オーストリア

ベルタ・フォン・ズットナー

2014年の暮れにパキスタン出身の少女、マララ・ユスフザイさんが史上最年少の17歳でノーベル平和賞を受賞しましたが、このノーベル平和賞を女性で初めて受賞したのがオーストリア人で、しかもノーベルが平和賞を創設する上で大きな影響を与えたことはあまり知られていないようです。

641pxberthavonsuttner1906 それは、作家で平和運動家のベルタ・フォン・ズットナー(18431914)で、2014年はその没後100周年にあたりました(左写真出典:Wikipedia)。彼女の肖像は、ユーロ導入前のオーストリア紙幣の1000シリング札に描かれていましたし(下写真出典:林信吾)、現在のオーストリアの2ユーロ硬貨にも刻まれています(「ユーロ登場」参照)。彼女は、当時オーストリア領だったプラハで、オーストリア陸軍元帥フランツ=ヨゼフ・グラーフ・キンスキー・フォン・ウヒニッツ・ウント・テッタウとその妻ゾフィー・フォン・クレーナーとの間に伯爵令嬢として生まれました。1000schillingnote 父方は没落したとは言え名門貴族でしたが、母方は新しく貴族に列せられた家系であったために、彼女は高位の貴族としては認められませんでした。父親がベルタの生まれる少し前に亡くなったため、一家は彼女が生まれるとプラハを離れ、ウィーンに転居。母親は、彼女を上流階級に仲間入りさせようと語学・文学・哲学等の教養を身につけさせ、良縁を得ようとヨーロッパの避暑地や大都市を渡り歩きます。

405pxarthur_gundaccar_von_suttner 1873年、ベルタはフォン・ズットナー男爵家の4姉妹の家庭教師として働き始め、やがてこの家の三男アルトゥール(1850-1902)と恋仲になりますが(左写真出典:Wikipedia)、両親が「まったく財産もない、七歳年上の」彼女との結婚を許しません。失意の中、ベルタは新しい仕事のために、オーストリアを離れてパリに赴き、そこでアルフレッド・ノーベル(1833-1896)との運命的な出会いをします(下写真出典:Wikipedia)。ノーベルがウィーンのAlfrednobel2 新聞に語学の堪能な秘書を求める広告を出し、それにベルタが応募。教養豊かで数カ国語に通じたベルタはノーベルを魅了したのです。しかしながら、アルトゥールと姉妹たちから毎日のようにベルタを慕う手紙と電報が届き、居たたまれなくなった彼女はノーベルの留守中にパリを後にします。ノーベルと一緒に過ごした時間は短いものでしたが、その後も多くの書簡を交わし、二度再会。生涯にわたって友情を保ち、特にノーベルの財政面における支援は、ズットナーの平和運動にとって欠かせないものとなりました。

41q9wsisl__sx341_bo1204203200_ 1876年、アルトゥールとベルタはウィーン近郊の教会で密かに結婚。オーストリアから逃げるようにして、黒海とカスピ海の間に位置するコーカサスのグルジアに向かいます。しかし、定職が得られず、経済的には苦しい生活を強いられました。ところが露土戦争(18771878)の勃発により転機が訪れます。アルトゥールの戦況報告がウィーンの新聞社に採用され、続いて夫に刺激されたベルタも執筆活動を開始。主にヨーロッパの社会問題等を扱って好評を得ます。そして、約3年間かけて執筆した長編小説「武器を捨てよ!」を1889年に出版(上写真出典:Amazon)。主人公の伯爵令嬢が四度の戦争を経験し、二人の夫を失いながら平和主義者へと成長する過程を自伝風に描いた小説が発行部数数十万部のベストセラーとなり、12カ国語に翻訳されたのです。以後、彼女は第一次世界大戦勃発の一週間前に死ぬまで、平和会議の開催、平和協会の創設など平和運動に邁進したのです。

6t5h7p00000ibdn3 彼女の没後100年を記念してその生涯を描いた一人芝居「情熱に燃える魂」が完成。2014年の晩秋に日本各地で公演が行われ、その一つを学園祭が行われている明治学院で鑑賞しました。運命に翻弄されつつも、人生の色々な局面での出来事に真剣に向き合い、自他との葛藤に揺れ動きながら、一個の人間としてまた女性としての考察を深め、戦争の悲惨さ、愚かさを訴え、平和のために行動する彼女の生涯が見事に描かれていました。その時の映像が明治大学のアーカイブに残されています。オリジナルはドイツ語ですが、一部、日本語のナレーション付です。

甲斐 晶 (エッセイスト)

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サイボクハム

Saiboku_86_4埼玉県日高市に「農」のディズニーランドと呼ばれる牧場、サイボクハムがあります。年間400万人近くもの人々が訪れるというその魅力の秘密は、何と言っても美味しい高品質の豚肉と本場ドイツ仕込みのハム・ソーセージ類、本格的なドイツパンにあります。

サイボクハムの正式名称は「埼玉種畜牧場」と言います。東京ドーム約3個分もの広大な敷地内に、レストランを始め、工場直売のミートショップ、カフェテリア、自社製パン工場、ハム・ソーセージ製造工場、特産品販売所、農産物マーケット、そして温泉施設までが併設されていて、一大「豚のテーマパーク」、「食のテーマパーク」となっています。

その存在を知ったのは、約20年前のこと。ウィーンへの赴任から戻って日高市の近くに居を構えたことから、近隣在住の知人に教えられたことによります。当Photo01時はまだ小規模な手作り感のある施設で、季節によっては近くの豚舎から得も言われぬ香りが漂ってくるほど。また、時折、二代目社長笹崎静雄氏の姿(写真上:日経ビジネス )をミートショップでお見かけし、声をお掛けすることもありました。

サイボクハムは戦後まもない1946年に先代社長の笹崎龍雄氏が日本の食料事情を改善しようと、養豚業をこの地で始めたことに由来します。龍雄氏は立志伝的な人物で、「養豚大成」という養豚業のバイブルともいえる本を著し、我が国の養豚業の普及に力を尽くした方です。(以前は、その著作本のほか、経営理念などが書かれた機関誌「心友」がミートショップの店頭に並んでいました。)

Sgp_86_6畜産と言えば牛(酪農)と鶏(養鶏)が主であった当時にあって、養豚業を唱えることには大変な努力と苦労があったようです。社名に「種畜」があるように、種豚の品種改良によって高品質の豚肉を開発し、これを消費者に届けようとしたのです。その結果、世界に誇る品質の豚肉「ゴールデンポーク」や「スーパーゴールデンポーク」そしてこれらを使った本場ドイツ仕込みの美味しいハム・ソーセージを生み出しています。しかもその評価は世界的に認められており、ドイツ農業協会(DLG)食品コンテスト「国際食品品質競技会」では、3年連続で[最優秀ゴールド賞]を受賞しているほどです。

原料となる豚の育成から加工、販売までを一貫して行うという、現在のユニークな畜産スタイルを生み出すとともに、食と健康のユートピア(ミートピア)を創造するというテーマに取り組んできたのは、龍雄氏のご子息で現社長、静雄氏なのです。インタビューにこう答えています。

「周囲は大学を卒業して入ったばかりの若僧が何を言っているのかと反発の嵐です。そこで、一度会社を出て食肉センターと売り場で1年あまりゼロから精肉を学びました。しかし、1000軒を超える精肉店を回った結論は、サイボクハムの品質はトップレベルだということでした。再び会社に復帰した後、さらに提案を繰り返し、そこまで言うならとようやく父が認めてくれ、小売りがスタートできました」。

オープンした6坪の店の初日の売り上げは僅か2000円だったそうです。それが今や年間来訪者400万人、売り上げ約60億円となるまでに発展したのは、やはりジューシーで美味しい豚肉と本物志向のハム・ソーセージの味でしょう。

Hamsausage_86_1日本人好みの甘い味に仕上げられた大手メーカーNハムやIハムの製品に満足できないオーストリア駐日大使ご夫妻に私からサイボクのハム・ソーセージをお送りしたことがあります。早速お眼鏡に叶い、以来、大使館のパーティには必ずサイボクの品を取り寄せておられたという逸話が残っているほど、その味は大使館のお墨付きです。

ところで、2013年の秋に困ったことが起きました。いくつかのTV番組で相次いで紹介されたことから、お客が殺到して品不足となってしまったのです。オーストリアに住んだことのある友人に本物のソーセージを送ろうと遠路はるばる訪れたのですが、生憎と全製品売り切れ。TV放送の威力を思い知らされた次第です。(写真:嶋田淑之氏のブログ から

甲斐 晶(エッセイスト)

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きよしこの夜伝説

 Oberndorfchapel世界で一番愛唱されているクリスマス・キャロルが「きよしこの夜」であることに異論はないでしょう。300以上の言語に訳されているそうです。

 オリジナル曲がギターの伴奏であったことから、パイプオルガンのふいごがネズミに囓られて壊れてしまい、急遽、副司祭のJ・モールが自作の詞をオルガニストのF・グルーバーに見せて作曲させたとの伝説が生まれたようです。(1943年に米国で出版された「きよしこの夜物語」にこの逸話が紹介されたのがその始まりとされています。)

しかし、最初の演奏がなされたオーベルンドルフ聖ニコラス教会の跡地に立つ、きよしこの夜記念堂のHPにはその由来に関しこう書かれています

Gruber18541030日付けのグルーバー自筆の由来記には『18181224日のこと、モールが自作の詞をグルーバーに渡し、ギター伴奏で合唱隊と二声ソロの曲を付けるように依頼した。』とあります。その日遅くグルーバーがモールに作品を渡し、気に入ったモールがこれを夕拝の一部に使用。モールがテノールを歌ってギター伴奏をし、グルーバーがバスを歌いました。グルーバーは、参列者(ほとんどが船舶運送人や船大工とその家族)のみんなが『この歌に満足』したと言っています。

「グルーバーの由来記には、この歌の創作の切っ掛けについて具体的な事情は書かれていません。ひとつの推測では、教会のオルガンが壊れてしまったので、モールとグルーバーがギター伴奏の曲を作ったことになっています。この「きよしこの夜」の初演をめぐっては、多くのロマンチックな物語や伝説が作られ、知られている史実にそれぞれ逸話に富む詳細を付け加えているのです。」

「モールの署名入りの自筆譜が1995年に発見され、そこに『作詞、副祭司J・モール、1816年』とあることから、作詞は既に1816年になされていたと考えられています。また、この自筆譜の右上に『作曲、F・グルーバー』と明記されています。」

『きよしこの夜』が作られたのは、ナポレオン戦争(1792-1815)直後の厳しい社会情勢下でした。ウィーン会議の結果、新たな国境線が画定し、『きよしこの夜』が初演されたオーベルンドルフは1818年にザルツァッハ川の向こう側のラウフェン(ドイツのババリアに帰属)から分離されてオーストリアのザルツブルグに編入されたのです。何世紀にもわたり、岩塩の船輸送が地域経済の基盤でしたが、ナポレオン戦争中に衰退の一途を辿り、回復することはありませんでした。この結果、地元は不況となり、運送業、造船業とその労働者が職を失い、将来に不安を抱くような困難な時期(1817-1819)にモールはオーベルンドルフで過ごしたのです。また、モールの前任地マリアプファールは、ババリア占領軍の撤退(1816及び1817年)に際し大きな痛手を受けました。モールはこれらのことを目撃し、それを念頭に1816年、『きよしこの夜』を作詞。そこには、平和と慰めに対する大いなる切望が表現されているのです。」

Ii現在、歌われている歌詞は3節までしかありませんが、グルーバーの原詞は6節まであります。そのうちの3、4、5節は歌い継がれるうちに失われてしまったようです。賛美歌研究者の川端純四郎氏は、「三つの節は、かなり重い内容なので、とても即興で作れるような詩ではありません」とした上で、第4節をこう訳されます。「今夜、父の愛のすべての力を注いで、私たちすべてを兄弟として恵み深く、イエスは世界の民をだきしめる。」

川端氏は「長く続いた戦争が終わり、待ち望んだ平和をたたえた歌だった」と説明します。チロルの手袋職人やコーラスグループによって紹介され、各地に歌い継がれ、19世紀中ごろには、ドイツ・ベルリンの宮廷や一般家庭で愛唱されるようになります。そして米国に伝わり、世界の隅々へ。「世界で広く歌われるようになるにつれ、政治的、社会的状況にかかわる歌詞が削除された」というのが川端氏の解釈なのです(川端純四郎「さんびかものがたり Ⅱ」日本キリスト教団出版局)。

毎年クリスマスイブに記念堂で6節版のオリジナルの「きよしこの夜」が演奏され、その様子はネットで紹介されています。

甲斐 晶(エッセイスト)

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コンチータ・ヴルスト

 Eurovisionlogoユーロビジョン(Eurovision)をご存じですか?

欧州および北アフリカの放送局からなる組織、欧州放送連合European Broadcasting Union)が提供する特別なTV音楽番組の冒頭に表れる統一ロゴです。有名なのは、毎年、元日の朝(日本では夜)に全世界に向かって放映される、ウィーンフィルのニュー・イヤー・コンサートでしょう。ロゴとともに流れるテーマソング、マルカントワーヌ・シャルパンティエの「テ・デウム」の前奏曲でお馴染みなことでしょう。

Eurovisionsongcontest2014ユーロビジョンの名を上げたのは、なんと言っても欧州統一の象徴として1956年に始まったユーロビジョン・ソング・コンテストでしょう。その優勝者にはABBAやセリーヌ・ディオンなど、その後世界的なアーティストとして活躍している歌手が多いことでも知られています。


さて、今年5月にデンマークのコペンハーゲンで開催された
2014ユーロビジョン・ソング・コンテストで、実に48年ぶりにオーストリアの歌手が優勝しました。48年前の優勝者は、Udo Jurgensで、オーストリアのさだまさしと私が勝手に呼んでいるシンガー・ソング・ライターです。時事問題などシリアスなテーマを取り上げながらも軽快な曲に仕上げてドイツ語圏で人気があります。

Conchita_wurst_2ところで今年の優勝者Conchita Wurstの舞台姿がとても奇妙であったことから、その歌唱力は別にして、大いなる議論を地元オーストリアは勿論、ヨーロッパ中に巻き起こしてしまっているのです。(その伸びやかで澄んだ歌声はYouTubeで検索して聴くことができます。あわせて、その奇抜な舞台姿もどうぞご覧下さい。)

ひと言で言えば、彼女(実は彼)は「ひげ面美人」なのです。生まれはれっきとした男性で、本名はThomas Neuwirthと言うのですが、はるな愛などと違って性転換はしておらず、マツコ・デラックスなどのような女装タレントに属します。ムキムキなのに厚化粧とど派手な衣装なのはいわゆる典型的なdrag queen(男性が女装して行うパフォーマンス)なのですが、とても濃いひげ面なのが違和感を呼びます。多分それで自分と他のdrag queenとの差別化を狙っているのでしょう。

彼女は198811月、オーストリアのグムンデン生まれ。学校時代には同性愛者であることから常にいじめられるのではないかとのおそれを感じ、休憩時間にトイレに行くのもためらうほどであったと語っています。2007年にオーストリアのタレント・オーディション番組「Starmania」で決勝に進出する一方、20112月にグラーツの服飾学校を卒業。この経験が彼女の舞台衣装姿に影響を与えているのかも知れません。

2011年からdrag queen「コンチータ・ヴルスト」として登場。この姿は「すべての人々に差異に対する寛容を呼びかける、重要なメッセージである」として、同性愛者、同性婚、性同一性障害者などへの差別の撤廃を訴えています。 ちなみに、「ヴルスト(Wurst)」とはドイツ語で「ソーセージ」を意味しており、「Das ist mir doch alles Wurst」(どれも同じ、気にしないの意)というドイツ語の慣用句に由来しているそうです。

 優勝後、故郷に錦を飾った彼女は、何千人ものファンを前にしてウィーンの新王宮前広場でコンサートを実施。大成功を収めました。コンサート前にはファイマン首相(社民党)と面談し、彼女が寛容を推進していることに謝意が表されました。

しかし、批判がないわけではありません。現政権の連立相手の国民党は、家族制度を重んずる伝統的価値観に立っており、首相の発言は歌手を政治目的に利用するものと激しく非難しています。

Eurovisionlsongcontest2015実は、彼女が昨年9月にオーストリア放送協会の内部選考によりユーロビジョン・ソング・コンテスト2014のオーストリア代表に選出された直後から、国内でも大論争となり、フェイスブックの「反ヴルスト」のページは31千を超える支持が集まったそうです。

規定により、来年のコンテストは優勝国オーストリアでの開催が決まっています。来年はどんな歌手が登場して優勝するのか今から楽しみです。

甲斐 晶

(エッセイスト)

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大坂図屏風

 
 オーストリア第2の都市グラーツは16世紀の街並みがSchloss_13461_2ほぼそのまま残された古都で、旧市内が全域、世界文化遺産に登録されています。その郊外にエッゲンベルグ城がありますが、このお城も世界遺産となっていて、神聖ローマ皇帝フェルディナント2世の顧問をつとめた公爵ヨハン・ウルリッヒ・フォン・エッゲンベルグが1625年に全宇宙をモチーフとした建てさせた平城です。すなわち、4つの塔が四季を、12の門が12ヶ月を、365の窓が一年の日数を表しているのです。
 2006年9月、このお城で250年以上にもわたって居室の壁に描かれた画の一部と思われていたものが、実は豊臣秀吉の没した慶長年(1598)前後の大坂城とその城下町の様子を詳細に描いた屏風絵(「豊臣期大坂図屏風」)で、日本国内にも残存例の少ない、大変貴重なものと判明しました。調査を依頼されたケルン大学エームケ教授が関西大学にその写真を持ち込んで判ったのです。一体、どうやって日本の屏風絵がはるばるオーストリアのグラーツで発見されるに至ったのでしょうか?この屏風絵の数奇な運命を辿ってみましょう。

 時はオランダの東インド会社が盛んに東洋の事物をヨーロッパに紹介していた頃に遡ります。日本との関係では1609年、平戸にその商館が出来て交易が始まります。記録によると1642年6月に初めて屏風の注文がなされました。屏風は壁面を飾る装飾品として紹介されましたが、紙製のため、虫食いとか船旅の途中で蒸れたり濡れたりして損傷するリスクが高いのです。あまり儲からないためか、わずか4年で取引が終了してしまいます。90双輸出したうちヨーロッパに着いたのはわずかに12双。こうした屏風の1枚をエッゲンベルグ家が入手し、市内の宮殿で使っていたようです。

 ヨハン・ウルリッヒの玄孫のマリア・エオノーラが1750年の城内改修にあたり、東洋趣味を盛り込んだロココ形式の小部屋を三つ造りました。ひとつは、磁器の間で、主に伊万里の色絵皿を部屋の壁一杯に埋め込みました。次は、中国風の布飾りの壁の間で、清朝の宮廷風景を描いた絹布をばらして、これまた部屋の壁一杯に貼り付けました。Saal_13292_2

 そして、3つ目がインドの間です(当時のヨーロッパ人にとって、東洋=インドだったようです)。

八曲一隻であった豊臣期大坂図屏風(高さ182cm、幅480cm)がばらばらにされ、8枚のパネルとして壁面に埋め込まれ、西洋人の画工が想像して描いた中国趣味の絵と交互に飾られたのです。

こうした思いがけない扱いを受けたことがかえって幸いして、屏風絵を現代まで生き延びさせたのです。2000年にパネルのByobu_1790修復が行われたのが再発見のきっかけでしたが、パネルを外してみると枠の合間ごとにカンバスが張られて和紙が補強されており、パネルに入れられた事で湿気や温度の変化による劣化から守られました。また、城は第二次世界大戦中に侵攻したソ連兵の略奪に遭って多くの美術品が持ち去られましたが、壁と化していた屏風絵は略奪者の手から無事守られたのです。

お城のサイトに屏風絵の詳細な説明があります豪奢な大坂城の城郭のみならず、秀吉にゆかりの神社仏閣や町屋が描かれるとともに、500人もの老若男女が詳細に描かれ、当時の武士や町人などの生活ぶりを覗うことができます。この屏風絵については、その発見に関わった三者、エッゲンベルグ城を含むシュタイアーマルク州立博物館ヨアネウム、関西大学、大阪城による共同研究が2007年に立ち上げられその成果が広く発表されています。また、日墺修好140周年の20099月、オーストリア大統領の来日の際にエッゲンベルグ城と大阪城の姉妹城郭提携が結ばれました。

共同研究の成果を紹介したBShi特集番組を見て、機会があればこの目で見たいものと願っていましたが、ある秋の日、その願いが叶いました。ただ、くだんのインドの間は防犯警報装置が厳重で、屏風絵を間近で眺めることが出来ませんでした。せめてもレプリカの展示でもあればなあと思った次第です。

    甲斐 晶(エッセイスト)

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ヴィッレンドルフのヴィーナス

 F_296_1 ユネスコの世界文化遺産に登録されたオーストリアの名所旧跡のひとつにヴァッハウ渓谷があります。バロック様式の修道院で有名なメルクから下流のクレムスまでの約30kmにわたるドナウ河両岸の一帯で、大変風光明媚な地域です。その南斜面にはぶどう畑が広がり、穏やかな気候と軽土壌がブドウやその他の果実の生産に理想的な条件を作りだしており、オーストリア有数のワインや果実酒(シュナップス)の産地となっています。

Img_0551 春先には、河畔の並木に桜の花に似た美しい杏の花が咲き乱れるので、ウィーン在任中には、「お花見」に良く出かけたものです。最近、日本からウィーンに戻ったオーストリアの友人からも、春を迎えて日本の桜が恋しくなり、ヴァッハウまで杏の花を見に行ったと聞いて、同様の感じを抱くのは日本人だけではないなと思ったりしました。

Willendorfpanorama そんなヴァッハウ渓谷にある小さな村、ヴィッレンドルフにおいて、20世紀の初頭に考古学上重要な発見がなされたのです。

既に19世紀後半には、この村の名は、考古学的遺物の名品が出土することで個人蒐集家の間において知られるようになっていました。そして1908年のことです。ドナウ河北岸に沿ってヴァッハウ渓谷のクレムス-グライン間に鉄道の建設が進められました。これに伴って、発掘現場での掘削が行われ、「ヴィッレンドルフのヴィーナス」の発見となったのです。それは、石灰石に彫られた大きさが11cmほどの女性の裸像で、現在では、ウィーンの自然史博物館に展示されています。最近のカーボン14による年代測定では、紀元前2万5千年前後のものと推定されています。

「ヴィーナス」という名称からは、Venus_of_willendorf美しい均整のとれた女性の姿を想像し勝ちですが、実際にはその名とはほど遠い、ふくよか過ぎるほどの女性の姿なのです。しかし、その古い推定年代と女性の身体的特徴を強調した形状から有史以前の美術品の象徴となり、旧石器時代を代表するものとして、芸術史の入門書に登場するようになりました。

ご覧になれば分かるように、まず、大きくせり出した腹部と著しく豊満な胸に目が止まります。胴回りには、たっぷり脂肪が付き、見事に発達した腰と巨大ながらも平坦な臀部へとつながっています。立派に太い大腿部の先には、申し訳程度の下腿部と足の部分が省略気味に表現されています。

一方、両方の前腕と手も極端に細く、大きな胸の上部にそっと置かれています。お臍まで達するかに見えるその豊満な乳房には、張りがあり、決して垂れたような感じはありません。要するに超肥満な中年女性のような裸像なのです。

その頭部は、編んだような髪が頭頂から始まってぐるりと7重に巻かれ、本来顔である部分の半分以上が覆われている結果、顔自体は省略された形になっています。

さて、この「ヴィーナス」像は、どのような目的で作られたのでしょうか。色々な説がありますが、手足や顔が省略され、豊満な女性的な部分のみが誇張されていることから、子孫繁栄、豊饒のシンボルとして使用されたのではとか、単に石器時代の子供の玩具用人形だとか考えられています。

Venussoap_001 インターネットを検索すると、この像をモチーフにしたブローチやオーナメントなど各種グッズが売り出されているのにはびっくりですが、この像の持つ神秘性を利用して、これを所有すると癒しの効果があるとか、幸運になるとかの謳い文句が並んでいるのにはいささか苦笑させられます。

傑作は、この像を型取った石鹸で、使っているうちに細身のヴィーナスに変わることから、使用前・使用後の両方の写真を掲げて、ダイエットの補助用品としているのは、アイデア商品でしょう。

Venusiumimg_1410 ある春の日、杏の花を愛でがてらヴィッレンドルフ村に出かけ、発見場所の巨大な「ヴィーナス」の記念碑の前で写真を撮っていると、妙齢のオーストリア女性が通りかかりました。眼前の像に勝るとも劣らない彼女の体型に、時代を超えて不変なものもあるのだなとの感を強めたものです。

甲斐 晶(エッセイスト)

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ノイジードラー湖

 Main_karte ウィーンからハンガリーに向けてドライブを続けて行くと、なだらかな丘陵地帯に入り、次第にステップ風の景色に変わります。そんな中に、長さ36km、幅7~15km、面積320km2のヨーロッパ最大のステップ湖、ノイジードラー湖があります。

湖の真ん中には、オーストリアとハンガリーの国境線が走っており、その周辺には130㌶の葦原が広がっています。ハンガリーと共同で設置された自然保護区は、面積が2万㌶(うち約12千㌶はハンガリー側に)あって、Neusiedlerseecard世界的に重要な生態系を形成していると同時に、海のないウィーンの人たちには、湖水浴場として親しまれています。実際、湖水は僅かに塩分を含み、葦原で幹線道路から隔てられていることから海のような印象を与え、「ウィーン子の海」とも呼ばれています。

2001年に、この地域は、ハンガリーと共同でUNESCOの世界自然・文化遺産に指定されました。貴重な動植物の宝庫で、珍しい蘭の種類が生育していたり、チドリ、サギなど10数種の渉禽類や水鳥が生息し、Nseeヨーロッパとアフリカを渡る鳥の重要な中継地となっています。300種もの珍しい鳥がこの湖に引き寄せられ、また、150種ものツル、コウノトリなどが繁殖のために飛来します。したがって、バード・ウォッチャーでなくとも、鳥の観察には格好の場所で、双眼鏡は必携です。ここは、産卵のためにやって来る灰色ガンを研究し、「刷り込み」現象を見出してノーベル生物学賞を受賞したローレンツ博士の主たる研究の場でもありましたDia_konradlorenz

 湖畔の道路は、ほぼ平坦でサイクリング道も整備されていますし、歩きやすい道ですので、特別な靴を履いていなくてもウォーキングに最適です。湖水浴場のポーダースドルフからイルミッツへのサイクリングの途中では、野鳥保護区で小休止をして、水鳥の観察をする楽しみもあります。

 Csc_0109 日照時間が長いことから湖畔の丘陵地帯には、無数のワイン畑があり、イルミッツ、ノイジードル・アム・ゼー、ルスト、メービッシュなどは、ワインの産地としても知られています。そういえば、アフリカから飛来するコウノトリが屋根に巣をつくることでも有名なルストでは、その昔、不凍液入りの高級ワイン騒ぎがありました。ワインの品評会で最高賞を取ったルスト産のアウスレーゼが、実は、まがい物だったのです。

 メービッシュなどでは、ハンガリーとの国境が近いことから、観光客用ではありますが、居酒屋でジプシー音楽を楽しむことが出来ます。Reise_osterreich_neusiedlersee_pustまた、イルミッツでは、広大なステップ草原を背景にジプシー風の釣瓶井戸、あの独特の巨大な天秤のような井戸を見ることが出来ます。

ハンガリーがまだ共産圏であったときには、国境の町メービッシュのはずれには、高い監視塔と湖水の中まで延々と続く鉄条網が物々しく、Austrianeusiedlersee重苦しい雰囲気がありました。当時、国境に関係なく自由に行き来できる鳥や魚が羨ましいとの話を聞いたものです。それが、自由化直後に訪れたときには、あの鉄条網は廃止され、人々がハンガリーに続く湖畔の道を三々五々行き来しているのを見て、隔世の感を抱きました。

  Zugesch_v5j64633792 メービッシュは、夏の夜に湖上オペレッタが開かれることでも有名です。湖上に舞台セットが設けられ、これと相対して湖畔に観客席がしつらえられます。楽しいオペレッタの演目が7月中旬から8月下旬にかけて上演され、人気を博しています。呼び物は、公演が終わった後に湖上に次々に打ち上げられる華やかな花火なのですが、残念ながら日本の花火の比ではありません。

2010年の出し物は、すでに「ロシアの皇太子」(Der Zarewitsch)と決まっています。Derzarwitsch来年夏にお出かけの予定の方はインターネットで予約が可能です。ただし、気を付けないといけないのは、気温が高ければ蚊に刺されますので、虫除けスプレーを持参する必要があります。逆に、8月下旬にもなると、陽が落ちれば湖畔は急激に気温が下がります。一応、膝掛けを貸してはくれますが、セーターなど防寒具の用意は欠かせません。

甲斐 晶 (エッセイスト)

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皇帝フェルディナントⅠ世

2003年は、ハプスブルグ家による君主体制を確立した皇帝フェルディナントⅠ世(1503-1564)の生誕500年にあたり、これを記念した特別展がウィーンの美術史美術館で4月中旬から8月末まで開催されました。

Rudolf1 ご存じのように、ハプスブルグ家の始祖は、ルドルフⅠ世(1218-1291)で、元来、スイス北部の一豪族でしたが、ヨーロッパ群雄割拠の時代に、戦闘や諸侯との協約によりライン河に沿って着々と領土を拡大。1273年フランクフルトでの選定候による選挙によって、ドイツ王に選ばれ、アーヘンで、「ソロモンの王冠」(のちに神聖ローマ帝国の帝冠として500年にわたって使用、Oukan2現在はウィーンの宮廷宝物館に展示)を戴冠しました。1276年には、オーストリアに進出を果たし、ほぼ6世紀半にわたってウィーンは、ハプスブルグ家の支配下に入ったのです。

さて、皇帝フェルディナントⅠ世は、イベリア半島カスティリアに生まれ、そこで教育を受けましたが、16歳でオーストリアの領土の後継者(ルドルフⅠ世から11代目)として指名されるまで、ネーデルランドに暫く居ました。彼は常にその兄、皇帝カールⅤ世(スペイン王も兼務)の影に隠れる存在であり、また、ハプスブルグ家の他のメンバーの方がより魅力的で人気もありましたが、オーストリア史においては、最も重要な支配者と考えられています。

Kaiser_ferdinand1 すなわち、彼の時代にネーデルランドからエルベ河までオーストリアの版図が拡大し、ハプスブルグ家の家訓である「戦(いくさ)は他家にまかせておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ。」との統治政策に沿った二重婚姻(両家の2組の兄妹同士が婚姻関係を結ぶこと)によって、ボヘミア・ハンガリー王国の王女アンナを娶とり、結果としてこれらの支配権を得ることになりました。こうして、ボヘミア・ハンガリー王国とアルプスとドナウを中心とするハプスブルグ家の領土との統合が達成されたのです。彼は、東の強大なオスマントルコ帝国と西のドイツとの間に挟まれた、中部ヨーロッパにおける多民族帝国、「太陽(ひ)の沈むことなき帝国」の基礎を築いたのです。彼は、先の家訓に忠実だったのか、妻アンナとの間に、実に16人もの子供をもうけました。この点では、かの有名な女帝、マリア・テレジア並みです。

皇帝フェルディナントⅠ世は、ウィーンに居を構えたばかりでなく、プラハにも住んで、これらハプスブルグ家の宮廷を中心として、芸術・文化の振興に力を入れ、積極的に支援しました。その結果、多くの芸術家を輩出しました。20090305_446113

従って、生誕500年記念の特別展では、こうした芸術家も含めた同時代の作者による作品が展示されていました。その中には、ピサネロ、チチアン、アルチンボルド、デューラーなどの作による絵画、描画、細密画、彫版画のほか、有名な甲冑作者による豪華な甲冑類、華麗なネーデルランドのタペストリー、見事な金細工などがあります。また、彼の時代には、トルコ軍の第一次ウィーン襲来や、ルターなどによる宗教改革の波を経験しており、これらにちなんだ展示もなされました。

ウィーン美術史美術館の新しいサービスとして、全館の展示について、随所において音声ガイドによる解説がなされています。特別展に関しても、入館者は、簡単な操作でこれを聴くことのできるハンディ・フォーンを無料で借りることができ、しかもドイツ語ばかりでなく、英語などの外国語でも聴け、よく分かるので、入館者には好評でした。180pxhans_bocksberger_der_aeltere_0

この特別展のシンボルは、タリバン風の帽子に出身地スペインの衣裳を身に着けた、初老の彼の全身肖像画です。ハプスブルグ家特有の大きな鼻と突き出た顎の容貌に、見事な髭をたくわえた威厳あるその姿には圧倒されます。ただし、大帝国の頂点に立った彼ですが、その行く末を見据えるかのように遠くを見る眼には、心なしか憂愁が漂っているように思えました。

甲斐 晶(エッセイスト)

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アルトシュテッテン城

 アルトシュテッテン城のことをご存知で、わざわざここを訪れたことのある方は、よほどのオーストリア通でしょう。ここには、あの第一次世界大戦のきっかけとなったサライエボでの暗殺事件で命を落とした、フェルディナンド皇太子(大公)がその最愛の妻ゾフィーとともに葬られています。079_ferdinando

彼は、悲劇の皇帝と呼ばれたフランツ・ヨーゼフの甥でした。本来なら、皇帝の一人息子のルドルフがハプスブルグ朝の帝位を継承することになっていたので、彼が歴史にその名を残すことは無かったのかも知れません。しかし、ルドルフ皇太子がマイヤーリンクの狩の館で愛人と心中してしまったことにより、彼が皇位継承順位第一位となり、結局、セルビアの民族主義の秘密組織に命を狙われることになってしまったのです。

アルトシュテッテンは、ウィーンから100kmほどドナウ川を遡ったペヒラルンの近くにあり、バロック様式の修道院で有名なメルクからもそう遠くはありません。以前から訪れてみたいと願っていたところ、その近くで私の参加する会議が開催されたことから、ようやくその機会に恵まれ、会合出席者とともにハイキングがてら出かけて見ました。

102_schloss アルトシュテッテン城は、こぢんまりとしていて、城と言うよりは、むしろ館と言った感じです。建物全体がサライエボでの暗殺事件を中心としたフェルディナンドとその家族にちなんだ事物を常設展示する博物館となっていました。常設展のテーマは、「愛と帝冠のために」。オーストリアの博物館には珍しく英語の説明文もあり、妻ゾフィーに対する彼の愛と皇位継承との狭間の葛藤やサライエボ事件の秘められた事実を知ることが出来ました。

彼らが非業の死を遂げた遠因として、その結婚が貴賎婚姻だったことが挙げられます。将来の伴侶として彼が選んだ女性は、こともあろうに、ボヘミアの下級貴族の娘であることを知ったフランツ・ヨーゼフ皇帝は、「結婚を取るか、帝位を取るか」と大公に迫りました。しかしその両方を望む彼は、結局、結婚を認めてもらう代わりに、①皇位継承者の妃が受けるべき称号や特権は一切与えられない、②二人の間に生まれる子供達にハプスブルグ家の公子としての相続権、大公の名称は認められないとの屈辱的な条件を受け入れたのです。078_sophie

こうしてゾフィーは、皇太子の妃でありながら皇家の序列としては最下位を甘受せざるを得ず、公式行事において夫のフェルディナンドに同伴することは許されませんでした。しかし妻を愛する彼に唯一無二のチャンスが訪れました。ボスニア・ヘルツェゴビナでの軍事演習を指揮した後に予定されたサライエボへの公式訪問にゾフィーを同伴することが特別に皇帝から許可されたのです。

さてサライエボ訪問の当日、パレードの隊列に爆弾が投げ込まれるというハプニングがありましたが、幸いにも皇太子夫妻は難を逃れました。そこでパレードを中止していれば、悲劇は避けられたことでしょう。084_principしかし、急遽、当初の予定コースを変更したうえで、負傷者を見舞うことになったのですが、この情報が運転手にまで伝わっていませんでした。当初のコース通りに車が交差点を曲がろうとした際、その間違いに気付いた関係者がこれを正そうとして、隊列が停止してしまったのです。正にそこに盟約団「黒手組」の狙撃者、プリンツィップが待ち構えており、好機を逃がしませんでした。彼らは、その凶弾に倒れたのです。

彼らの死んだ後もその貴賎結婚の制約が厳然として実施されました。彼らの遺体は、ハプスブルグ家代々の皇帝や皇妃が眠るウィーン市内のカプチーナ教会の霊廟に収められることが許されず、はるばるとウィーンから100km以上も離れたこの地に運ばれて来ました。

097_tomb 夫婦同伴で公式の場に出たいとの彼の願いが初めて叶った時が、その最後の機会になってしまったとは、歴史の皮肉と言わざるを得ません。しかし、この城の地下廟において、フェルディナンドの棺は最愛の人の棺に寄り添うように並んで安置されており、訪れる者に感銘を与えているのです。

甲斐 晶(エッセイスト)

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センメリング鉄道

 かけがえのない地球上の自然景観や先人の残した偉大な文化遺産を国家の枠を超えて保護し、次の世代に継承するために、様々な国の遺跡・文化財、自然環境がユネスコによって「世界遺産」として登録されています。20087月現在、878件(文化遺産679件、自然遺産174件、複合遺産25件)の物件が指定されています。

24034_hallstatt_197115 オーストリアでは、ザルツブルグ市歴史地区(1996)、シェーンブルン宮殿・庭園(1996)、ハルシュタット及びダッハシュタインのザルツカンマーグート文化的景観(1997)、センメリング鉄道(1998)、Graz_panorama_p グラーツ市歴史地区(1999)、ヴァッハウ渓谷文化的景観(2000)及びウィーン歴史地区(2001)の7件が、また、ハンガリーと連名でノイジードラー湖文化的景観(2001)が登録されています(数字149961d91be3354471b7814e2b6a72c5は、登録年)。このうち、 センメリング鉄道は、土木技術上の傑作として登録されている点で特色があります。

この鉄道は、ベニス生まれのカール・リッター・フォン・ゲーガ Ghega(Carl Ritter von Ghega [1802- 1860])によって1854年、6年の歳月を費やしながら世界初の山岳鉄道として完成しました。当時のオーストリア帝国内のウィーンからトリエステ(現在イタリア領)へ向かう鉄路の一部として設けられたものです。

Karte20mit20semmeringbahn ウィーンの南西約75kmの下オーストリア州グログニッツ(Gloggnitz)からシュタイヤマルク州ミュルツツーシュラーク(Mürzzuschlag)まで直線距離にしたら約21kmの区間なのですが、Semmeringbahnsemmeringniederoesterr 最大標高差が459mもあり、また、その途中海抜1000m近くの山岳地帯を縫って行かなければならないため、その総延長は、直線距離の2倍の約42kmとなっています。この間の地形的な難しさを克服するために、15の大きな高架橋(延べ約1.5km)を架け、16のトンネル(延べ約5.4km)を穿たねばなりませんでした。ゲーガは、原則としてこれら構築物の資材に鉄鋼を使用することを拒み、65百万個のレンガと8万枚の板石を用いたことから、「レンガ鉄道」となった次第です。

200643010135937814 高架橋の一部は、ローマ時代の水道橋のように、二重構造となっており、自然環境とも調和した美しい姿を残しています。ダイナマイトの発明される前で、日本では幕末に当る当時、鉄道土木技術の粋を集めて完成した世界初の山岳鉄道は、オーストリアの大きな誇りなのでしょう。センメリング鉄道がオーストリアの20シリング紙幣の意匠として用いられていたことがあります。表にはゲーガの肖像が、20064301014661445裏にはオーストリア・アルプスを背景に美しい景観の一部をなしている優美なカルテ・リンネの二重高架橋が描かれていました。

実は、明治初年にこのセンメリング鉄道を旅した日本人の一行があります。明治維新後の新たな国造りのため、欧米の近代的諸制度を調査する目的で派遣された岩倉具視を団長とする使節団が、187363日、イタリアからセンメリング鉄道経由でウィーン入りしたことがZz_046 「米欧回覧実記(四)」(久米邦武編、岩波文庫)に記されています。「山脚走リテ路ヲ塞ケハ、洞ヲ刳(エグリ)テ背後ニ出ル、臥龍ノ頷(ノド)ヲ探ルカト疑フ、己ニシテ両石対峙ノ谷ニ至レハ、高梁ヲ造リテ、双虎の踞ヲ超過ル」

と美文調で鉄道土木技術の粋を描写するとともに、「墺国ニイリテヨリ、鉄路ハ常ニ山険ヲ越エ、山水ノ奇甚タ多キ中ニ、殊ニ此「セメリンク」ノ景ハ、人目ヲ聳カシ、鉄路建設ノ壮ヲ極メタレハ、今日鉄路ノ勝ハ、此ヲ第一トナスヘシ」と最大級の賛辞をもって、自然景観と調和した鉄路建設の様子を記しています。M80_1

開設当初は、蒸気機関車によって2時間以上もかかって峠越えしていたセンメリング鉄道も、105年後の1959年には全線が電化され、現在では、40分余りで行くことが出来ます。その昔、峠越えに苦労したセンメリングは、モータリゼーションの進展の結果、ウィーンから小1時間の距離にあるスキー場になっています。

今やすっかり便利になりましたが、列車の車窓から眺める素晴らしい景色は、刻一刻変化して飽きることがなく、岩倉使節団の昔といささかも変ってはいないようです。

甲斐 晶(エッセイスト)

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