともに、楕円の縁取りの上部と下部にはそれぞれパスポート番号と生年月日が極めて小さいフォントで表示されます。また、楕円の縁取りの左側と右側の部分に、それぞれ姓と名がアルファベット表記で現れます。さらに、顔写真のすぐ右横には、二重丸の枠内に日本国外務省の文字が英文で表記され、その中央に政府の紋章である五七の桐が浮かび上がります。顔写真のページと見開きになっているページ(p3:右の写真の上部)には、三本の横線が現れます。これがp5、p7ではそれぞれ二本、一本に変わります。

Oldppblight2 他のビザのページでは、ブラックライトで照らすと、大きめの桜の花びらが沢山散らばっているのが現れます。これは、上で紹介して来たような蛍光色のものではなく、また自然光の下では隠れていて識別できないので、特殊技術による偽造防止策のようです。

次に、2020年パスポートも調べてみました。身分証明のページのホログラムがさらに高度化し、ページを上下に傾けると、色々なホログラムの文様が動き出し、別の文様に変化するように見えます。例えば、桜の花びらが小さくすぼまって行って、別の小さな桜の花びらになったり、六弁の花形が小さくなって行って五七の桐の紋章とJAPANのロゴが現れたりします。また、ページの右下にある六弁の雲形の場合はくるくる回り始めたと思うと「日本国」のロゴが現れます。

Qnewppmaskedjpg ビザのページに大きな桜の花びらの透かしが漉き込まれているところは変わっていません。さらに、身分証明のページにブラックライトを当てて現れる変化も上に述べた旧パスポートの特徴と全く同じです。また、身分証明のページの見開きで対になっているページには、三本の横線と大小様々な大きさの正方形や複数の桜の花びらの形が現れます。ただ、三本の横線は蛍光発色ですが、そうでないその他の文様は旧パスポートのビザのページに現れる桜の花びらのように特殊技術によって生ずるもののようです。これらの文様は残りのビザのページにも施されていてブラックライトでくっきり現れます。

Snewpplastpage この他、パスポートの最終の見開きページ(左の写真参照)には、旧パスポートにも同様に採用されていた特殊印刷技術による偽造防止対策が採用されています。これはお札の偽造防止技術を応用したもので、左側のページの中央にインクの盛り上がった部分(精密凹版印刷)があります。ページを傾けてこの部分を左側から眺めると、大きな桜の花びらとその下にJAPANの文字が現れます。同様に右側のページの下に、一万円札の表の透かしの左下にあるような雲形の模様が見られますが、ページを傾けてこれを下から見るとJPNの文字が現れます。

この他にも、マイクロ文字など偽造防止のための高度精密印刷技術が駆使されているようですが、私には確認できませんでした。政府も手の内を全て明かすことになるので、どんな技術が使われているかは公表されていません。

このように、我が国のパスポートには、様々な偽造防止の技術がふんだんに盛り込まれています。皆さんも一度実物で確かめて見ては如何でしょうか?もっとも、上記の全ての特徴を確認するにはブラックライトが不可欠になりますが・・・。

一家に一台ブラックライトがあれば、お札やクレジットカードの真贋判定も簡単にできますし、有害な蛍光剤、蛍光染料等の蛍光反応を確認したり、紫外線硬化樹脂やジェルネイル等の硬化、夜光(蓄光)ルアーの短時間での蓄光などに大いに役立ちます。(しかしながら、どう見ても特殊な用途で汎用では無いですね。)

甲斐 晶(エッセイスト)

 

| | コメント (0)

世界の魅力的なパスポート

Hokusai-img_4560-masked 前回のブログ「新しいデザインのパスポート」を見た友人から、①2020年パスポートの発給はオリンピック・パラリンピックの行われる今年限りで、来年になればまた元のデザインに戻るのか?②他の国のパスポートも日本の2020年パスポートのように、ビザのページに各国独自のデザインが採用されているのか?との質問がありました。

①については、来年以降も引き続き新しいデザインのパスポートが発給されます。②については、ネットで調べてみたところ、多くの国で、パスポートのビザのページがその国を代表するような景観や事物などが描かれているほか、かなりの国で偽造防止対策の一環として、ブラックライト(わずかに眼で見える長波長の紫外線)を当てると別の画像が現れるようになるなど魅力的なものになっていることが分かりました。以下に、その例をいくつか紹介しましょう。(各画像をクリックすると拡大表示されます。)

Finlandpassportdesigngraphics_lowres_sq_ まずは、フィンランド。偽造防止のために採用されたのはパラパラ漫画の手法です。ビザのページには北欧に生息するヘラジカが描かれているのですが、ページごとにその4本の足の形状が少しずつ変えて描かれているので、パスポートをパラパラめくると、このヘラジカがトコトコ歩き出して見える仕掛けになっています。どんな風に歩くのかは、左上の画像(出典:dezeen )をクリックするか、YouTubeのビデオ映像をご覧下さい。

同じ北欧のノルウェーの場合には、パステル調で美しいフィヨルドが描かれていますが、これにブラックライトを当てると、北欧特有の自然現象であるオーロラの画像が浮き上がって来る仕組みです。

Norway212401746

Norway287158744 

南半球にあるオーストラリアの場合は、国を代表する自然景観や固有の動植物などが描かれたビザのページにホログラムが組み込まれています。すなわち、パスポートを傾けると10種類のカンガルーのホログラム画像が現れる仕掛けになっています。

Australia168510358_png

Australia102990169

カナダも36ページにわたるビザのページに、ナイアガラの滝(オンタリオ州)、首都オタワの国会議事堂(オンタリオ州)、国際レースで連戦連勝を誇った伝説の大型帆船Bluenose号(ノヴァスコシャ州)などカナダを象徴する名所旧跡や歴史的建造物などがデザインされており、これにブラックライトを当てるとそれぞれが更に華やかなイラストに変化します。例えば、ナイアガラの滝の場合、昼間のパノラマ景色を描いたものが、ブラックライトを当てると、夜空に輝く星座や月とともに鮮やかな滝の夜景となってが浮かび上がります。

Canada1

Canada2 
国会議事堂の場合には、変哲も無い建物の画像だったものが、ブラックライトによって建物全体がきらびやかにライトアップされ、夜空に大輪の花火が多数打ち上がります(出展:sigmalive)。

Canada3parliament

Canada4parliament

中国も近年パスポートのデザインを変更し、万里の長城のような人気の名所旧跡などをビザのページに鮮明に描いています。ブラックライトを当てると万里の長城の場合には、長城の夜景が明るく照らし出されます。

China1

China2

Hungarypassportdesigngraphicsbooks_dezee このようにかなりの国で、パスポートのビザのページに肉眼では認識できない特殊なインクで描いたデザイン画像を、それぞれの国の名所旧跡や特徴的な事物の画の上に重ねて印刷することによって、ブラックライトを当てると不思議な効果の画が合成されるようにしています。そんな中にあってユニークなのはハンガリーのパスポートです。ブラックライトを当てるとなんとハンガリー国歌のスコアが現れるのです(出典:dezeen

この他、ビザのページにその国を象徴する名所旧跡やユニークな事物の画を印刷しているパスポートの例は枚挙に暇が無いほどです。

Creativeunitedkingdom_updatedbritishpass 英国の場合は、5年ごとにデザインを変更しているようですが、最新のものは2015年12月に発給され始めていて、過去500年間に創造的な作品を生み出した建築家やデザイナーにちなんだ図柄になっています。例えば、左はシェイクスピア劇場などを設計した建築家エリザベス・スコット(1898 – 1972)の肖像とその作品群があしらわれています。ちなみに、彼女の叔父に当たるジャイルズ・ギルバート・スコット卿(1880 – 1960) も選定されており、彼の設計したロンドンのバタシー発電所、リバプールの大聖堂、それに英国を象徴するあの赤い公衆電話ボックスがコラージュされた図柄になっています。(出典:dezeen2

Us-passportnewinside 米国も定期的にパスポートのデザインを変えてきており、現行のものは2007年に改訂されたもので、ビザのページには「米国のシンボル」(American Icon)をテーマに、米国を象徴する歴史的建造物や動植物、名所旧跡の図柄が採用されるとともに、それぞれにちなんだ米国史上の有名人などの名言が13選定され、印刷されています。例えば、ビザの最初のページには、フィラデルフィアにある独立記念館と自由の鐘が描かれるとともに、初代大統領ジョージ・ワシントンの憲法制定会議での発言とされる “Let us raise a standard to which the wise and honest can repair.”との言葉が引用されています。Us20

さらに、その数ページ後には、米国の国鳥である白頭鷲と草を食むアメリカバイソン(バッファロー)が描かれ、そこに公民権運動で活躍したマーチン・ルーサー・キング牧師の名句 “We have a great dream. It started way back in 1776, and God grant that America will be true to her dream.” が掲げられています。

Us-current_2_lg また、これに続く次のページには、岩肌に4人の米国大統領、ワシントン、ジェファーソン、リンカーン、セオドア・ルーズベルトの顔が刻まれたラシュモア山が描かれ、その上方に、冷戦時代のケネディ大統領の言葉、 “Let every nation know, whether it wishes us well or ill, that we shall pay any price, bear any burden, meet any hardship.”が記載されています。ちなみにこれらを紹介しているサイトの著者は、選ばれた13人の男女比が12:1と圧倒的に男性優位なことに苦言を呈しています。

この他にも、インドネシア、フィリピン、ニュージーランド(以上出典:scoopwhoop)、マレーシア(出典:femalemag)などがビザのページにそれぞれの国を象徴する名所旧跡や特徴的な動植物などを描いています。具体的にどんなデザインかは、各出典のリンク先をクリックしてご覧になって下さい。なお、オーストリアの場合には、事物の代わりに、オーストリア各州の紋章などがあしらわれています(出典:scoopwhoop)。

このように、各国はそのパスポートのデザインや偽造防止のための特殊印刷技術を競い合っています。しかしながら、一般の人は自国のパスポートしか持ち得ないわけで(ゴーン逃亡者のように複数のパスポートを持っていれば別ですが)、自分の目で、これら各国のデザイン・コンテストの状況を実物を見て確かめることのできる人はわずかです。けだし、これが出来る各国の入国管理官は羨ましい限りです。

甲斐 晶(エッセイスト)

追記:

この記事を見た高校時代の級友が「プレゼントカードのように立体的に立ち上がったり、オルゴールの音が出るのは無理なのかな?技術が進めば富士山や君が代も面白いと思う」とのコメントを寄せてくれました。面白いアイデアです。現在のパスポートには身元証明用のデータが収められたICチップが既に埋め込まれていますので、midiファイル形式で取り込めば、音を出すのは技術的には可能でしょう。パスポートを開くと富士山の立体像のホログラムが現れて「頭を雲の上に出し・・・」の小学唱歌が流れたら素敵ですね。







 

 

 

 

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| | コメント (0)

新しいデザインのパスポート

これまで10年間使っていたパスポートの有効期限が新年早々切れてしまいました。

すぐに更新手続きをしても良かったのですが、毎週見ているTOKYO MX テレビのアートステージ~画家たちの美の饗宴~」で、2020年春に発行されるパスポートからそのデザインが一新され、ビザのページに葛飾北斎の浮世絵「富嶽三十六景」が描かれると知って、新デザインに切り替わるまで更新手続きを見合わせることにしました。

外務省のホームページに2020年旅券(パスポート)のことが詳細に説明されていました。それによると、次期パスポートを2020年オリンピック・パラリンピックの開催を念頭に、その前年の2019年度中の導入を目指して準備を進めて来ていましたが、いよいよ令和224日以降に受理する旅券の発給申請について,新型の2020年旅券を交付することとなったのです。

1 2020年旅券はIC内の個人情報の不正読取り等を防ぐ機能を強化しているほか,偽造防止能力を高めるため,葛飾北斎の「冨嶽三十六景」をデザインに取り入れています。「冨嶽三十六景」は、世界的にも広く知られ,世界遺産でもある富士山をメインモチーフとし,まさに日本を代表する浮世絵のひとつであることから採用されたものです。外務省は、基本デザインの選定において,有識者5名による次期旅券冊子デザイン選定準備会合を開催し,複数の候補につき議論した内容を踏まえて最終決定しました。この選定準備会合は海外通信・放送・郵便事業支援機構会長の高島肇久氏を代表とし、元マラソン選手の有森裕子氏、慶応義塾大学文学部教授の荻野アンナ氏、俳優の関口知宏氏、東京芸術大学名誉教授の中林忠良氏で構成され、日本的なデザインをコンセプトに検討を行いましたが、「富嶽三十六景」以外には、正月やひな祭りなど日本人が持っている原風景にも似た日本の情景や,空を飛ぶ旅を連想させる鶴,桜などの日本の季節を代表する四季の植物をモチーフとした様々な候補があったようです。

2 一般旅券には有効期間が10年のものと5年のものがありますが、10年旅券は表紙を除き54ページあり,裏表紙,人定事項ページ,ICページ等を除く査証欄等の48ページに「冨嶽三十六景」の図柄を見開き2ページで一作品使用することとし,24作品が選ばれました。また、5年旅券では32ページに16作品がが選ばれました。

Hokusai-img_4560-masked 新たなデザインとなったパスポートの実物を是非この目で見てみたいとの思いを強くして、2020年旅券の申請受付が開始してすぐに申請していたところ、10日ほどで発給されました。私のは5年旅券ですので「富嶽三十六景」のうち16作品がデザインされています。そのうちのひとつを上に示します。有名な「凱風快晴」ですが、5年旅券にはこのほかにもお馴染みの「神奈川沖浪裏」、「山下白雨」などの作品が収められています。あまりの美しさ、すばらしさなので、こうしたページに入出国のスタンプやビザのスタンプを押して貰いたくない気分です。

皆さんも、機会があれば、是非、2020年パスポートを入手し、ご自分の目で実物のすばらしさをご覧になってみて下さい。

甲斐 晶(エッセイスト)









 

 

 

 

 

 

| | コメント (0)

機内食

長時間にわたる飛行機旅行の楽しみの一つに機内食があります。経費削減のあおりでエコノミークラスでは余り期待は出来ませんが、航空各社とも最近、収益向上のために営業収入の主体を占めるビジネスクラスやファーストクラスでの機内食の質の向上に力を入れ、顧客増加に努めています。例えば、有名料理店のシェフが機内食の監修を行ったりしています。

 スカイトラックス(Skytrax による世界の航空会社の2011年ランキングでは、09_imageaua_2オーストリア航空がビジネスクラスの機内食部門で1位を獲得しています(2位:トルコ航空、3位:カタール航空)。ちなみにエコノミークラスでは、タイ航空が1位(2位:トルコ航空、3位:アシアナ航空)、ファーストクラスではエティハド航空(UAEの国営航空会社)が1位(2位:シンガポール航空、3位:カタール航空)でした。どうやら中東とアジアの航空会社が頑張っているようです。

 オーストリア航空では、その名も「空飛ぶシェフ」(Flying Chef)が機内食に腕をふるっています。通常、機内食のサービスは、客室乗務員Flying_chef_2
が機内食の調理(といっても地上で調理済みのものの再加熱が主体です)と配膳を行いますが、オーストリア航空の長距離ビジネスクラスの場合、ウィーンの有名レストラン、
DO&COで訓練を受けたシェフがギャレーにおいて料理人姿で調理し、盛りつけを見栄え良く行います(こうした作業の場を確保するため、通常よりも広いギャレーが用意されています。)配膳は、客室乗務員が行いますが、顧客に対する料理選択の助言はシェフが行っています。こうしたサービスは乗客にも好評で、その努力が実った結果、ランキング1位の名誉を獲得したのでしょう。

DO&CO
の空飛ぶシェフの構想は既に1996年からあって、最初はチャーター便が主体のLauda_air_logoラウダ航空(有名なオーストリアのF1チャンピオン、ニキ・ラウダーが創業)と連携して実現させました。オーストリア航空の成功にあやかったのか、エティハド航空も昨年初頭から主要なファーストクラスに空飛ぶシェフを搭乗させており、このためシェフ100名を採用するとともに、機内食のメニューを一新。昼間のフライトにはアラビア料理の6皿コースが登場しているそうです。

ExteriorviewDO&COは、シュテファン寺院の真向かいにあるハース・ハウス内でホテルとレストランそれにカフェー/バーを経営しています。ウィーンでの赴任が終わりに近づき、いよいよ去るにあたって、家族揃ってここを訪れましたが、シュテファン寺院を間近に眺めながらのひと時はいつまでも記憶に残るものとなりました。現在、レストランでは、お寿司や刺身も楽しめるそうです。

 この他、DO&COは、新鮮なロブスターや牡蠣などの海鮮料理で有名なレストラン「ケルバン・サライ」や有名なハプスブルグ宮廷御用達のコンディトライ「デーメル」も傘下に収めるなど、手広く経営しています。

ある時、オーストリアの友人からアルベルティーナ美術館に併設されたDO&COのレストランにお招きを受けました。市民公園を見下ろすテラスから、暮れなずむウィーンの夕まぐれを楽しみながらのお食事でしたが、一手間掛けた質の高いお料理の数々を堪能しました。

 ところで、機内の気圧は地上よりも低く、湿度もサハラ砂漠並に極めて低くて乾燥していることから、味覚が大いに変化することが分かっています。実験結果では、地上に比べ塩味や甘みの感覚は半減してしまいます(旨味については地上とあまり変わらず)。その上、再加熱によって食材の水分が大いに失われてパサパサになり、食感も損なわれます。美味しい機内食とするためには、それなりに多くの工夫が必要で、旨味主体の料理(和食)にしたり、スチーム・オーブンを導入して再加熱でもパサつかないようにしたりしているとか。

 機内食がまずいとお嘆きの皆様。スカイラックスのランキング結果を参考に、航空会社を乗り換えて見るのも一案かも知れません。ただ、旅の安全性のランキングではないことにご注意願います。

甲斐 晶 (エッセイスト)

| | コメント (0)

アイゼナハ

Imagedisplay 今からかれこれ20年ほど前、ウィーンに勤務していた頃のことです。イースターの休暇を利用して、当時はまだ東独に属していたアイゼナハ(アイゼナハ)を車で家族ともども訪れたことがあります。歴史上重要な出来事の舞台となり、また、複数の音楽家にゆかりの場所でもあったこの地に機会があれば行ってみたいと常々願っていました。(画像:http://jp.hotels.com/ho127276/shutaigenberuga-hoteru-turinga-hofu-aizenaha-doitsu/#maps

 ウィーンから陸路東独に入るには、西独経由かチェコ・スロバキLrg_13677500 ア経由のいずれかによりますが、当時の国境検問の厳しさから、前者を選びました。ウィーンからまず北西に進み、パッサウから西独のバイエルン州に入って、共産圏との国境線を迂回しつつヘッセン州内の森に囲まれた自動車道を進み、アイゼナハと国境を接する西独の小さな町で宿を取りました。背後にテューリンゲンの森が広がる田舎町です。りんごジュースの炭酸水割りをウィーンではApfelsaft gespritztと言うのですがhttp://servus.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-db5e.html、さすがにここまで来ると全く通じませんでした。(画像:http://4travel.jp/overseas/area/europe/germany/eisenach/travelogue/10232656/

Lrg_13677570 翌朝、国境を越えてアイゼナハへ。まず目指したのは音楽の父、J・Sバッハの記念館でした。彼は1685年にこの地で生まれ、少年期を15歳まで過ごしたのです。ここは彼の生家ではありませんがバッハ一族の住まいとされ、彼の生涯や作品に関する展示、当時の生活の様子を偲ばせる様々な家財道具とともに古楽器の見事なコレクションがありました。別室で古楽器によるミニ・コンサートが始まるから是非聴いて行くようにと強く勧められたのですが、子供連れだったこともあって断念してしまったのが今となっては悔やまれます。(画像:同上)

Lrg_15615101 次に目指したのは、郊外の小高い丘の上にあるヴァルトブルグ城。1999年に世界遺産への登録を果たしたことからも分かるように、大変由緒あるお城でその歴史は1067年にまで遡ります。テューリンゲン伯であったルードヴィヒ跳躍伯が山頂を見て、「待て(wart)汝我が城(burg)となれ」と言って築城を命じたのがその由来とされ、以来、200年以上にも渡ってその一族が神聖ローマ帝国内で最も影響力のある方伯(Landgraf)の一人としてこの地を治めたのです。(画像:http://4travel.jp/overseas/area/europe/germany/eisenach/travelogue/10318978/

Lrg_13677520 お城の入り口でオーディオ・ガイドを借りましたが、何と日本語。共産圏の片田舎のお城で何故と思わされましたが、ワグネリアンにとってここはバイロイトと並ぶ「聖地」なので日本からの観光客が多いからなのでしょう。実は13世紀初頭ヘルマン1世の治世にこの城の「歌人の間」でミンネジンガー(吟遊詩人)による歌合戦が行われたとされ、これを題材にワーグナーが楽劇「タンホイザー」を作っているのです。(画像:http://4travel.jp/overseas/area/europe/germany/eisenach/travelogue/10232656/

Rosenwunderaf597 タンホイザーには、彼を純愛するヘルマン1世の姪エリザベートが登場しますが、そのモチーフになったと思われるのは、4歳でこの地に連れて来られ1221年にルートヴィヒ4世と結婚したハンガリー王女エリザベ-トです。彼女は、結婚して間もなく貧しい人や病人を助け始めましたが、夫が十字軍従軍中に病死すると城から追われます。結局マールブルグに移り住み、そこで財産を寄進して病院を建て、貧しい人や病人に尽くしましたが、弱冠24歳で夭折。その墓で多くの奇跡が起こったことから聖人に叙せられました。城内には、彼女の生涯をフレスコ画に描いた部屋があります。(画像:http://tommy-music.blog.so-net.ne.jp/2012-04-02

Lrg_17460812 このお城を訪ねた最大の目的は宗教改革者ルターにゆかりの部屋を見ることでした。1521年5月、異端宣告された彼をこの城に匿ったのはザクセン選帝候フリードリッヒ3世で、この間にルターは聖書をドイツ語に翻訳したのです。板張りのとても粗末な部屋で陶器製の暖炉があり、木の机と椅子だけが置かれ、中央に初のドイツ語訳聖書がガラスケース入りで展示されていました。翻訳中に現れた悪魔に投げつけたインク瓶が割れて出来たという壁の染みが今でも残っています。観光客が記念に板壁を削って持ち帰るのでしょう。ガラスで全面が保護されていたのがとても印象的でした。(画像:http://4travel.jp/overseas/area/europe/germany/eisenach/travelogue/10394858/

アイゼナハと聞いて、オッフェンバッハのホフマン物語を思い浮かべた方は、余程のオペラ通です。冒頭、彼が登場して最初に唱う軽妙なバラードが「昔、アイゼナハの宮廷に」なのです。

甲斐晶(エッセイスト)

| | コメント (0)

欧州の十字路

Img02島国である日本は、四方の海が天然の障壁となり、長年にわたり異民族の支配を受けないで来られました。唯一の例外は、第二次世界大戦における敗戦後の進駐軍による支配、北方領土のソ連軍による占領でしょうが、マッカーサー連合軍総司令官による本土統治は僅か7年間で終わりました。

Strasbourg しかし、こうした事例は、世界を見渡すと珍しい方でしょう。特に、国同士が地続きであるヨーロッパの場合には、ある地方が隣接する国によって取ったり、取られたりを歴史的に何度となく繰り返すことが少なくありません。その良い例が独仏の国境を成している、ヨーロッパ水上交通の大動脈であるライン河のほとりにある街、アルザス地方の州都ストラスブール(Strasbourg)です。

「街道の街」というその名が示すとおり、この街はヨーロッパ交通の要衝に位置し、180pxalphonse_daudetまた、この地方に良質の炭田を有していたことから、その支配を巡る独・仏間の係争に巻き込まれ、何度となく国を変わらざるを得なかった悲しい歴史があります(過去100年間に、実に3回も属する国が変わっています)。このあたりの事情を描写した、A・ドーデの「最後の授業」というお話を国語の教科書で読んだ方も多いのではないでしょうか。

第二次世界大戦中のストラスブールの小学校でのこと。ある日、フランツ少年が遅刻して学校にいくと、いつもと違って教室は、静まり返っています。先生が、「フランス語での授業は今日までで、明日からは、占領軍の国語、ドイツ語で授業が行われる。」と説明したのです。4591098524少年は、教室の外の楽しそうにさえずっている鳩たちも、「明日からは、ドイツ語をしゃべらなければならないのか。」と思ったと言う筋だったように思います。そんな記憶があったので、当地を初めて訪れた際には、特別な感慨がありました。

こうした悲しい歴史を抱えているからこそ、アルザス州もストラスブール市も第二次世界大戦直後から、歴史上の悲劇が再発するのを防止するため、欧州の十字路としての地理上の特徴を逆に生かして、欧州統合の象徴である国際都市の構築を目指し、欧州議会や欧州評議会の誘致を積極的に推進し、これに成功したのです。

Logohfsp こうした国際都市化の一環が、1987年、当時の中曽根首相が先進国首脳会議(サミット会合)で提唱した、生命科学及び脳科学研究を支援する国際基金、HFSP(ヒューマン・フロンティア・サイエンス・プログラム)事務局の誘致でした。現在、ヴィナッカー事務局長以下約30名の職員を擁するHFSP推進機構が当地に設置されています。これまでのところ、歴代の事務局次長及びHFSPの運営にあたる評議委員会の会長は、いずれも日本人が勤めています。Strasbourg_24

ユネスコの「世界遺産」にも指定されているストラスブールの歴史は古く、1989年には建都二千年を祝っており、また、先に述べたような歴史的な経緯から、

ラテン文化とゲルマンの両文化が融合した独特な佇まいを見せています。旧市内の「小フランス」地域にある美しい木組みの家々は、ドイツのロマンチック街道の町並みを髣髴させますし、20081110_421031 ドイツではザワークラウトと呼ばれる郷土料理も、ここではシュークルートと呼ばれて、フランス風にアレンジされています。

「アルザスの人々は夕方5時まではゲルマン民族の勤勉さで働き、5時以降はラテン民族の陽気さで過ごす。」と言われます。こうした質の高い労働力、豊富な資源・エネルギー、豊かな自然環境、積極的な企業誘致が相俟って、この地方の経済活動は目覚しく、1人当りの輸出高、外国企業の進出数が国内第1位、国内総生産、1人当りの売上高が国内第2位との統計が得られています

Stras07 ストラスブールの旧市内には、当地で活版印刷事業を目論みながら頓挫したグーテンベルグの名を冠した広場があり、その中央には「そして光あれ」との旧約聖書の1節が刻まれた印刷物を手にした彼の銅像があります。私が訪れた時には、悪戯されてその上に定期市のポスターが貼られていましたが、住民のラテン気質を見たような気がしました。

| | コメント (0)

ハルデン・プロジェクト

 04_a_halden060130162_27888d 2002年の秋に、北欧ノルウェーのハルデンにあるOECD/ HRP(ハルデン炉計画)を訪問する機会を得ました。今日の我が国の原子力研究・開発の指導者達の多くがその若い日にハルデン炉施設(HBWR)に派遣され、ここにおいて研鑚を重ねて得られた知見がその後の我が国の原子力開発利用に活かされて来たことをしばしば耳にしていたことから、前々から機会があれば是非一度尋ねてみたいと望んでいただけに、ようやく念願が叶った次第です。

 Haldensijaintikartta ハルデンは、ノルウェーの首都オスロから南西約100kmに位置しており、スウェーデン国境に近く、オスロフィヨルドに面した、古い歴史を有する小さな町で大変風光明媚な場所です。この地は、歴史的にデンマーク王の領地であったことから、町の外れの小高い丘には、デンマーク王フレデリックの中世の城塞が残されており、瀟洒なハルデンの町並みを眺望できる市民の憩いの場所にもなっています。

  HBWRは、当初、ノルウェー国内の肥料工場の副産物である重水とオランダから供給された天然ウランを用いた、天然ウラン燃料、重水沸騰水型炉(25MWth)として、ハルデンの町中の製紙工場に隣接した岩山の中に設置されました。その特徴は、なんと言っても、原子炉建屋全体(容積4,500㎥)がすっぽり天然の岩屋の中に納まっていることでしょう(原子炉を覆う岩の厚さは50m)。Q214_hrp_model外から見た限りでは、とてもここに原子炉があるようには思えません。どこかの独裁者が聞いたら、大いに喜びそうな設計です。また、材料照射の目的のための利用に加え、プロセス蒸気の製造も行っており、隣接するパルプ工場に供給しています。

 Logo_ife ハルデン研究所の運営主体IFEInstitute for energyteknikk: エネルギー工学研究所)の前身、IFA (原子力研究所:Institute for atomenergi) は、1948年にオスロ近郊のシェラーで発足し、1954年にハルデン炉の設置を決定しています(19596月臨界)。Logo11958年には、HBWRを用いた国際共同照射研究であるOECD/HRPが発足しており、我が国は、1967年にその加盟を果たしました。現在、HBWRでは、20ヶ国の参加を得て共同で行っているOECD/HRPとこれと予算的には同規模の参加国機関との二国間契約に基づく照射研究を行なっています。OECD/HRP予算の約30%は、ホスト国のノルウェー政府がResearch Council経由で負担しているほどの力の入れようです。Large

  同研究所には、炉工学部門と人間工学部門の2部門があり、訪問当時全職員は約280名で、うち炉・照射施設の運転等に約80名が従事。この他、我が国を含め約20名の派遣研究者が駐在しています。

 OECD/HRPがこれまでに大きな成果を生み出し、その意義が認識され、参加国が拡大してきている理由として、Logo2漫然とプロジェクトを継続するのではなく、3年間に研究期間を限定し、研究計画についてのきめ細かい事前・中間・事後評価を行って、さらに継続するかどうかを判断してきたことが大きいのではないかとの印象を受けました。

  原子力発電国でもないノルウェーが積極的に国際プロジェクトを立ち上げ、40年以上にもわたってこれを継続し、世界の原子力安全に多大の貢献をして来ていることに深い感慨を覚えました。

 ところで、訪問時に在オスロ日本国大使のK氏と経済担当書記官Mさんとは、その昔、一緒に南太平洋を訪問したことがありました。出張計画の立案に際して、ハルデンからオスロに戻った際にお二人に表敬したい旨申し入れていましたところ、大使から、折角の機会なので、ハルデン研究所の所長以下関係者も含めて、夕食に公邸へどうぞとお招きを受けました。大使公邸は、有名なオリンピック・ジャンプ台の近くにあり、邸内には素敵な日本庭園もしつらえてあったりして、きっと外国人のお客様には印象深いものだったことでしょう。

 大使のご趣味がフィッシングだと聞き及んだハルデン研究所の日本人部長M氏は、大きな専用ボートを所有しているその道の大ベテラン。お二人はすっかり意気投合し、早速一緒に出かける約束をしていましたが、その後の釣果はどうなったのか、いささか気になるところです。

 甲斐 晶(エッセイスト)

 

| | コメント (0)

チェコ再訪

 2002年の夏、天皇皇后両陛下が中東欧をご訪問されましたが、お出かけになられたプラハ、ワルシャワ、ウィーン、ブタペストは、いずれも筆者が実際に住んだり、訪れたりしたことのある場所でしたから、個人的にも大いに関心がありました。

Ambf101b 初めてプラハを訪れたのは、今から20ほど前の夏休み、まだ共産政権下の時代で、家族で出かけました。国営旅行社のチェドックを通じて宿の手配をしたところ、「プラハの春」の際に反体制派の民衆が集まったことで有名な、街の中心部ヴァーツラフ広場(ご訪問に際し、両陛下が献花を行なわれました)にあるアンバサダーホテルを割り当てられました。値段は超一流でしたが、共産圏の常で、朝食などのメニューは貧しく、コーヒーも色の付いたお湯と言ったところで、とても飲めた代物ではありませんでした。

Dscf1119_m しかし、2001年の晩秋、自由化後初めて、チェコを再訪しましたが、同ホテルは見違える程の変りよう。値段の高いのは、相変わらずですが、英語もしっかり通じますし、サービスも格段と良くなっていました。部屋のバスには、ジャグジーまで備わっています。ヴァーツラフ広場の周りも、以前は殺風景だったのが、洒落た感じのお店が並ぶようになり、マクドナルドまでありました。

Karlovy20vary 日程が週末にかかっていたので、これを利用してチェコの有名な温泉保養地のひとつ、カルロヴィ・ヴァリ(ドイツ語名カールスバード)を訪れてみました。プラハから北西120kmほど離れたドイツ国境に近いボヘミア地方にあります。日本では入浴が主体であるのに対して、ヨーロッパでは温泉に行く目的は、もっぱら飲泉、すなわち温泉水を飲んで胃腸病などを治療することにあります。

Odbget カルロヴィ・ヴァリは、こうした飲泉保養地として、ヨーロッパにおいて中世から良く知られた有数の温泉地です。その存在を個人的に知ったのは、2001年9月のことでした。遅い夏休みでしたが、家内のひざの状態が思わしくないので、湯治を兼ねて草津まで出かけた時のこと。Pop10_p温泉街に入る手前にある道の駅の一角が「ベルツ記念館」となっていて、これに立ち寄ったところ、ベルツに大変造詣の深い沖津館長が草津温泉とベルツ博士の関係、博士の功績など、実に詳しく熱弁を振るって説明して下さいました。

ベルツ博士は、明治時代、東京医学校(のちの東京大学医学部)の外国人教師として招かれ、日本医学の近代化に大きく貢献した人物で、日本人女性、花と結婚。彼女を記念した日本庭園が草津の姉妹都市であるカルロヴィ・ヴァリにあることを耳にして、大いに好奇心をそそられました。Balz02

 カルロヴィ・ヴァリへは、運転手つきのガイドを雇い、日帰りで出かけました。ガイドは日本文化への関心が高い初老の婦人。道中、ビロード革命のこと、ハベル大統領の人となり、モラビア対ボヘミアの民族・文化論、自由化の功罪など興味深い話を沢山してくれ、片道2時間弱をあっという間に過ごすことができました。

カルロヴィ・ヴァリは、谷合にあり、小川の両側に遊歩道が設けられ、瀟洒な宿やお店が並んでいます。どことなく日本の温泉街に似た雰囲気もありますが、洒落たコロナーダと呼ばれる泉源があちこちにあり、 Lrg_10403793扁平で吸い口の付いた独特の形状の陶製カップを手にしたお客が競い合うように温泉の湯(4472℃)を飲んでいる姿が違います私も試してみましたが、生理食塩水並みの薄い塩味で、そう沢山は飲めそうにありません。しかし、湯治客は、サナトリウムと呼ばれる宿に投宿し、数週間、毎日一定量の飲泉を処方され、運動のために小川の畔の散歩が義務づけられるそうです。

共産党時代には、ソ連が最上の建物を占有し、フルシチョフなど歴代の首相が好んで訪れていたのが、時代が変わって、今では、ロシアマフィアが進出。高級ホテルなどを買い占め、温泉地を闊歩している姿にガイドは、眉をひそめていました。Hana_stone_garden

ベルツ・花の石庭をガイドは知らなかったのですが、案内所で尋ねるとすぐ判りました。温泉街の外れ、リッチモンドホテルの入口で、ひっそり辺りの草木の中にすっかり溶け込んでいました。

甲斐 晶(エッセイスト)

| | コメント (0)

インド事情

今回も、インド在住の日本の友人の招きで、デリー、ジャイプール、アグラのゴールデントライアングルを駆け抜けて来た時の見聞録です。

インドの交通事情について前回詳しく述べましたが(「インド交通事情」参照)、ひとつ書き漏らしたのは、スクーターに一家総勢4人が乗っているのが当たり前だと言うことです。父親が運転し、後部座席に横座りでサリー姿の奥さんが乗っているというのは、我々にとってもそう不思議な光景ではありませんが、よく見ると、両親の間にちょこんと小さな子供が座って、父親にしっかりしがみついているではありませんか。さらによく見ると、父親の前に、もう1人、大きな子供が乗っているのです。いやはや。Id0001

民族衣装のサリーで、女性がお腹を出していてもインド男性は、何も感じないようなのに、スカート姿には、好奇な視線を向けるので日本女性は服装に注意が必要です。サリー以外のインド女性の服装は、スカートではなく、足首までしっかり隠すパンジャビ(ズボン)スタイルだからです。

因みに、このパンジャビから英語のパジャマと言う言葉が出来たようです。05125この他、ヒンディー語から英語に入った言葉に、フルーツ・ポンチで代表される「パンチ」があります。ヒンディー語で「五」の意味のパンチからの派生語で、もと5種類の成分を混ぜ合せたことから来ているのです。

インドを旅していて、現地の人々との騙し騙されのやりとりが煩わしいと思っている間は、余り愉快なものではありませんが、これもインドとゲーム感覚で割り切れるようになれば、しめたものです。私達も、あれこれ興味深い体験をしました。

まずは、乗り物編。タクシーひとつ乗るにも一筋縄では、行きません。メーターが無い場合が多く、まずは、値段の交渉です。無事に交渉が成立しても安心は出来ません。行き先のホテルの名前を告げても、もっと良いところがあると、リベートが貰える自分の知り合いのところへ連れて行こうとするので、喧嘩腰に断らねばなりません。0118

ジャイプールの名所、アンバー城を訪れた時のことです。山上の城まで、象かジープで往復するのですが、麓の駐車場に我々の車が着くやいなや、英語を操れる客引きが寄ってきます。値段を聞くと象なら400ルピーでジープなら100ルピーとの返事。どっちを勧めるか尋ねるとジープだとの答え。お前がジープを持っているからだろうと言うと、ニヤリと薄笑い。図星だったのです。

城の見物が終わって、駐車場への帰路、頼みもしないのに土産物屋に連れ込まれます。見るのは只だからと、しつこく勧めるのを断るのにまた一苦労。通常の神経では、参ってしまいます。

次は、見学編。ここでも油断は出来ません。車から降りて、入口に向かう間中、アマゾン川に落ちた子牛に群がるピラニアのように、次々に押し寄せて来る土産物売りや自称「公式ガイド」を振り切ら無ければなりません。無事に中に入っても、気が許せません。ガードとおぼしき人物が親切に説明を始めたら要注意。後で、たっぷりガイド料をせびられることもあるのです。

タージマハールで廟に入るには、裸足になる必要があります。雨上がりだったので、ためらっていると、現地人がオーバーシューズを貸してくれました。幾らだと尋ねると、”As you wish.”と言うので、10ルピー渡したのですが、不満顔。これでは、”As you wish.”では、ありません。Img0399b774zik8zj

公衆トイレで、お金をせびられるのも不愉快です。ここは、公共施設だろうと言うと、いや、プライベートなトイレだと言い張ります。見るからにおかしいので、じゃあ、出るところに出ようと強く言うと、なにやらもごもご口ごもっておしまい。全てが、ダメもと精神のようです。

これは、インド在住の友人の経験なのですが、ある時、タージマハールを訪れると、生憎と閉まっています。思案に暮れていると、「旦那、私に付いて来れば、見せてあげるよ。」とインド人が接近。

狭い路地をあちこち通り抜けながら、連れて行かれたのは、何とタージマハールが裏から見える地点でした。文句を言うと、「タージマハールは、左右対称なので、どこから見ても同じ。」との返事には、開いた口が塞がらなかったそうです。

甲斐 晶(エッセイスト)

| | コメント (0)