オーストリア

続・大阪万博(EXPO 2025)に行って来ました

前回に引き続き、今年(2025年)の9月初めの週に、東京からとんぼ返りで大阪万博を覗いて来たときのご報告です。

当日見学した5つのパビリオンは、大国フランス、小国ルクセンブルグ、鎖国時代から日本と歴史的つながりの深いオランダ、自然とテクノロジーで知られるスイス、そして明治以来文化・芸術面で深い交流のあるオーストリアと、いずれもその国らしい特徴のある展示内容でした。ただ、 フランス館では、もっぱら、ルイ・ヴィトンの旅行トランクやクリスチャン・ディオールのドレスや香水の夥しい数の陳列ばかりが目立って、商業主義的な匂いを感じてしまいました。フランスらしいもっと文化・芸術の国らしい展示が望まれました。唯一の救いは、展示Img_1615_20250923234001 内容とは無関係に、手をモチーフにしたロダンのブロンズ彫刻の小品が見学通路のあちこちに配されていたことでした。また、円形状のプールの中央に設置されたステージの上に、見事なオリーブの巨木が展示されていたのが印象的でした。こんなに立派なオリーブの木はこれまで見たことがありません  (上図参照。写真をクリックすると拡大します。以下同様。)。

Heidi オーストリア館のお隣がスイス館。「ハイジとともにテクノロジーの頂へ」とのテーマで、公式マスコットであるアニメのハイジがアルプス文化と最新テクノロジーが共存するスイスの実像を紹介して呉れます。

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入館するとすぐに、スイスの街並みを描いた巨大な切り絵が目に飛び込んできます。そこに、アインシュタインの似顔絵と彼が特殊相対性理論から導き出したあの有名な数式、E=mc2 を見つけましたが(左図)、かつて首都ベルンで彼の住まいだった記念館を訪れたことを思い出し、彼がスイス国籍であったことを気付かされました。

ルクセンブルグ館は小粒ながらも魅力的な展示でした。これまで、ルクセンブルグには首都のルクセンブルグ市しか訪問したことがなく、都市のイメージしかなかったのですが、郊外には豊かな自然環境が存在することを知り、新たな発見でした。最後の展示室の床全体がほぼネット状になっていて、見学者が靴を脱いでそこに寝転ぶと、目の前の巨大な画面にルクセンブルグの田園風景の映像が映し出され、あたかも自分がその中に没入しているかのような臨場感を味わうことが出来ました。かくして、色々なパビリオンを経巡って歩き疲れた足と目を癒して呉れました。

Img_1629 オランダ館では、絵本で有名なあのミッフィが、館内のあちこちの解説パネルに登場(左図参照)。館のテーマである「コモングラウンド=共創の礎」、すなわち、人々が同じ土台に立ち、発想し合えば新しい価値観が生まれ、人類共通の課題を解決できるとの考えを示す展示へと導いてくれました。パビリオンの建物の真ん中に、直径11メートルの白い球体が浮かんでいるのが、その外観上の特徴です。再生可能なクリーンエネルギーと日の出を表していて、その内部は360度スクリーンになっています。入館すると、ひとりひとり、手のひらサイズの球体型デバイス「オーブ」を渡されますが、これが色を変えながら光ります。入館者は、水の流れを操るオーブによって、水素など新エネルギーへの転換を巡る旅へと導かれて行きます。

ベルギー館もルクセンブルグ館同様に、万博閉幕後は解体されて再利用されます。健康と医療分野の最新技術に強みを持つお国柄から、館内では、AI(人工知能)やロボットを活用した最新技術など、国を挙げて注力するライフサイエンス、ヘルスケア分野について紹介されます。「人間の再生」をテーマに、生命の源である「水」と「細胞」を表現したパビリオンとなっていて、水の三態である液体、固体、気体をイメージした外観は、3地方に大別される国土の象徴でもあるとのこと。また、パビリオンの中は3層に分かれていて、水の三態である「固体」「気体」「液体」をそれぞれのエリアで表現していました。見学のあとは、屋上テラスに設けられたレストランで、ビールのほかチョコレートやワッフルなどが提供されており、ステージや万博会場の眺めと共に楽しめるようになっていました。

Img_1636 5つのパビリオンを観終わってみて、オーストリア贔屓の筆者の偏見もあるのかも知れませんが、その展示内容の素晴らしさの点で、オーストリア館に軍配を上げる次第です。音楽の都ならではの「未来を作曲」というテーマは、展示内容ばかりでなく、オーストリア館の建築デザインにも反映されています。前回(大阪万博(EXPO 2025)に行って来ました)に述べたように、空に向かって立ち上がるような特徴的ならせん状のオブジェは、五線譜をモチーフとしていて、そこには「人類皆兄弟」を標榜するあの有名なベートーベンの「歓喜の歌」の冒頭部分、ミミファソ ソファミレ ドドレミ ミレレ の音符が描かれています(左上図)。

Img_1590  入館者が第1の部屋に入ると、まず、両国の絆を象徴する展示として、1873年のウィーン万博で明治天皇に献上されたという幻のピアノ「エンペラー」(ベーゼンドルフ社製グランドピアノ )のレプリカが目に入ります。その反響版にはあの有名な北斎の「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」の版画が描か れており、このモデルは世界に16台しか存在しないとのこと(左上図)。このグランドピアノには自動演奏の機能があって、入館者を迎えると、モーツァルトの曲と思しき作品を演奏し始めます。日本語ガイドの方にその曲名を尋ねてみると、なんとこれは、ウィーン大学の先生がAIを駆使してモーツァルト風の曲を作曲したものとか。うまく騙されました。天井から下げられたロブマイヤー社製のシャンデリアの光に包まれたグランドピアノの自動演奏を聴くのも素敵な体験でした。

Img_1596 オーストリア館のマスコットキャラクター、Aka-shiro-aka(左図参照)に導かれて入る、第2の部屋は「人々」がテーマで、オーストリアの著名人が紹介されるとともに、現代オーストリアの様々な科学技術・現代文化がデジタル技術で紹介されます。そして、これに続く第3の部屋では、オーストリア館のテーマ「未来を一緒に作曲」を入館者が実体験します。複数のスクリーンで、多数の入館者が同時に異なるSDGsを選択すると、その組み合わせに応じて独自の曲が作曲され、バーチャル・オーケストラによって演奏される仕組みです。

こうして、オーストリア館では、文化・芸術ばかりではなく科学技術の粋も体験することができました。

甲斐晶(エッセイスト)

 

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大阪万博(EXPO 2025)に行って来ました

今年(2025年)の4月13日から10月13日まで、184日間の予定で開催されている大阪万博に、9月初めの週、東京から日帰りで行って来ました。早朝に家を出、新幹線で新大阪まで往復し、夜分に帰宅するという、ちょっとした強行軍でした。

大混雑必至で、特に人気パビリオンは長蛇の列で長時間待たされることとは知りながらも、あえて出かけることにしたのには、訳があります。実は、5つの在日欧州商工会議所(すなわち、オーストリアビジネス協議会(ABC)、ベルギー・ルクセンブルグ商工会議所(BLCCL)、フランス商工会議所(CCIFJ)、オランダ商工会議所(NCCJ)とスイス商工会議所(SCCIJ))が合同で特別イベントを開催することとなり、日墺協会宛にその招待状が届き、役員に対して公募がなされたので、即、応募したところ、幸運にも限定数名の枠に入ることができたからです。しかも、このイベントの特典の一つが、一般の入場券とは異なって、万博会場への入場日時の指定やパビリオンの入館予約をする必要が無く、ID登録も不要なVIP入場券が入手できる(代金1万9千円)ことから、無理してもとんぼ返りで出かけた次第なのです。

Img_1577旅の準備として、事前にJR東海のアプリ、スマートEXでクレジットカードを登録したうえで新幹線の乗車券・座席指定券を入手。このアプリと自分のスマホに入ったPASMOとの紐づけをしておいたので、当日は、このPASMOを使って、自宅の最寄り駅の改札ゲートをタッチで入場して私鉄に乗車。途中、JR在来線への乗り換えもPASMOで行い、品川駅でJR在来線から新幹線への乗り換えもPASMOでタッチしてOK。乗り換えの際、新幹線の乗り換えゲートをPASMOでタッチすると、「EXご利用票」(左図参照。写真をクリックすると拡大します。以下同様。)が自動的に印刷されて出て来たので、これを受け取りました。これには、予約した新幹線の列車番号、車両番号、座席番号が記載されているので、どこに着席したら良いかが一目瞭然に分かってとても便利でした。

スマートEXが便利なのは、座席指定の変更(指定列車、指定号車、指定座席の変更)がとても簡単で、列車発車時刻までなら何度でも無料でできることです。実際に私も、予約した新幹線の発車時刻よりもかなり早く品川駅に着きそうだったので、予約したものより早い発車時刻の列車に予約変更。入場で手間取りそうな万博会場に当初の予定よりも早めに到着できるようにしました。

久しぶりに新大阪駅に着いてみて、東京との違いをいくつか感じました。日本列島を東京から西にわずか2時間半ほど移動しただけで、エスカレーターの人波の列が、東京では左側は立ち止まって乗る人の列で、右側は急いで駆け上る人の列であるのに対して、大阪では、右側の列が立ち止まって乗る人の列でした。左側は駆け上がる人専用なのかと思いきや、ほとんどの方が左側でもそのまま立ち止まって乗っていました。また、東京では、ホームで電車に乗り込む際には、みんなが整列乗車であるのに対して、大阪では整列などせず、横入りしてもあまり咎める様子は見られませんでした。

新大阪からはOsaka Metroを乗り継いで万博会場の最寄りの夢洲駅へ。地下鉄の車両が夢洲駅に近づくと、「次は、いよいよ、夢洲です。」との車内アナウンス。乗客の胸の高まりを代弁しているかのようでした。

Img_1578 夢洲駅の改札口を出て、万博会場に向かうコンコースに出ると、そこは既に大勢の入場者で大混雑(左の写真参照)。ここで大いにその威力を発揮したのが、前述したVIPチケット。普通なら入場に1時間以上もかかるところを、長蛇の列を横目に見ながらスイスイと専用ゲートへ。お陰で特別イベントの集合時刻、10:30よりもかなり前に、指定の集合場所であるオーストリア館に到着できました(オーストリア館の展示内容については、既報の記事、「EXPO 2025 オーストリア館」を参照)。

Img_1585 特別イベントでは、まず11:30に、貸し切りとなったオーストリア館を日本語によるガイド付きでゆっくり見学。見終わって、あのベートーベンの歓喜の歌の楽譜がデザインされた、らせん状の木製外階段(左図参照)を登って3階のオーストリア・レストランへ。テーブルに着くと、給仕担当の女性がオーストリアの伝統料理を手にして回って来るので、それを好きなだけ取って食することが出来ました。Img_1603
左の写真は、こうして出されたオーストリア料理の数々です。左上から、ヴィーナー・シュニッツェル(子牛肉のウィーン風カツレツ)にフッジリのサラダ。その右が、キャベツのストゥルーデル(Kohl Strudel)にパプリカ(辛口)ソースを添えたもの、そして右端には野菜サラダの一部が見えています。いずれもレベルの高い出来で、ネット検索してみたら、どうもオーストリア本国から来日したシェフやウィーンで修業した日本人シェフが関与していたようです。Img_1606
左の写真は、デザートの数々。杏子のジャムを添えたカイザーシュマーレンと本場のカフェー、ユリウス・マインルのウィンナー・コーヒーを楽しみました。写真にはありませんが、あの有名なザッハートルテ(チョコレートケーキ)も賞味しました。

食事の後は、12:45開始で、お隣のスイス館から始めて、フランス館、ルクセンブルグ館、オランダ館を自分のペースで回って、最後に4:40ごろにベルギー館に入館。5:00から同館で行われるネットワーキング・レセプションの開始まで、ベルギー館をゆっくり見学することが出来ました。6:00ごろになると帰宅ラッシュになって退場する観客で退場ゲートが大混雑になり、会場を出るのに1時間以上もかかると聞いたので、レセプションを早めに切り上げて、帰途に着きました。

特別イベントに参加したお陰で、限られた時間内に、ヨーロッパのパビリオンだけでしたが、5つも見ることができました。どこでもVIP入場券の威力で、待ち時間0で即入館でき、我々のためだけの解説もあったりして、大変優遇されたツアーでした。一般のお客さん達は、炎天下の厳しい日差しの中で、日傘を刺してしゃがみ込み、長時間待たされていましたので、この特別イベントのアレンジはとても有難い限りでした。

残念ながら、紙数が尽きました。上記5つのパビリオンを訪れた感想は、次の記事(続・大阪万博(EXPO 2025)に行って来ました))と致しましょう。

甲斐晶(エッセイスト)

 

 

 

 

 

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EXPO 2025 オーストリア館

__20250529220701 大阪・関西万博(EXPO 2025)が2025413日から1013日までの日程で大阪市の「夢洲」で幕を開けました。158の国と地域が参加しており、オーストリアも後述するようなユニークな形のパビリオン(オーストリア館)を建設して参加しています。

 修好156年を迎える日墺関係において、万博は特別な役割を果たしてきました。1873年のウィーン万博の際には、明治政府は文明国たる日本を世界にアピールする絶好の機会と捉えて、初めて自らのパビリオンを建設して参加。その結果、西洋にとってとてもユニークな文化であるジャポニズムが全ヨーロッパ、さらには世界へと大きく広がり、西洋の芸術・文化に多大な影響を及ぼしました。

 一方、オーストリアは、日本で初開催の大阪万博(1970年)は勿論、自然と共存する21世紀社会の創造を目指した愛知万博(2005年)にも、自らのパビリオンを建設して参加し、オーストリアの文化・芸術を幅広く紹介する場としました。

 Alexander_van_der_bellen_13072021_croppe 今回のEXPO 2025では、523日のオーストリアの日(ナショナル・デー)に行われたオーストリア館での式典に参加するため、アレクサンダー・ファン・デア・ベレン墺大統領が来日。これを記念して、日墺二国間の経済フォーラムが521日、目黒の雅叙園において開催され、同大統領も基調講演を行いました。

 このフォーラムでは、多くの演者から、①150年を超える両国関係を通じて、相互に相手国に対する敬意が醸成されており、②両国は、自由、人権、平和、安定、発展、開放、イノベーション、国際感覚などを重んじるlike-minded countries(志を同じくする国同士)であり、③すでにオーストリアから日本には約80社、日本からオーストリアには約100社が投資しており、④オーストリアはEUに展開する上での門戸、また日本はアジアへ展開する上での門戸であることなどが指摘されました。

 Takedaaheadaustria715x328 オーストリアと言えば、ともすればその文化・芸術だけをイメージしがちですが、実は官民を挙げてイノベーションに力を注いでおり、これに着目した武田製薬が、オーストリアの研究開発力と連携するため、20239月にウィーン郊外にバイオ関係の研究所(左上写真参照)を設立していることも紹介されました。

 先に述べたように、本年523日のオーストリアの日には、オーストリア館においてファン・デア・ベレン墺大統領の臨席のもと、ウィーン少年合唱団が両国歌を歌いました。またオーストリア観光大使のHYDE氏も大統領と交流。翌24日には大統領が兵庫県の姫路城を訪れ、同城とシェーンブルン宮殿の「姉妹城」締結式が行われました。(ちなみに大阪城は、「豊臣期大坂図屏風」(リンク先のServus!の記事を参照)が縁で2009年にグラーツのエッゲンベルク城と「友好城郭」提携を結んでいます。)

 Photo_20250529220001 さて、オーストリア館は、大阪・関西万博のシンボルである大屋根リングを時計回りに15分ほど歩いた位置にあり、木製の帯である五線譜がらせん状にぐるぐると17メートルの高さまで空に伸びて行くという、ユニークな外観で一段と人々の目を引きます(五線譜には、ベートーベンの「歓喜の歌」の一節が記されています)。同館は、万博の総合テーマ、「いのち輝く未来社会のデザイン」にちなんで「未来を一緒に作曲」するとのコンセプトで、入館者を両国関係に関する旅へと視覚的、音楽的、情緒的に誘って呉れます。

 Bsendorfer-grand-piano-under-lobmeyer 館の内部は3部構成になっています。まず、「両国関係」がテーマの第1の部屋に入ると、1869年に皇帝フランツ・ヨーゼフ1世から明治天皇に友好の印として送られたベーゼンドルフ社製グランドピアノにちなんで制作された、自動演奏機能を有するグランドピアノがあり、ロブマイヤー社製のシャンデリアの光に包まれています。その反響版にはあの有名な北斎の「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」の版画が描か38817_expoaustrianpavilionboesendorferkl れており、このモデルは世界に16台しか存在しないとのことです。この部屋では、1869年から今日に至るまでの両国関係の歴史における主な出来事が鮮明な動画でスクリーン上に映し出されています。

 やや狭い回廊となった第2の部屋は「人々」がテーマで、オーストリアの著名人が紹介されるとともに、現代オーストリアの様々な科学技術・現代文化がデジタル技術で紹介されます。

 これに続く第3の部屋では、オーストリア館のテーマ「未来を一緒に作曲」を入館者が実体験します。複数のスクリーンで、多数の入館者が同時に異なるSDGsを選択すると、その組み合わせに応じて独自の曲が作曲され、バーチャル・オーケストラによって演奏される仕組みです。

 パビリオン内部の見学を終えた入館者は、らせん状の帯に設けられた階段を登って屋上階に出ると、サウンド・オブ・オーストリアという音響装置があって、これに触れると、教会の鐘の音、ラデツキー行進曲、牧場の牛の鳴き声などを聞くことが出来、オーストリアのランド・スケープならぬサウンド・スケープを味わうことが出来ます。また、屋上からは、EXPO会場の素晴らしいパノラマ景観を眺めることが出来ます。

 Menyu-image17453119442871024x707 パノラマの展望を楽しんだ後は、カフェでオーストリアのグルメを楽しんで見ては如何ですか?定番のヴィーナー・シュニッツェル(左の画像をクリックして拡大して現れるメニューのNo.6)からグーラーシュ(同No.5)、そしてデザートのカイザーシュマーレン(同No.7)、アプフェルシュトゥルーデル(同No.8)、ザッハトルテ(同No.9)、リンツァーシュニッテ(同No.10)に至るまで何でも揃っています。そして、お食事の後には、本場のウィンナー・コーヒー(クライナー・ブラウナーまたはグローサー・ブラウナー、それぞれNo,11、No.12)を是非どうぞ。

甲斐晶 (エッセイスト)

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ベルタ・フォン・ズットナー

2014年の暮れにパキスタン出身の少女、マララ・ユスフザイさんが史上最年少の17歳でノーベル平和賞を受賞しましたが、このノーベル平和賞を女性で初めて受賞したのがオーストリア人で、しかもノーベルが平和賞を創設する上で大きな影響を与えたことはあまり知られていないようです。

641pxberthavonsuttner1906 それは、作家で平和運動家のベルタ・フォン・ズットナー(18431914)で、2014年はその没後100周年にあたりました(左写真出典:Wikipedia)。彼女の肖像は、ユーロ導入前のオーストリア紙幣の1000シリング札に描かれていましたし(下写真出典:林信吾)、現在のオーストリアの2ユーロ硬貨にも刻まれています(「ユーロ登場」参照)。彼女は、当時オーストリア領だったプラハで、オーストリア陸軍元帥フランツ=ヨゼフ・グラーフ・キンスキー・フォン・ウヒニッツ・ウント・テッタウとその妻ゾフィー・フォン・クレーナーとの間に伯爵令嬢として生まれました。1000schillingnote 父方は没落したとは言え名門貴族でしたが、母方は新しく貴族に列せられた家系であったために、彼女は高位の貴族としては認められませんでした。父親がベルタの生まれる少し前に亡くなったため、一家は彼女が生まれるとプラハを離れ、ウィーンに転居。母親は、彼女を上流階級に仲間入りさせようと語学・文学・哲学等の教養を身につけさせ、良縁を得ようとヨーロッパの避暑地や大都市を渡り歩きます。

405pxarthur_gundaccar_von_suttner 1873年、ベルタはフォン・ズットナー男爵家の4姉妹の家庭教師として働き始め、やがてこの家の三男アルトゥール(1850-1902)と恋仲になりますが(左写真出典:Wikipedia)、両親が「まったく財産もない、七歳年上の」彼女との結婚を許しません。失意の中、ベルタは新しい仕事のために、オーストリアを離れてパリに赴き、そこでアルフレッド・ノーベル(1833-1896)との運命的な出会いをします(下写真出典:Wikipedia)。ノーベルがウィーンのAlfrednobel2 新聞に語学の堪能な秘書を求める広告を出し、それにベルタが応募。教養豊かで数カ国語に通じたベルタはノーベルを魅了したのです。しかしながら、アルトゥールと姉妹たちから毎日のようにベルタを慕う手紙と電報が届き、居たたまれなくなった彼女はノーベルの留守中にパリを後にします。ノーベルと一緒に過ごした時間は短いものでしたが、その後も多くの書簡を交わし、二度再会。生涯にわたって友情を保ち、特にノーベルの財政面における支援は、ズットナーの平和運動にとって欠かせないものとなりました。

41q9wsisl__sx341_bo1204203200_ 1876年、アルトゥールとベルタはウィーン近郊の教会で密かに結婚。オーストリアから逃げるようにして、黒海とカスピ海の間に位置するコーカサスのグルジアに向かいます。しかし、定職が得られず、経済的には苦しい生活を強いられました。ところが露土戦争(18771878)の勃発により転機が訪れます。アルトゥールの戦況報告がウィーンの新聞社に採用され、続いて夫に刺激されたベルタも執筆活動を開始。主にヨーロッパの社会問題等を扱って好評を得ます。そして、約3年間かけて執筆した長編小説「武器を捨てよ!」を1889年に出版(上写真出典:Amazon)。主人公の伯爵令嬢が四度の戦争を経験し、二人の夫を失いながら平和主義者へと成長する過程を自伝風に描いた小説が発行部数数十万部のベストセラーとなり、12カ国語に翻訳されたのです。以後、彼女は第一次世界大戦勃発の一週間前に死ぬまで、平和会議の開催、平和協会の創設など平和運動に邁進したのです。

6t5h7p00000ibdn3 彼女の没後100年を記念してその生涯を描いた一人芝居「情熱に燃える魂」が完成。2014年の晩秋に日本各地で公演が行われ、その一つを学園祭が行われている明治学院で鑑賞しました。運命に翻弄されつつも、人生の色々な局面での出来事に真剣に向き合い、自他との葛藤に揺れ動きながら、一個の人間としてまた女性としての考察を深め、戦争の悲惨さ、愚かさを訴え、平和のために行動する彼女の生涯が見事に描かれていました。その時の映像が明治大学のアーカイブに残されています。オリジナルはドイツ語ですが、一部、日本語のナレーション付です。

甲斐 晶 (エッセイスト)

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サイボクハム

Saiboku_86_4埼玉県日高市に「農」のディズニーランドと呼ばれる牧場、サイボクハムがあります。年間400万人近くもの人々が訪れるというその魅力の秘密は、何と言っても美味しい高品質の豚肉と本場ドイツ仕込みのハム・ソーセージ類、本格的なドイツパンにあります。

サイボクハムの正式名称は「埼玉種畜牧場」と言います。東京ドーム約3個分もの広大な敷地内に、レストランを始め、工場直売のミートショップ、カフェテリア、自社製パン工場、ハム・ソーセージ製造工場、特産品販売所、農産物マーケット、そして温泉施設までが併設されていて、一大「豚のテーマパーク」、「食のテーマパーク」となっています。

その存在を知ったのは、約20年前のこと。ウィーンへの赴任から戻って日高市の近くに居を構えたことから、近隣在住の知人に教えられたことによります。当Photo01時はまだ小規模な手作り感のある施設で、季節によっては近くの豚舎から得も言われぬ香りが漂ってくるほど。また、時折、二代目社長笹崎静雄氏の姿(写真上:日経ビジネス )をミートショップでお見かけし、声をお掛けすることもありました。

サイボクハムは戦後まもない1946年に先代社長の笹崎龍雄氏が日本の食料事情を改善しようと、養豚業をこの地で始めたことに由来します。龍雄氏は立志伝的な人物で、「養豚大成」という養豚業のバイブルともいえる本を著し、我が国の養豚業の普及に力を尽くした方です。(以前は、その著作本のほか、経営理念などが書かれた機関誌「心友」がミートショップの店頭に並んでいました。)

Sgp_86_6畜産と言えば牛(酪農)と鶏(養鶏)が主であった当時にあって、養豚業を唱えることには大変な努力と苦労があったようです。社名に「種畜」があるように、種豚の品種改良によって高品質の豚肉を開発し、これを消費者に届けようとしたのです。その結果、世界に誇る品質の豚肉「ゴールデンポーク」や「スーパーゴールデンポーク」そしてこれらを使った本場ドイツ仕込みの美味しいハム・ソーセージを生み出しています。しかもその評価は世界的に認められており、ドイツ農業協会(DLG)食品コンテスト「国際食品品質競技会」では、3年連続で[最優秀ゴールド賞]を受賞しているほどです。

原料となる豚の育成から加工、販売までを一貫して行うという、現在のユニークな畜産スタイルを生み出すとともに、食と健康のユートピア(ミートピア)を創造するというテーマに取り組んできたのは、龍雄氏のご子息で現社長、静雄氏なのです。インタビューにこう答えています。

「周囲は大学を卒業して入ったばかりの若僧が何を言っているのかと反発の嵐です。そこで、一度会社を出て食肉センターと売り場で1年あまりゼロから精肉を学びました。しかし、1000軒を超える精肉店を回った結論は、サイボクハムの品質はトップレベルだということでした。再び会社に復帰した後、さらに提案を繰り返し、そこまで言うならとようやく父が認めてくれ、小売りがスタートできました」。

オープンした6坪の店の初日の売り上げは僅か2000円だったそうです。それが今や年間来訪者400万人、売り上げ約60億円となるまでに発展したのは、やはりジューシーで美味しい豚肉と本物志向のハム・ソーセージの味でしょう。

Hamsausage_86_1日本人好みの甘い味に仕上げられた大手メーカーNハムやIハムの製品に満足できないオーストリア駐日大使ご夫妻に私からサイボクのハム・ソーセージをお送りしたことがあります。早速お眼鏡に叶い、以来、大使館のパーティには必ずサイボクの品を取り寄せておられたという逸話が残っているほど、その味は大使館のお墨付きです。

ところで、2013年の秋に困ったことが起きました。いくつかのTV番組で相次いで紹介されたことから、お客が殺到して品不足となってしまったのです。オーストリアに住んだことのある友人に本物のソーセージを送ろうと遠路はるばる訪れたのですが、生憎と全製品売り切れ。TV放送の威力を思い知らされた次第です。(写真:嶋田淑之氏のブログ から

甲斐 晶(エッセイスト)

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きよしこの夜伝説

 Oberndorfchapel世界で一番愛唱されているクリスマス・キャロルが「きよしこの夜」であることに異論はないでしょう。300以上の言語に訳されているそうです。

 オリジナル曲がギターの伴奏であったことから、パイプオルガンのふいごがネズミに囓られて壊れてしまい、急遽、副司祭のJ・モールが自作の詞をオルガニストのF・グルーバーに見せて作曲させたとの伝説が生まれたようです。(1943年に米国で出版された「きよしこの夜物語」にこの逸話が紹介されたのがその始まりとされています。)

しかし、最初の演奏がなされたオーベルンドルフ聖ニコラス教会の跡地に立つ、きよしこの夜記念堂のHPにはその由来に関しこう書かれています

Gruber18541030日付けのグルーバー自筆の由来記には『18181224日のこと、モールが自作の詞をグルーバーに渡し、ギター伴奏で合唱隊と二声ソロの曲を付けるように依頼した。』とあります。その日遅くグルーバーがモールに作品を渡し、気に入ったモールがこれを夕拝の一部に使用。モールがテノールを歌ってギター伴奏をし、グルーバーがバスを歌いました。グルーバーは、参列者(ほとんどが船舶運送人や船大工とその家族)のみんなが『この歌に満足』したと言っています。

「グルーバーの由来記には、この歌の創作の切っ掛けについて具体的な事情は書かれていません。ひとつの推測では、教会のオルガンが壊れてしまったので、モールとグルーバーがギター伴奏の曲を作ったことになっています。この「きよしこの夜」の初演をめぐっては、多くのロマンチックな物語や伝説が作られ、知られている史実にそれぞれ逸話に富む詳細を付け加えているのです。」

「モールの署名入りの自筆譜が1995年に発見され、そこに『作詞、副祭司J・モール、1816年』とあることから、作詞は既に1816年になされていたと考えられています。また、この自筆譜の右上に『作曲、F・グルーバー』と明記されています。」

『きよしこの夜』が作られたのは、ナポレオン戦争(1792-1815)直後の厳しい社会情勢下でした。ウィーン会議の結果、新たな国境線が画定し、『きよしこの夜』が初演されたオーベルンドルフは1818年にザルツァッハ川の向こう側のラウフェン(ドイツのババリアに帰属)から分離されてオーストリアのザルツブルグに編入されたのです。何世紀にもわたり、岩塩の船輸送が地域経済の基盤でしたが、ナポレオン戦争中に衰退の一途を辿り、回復することはありませんでした。この結果、地元は不況となり、運送業、造船業とその労働者が職を失い、将来に不安を抱くような困難な時期(1817-1819)にモールはオーベルンドルフで過ごしたのです。また、モールの前任地マリアプファールは、ババリア占領軍の撤退(1816及び1817年)に際し大きな痛手を受けました。モールはこれらのことを目撃し、それを念頭に1816年、『きよしこの夜』を作詞。そこには、平和と慰めに対する大いなる切望が表現されているのです。」

Ii現在、歌われている歌詞は3節までしかありませんが、グルーバーの原詞は6節まであります。そのうちの3、4、5節は歌い継がれるうちに失われてしまったようです。賛美歌研究者の川端純四郎氏は、「三つの節は、かなり重い内容なので、とても即興で作れるような詩ではありません」とした上で、第4節をこう訳されます。「今夜、父の愛のすべての力を注いで、私たちすべてを兄弟として恵み深く、イエスは世界の民をだきしめる。」

川端氏は「長く続いた戦争が終わり、待ち望んだ平和をたたえた歌だった」と説明します。チロルの手袋職人やコーラスグループによって紹介され、各地に歌い継がれ、19世紀中ごろには、ドイツ・ベルリンの宮廷や一般家庭で愛唱されるようになります。そして米国に伝わり、世界の隅々へ。「世界で広く歌われるようになるにつれ、政治的、社会的状況にかかわる歌詞が削除された」というのが川端氏の解釈なのです(川端純四郎「さんびかものがたり Ⅱ」日本キリスト教団出版局)。

毎年クリスマスイブに記念堂で6節版のオリジナルの「きよしこの夜」が演奏され、その様子はネットで紹介されています。

甲斐 晶(エッセイスト)

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コンチータ・ヴルスト

 Eurovisionlogoユーロビジョン(Eurovision)をご存じですか?

欧州および北アフリカの放送局からなる組織、欧州放送連合European Broadcasting Union)が提供する特別なTV音楽番組の冒頭に表れる統一ロゴです。有名なのは、毎年、元日の朝(日本では夜)に全世界に向かって放映される、ウィーンフィルのニュー・イヤー・コンサートでしょう。ロゴとともに流れるテーマソング、マルカントワーヌ・シャルパンティエの「テ・デウム」の前奏曲でお馴染みなことでしょう。

Eurovisionsongcontest2014ユーロビジョンの名を上げたのは、なんと言っても欧州統一の象徴として1956年に始まったユーロビジョン・ソング・コンテストでしょう。その優勝者にはABBAやセリーヌ・ディオンなど、その後世界的なアーティストとして活躍している歌手が多いことでも知られています。


さて、今年5月にデンマークのコペンハーゲンで開催された
2014ユーロビジョン・ソング・コンテストで、実に48年ぶりにオーストリアの歌手が優勝しました。48年前の優勝者は、Udo Jurgensで、オーストリアのさだまさしと私が勝手に呼んでいるシンガー・ソング・ライターです。時事問題などシリアスなテーマを取り上げながらも軽快な曲に仕上げてドイツ語圏で人気があります。

Conchita_wurst_2ところで今年の優勝者Conchita Wurstの舞台姿がとても奇妙であったことから、その歌唱力は別にして、大いなる議論を地元オーストリアは勿論、ヨーロッパ中に巻き起こしてしまっているのです。(その伸びやかで澄んだ歌声はYouTubeで検索して聴くことができます。あわせて、その奇抜な舞台姿もどうぞご覧下さい。)

ひと言で言えば、彼女(実は彼)は「ひげ面美人」なのです。生まれはれっきとした男性で、本名はThomas Neuwirthと言うのですが、はるな愛などと違って性転換はしておらず、マツコ・デラックスなどのような女装タレントに属します。ムキムキなのに厚化粧とど派手な衣装なのはいわゆる典型的なdrag queen(男性が女装して行うパフォーマンス)なのですが、とても濃いひげ面なのが違和感を呼びます。多分それで自分と他のdrag queenとの差別化を狙っているのでしょう。

彼女は198811月、オーストリアのグムンデン生まれ。学校時代には同性愛者であることから常にいじめられるのではないかとのおそれを感じ、休憩時間にトイレに行くのもためらうほどであったと語っています。2007年にオーストリアのタレント・オーディション番組「Starmania」で決勝に進出する一方、20112月にグラーツの服飾学校を卒業。この経験が彼女の舞台衣装姿に影響を与えているのかも知れません。

2011年からdrag queen「コンチータ・ヴルスト」として登場。この姿は「すべての人々に差異に対する寛容を呼びかける、重要なメッセージである」として、同性愛者、同性婚、性同一性障害者などへの差別の撤廃を訴えています。 ちなみに、「ヴルスト(Wurst)」とはドイツ語で「ソーセージ」を意味しており、「Das ist mir doch alles Wurst」(どれも同じ、気にしないの意)というドイツ語の慣用句に由来しているそうです。

 優勝後、故郷に錦を飾った彼女は、何千人ものファンを前にしてウィーンの新王宮前広場でコンサートを実施。大成功を収めました。コンサート前にはファイマン首相(社民党)と面談し、彼女が寛容を推進していることに謝意が表されました。

しかし、批判がないわけではありません。現政権の連立相手の国民党は、家族制度を重んずる伝統的価値観に立っており、首相の発言は歌手を政治目的に利用するものと激しく非難しています。

Eurovisionlsongcontest2015実は、彼女が昨年9月にオーストリア放送協会の内部選考によりユーロビジョン・ソング・コンテスト2014のオーストリア代表に選出された直後から、国内でも大論争となり、フェイスブックの「反ヴルスト」のページは31千を超える支持が集まったそうです。

規定により、来年のコンテストは優勝国オーストリアでの開催が決まっています。来年はどんな歌手が登場して優勝するのか今から楽しみです。

甲斐 晶

(エッセイスト)

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大坂図屏風

 
 オーストリア第2の都市グラーツは16世紀の街並みがSchloss_13461_2ほぼそのまま残された古都で、旧市内が全域、世界文化遺産に登録されています。その郊外にエッゲンベルグ城がありますが、このお城も世界遺産となっていて、神聖ローマ皇帝フェルディナント2世の顧問をつとめた公爵ヨハン・ウルリッヒ・フォン・エッゲンベルグが1625年に全宇宙をモチーフとした建てさせた平城です。すなわち、4つの塔が四季を、12の門が12ヶ月を、365の窓が一年の日数を表しているのです。
 2006年9月、このお城で250年以上にもわたって居室の壁に描かれた画の一部と思われていたものが、実は豊臣秀吉の没した慶長年(1598)前後の大坂城とその城下町の様子を詳細に描いた屏風絵(「豊臣期大坂図屏風」)で、日本国内にも残存例の少ない、大変貴重なものと判明しました。調査を依頼されたケルン大学エームケ教授が関西大学にその写真を持ち込んで判ったのです。一体、どうやって日本の屏風絵がはるばるオーストリアのグラーツで発見されるに至ったのでしょうか?この屏風絵の数奇な運命を辿ってみましょう。

 時はオランダの東インド会社が盛んに東洋の事物をヨーロッパに紹介していた頃に遡ります。日本との関係では1609年、平戸にその商館が出来て交易が始まります。記録によると1642年6月に初めて屏風の注文がなされました。屏風は壁面を飾る装飾品として紹介されましたが、紙製のため、虫食いとか船旅の途中で蒸れたり濡れたりして損傷するリスクが高いのです。あまり儲からないためか、わずか4年で取引が終了してしまいます。90双輸出したうちヨーロッパに着いたのはわずかに12双。こうした屏風の1枚をエッゲンベルグ家が入手し、市内の宮殿で使っていたようです。

 ヨハン・ウルリッヒの玄孫のマリア・エオノーラが1750年の城内改修にあたり、東洋趣味を盛り込んだロココ形式の小部屋を三つ造りました。ひとつは、磁器の間で、主に伊万里の色絵皿を部屋の壁一杯に埋め込みました。次は、中国風の布飾りの壁の間で、清朝の宮廷風景を描いた絹布をばらして、これまた部屋の壁一杯に貼り付けました。Saal_13292_2

 そして、3つ目がインドの間です(当時のヨーロッパ人にとって、東洋=インドだったようです)。

八曲一隻であった豊臣期大坂図屏風(高さ182cm、幅480cm)がばらばらにされ、8枚のパネルとして壁面に埋め込まれ、西洋人の画工が想像して描いた中国趣味の絵と交互に飾られたのです。

こうした思いがけない扱いを受けたことがかえって幸いして、屏風絵を現代まで生き延びさせたのです。2000年にパネルのByobu_1790修復が行われたのが再発見のきっかけでしたが、パネルを外してみると枠の合間ごとにカンバスが張られて和紙が補強されており、パネルに入れられた事で湿気や温度の変化による劣化から守られました。また、城は第二次世界大戦中に侵攻したソ連兵の略奪に遭って多くの美術品が持ち去られましたが、壁と化していた屏風絵は略奪者の手から無事守られたのです。

お城のサイトに屏風絵の詳細な説明があります豪奢な大坂城の城郭のみならず、秀吉にゆかりの神社仏閣や町屋が描かれるとともに、500人もの老若男女が詳細に描かれ、当時の武士や町人などの生活ぶりを覗うことができます。この屏風絵については、その発見に関わった三者、エッゲンベルグ城を含むシュタイアーマルク州立博物館ヨアネウム、関西大学、大阪城による共同研究が2007年に立ち上げられその成果が広く発表されています。また、日墺修好140周年の20099月、オーストリア大統領の来日の際にエッゲンベルグ城と大阪城の姉妹城郭提携が結ばれました。

共同研究の成果を紹介したBShi特集番組を見て、機会があればこの目で見たいものと願っていましたが、ある秋の日、その願いが叶いました。ただ、くだんのインドの間は防犯警報装置が厳重で、屏風絵を間近で眺めることが出来ませんでした。せめてもレプリカの展示でもあればなあと思った次第です。

    甲斐 晶(エッセイスト)

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ヴィッレンドルフのヴィーナス

 F_296_1 ユネスコの世界文化遺産に登録されたオーストリアの名所旧跡のひとつにヴァッハウ渓谷があります。バロック様式の修道院で有名なメルクから下流のクレムスまでの約30kmにわたるドナウ河両岸の一帯で、大変風光明媚な地域です。その南斜面にはぶどう畑が広がり、穏やかな気候と軽土壌がブドウやその他の果実の生産に理想的な条件を作りだしており、オーストリア有数のワインや果実酒(シュナップス)の産地となっています。

Img_0551 春先には、河畔の並木に桜の花に似た美しい杏の花が咲き乱れるので、ウィーン在任中には、「お花見」に良く出かけたものです。最近、日本からウィーンに戻ったオーストリアの友人からも、春を迎えて日本の桜が恋しくなり、ヴァッハウまで杏の花を見に行ったと聞いて、同様の感じを抱くのは日本人だけではないなと思ったりしました。

Willendorfpanorama そんなヴァッハウ渓谷にある小さな村、ヴィッレンドルフにおいて、20世紀の初頭に考古学上重要な発見がなされたのです。

既に19世紀後半には、この村の名は、考古学的遺物の名品が出土することで個人蒐集家の間において知られるようになっていました。そして1908年のことです。ドナウ河北岸に沿ってヴァッハウ渓谷のクレムス-グライン間に鉄道の建設が進められました。これに伴って、発掘現場での掘削が行われ、「ヴィッレンドルフのヴィーナス」の発見となったのです。それは、石灰石に彫られた大きさが11cmほどの女性の裸像で、現在では、ウィーンの自然史博物館に展示されています。最近のカーボン14による年代測定では、紀元前2万5千年前後のものと推定されています。

「ヴィーナス」という名称からは、Venus_of_willendorf美しい均整のとれた女性の姿を想像し勝ちですが、実際にはその名とはほど遠い、ふくよか過ぎるほどの女性の姿なのです。しかし、その古い推定年代と女性の身体的特徴を強調した形状から有史以前の美術品の象徴となり、旧石器時代を代表するものとして、芸術史の入門書に登場するようになりました。

ご覧になれば分かるように、まず、大きくせり出した腹部と著しく豊満な胸に目が止まります。胴回りには、たっぷり脂肪が付き、見事に発達した腰と巨大ながらも平坦な臀部へとつながっています。立派に太い大腿部の先には、申し訳程度の下腿部と足の部分が省略気味に表現されています。

一方、両方の前腕と手も極端に細く、大きな胸の上部にそっと置かれています。お臍まで達するかに見えるその豊満な乳房には、張りがあり、決して垂れたような感じはありません。要するに超肥満な中年女性のような裸像なのです。

その頭部は、編んだような髪が頭頂から始まってぐるりと7重に巻かれ、本来顔である部分の半分以上が覆われている結果、顔自体は省略された形になっています。

さて、この「ヴィーナス」像は、どのような目的で作られたのでしょうか。色々な説がありますが、手足や顔が省略され、豊満な女性的な部分のみが誇張されていることから、子孫繁栄、豊饒のシンボルとして使用されたのではとか、単に石器時代の子供の玩具用人形だとか考えられています。

Venussoap_001 インターネットを検索すると、この像をモチーフにしたブローチやオーナメントなど各種グッズが売り出されているのにはびっくりですが、この像の持つ神秘性を利用して、これを所有すると癒しの効果があるとか、幸運になるとかの謳い文句が並んでいるのにはいささか苦笑させられます。

傑作は、この像を型取った石鹸で、使っているうちに細身のヴィーナスに変わることから、使用前・使用後の両方の写真を掲げて、ダイエットの補助用品としているのは、アイデア商品でしょう。

Venusiumimg_1410 ある春の日、杏の花を愛でがてらヴィッレンドルフ村に出かけ、発見場所の巨大な「ヴィーナス」の記念碑の前で写真を撮っていると、妙齢のオーストリア女性が通りかかりました。眼前の像に勝るとも劣らない彼女の体型に、時代を超えて不変なものもあるのだなとの感を強めたものです。

甲斐 晶(エッセイスト)

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ノイジードラー湖

 Main_karte ウィーンからハンガリーに向けてドライブを続けて行くと、なだらかな丘陵地帯に入り、次第にステップ風の景色に変わります。そんな中に、長さ36km、幅7~15km、面積320km2のヨーロッパ最大のステップ湖、ノイジードラー湖があります。

湖の真ん中には、オーストリアとハンガリーの国境線が走っており、その周辺には130㌶の葦原が広がっています。ハンガリーと共同で設置された自然保護区は、面積が2万㌶(うち約12千㌶はハンガリー側に)あって、Neusiedlerseecard世界的に重要な生態系を形成していると同時に、海のないウィーンの人たちには、湖水浴場として親しまれています。実際、湖水は僅かに塩分を含み、葦原で幹線道路から隔てられていることから海のような印象を与え、「ウィーン子の海」とも呼ばれています。

2001年に、この地域は、ハンガリーと共同でUNESCOの世界自然・文化遺産に指定されました。貴重な動植物の宝庫で、珍しい蘭の種類が生育していたり、チドリ、サギなど10数種の渉禽類や水鳥が生息し、Nseeヨーロッパとアフリカを渡る鳥の重要な中継地となっています。300種もの珍しい鳥がこの湖に引き寄せられ、また、150種ものツル、コウノトリなどが繁殖のために飛来します。したがって、バード・ウォッチャーでなくとも、鳥の観察には格好の場所で、双眼鏡は必携です。ここは、産卵のためにやって来る灰色ガンを研究し、「刷り込み」現象を見出してノーベル生物学賞を受賞したローレンツ博士の主たる研究の場でもありましたDia_konradlorenz

 湖畔の道路は、ほぼ平坦でサイクリング道も整備されていますし、歩きやすい道ですので、特別な靴を履いていなくてもウォーキングに最適です。湖水浴場のポーダースドルフからイルミッツへのサイクリングの途中では、野鳥保護区で小休止をして、水鳥の観察をする楽しみもあります。

 Csc_0109 日照時間が長いことから湖畔の丘陵地帯には、無数のワイン畑があり、イルミッツ、ノイジードル・アム・ゼー、ルスト、メービッシュなどは、ワインの産地としても知られています。そういえば、アフリカから飛来するコウノトリが屋根に巣をつくることでも有名なルストでは、その昔、不凍液入りの高級ワイン騒ぎがありました。ワインの品評会で最高賞を取ったルスト産のアウスレーゼが、実は、まがい物だったのです。

 メービッシュなどでは、ハンガリーとの国境が近いことから、観光客用ではありますが、居酒屋でジプシー音楽を楽しむことが出来ます。Reise_osterreich_neusiedlersee_pustまた、イルミッツでは、広大なステップ草原を背景にジプシー風の釣瓶井戸、あの独特の巨大な天秤のような井戸を見ることが出来ます。

ハンガリーがまだ共産圏であったときには、国境の町メービッシュのはずれには、高い監視塔と湖水の中まで延々と続く鉄条網が物々しく、Austrianeusiedlersee重苦しい雰囲気がありました。当時、国境に関係なく自由に行き来できる鳥や魚が羨ましいとの話を聞いたものです。それが、自由化直後に訪れたときには、あの鉄条網は廃止され、人々がハンガリーに続く湖畔の道を三々五々行き来しているのを見て、隔世の感を抱きました。

  Zugesch_v5j64633792 メービッシュは、夏の夜に湖上オペレッタが開かれることでも有名です。湖上に舞台セットが設けられ、これと相対して湖畔に観客席がしつらえられます。楽しいオペレッタの演目が7月中旬から8月下旬にかけて上演され、人気を博しています。呼び物は、公演が終わった後に湖上に次々に打ち上げられる華やかな花火なのですが、残念ながら日本の花火の比ではありません。

2010年の出し物は、すでに「ロシアの皇太子」(Der Zarewitsch)と決まっています。Derzarwitsch来年夏にお出かけの予定の方はインターネットで予約が可能です。ただし、気を付けないといけないのは、気温が高ければ蚊に刺されますので、虫除けスプレーを持参する必要があります。逆に、8月下旬にもなると、陽が落ちれば湖畔は急激に気温が下がります。一応、膝掛けを貸してはくれますが、セーターなど防寒具の用意は欠かせません。

甲斐 晶 (エッセイスト)

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