ベルタ・フォン・ズットナー
2014年の暮れにパキスタン出身の少女、マララ・ユスフザイさんが史上最年少の17歳でノーベル平和賞を受賞しましたが、このノーベル平和賞を女性で初めて受賞したのがオーストリア人で、しかもノーベルが平和賞を創設する上で大きな影響を与えたことはあまり知られていないようです。
それは、作家で平和運動家のベルタ・フォン・ズットナー(1843-1914)で、2014年はその没後100周年にあたりました(左写真出典:Wikipedia)。彼女の肖像は、ユーロ導入前のオーストリア紙幣の1000シリング札に描かれていましたし(下写真出典:林信吾)、現在のオーストリアの2ユーロ硬貨にも刻まれています(「ユーロ登場」参照)。彼女は、当時オーストリア領だったプラハで、オーストリア陸軍元帥フランツ=ヨゼフ・グラーフ・キンスキー・フォン・ウヒニッツ・ウント・テッタウとその妻ゾフィー・フォン・クレーナーとの間に伯爵令嬢として生まれました。 父方は没落したとは言え名門貴族でしたが、母方は新しく貴族に列せられた家系であったために、彼女は高位の貴族としては認められませんでした。父親がベルタの生まれる少し前に亡くなったため、一家は彼女が生まれるとプラハを離れ、ウィーンに転居。母親は、彼女を上流階級に仲間入りさせようと語学・文学・哲学等の教養を身につけさせ、良縁を得ようとヨーロッパの避暑地や大都市を渡り歩きます。
1873年、ベルタはフォン・ズットナー男爵家の4姉妹の家庭教師として働き始め、やがてこの家の三男アルトゥール(1850-1902)と恋仲になりますが(左写真出典:Wikipedia)、両親が「まったく財産もない、七歳年上の」彼女との結婚を許しません。失意の中、ベルタは新しい仕事のために、オーストリアを離れてパリに赴き、そこでアルフレッド・ノーベル(1833-1896)との運命的な出会いをします(下写真出典:Wikipedia)。ノーベルがウィーンの 新聞に語学の堪能な秘書を求める広告を出し、それにベルタが応募。教養豊かで数カ国語に通じたベルタはノーベルを魅了したのです。しかしながら、アルトゥールと姉妹たちから毎日のようにベルタを慕う手紙と電報が届き、居たたまれなくなった彼女はノーベルの留守中にパリを後にします。ノーベルと一緒に過ごした時間は短いものでしたが、その後も多くの書簡を交わし、二度再会。生涯にわたって友情を保ち、特にノーベルの財政面における支援は、ズットナーの平和運動にとって欠かせないものとなりました。
1876年、アルトゥールとベルタはウィーン近郊の教会で密かに結婚。オーストリアから逃げるようにして、黒海とカスピ海の間に位置するコーカサスのグルジアに向かいます。しかし、定職が得られず、経済的には苦しい生活を強いられました。ところが露土戦争(1877-1878)の勃発により転機が訪れます。アルトゥールの戦況報告がウィーンの新聞社に採用され、続いて夫に刺激されたベルタも執筆活動を開始。主にヨーロッパの社会問題等を扱って好評を得ます。そして、約3年間かけて執筆した長編小説「武器を捨てよ!」を1889年に出版(上写真出典:Amazon)。主人公の伯爵令嬢が四度の戦争を経験し、二人の夫を失いながら平和主義者へと成長する過程を自伝風に描いた小説が発行部数数十万部のベストセラーとなり、12カ国語に翻訳されたのです。以後、彼女は第一次世界大戦勃発の一週間前に死ぬまで、平和会議の開催、平和協会の創設など平和運動に邁進したのです。
彼女の没後100年を記念してその生涯を描いた一人芝居「情熱に燃える魂」が完成。2014年の晩秋に日本各地で公演が行われ、その一つを学園祭が行われている明治学院で鑑賞しました。運命に翻弄されつつも、人生の色々な局面での出来事に真剣に向き合い、自他との葛藤に揺れ動きながら、一個の人間としてまた女性としての考察を深め、戦争の悲惨さ、愚かさを訴え、平和のために行動する彼女の生涯が見事に描かれていました。その時の映像が明治大学のアーカイブに残されています。オリジナルはドイツ語ですが、一部、日本語のナレーション付です。
甲斐 晶 (エッセイスト)
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