ウィーン

世界に続く道

Img_5313 昨年(2019年)7月に道半ばにして急逝された、天野之弥前IAEA(国際原子力機関)事務局長の書かれた回顧録、「世界に続く道」(かまくら春秋社)を興味深く読みました。天野さんとは、仕事上の関係もあって大変親しくさせて戴きました。

天野さんと最初にお目にかかったのは、駐日パキスタン大使公邸でのディナー。たまたま私ども夫婦と天野さんご夫妻の席が隣同士になり、会話が弾みました。回顧録によれば、当時、お二人はご結婚後間もかったようで、天野さんはマルセイユ総領事時代の半ばに幸加夫人と結婚され、外務本省に戻って軍備管理・科学審議官組織の次席審議官に就任されたばかりでした。その後、私は、核不拡散や保障措置、核セキュリティ分野の業務に従事することとなり、軍縮・核不拡散をライフワークにされていた天野さんと業務上深い関係となった次第です。

20051209-amano-vic-62sagsir すなわち、天野さんの前任者であるエルバラダイ事務局長の保障措置問題に関する諮問機関、次いで核セキュリティ問題に関する諮問機関のメンバーに任命され、しばしばウィーンでの会議に出向くこととなり、当時ウィーン駐在でIAEA担当大使であった天野さんに、会議の模様をご報告したり、会議の合間に大使公邸での会食にお招き戴いたりしました。(写真左:2005年12月天野大使主催のレセプションで。大使の右は幸加夫人。)

回顧録を読んで強い印象を受けたのは、この回顧録が、「私の人生に起こった出来事をありのままに記すことを目的とした」とはしがきに書いておられるように、ご自分の身に起こったことについて良いことも悪いことも、名誉なことも不名誉なことも、赤裸々に綴っておられることです。不遇だった子供時代のことや人生における失敗簞なども包み隠さずありのままに書いておられます。

回顧録は、生い立ちに始まって、社会人になるまでの青少年期の出来事、そして外務省に入ってからご自分のライフワークを見出すまでの外交官生活の遍歴が綴られ、ついには、ウィーンの国際機関日本政府代表部大使に着任し、熾烈なIAEA事務局長選挙に打って出て勝利するところで終わっています。事務局長選の顛末の詳細な記述は回顧録全体の5分の1を占めており、天野さんの人生における重さを示しています。惜しむらくは、事務局長に就任してからの出来事もお書き戴いていたらなあと思わされました。

Simg_1354r 回顧録を読んで初めて知ったのは、ウィーン駐在の国際機関日本政府代表部大使に着任することになった時から、既に、エルバラダイ事務局長の後任を目指して、国を挙げて事務局長選の準備を周到に進め、見事に制したことです。(写真左:2017年10月ホテルオークラでの講演会で)

事務局長としての天野さんの功績は、多岐にわたります。まず、ライフワークの核不拡散の分野では、イランと主要国との核合意の成立と履行に主要な役割を果たされました。

さらに、IAEAの使命の3本柱である、保障措置・安全確保・平和利用の促進のうち、開発途上国における農業・医療・工業分野での原子力技術の利用に力を注がれました。アイゼンハワー米国大統領の提唱によって設立された当時から使用されてきたIAEAのモットー”Atoms for Peace”(平和のための原子力)に”Development”(開発)を加え、” Atoms for Peace and Development”(平和と開発のための原子力)としたのもその表れです。Renualbanner1000x250 また、陳腐化したIAEAサイベルスドルフ原子力応用研究所の近代化プロジェクトReNuALを立ち上げ、加盟国からの特別拠出を得て、新たな装置や研究棟群の設置を成し遂げました。そして、故天野事務局長の功績を記念して「天野之弥研究棟」(The Yukiya Amano Laboratories)と命名された新研究棟の開所式が本年6月に行われたのです。(写真上:サイベルスドルフ原子力応用研究所全景。出典:IAEA

天野さんとの個人的会話の中でお聞きしたことが回顧録でも言及されていて、その背景などを知ったことが幾つかありました。例えばある時、「私は、理科が好きな少年でした」と言われたことがあります。回顧録で子供の頃に野山や海で遊んだ記述に、虫や草花の名前が豊富に出てくるのに気づきました。理科好き少年の片鱗でしょう。そして、生化学を目指して東大の理科Ⅱ類に入学するのですが、数学で挫折。今度は外交官を目指して文科Ⅰ類に入り直されたというのは初耳でした。

Magochatei_2 また、前述のパキスタン大使公邸での会話で、家内が天野夫人から「主人は鯵が大好物」と伺って、その頃仕入れたばかりの「アジ(味)な丼」(鯵の干物を炊き込みご飯風にした上に鯵のタタキを乗せた2種類の鯵が楽しめる特製の丼)の話題になり、「きっと主人も喜ぶ」との言葉に、そのレシピを後日夫人宛にお送りしたことがありました。(写真上:アジな丼。出典:おいしんぐ!

回顧録の湯河原(天野さんの生地)の項で、「戦争直後とはいえ、よく『アジが安いよ。』という威勢のいい掛け声とともに、オート三輪でアジを売りにきた。バケツ一杯100円だった。子供のころ食べたものは忘れられないと言うが、私が今でも一番好きな食べ物はアジフライである。」との文章を見て、なるほどと思った次第でした。

甲斐 晶(エッセイスト)

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ウィーンの水道水

 海外ではたとえ水道水であろうと生水は飲むべからずとのアドバイスが旅行ガイドブックに良く出て来ます。でもウィーンの水道水ならご安心下さい。遙かかなたのオーストリア・アルプスの水源地から引いてきた天然のミネラル・ウォーターで、その美味しさには定評があります。鯖田豊之氏の書かれた「都市はいかにつくられたか」(朝日新聞社、1988年)にウィーンの水道整備の事情が詳しく述べられています。

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 ウィーンで上水道が整備され始めたのは、1841年の皇帝フエルディナンド水道でした。これはドナウ運河の伏流水を蒸気機関でくみあげて集水池に集め、これを再度蒸気機関によって高台の配水池に圧力送水。配水池からは自然流下でしたが、ウィーンにとって初の水圧のある水道の誕生で、一部では各戸給水も行われました。

 しかし、伏流水を濾過せずに配水したことや集水池が完全には被覆されていなかったことから、水道の拡張とともにコレラや腸チフスの流行が却ってひどくなり、早くも1861年には別の水源を求める声が出始めました。そこで注目されたのが、ウィーンの南西約100kmにあるオーストリア・アルプスでした。

Kaiserbrunn2697462ラックスとシユネーベルグにはさまれたシュヴァルツァ渓谷のカイザーブルン(「皇帝の泉」の意)一帯は良質な泉水がたっぷり湧き出している上にあたりは皇帝領でしたので、フランツ・ヨーゼフ一世が無償供与を申し出たのです。

 これが現在でも利用されているウィーンの第一高地泉水水道で、1869年から工事が開始されました。水源地とウィーンの標高差280mを利用した自然流下による導水でしたが、途中、丘あり谷ありの地形が介在するため、岩をトンネルで穿つとともに、連通管の原理によるサイフォン橋や水道橋などの工夫によって高さ2m、幅1.6mの石造導管が延々とウィーンまで敷設されたのです(総延長120km)。18931024日、シュヴァルツェン広場の噴水とともにフランツ・ヨーゼフ一世によって開通式が行われ、第一高地泉水水道の供用が開始。ウィーンの各戸給水が普及し、水系伝染病の流行は治まりました。今でも水源地のカイザーブルンとシュヴァルツェン広場の噴水には立派な記念碑が存在しています。Hochstrahlbrunnen
 しかし、ウィーン市街の拡大に伴い、第一高地泉水水道だけでは市の水需要を全て満たすことは出来なくなります。新たな水源探しに迫られた当局はラックス、シュネーベルグの西方50kmの地点において、同様に良質で豊富な泉水の存在を突きとめました。これが第二高地泉水水道計画です。第一高地泉水水道が水源地から東に向かうのに対し、第二高地泉水水道はまず西に迂回してから北東方向へ向かう、延々200km近い水道工事が1900年から1910年にかけて進められました。水源地とウィーンの標高差は361mで、第一高地泉水水道と同様にトンネル、サイフォン橋、水道橋が敷設されましたが、全部が石造導管ではなく、一部にコンクリート管が使用されています。

Aquaedukt_moedlingウィーンは通常これら二つの泉水水道で水需要を賄って来ていますが、これほど遠距離の導水はヨーロッパでも余り見られません。また、普通は泉水、地下水に多い鉄、マンガン、石灰分もさほどではなく、第二次大戦に敗れるまではずっと塩素消毒なしで、ウィーンの水道水はどこよりも美味しいとの評判を得ていました。

しかし、第二次大戦後にウィーンを占領した連合国軍、とりわけアメリカ軍の強い要求で折角の泉水水道を塩素消毒せざるを得なくなりました。同様な立場に置かれたミュンヘンが独立回復後は塩素消毒を廃止したのに対して、ウィーンは今なお塩素消毒続行中です。このあたり、一度決めるとなかなか方向転換し難いウィーン気質の表れなのでしょうか。ただ、注入量はごくわずかなので塩素が気になることは余りありません。むしろ、折角のアルプスの雪解け水がIAEAの建物内ではなんとなく青臭い味がするのは、残念至極です。水源が別であるとの話も聞きませんので、給配水設備に問題があるのでしょうか。

 

 

 

甲斐 晶(エッセイスト)

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オイゲン公の冬の宮殿

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昨年は、名将オイゲン公(16631736)の生誕350周年の年でした。彼は、オスマン・トルコ軍との戦いで名を挙げ、その優れた軍事的才能によって、ついには帝国軍の総司令官となるとともに、宮廷軍事会議議長、枢密顧問官などを歴任し、オーストリアで最も政治的影響力を有する人物となりました。多くの富と権力を得た彼は、いくつかの豪華な宮殿を建てましたが、その1つが彼の夏の離宮ベルベデーレ宮で、今日クリムトの「接吻」などの名画を展示する美術館として有名です。

一方、彼が住居兼接客用として使用した冬の宮殿の方は、旧市内ケルントナー通りの脇を入ったHimmelpfortgasse 8にあります。彼の死後、莫大な遺産を相続する子がおらず、姪の所有となります。ところが、彼女は1738年オイゲン公の財産を全てオークションに出し、結局、マリア・テレジアがこの冬の宮殿を宮廷の用のために購入。1848年まで彼女の所有となっていたのです。その後長らく財務省が使用していましたが、2007年から改装が開始され、オイゲン公の350回目の誕生日である昨年1018日に一般公開されました。そして、本年4月27日まで(ちなみに彼の命日は4月21日です)生誕350年を記念する特別展「サヴォイのオイゲン公-350年」が開催されました

Winterpalace_3昨年の晩秋にウィーンを訪問した際、知人からこのことを耳にして、私もこの冬の宮殿と特別展を見に出かけてみました。冬の宮殿は、オイゲン公の依頼によって、バロック建築家ヨハン·ベルンハルト·フィッシャー·フォン·エルラッハが1695年から1700年にかけて建設。その後、ベルベデーレ宮を設計した建築家ヨハン·ルーカス·フォン·ヒルデブラントによって増築されたものです。
 
新装なった冬の宮殿は純白の外観で瀟洒な佇まい。大きく開いた戸口から入り、右手の大階段を進むと正面の踊り場の壁にオイゲン公と覚しきレリーフとヘラクレスの像が我々を迎えてくれます。この階段を上りきった2階が展示会場です。

Entrance_3展示は、彼の生涯、その家柄、宮殿の建築、軍事上の功績などに焦点を当てています。また、展示の説明は、ドイツ語と英語の両方で書かれていましたが、30年前に初めてウィーンに出張したときには、美術館や博物館の説明は全てドイツ語だけだったことを思うと、このあたりは観光立国オーストリアの面目躍如というところでしょうか。

オイゲン公はイタリア起源のフランス貴族の息子としてパリで誕生。長男ではなかったため家督を継げず、ほとんど無一文でウィーンに辿り着いて、ハプスブルグ宮廷入りを果たします。当時、フランスと敵対するオーストリアに来ざるを得なかったのには、それなりの事情があったのです。

まず、彼は、1683年トルコ軍による第2次ウィーン包囲に際し、ロートリンゲン公カールの指揮下の皇帝軍に入って一将校として参戦。その後、武勲を重ねて目覚ましい昇進をし、1697年のゼンタの戦いでは最高指揮官として勝利を収めます。その後、カルロヴィッツの和約(1699)によってオーストリアがハンガリー全土を獲得して戦争が終結するまでに、有力な将軍の1人となり、ついには帝国軍の総司令官にまで上り詰めたのです。

Schlachtenbildersaal冬の宮殿には豪華な部屋が数多くあります。すなわち、ルイ・ドリニーが描いた天井フレスコ画がある青の間、かつての謁見室で皇帝ヨーゼフ1世、カール6世、それに愛馬に跨るオイゲン公の等身大の肖像画で飾られた赤の間、金色に輝く見事な金色の間などなど。中でも圧巻なのはイグナス・ジャック・パロセルによって壁一面に描かれたトルコ軍との戦闘の場面です。ドナウ河畔に展開する双方の多数の軍団を克明に描いた大スペクタクル画によって彼の武勲を偲ぶことが出来ます。

ところで、ここには江戸時代のものとされる総漆の和戸棚が展示されていましたが、これはトリノ市からの借り物のようで、残念ながらオイゲン公とは無関係のものでした。

特別展終了後はこの宮殿もベルベデーレ宮同様に美術館として利用され、オーストリア内外の現代芸術家の作品が展示されることになっており、新たな観光スポットとなることが期待されます。

斐 晶(エッセイスト)

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ウィーンのドイツ語

 ドイツ語は、ドイツやオーストリアの国語であるばかりでなく、スイス、リヒテンシュタイン及びルクセンブルグにおいて公用語として用いられています。しかしながら、それぞれの地域で独自の発展を遂げて来ていることから、微妙な相違が見られます。Shaw_5

  「英国と米国は共通の言語で隔てられた二つの国である。」とは、劇作家バーナード・ショーの有名な言葉です。英語と米語ほどの相違は無いにしても、ドイツのドイツ語とウィーン(オーストリア)のドイツ語では、用語や発音などが大きく異なる点があり、これを知らずにいて戸惑うことも多々あります。(画像:http://manierafiorista.blog67.fc2.com/blog-entry-132.html

 

 Fisolen_imagelarge_3 ある時、ウィーンから車でミュンヘンを訪れた際の出来事です。物の本によれば「標準語」のドイツ語は、Hochdeutschと呼ばれるドイツ中・南部地方の言葉であって、ミュンヘンのあるバイエルン地方やオーストリアのドイツ語は同じ「バイエルン・オーストリア方言」に属するとされています。 そこで、八百屋でインゲン豆を買おうとして、いつもウィーンで使っている「Fisolen」を下さいと言うのですが、お店の人は、ぽかんとしています。後で分かったのですが、正統的なドイツ語では「grüne Bohnen」と言うのです。通じなかった訳です。(画像:http://www.bio-austria.at/layout/set/popup/media/images/fisolen

 ことほど左様に、食べ物関係の用語の多くがウィーンのドイツ語と標準ドイツ語では全く違った単語を用います。例えばErdapfel(ジャガイモ)はKartoffelのことですし、Karfiol(カリフラワー)はBlumenkohlMarille(あんず)はAprikoseParadeiser(トマト)はTomatenと言った具合です。

 Rimg0029_3 新酒のワインを飲ませる居酒屋のことをウィーンではHeurigerと言います。これは、「今年」を意味する副詞「heuer」(dieses Jahr)から派生した言葉で、標準ドイツ語なら「Buschenschank」と言うところでしょう。(ちなみに、新ジャガのことも「Heurige」(diesjährige Kartoffel)と言います。)この居酒屋での用語にも、ウィーン独特の表現が見られます。ウィーンも一応、几帳面とされるドイツ文化圏に属するところから、Heurigerのワイングラスの口元には、必ず横方向に白線の目盛りが入っていて、ちゃんと8分の1リットル(125cc)の分量があることの目安となっています。そこで、ワインを注文する際、本来はAchtelliter8分の1リットルと言うべきところを、ウィーンの居酒屋ではAchterlと言わなければなりません。4分の1リットルのジョッキなら、Vierterlとなります。(画像:http://motoobeyond.blogspot.co.at/2010/05/blog-post_07.html

また、ウィーン独特の風習として新酒のワインを炭酸水で割って飲みますが、これを「gespritzt」と称します。標準ドイツ語には無い表現で、ちゃんと言おうとすると「Wein mit Mineralwasser」とでもなりましょうか。りんごジュースなども炭酸割とするのが普通で、甘味が控えめとなり炭酸のピリピリ感もあって、個人的には大好きです。この場合には、「Apfelsaft gespritztと言って注文します。

日常の挨拶では、「Guten MorgenGuten TagGuten Abend」と時間によって使い分けるところを、「Grüß Gott」ひとつで済ませてしまいます。一方、別れ際には正統的な「Auf Wiedersehen」の代わりに、「Servus」と言ったりします。これは、出会った際の挨拶でもあります。

発音においても相違が見られます。例えば、あなた(Sie)は本来ならジィー(有声音)ですが、オーストリアでは、無声音のシィーとなります。従って6(sechs)を英語のsexと同じように発音するので、初めはちょっと戸惑います。他の有声音(b/d/g/w)もウィーンでは無声音(p/t/k/v)のように聞こえます。

Imagescalwfdzj_4 また、オーストリアのドイツ語は独特の抑揚があり、歯切れの良い標準ドイツ語に対して、どことなく関西弁や物憂げな米国の南部なまり(元米国大統領のカーター及びクリントン両氏の英語が典型)のように感じます。試しにオーストリア国営放送(ORFhttp://radio.orf.at/)を生で聴いてみて下さい。(画像:http://bar.wikipedia.org/wiki/Datei:ORF_logo.svg

甲斐 晶(エッセイスト)

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ウィーンの森の嫌われ者

 1244478808919東京の23区もの広さがあるウィーンの森は、ウィーン子達の憩いの場として大いに親しまれています。季節を問わず、休日ともなると、四通八達した小径を散歩する市民で賑わいます。しかし、春先や秋口にウィーンの森でハイキングを楽しもうとするなら、この森に棲む真ダニ(Zecken)に注意が必要です。これに咬まれると脳炎などを発症する可能性があるからで十分な対策を要します。

S_zecken_map オーストリアのみならず、近隣のドイツ、ハンガリー、チェコ、スロバキア、スロベニア、さらにはポーランド、バルト3国などの中・東欧諸国では、森や草むらの真ダニがウイルス性脳炎を媒介しており、これに感染する恐れがあるのです。この脳炎には効果的な治療法が無く、罹患すると麻痺が残ったり、場合によっては命を落としたりすることがあります。幸いにして極めて効果的なワクチンがあるので、事前に予防接種を受けることと、ダニに咬まれないなどの対策が有効です。

ダニ媒介性の脳炎は日本脳炎と同じフラビウイルス属のウイルスによって引き起こされますが、日本脳炎と違って蚊ではなく真ダニがウイルスを媒介します。また、ヤギも感受性を有し、乳腺中で増殖したウイルスが乳汁中に移行し、これを生で飲用して罹患する例もあります。Fsme_h3

世界のダニ媒介性脳炎の患者は、毎年6000人の発生が報告され、多い年には1万人前後の感染が報告されています。主なものには、ロシア春夏脳炎や中部ヨーロッパ脳炎(初夏髄膜脳炎[FMSE]とも称される)などがあり、後者が中・東欧諸国に分布します。ロシア春夏脳炎は我が国でも10年ほど前に北海道で罹患例が報告されて、道南地域のイヌにウイルスの分布が判明しました。

IAEA職員に採用されると採用研修の一環として、オーストリアでの生活上必要な医療知識を学び、必ずFMSEのことも触れられます。私の時には、講師のインド人医師が、問題のウイルスは、日本脳炎が起源でロシアを経由して中・東欧に伝来したと言っていましたが、その真偽のほどはDNAを調べればすぐに分かることでしょう。Iv122_links

FMSEに罹患すると7~14日の潜伏期を経て、二期にわたる症状を呈します。第一期はインフルエンザのような発熱、頭痛、筋肉痛が1週間程度続き(約半数では第一期が認められない場合がある)、解熱後2~3日間で症状が消えて、第二期に移行。脳炎、髄膜脳炎、髄膜炎の形を取って、痙攣、眩暈、知覚異常などの中枢神経系症状を呈します。麻痺が3~23%で認められ死亡率は1~5%とされています。3560%の頻度で知覚障害、平衡感覚障害、難聴などの後遺症が残り、運動麻痺で車椅子生活を余儀なくされる場合もあります。

さて予防策ですが、まずはFMSEワクチンの接種です。2~4週間間隔で2回接種し、1年後に3回目の追加接種を行います。これで基礎免疫が獲得され(免疫効果99.6%と言われている)、最低3年間の持続効果があるので、以降は3年ごとに追加接種をすることになります。

50390_m3w468h320q75v50006 ただし、全ての真ダニがウイルスを有するわけではなく(10005000匹に1匹と言われている)、また、ウイルスに感染した場合でも30%程度の発症率ですから、FMSEの汚染地域で真ダニに咬まれてもパニックの必要はありません。真ダニは人の体に移ると、頭や首、肩、脇の下など血管が集まっていて皮膚の薄いところを狙って血を吸います。私の秘書の場合も咬まれたことに全く気付かず、シャワーを浴びていて初めて脇の下を咬まれていることを発見。慌てて除去したそうです。

Zeckweg 真ダニに咬まれたら、反時計回しにネジって除去するのが肝要で、呉々も無理に引きちぎって頭部が皮膚内に残らないようにと(肉腫を引き起こすとか)巷間では言われており、専用の除去ピンセットが市販されています。

日本人でこのFMSE にオーストリアで罹患し、命を落とした例も報告されています。2001年6月にオーストリアに住む娘さんを訪ねた61歳の日本人男性が田舎でダニに咬まれ、髄膜炎による四肢麻痺、意識障害を生じ、右大脳半球の出血にて死亡しました。真ダニは決して侮れないのです。

甲斐 晶 (エッセイスト

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第三の男

第二次世界大戦後のウィーンを舞台にした映画、「第三の男」は、私にとって単にウィーンが好きだからと言う以上に特別な意味のある作品です。

Greene40年前に英国留学をした際に同じ奨学金制度で一緒だった友人が、この映画の原作者G・グリーンを研究していて、私の留学先がロンドンの南にある海岸の町ブライトンであることを言うと、彼の作品に「ブライトン・ロック」があるので良く知っているとのことでした。一体どんな作品だろうかと思って、それが収められた彼の全集を読んだことがありましたが、そこには、「第三の男」も入っていたのです。Bpbookcoverimage

廃墟となったウィーンに、親友ハリー・ライムを訪ねてきたアメリカ人作家ホリー・マーチンは、いきなりハリーの葬列に遭遇します。アパートの前で車にひかれたとの話にホリーは釈然とせず、ハリーの愛人アンナやアパートの管理人などに彼のことを聞き回りますが、謎は深まるばかり。そんな彼に英国占領軍の少佐キャラウェーは、ハリーが病院かPdvd_1066 ら横流ししたペニシリンを水で薄めたものを闇取引し、莫大な利益を上げており、このために多数の犠牲者が出ていると告げます。アンナのアパートからの帰路、ホリーは闇の中に浮かび上がるハリーの姿を目撃。彼は生きていたのです。結局、彼らは、プラター公園の観覧車の中で再会しますが、Pdvd_1077_2 自首を勧めるホリーをハリーは拒否。ホリーは、ハリーの逮捕への協力を決意し、彼をおびき寄せることに成功します。Pdvd_0366 罠だと気付いたハリーは、地下下水道へ逃げ込みますが、逃げ切れず、ホリーに自分を撃つように合図。ついに彼に撃たれます。中央墓地での葬式が終わり、アンナが墓地の並木道を無表情で立ち去るのです。

Dritmanさて、映画「第三の男」にゆかりの地を徒歩で辿る観光ツアーに参加したことがあります。「懐中電灯を持参し、汚れても良い服装で、滑りにくい靴を履いてくるように。」との指示が事前になされます。参加者は、まず、指定の場所に集合後、まず、ドナウ運河沿いの地下鉄駅に向かいます。駅の脇を流れるドナウ運河への階段を下りると、あの有名な地下下水道の一部が運河に流れ込んでおり、これを見学することが出来ます。照明もなく、足下も危ないので、前出のような注意書きとなる次第です。Amhof

次いで、冒頭の葬列の場面であるパラビチーニ宮殿(ハリーの住居)、ホリーに見つかったハリーが忽然と姿を消した広告塔(内部が地下下水道に通ずる螺旋階段となっている)の場面のアム・ホフ(アンナのアパート前との想定)、そして、アンナのアパートの場面となった、シューベルトゆかりの「3人姉妹の館」などを歩いて回ります。その間に、ガイドが次のような映画撮影にまつわる逸話を紹介するのです。3manncover2

        ハリー役のオーソンウェルズは潔癖性で、汚水の流れる下水道やネズミが大嫌い。毎日オーデコロンをたっぷり使っていた。

        ホリーがハリーを待ち伏せる場面で風船売りと愛らしい子供が現れて、緊張感を一瞬和らげますが、この子役は全くの素人で、お菓子を上げるからと釣って出演させた。

        現地ロケは限定的で、ほとんどの場面がロンドンでのセットで撮影された。ハリーがホリーに撃たれ、地上に逃げようとして、格子状の鉄枠の蓋を掴み、彼の指が鉄枠の先に突き出Halbig るシーンがあるが、本物の鉄枠は厚すぎて、掴んでもとても指は出ない。

        ホリーが待ち合わせの場としたカフェー・モーツアルトは、爆撃で破壊していたので、カプチーナ教会の広場にセットを作った。

映画に登場する立派な地下下水道は、実際にはカール広場の下にあります。映画ではウィーン市内の地下を下水道が四通八達している印象を与えていますが、実は同じ場所を何度も違った角度から撮っているのです。私もウィーン市の施設開放日に整理券を入手し、実際にこの目でその様子を確認したことがあります。

甲斐 晶(エッセイスト)

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シェーンブルン動物園の人気者

 ユネスコの世界文化遺産にも指定されているAut04 シェーンブルン宮殿は、ウィーンに行かれた方ならきっと訪れたことがおありでしょう。ハプスブルク家の夏の離宮として、ヴェルサイユを模して造られたこの宮殿に入った見学者は、マリア・テレジアとその子供達が暮らした部屋、東洋趣味の漆の間や陶器の間、モーツァルトが御前演奏をした部屋、ウィーンを占領したナポレオンゆかりの部屋、皇帝フランツ=ヨーゼフや皇妃エリザベートが生活した部屋、華やかな舞踏会などが開かれた大広間<鏡の間>、ハプスブルグ朝最後の皇帝カール1世が退位宣言に署名した部屋などを見て回ります。現在、1441室のうち約40室が一般に公開されていますが、残りは、公務員宿舎などとして今でも使われているとか。私の知人にも何人かがこの宮殿の一角を借りて住んだことがあります。

同宮殿の庭は、公園として一般市民に開放されており、また、その一部には、馬車博物館、温室植物園、日本庭園などが設けられているほか、動物園もあって、市民の人気を集めています。

このシェーンブルン動物園は、世界最初の動物園として歴史が古く、女帝マリア・テレジアの夫君がオランダ人宮廷造園師フォン・シュテックホーフェンらに命じて造らせ、1752年7月31日に完成し、昨年、開園250周年を迎えたばかりです。

 357pxgiraffecloseupheadウィーンに住んでいた頃、戸外に出ることが制限されがちな長い冬には、我が家でも子供たちの溜まったエネルギーの発散にと、しばしば訪ねてみました。こんな極寒の地に良くもまあ熱帯の動物たちを集めたものと、象やキリンやカバに同情して見たり、鷲などの猛禽類に生きたウサギを餌として与えている発想の凄さ(日本でなら、情操教育上悪影響があると非難ごうごうのことでしょう)に驚いたり、防寒のため密閉空間で飼育されていることから猛烈な動物たちの排泄物などの臭いに閉口したことなどが思い起こされます。

 この動物園には、その長い歴史の中で、色々な珍しい動物たちがやって来ました。1828年には、キリンが初めてウィーンにお目見えし、この出来事が当時のウィーンのファッションや社会に大きな影響を与えたと言います。すなわち、多くの衣料品や宝飾品などの日用品に「ア・ラ・ジラーフ(キリン風)」 の名称が付けられ、大衆に大受けだったようです。「何でもキリン風」と題する演劇まで大成功だったとか。

 312231つい最近まで人気の中心は、オランウータンのNonjaでした。1976年ウィーン生まれの雌で、飼育係に育てられたせいか、人間を余り怖がりません。その特技は、何とお絵描き。彼女の集中力は、当初8分程度だったのが今や2060分にも増大。具象画ではなく、筆に絵の具を付け、画面をピチャピチャやって描く抽象画しか出来ませんが、そのなかなかの色遣いに感心させられます。数年前にロスアンジェルスのホテルで彼女の作品のオークションが行われたりしました。20万円もの高値が付くものもあるようです。売却利益は、オランウータンの保護に用いられています。

 Panda01 さて、現在、シェーンブルン動物園の人気をさらっているのは、20033月にお目見えした2頭のパンダ、雌の「ヤンヤン」と雄の「ロンフイ」です。公開直後の日曜日には、25千人もの入場者が押しかけるほどでした。

パンダは、中国国内にももはや1000頭ほどしか生息していない希少動物のため、最近中国は以前のように親善友好の印にパンダを相手国に贈与することは、中止しています。シェーンブルンの2頭も学術研究用に10年間の期限付きで貸与されたもので、ねらいは貸与期間中に繁殖研究を成功させ、2世の誕生を図ることにあるようです。Panda3_big

さて、ちゃんとした中国名のあるこの2頭に、地元のラジオ局がウィーンらしい愛称を募集しました。その結果、6595通の応募の中から選ばれたのが、「シッシィ」と「フランツル」。ご存知のように、これは、悲劇の皇妃エリザベートとその夫君皇帝フランツ=ヨーゼフの愛称なのですが、ご両人の夫婦関係が冷たいものだったことを思うと、2世パンダ誕生計画の方は大丈夫かと危ぶまれましたが、2007年8月に富龍(フーロン)が無事誕生しました。

甲斐 晶(エッセイスト)

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ウィーンの市電

Wiennatram ウィーンを象徴するものは、シュテファン寺院を始めとして、数多くありますが、ウィーンの市電もそのひとつでしょう。NHKの名曲アルバムのシーンなどで、二頭立ての観光馬車フィアカー同様、良く出て来る被写体です。

1 その車体は、赤と白のツートーンカラーで、ウィーン市の市旗と同じ配色です。(ちなみにオーストリア国旗の色は、上から順に赤白赤となっています。これは十字軍遠征でオーストリア大公レオポルトⅤ世がアッコンの戦いで奮戦し、甲冑の上に着用していた白い衣服が血染めになり、ベルトのところだけ白く残ったのをモチーフにしたものだという説があります。)

Kurzparkzone201 市電に限らず、ウィーン市の公共交通機関は全て改札が無く、省力化が図られています。各駅の改札口に改札要員を配したり、自動改札機を設置したりするよりも、検札で無法者を取り締まることにより、無賃乗車を抑制したほうが、安上がりで合理的だとの計算のようです。その背景には、大多数は正直者であり、システムを悪用する輩は少ないとの性善説に立っているのでしょう。(このオーナー(名誉:honor)システムによる省力化は、オーストリアの随所に見かけられます。短時間に限って駐車が許される市内の指定区域(Kurzparkzone)では、利用者がタバコ屋などで指定の駐車チケットを購入し、そこに駐車開始日時を自ら記入し、車外から見易い所に掲示しておくシステムです。許容時間を過ぎても駐車しているのが見つかれば、罰金というわけで、パーキングメータを設置する費用が節約できるのです。その場合、運転手達が正直に駐車開始時刻を記入するとの前提に立っており、許容時間を超えて駐車できるようサバを読んで時刻を先付けしたりする事は無いという建前なのでしょう。)

U6_sperre 地下鉄や近郊電車の駅では、ホームへの入り口に出入り自由のゲートがあり、そこに刻印機があって、乗客が切符を差し込むと、駅の略号と入場時刻が印刷される仕組みです(バスや市電の場合には、車内の柱に設けられた刻印機を利用します)。一定時間内であれば、一方向どこまで行こうが、また、市電、市バス、地下鉄、近郊電車に何度乗換えても構いません。

Planquchaos 改札が無い代わりに厳しい検札が行われ、違反者には高額な罰金が課せられます。知らなかった、買い忘れたなどの言い訳は一切通用しません。ドイツ語が分からない振りをしても駄目で、車内には、独・英・仏語で「無賃乗車には、罰金をもって処する」旨、表示されています。

ある日の朝のこと、私の娘が登校に際し、定期券を家に置き忘れたところ、運悪く検札に引っかかってしまいました。友人がしきりに事情を説明して、助け舟を出してくれたのですが駄目で、止む無く大枚を支払う羽目になったことがありました。Entwerter

ただし、刻印を忘れた場合には、大目に見てくれるようで、有効な乗車券を所持していれば、見逃してくれるそうです。また、土・日曜日や夜間は検札も手薄です。こうしたことを悪用して、無賃乗車で捕まる確率と罰金額の積(言わば罰金の期待値)を計算し、これが一回ごとの乗車料金を下回ることから、只乗りするのが最も経済的と豪語する輩が居りましたが、これは如何なものかと思われます。

2806718663_ab5c6c1e50 市電に限らず、市バス、地下鉄などウィーンの公共交通機関の車内アナウンスは、どういうわけか、全ての路線で10年1日の如く、同じ男性の声です。あまり抑揚の無い、感情を抑えたトーンで、次の駅の名前や乗換え案内を実に淡々と流します。長い旅行から戻って、久しぶりに市電などに乗り、あのアナウンスに接すると、「いやあ、ウィーンに帰ってきたなあ。」とほっとするウィーン在住の日本人も少なくないようです。ただ、聞き慣れると懐かしいこのアナウンスも、ウィーンに赴任した早々はちっとも聞き取れず、どこで降りたら良いのか不安になった経験があるのは、私だけでしょうか。

甲斐 晶(エッセイスト)

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It’s A Small World

Disneycala  ディズニーランドの人気アトラクションのひとつに”It’s A Small World”というのがあります。お客がボートに乗りながら、ヨーロッパからアジア、アフリカ、中南米、南太平洋へとミニ世界一周旅行をする間に、世界中の子供たちの可愛らしい人形が、テーマソングである”It’s A Small World”をそれぞれの国の民族衣装姿で歌って、お客を楽しませる趣向になっています。

Its_a_small_world この”It’s A Small World”「世界はひとつ」と訳していますが、この訳を確定するまでには、随分と苦労したのではないかと思われます。というのは、”It’s A Small World”とは、英語の日常会話に良く出てくる慣用句で、「世間は狭いなあ。」というのが本来の意味なのです。これと、小さな子供たちの世界や短時間での世界一周旅行の趣旨を合わせて付けた結果が”It’s A Small World”という命名なのでしょう。

世間は狭いと思わされる体験は、皆さんも多くなさっておられることと思います。旅先で、思わぬ人と再会するというのが、良くあるパターンでしょうか。

Qdscf0220 私の場合、旅の途中でチェコの首都プラハを訪れ、その帰路、ウィーンへ向かう機内で、隣の座席に知人夫妻が座っておられるのを見てびっくり。

先方は、私が就職してまだ間もない頃に仕事の関係でお付き合い戴いた方で、実に25年ぶりの再会でした。私は、外国出張の途上でしたが、先方は、退職後のプライベートな夫婦揃っての旅の終わりのこととか。プラハは、そう滅多には出かけない旅先ですし、しかも同じ飛行機で席が隣り同士になる確率たるや、極く僅かなことでしょう。”It’s A Small World”、「世間は狭いなあ。」と思わされることしきりでした。

 次は、在京のオーストリア公使のお宅にお招きを受けたときのこと。オーストリア航空の東京支店長B氏とその奥さんに初めてお目に掛かったのですがAua、いきなり先方から私に前から会いたかったのだと言われて戸惑いました。訳を聞いてみると、奥様の方が、私のIAEA時代の秘書Ms.Jと極めて親しく、私のことを彼女から詳しく聞いていたというのです。そう言えば、Ms.Jが来日した際に、オーストリア航空の東京支店長宅に逗留していると言っていたのを思い出しました。

B氏とは、その後間もなくして思いがけないところで、再会することになったのです。

当時私は、毎朝、大手町で地下鉄を降り、晴れていれば丸の内から日比谷経由でオフィス街を、雨であれば地下道を30分ほど散歩しながら、事務所に出勤するのを常としていました。途中、ウィンドウ・ショッピングをしたり、銀行や郵便局で用を足したりと、健康の他に実益も兼ねていたのです。9f3a05f0s

オフィスに着くまでに3ヶ所のスターバックス・コーヒー店がありますが、時折、日比谷のお店に寄ることにしていました。私はいつも「こーひやそろ」(エスプレッソのシングルショットを店内で飲むことを指す符丁の表現)と言って、注文をします。お金を払ってから、品物が出てくるカウンターに行くと、思いの外早めに注文の品が出てきました。カップを取ろうとすると、すっと横から大きな手が伸びてきます。何と、B氏でした。彼も私と同じものをいつも注文しており、そのカップは、彼が注文していたものでした。

20070101_152252 彼の事務所が近くにあり、毎朝、ここでコーヒーを飲む習慣にしているとのこと。その日は、私はたまたまいつもよりも早めに出かけ、彼はいつもよりも遅く店に来たため、偶然、鉢合わせした次第だったのです。その後も、何度か同じような状況下で、そのお店で出逢ったりしました。

コーヒーの本場のウィーン子であるB氏がアメリカ資本のスターバックスを愛用しているのも妙ですが、それほどヨーロッパ仕込みの香り高いコーヒーを提供している証でもありましょう。

Starbucks_fs 2004年暮れにB氏夫妻は、任期を終えてウィーンへ。その後来たMs.Jの電子メールによると、ウィーンにもスターバックスのお店がいくつか出来たので、今度、私がウィーンに出かけた時には、みんなでスターバックスで落ち合おうと有りました。

甲斐 晶(エッセイスト)

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ウィーンのお正月

 Stefan_10045013657 2001年の元旦は、ウィーンにおいて21世紀の幕開けを夫婦2人で迎えました。

 半年以上も前から、手頃な値段で家庭的な雰囲気の宿を予約し、クレジットカードの番号も先方に教えて、万全を期したつもりでした。ところが、乗り継ぎ便の関係で宿に着くのが夜遅くなる旨のメールを入れると、なんと予約など入っていないとの返事。出発が2週間後に差し迫っており、しかも年末年始で混雑するフライトの予約を終え、オペラのチケットもインターネットで確保していた矢先でしたから、大いに慌てました。

 FAXやメール、インターネットを駆使して調べて見ましたが、他のどこの宿もこの時期は予約で一杯。諦めざるを得ないかなあと思いつつも、先方のミスであることは明らかです。証拠書類の写しなどをFAXで送りつけ、責任もって代わりの宿を探すように激しく抗議。このあたり、外国生活が長かった賜物でしょう。ようやく、代わりの宿を確保してくれました。

ウィーンには、暮れの29日からお正月の3ヶ日まで滞在し、ウィーンの風物を満喫しました。お目当ては、大晦日の「こうもり」と元日の「ニューイヤー・コンサート」です。「こうもり」は、昔は年末年始に国立オペラとフォルクスオペラの両方でやっていたものですが、この頃はフォルクスオペラのみ。Kllustige国立オペラでは、その代わりにこの時期に「メリー・ウィドウ」をやるようになりました。大晦日の「こうもり」と元日の「メリー・ウィドウ」を日本からインターネットで予約。便利になったものです。「ニューイヤー・コンサート」の方は、一年前に予約しなければならず、ハナから諦めてテレビ桟敷での鑑賞と決め込みました。

大晦日までの2日間は、もっぱら買い物三昧。手袋、帽子、靴など良いものが手頃な値段でした。GerathermbasalFieberthermometerklein_ger

変わったところでは、Uebe社製の昔ながらの水銀体温計。 ウィーンのは頑丈で目盛りが大きくて見やすいので、半ダースも買い占めました。ウィーンみやげです。

大晦日、マティネの「こうもり」がはねた後に旧市内をそぞろ歩きしました。最近では、市庁舎前からアム・ホフやグラーベン、シュテファン寺院、ケルントナーを経て国立オペラ座前の広場に至るまでの通りが「大晦日の小径(Silvesterpfad)」として指定され、要所要所に、ステージやキオスクが設けられています。Bild1_970x600 この時期ならではのグリュー・ワイン(薬草入りホットワイン)や縁起物(豚、煙突掃除人、四つ葉のクローバーなどの小物)を求めるお客で大混雑でした。どうも、ドイツやイタリヤからの観光客で一杯の感じで、子豚の帽子をかぶったり、鳴り物を鳴らしたりと、大はしゃぎ。深夜12時にシュテファン寺院の鐘が鳴るや、シャンパンを掛けたり、瓶を投げつけたりと危険とのことなので、早めに宿に引き上げ、大晦日恒例のTV番組Silvesterstadlを見ました。Ms

これは、昔、NHKでやっていた「ふるさとの歌祭り」的な番組Musikantenstadlの大晦日特別番組で、ドイツ語圏の都市からの多元中継により、5時間にも及ぶVolksmusikのオンパレード。司会は、オーストリアの宮田輝と私が勝手にあだ名を付けたKarl Moikです(2007年からAndy Borgに交代)。もう20年以上も続く超人気番組ですが、年越しの0時には、ちゃんと美しき青きドナウが流れます。Post4510171152891584

21世紀最初のニューイヤー・コンサートは、完璧主義者で知られたアーノンクールが初登場。いきなりラデツキー行進曲と、いつもならアンコール最後の曲で始まって聴衆を驚かせます。しかも手拍子抜きのオリジナル版。大いに楽しませてくれました。2002年は小沢征爾の番です。Lrg_10338154

元日のお昼は、雪景色のレオポルドベルグへ。ドナウ川を望むレストランで遅いお昼を摂りましたが、寒さにめげぬ散歩客で一杯でした。

短時間の滞在でしたがフィグルミュラーのシュニッツェル、Img_5800_2 フラクッタのターフェルシュピッツ、デーメルのケーキ、オバラーのクラプフェンのほかブルスト、シンケン、ザワークラウト、ブッターケーゼなど、ウィーンの味覚を満喫しました。

ただし、宿の近くに回転寿司が出現していたのには、びっくり。ウィーンも変わりました。

甲斐 晶(エッセイスト)

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