食べる

サイボクハム

Saiboku_86_4埼玉県日高市に「農」のディズニーランドと呼ばれる牧場、サイボクハムがあります。年間400万人近くもの人々が訪れるというその魅力の秘密は、何と言っても美味しい高品質の豚肉と本場ドイツ仕込みのハム・ソーセージ類、本格的なドイツパンにあります。

サイボクハムの正式名称は「埼玉種畜牧場」と言います。東京ドーム約3個分もの広大な敷地内に、レストランを始め、工場直売のミートショップ、カフェテリア、自社製パン工場、ハム・ソーセージ製造工場、特産品販売所、農産物マーケット、そして温泉施設までが併設されていて、一大「豚のテーマパーク」、「食のテーマパーク」となっています。

その存在を知ったのは、約20年前のこと。ウィーンへの赴任から戻って日高市の近くに居を構えたことから、近隣在住の知人に教えられたことによります。当Photo01時はまだ小規模な手作り感のある施設で、季節によっては近くの豚舎から得も言われぬ香りが漂ってくるほど。また、時折、二代目社長笹崎静雄氏の姿(写真上:日経ビジネス )をミートショップでお見かけし、声をお掛けすることもありました。

サイボクハムは戦後まもない1946年に先代社長の笹崎龍雄氏が日本の食料事情を改善しようと、養豚業をこの地で始めたことに由来します。龍雄氏は立志伝的な人物で、「養豚大成」という養豚業のバイブルともいえる本を著し、我が国の養豚業の普及に力を尽くした方です。(以前は、その著作本のほか、経営理念などが書かれた機関誌「心友」がミートショップの店頭に並んでいました。)

Sgp_86_6畜産と言えば牛(酪農)と鶏(養鶏)が主であった当時にあって、養豚業を唱えることには大変な努力と苦労があったようです。社名に「種畜」があるように、種豚の品種改良によって高品質の豚肉を開発し、これを消費者に届けようとしたのです。その結果、世界に誇る品質の豚肉「ゴールデンポーク」や「スーパーゴールデンポーク」そしてこれらを使った本場ドイツ仕込みの美味しいハム・ソーセージを生み出しています。しかもその評価は世界的に認められており、ドイツ農業協会(DLG)食品コンテスト「国際食品品質競技会」では、3年連続で[最優秀ゴールド賞]を受賞しているほどです。

原料となる豚の育成から加工、販売までを一貫して行うという、現在のユニークな畜産スタイルを生み出すとともに、食と健康のユートピア(ミートピア)を創造するというテーマに取り組んできたのは、龍雄氏のご子息で現社長、静雄氏なのです。インタビューにこう答えています。

「周囲は大学を卒業して入ったばかりの若僧が何を言っているのかと反発の嵐です。そこで、一度会社を出て食肉センターと売り場で1年あまりゼロから精肉を学びました。しかし、1000軒を超える精肉店を回った結論は、サイボクハムの品質はトップレベルだということでした。再び会社に復帰した後、さらに提案を繰り返し、そこまで言うならとようやく父が認めてくれ、小売りがスタートできました」。

オープンした6坪の店の初日の売り上げは僅か2000円だったそうです。それが今や年間来訪者400万人、売り上げ約60億円となるまでに発展したのは、やはりジューシーで美味しい豚肉と本物志向のハム・ソーセージの味でしょう。

Hamsausage_86_1日本人好みの甘い味に仕上げられた大手メーカーNハムやIハムの製品に満足できないオーストリア駐日大使ご夫妻に私からサイボクのハム・ソーセージをお送りしたことがあります。早速お眼鏡に叶い、以来、大使館のパーティには必ずサイボクの品を取り寄せておられたという逸話が残っているほど、その味は大使館のお墨付きです。

ところで、2013年の秋に困ったことが起きました。いくつかのTV番組で相次いで紹介されたことから、お客が殺到して品不足となってしまったのです。オーストリアに住んだことのある友人に本物のソーセージを送ろうと遠路はるばる訪れたのですが、生憎と全製品売り切れ。TV放送の威力を思い知らされた次第です。(写真:嶋田淑之氏のブログ から

甲斐 晶(エッセイスト)

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フォアグラ談義

 Imagescakhfbok 昨年の暮れも押し詰まった1227日、ハンバーガーチェーンWendy'sの再上陸第1号店が表参道にオープンしました。廉価戦略のマクドナルドとの差別化を図ろうとしているのでしょう、新生Wendy'sは店舗もメニューも高級志向です。Japan Premiumと名付けられた4種の日本限定メニューの中での注目は「フォアグラ・ロッシーニ」。価格は1,280円もしますが、フランス料理の中でもグルメの象徴とされる「ロッシーニ風ステーキ」をハンバーガーに仕立てたもので、ハンバーグの上にフォアグラのテリーヌを乗せ、「マデラ酒とバルサミコを煮詰めた芳醇なソース、そして香り豊かなトリュフクリームで仕上げ」ているそうです。世界三大珍味、キャビア、トリュフ、フォアグラのうち2つを用いているのですから贅沢至極です。

 Fg1001f_big ところで、新鮮なフォアグラのソテーは秀逸です。フォアグラといえば、これを加工したパテ(レバー・ペースト)やテリーヌが一般的ですが、個人的にはあのもてっとした食感が駄目でした。しかし、ある時、フランス駐在の友人を訪れた際に、「ここのレストランの生フォアグラのソテーはお勧め」と言われて試してから病み付きに。レバー特有の臭みが全くなく、口の中に入れると舌の上でとろけるおいしさです。新鮮な生フォアグラが入荷しないと出来ないので、メニューには乗らないというしろもの。お刺身のネタ並ですね。日本でも、フォアグラ丼なるメニューのあるお店もありますので、どうぞお試しあれ。(画像:http://www.gourmet-world.co.jp/shopping/?page=product&prod=89

 フォアグラの主要生産国はフランスとハンガリーです。後で述べるような方法によってフランスではアヒルからフォアグラを生産しているのに対して、ハンガリーではガチョウを用いています。2004年の統計では、フォアグラの年間総生産量23,670トンのうち、フランスが76%、ハンガリーが11%を占め、ブルガリアが第3位、8.5%です。

 さて、フォアグラの製法はアヒルやガチョウにとってちょっと残酷なやり方です。フランス語でフォアグラ(foie gras)とは、肥満した(gras)肝臓(foie)という意味で、アヒルやガチョウに無理矢理、餌を食べさせて人工的に作り出した脂肪肝なのです。そもそもカモの類は渡りを行う際に予め肝臓に脂肪を蓄えて脂肪肝になる性質があり、これを利用しているのです。

Tky201111100634 強制給餌のやり方はこうです。初夏に生まれた雛を野外の囲い地で牧草を餌に十分運動させて育て、基礎体力を付けさせます。(ウィーンに駐在していた頃、ハンガリーの窯元ヘレンドを訪ねる途中、プスタ平原に放し飼いになっている多数のガチョウの群を見ました。きっと基礎体力醸成中だったのでしょう。フォアグラを取った後の羽毛はダウンになりますから、実に一石二鳥です。)(画像:http://images.google.co.jp/imgres?q=%E3%83%95%E3%82%A9%E3%82%A2%E3%82%B0%E3%83%A9+%E5%BC%B7%E5%88%B6%E7%B5%A6%E9%A4%8C&hl=ja&rlz=1T4TSHD_jaJP324&biw=1024&bih=372&tbm=isch&tbnid=NgZI4RqcDqhr0M:&imgrefurl=http://digital.asahi.com/articles/TKY201111100643.html&docid=S07Yps7r1AiICM&imgurl=http://digital.asahi.com/articles/images/TKY201111100634.jpg&w=500&h=336&ei=2vD6T8W0GoLu-gaE3pXfBg&zoom=1&iact=hc&vpx=683&vpy=53&dur=3782&hovh=184&hovw=274&tx=182&ty=132&sig=110260935287841849764&page=1&tbnh=101&tbnw=143&start=0&ndsp=14&ved=1t:429,r:12,s:0,i:107

B0083560_1653571 夏を越して秋になると狭い場所に閉じ込めて運動できないようにし、消化しやすいよう柔らかく蒸したトウモロコシを漏斗で強制的に胃に詰め込む作業を毎日3回繰り返し、これを1ヶ月続けると肝臓が肥大して2kgもの脂肪肝になるのです。(画像:http://plaza.rakuten.co.jp/anticablog/diary/201206280001/

このように大量の飼料を無理矢理食べさせるのは動物虐待だとして愛護団体が猛烈な抗議やボイコット運動を展開。その結果、オーストリア、ドイツ、英国など欧州14ヶ国において強制給餌が法律で禁止されるとともに、かつてのフォアグラ生産国のイスラエルでもフォアグラの生産が禁止されるに至っています。さらに米国カリフォルニア州では、強制給餌とフォアグラの販売の禁止を本年7月から実施しています。また、欧米のスーパーや航空会社ではフォアグラの販売禁止や機内食からのフォアグラの追放を行うところが増えています。一方、こうした世界的な趨勢にあらがうかのように、フランスではフォアグラは文化遺産の一つであって保護されるべきとの国会決議が2005年になされていますし、ハンガリーでも食の伝統文化であるフォアグラの保護と財政支援などを行う法案づくりの動きが進んでいるそうです。

このように賛否が分かれるグルメ食材のフォアグラですが、その美味しさの魅力に負けて食べ過ぎてしまうと、ご自分の肝臓がフォアグラ状態になりますので呉々もご用心、ご用心。

甲斐 晶(エッセイスト)

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白アスパラガス

  ウィーンに暮らしていると食材に季節感を感ずることは少ないのですが、そんな中で白アスパラガスは、ちょうど筍や初鰹のように春から初夏の季節の到来を人々に告げてくれます。5月ともなると、あちこちのレストランに、「アスパラガス有ります」との看板が出て食欲を大いにそそります。

 Spargel2日本でアスパラガスと言えば、グリーンアスパラガスが普通ですが、ヨーロッパでは、白アスパラガスが主です。28年前にウィーンに初めて赴任した頃には、グリーンアスパラなどどこの八百屋にも見当たらず、戸惑ったものです。旅先のザルツブルグの青空市場で偶然グリーンアスパラを見つけて感激した記憶がありますが、最近では、ようやくウィーンでもグリーンアスパラが手に入るようになりました。国際化のお陰でしょうか。

 0a021fe7ddthumbnail2 実は、グリーンアスパラも白アスパラも本来は同じ種なのですが、直射日光を避けるために盛り土(高さ25cmほどのウネ)によって栽培されるのが白アスパラです。ウネから穂先が出ると日光の作用でまず先端が紫色になり、次第にクロロフィル(葉緑素)が形成されて茎全体が緑色のグリーンアスパラになってしまいます。

Anbau01 そこで白アスパラは、土盛りの中で穂先が延びて地面を割って出る直前に、土盛りの表面の亀裂を目安に収穫します。特に穂先が折れやすいため、独特の道具を使って注意深く採取するのです。どうも日本では、こうした栽培に手間の掛かる白アスパラが農家に敬遠されているようで、このため入手が困難なのではないでしょうか。白アスパラの等級は、穂先の締まり具合、太さ、長さ、真直度などが基準となって値段が決まります。ウィーンでなら一級品でも1㎏あたり800円程度で買えるのに、日本では、インターネットで北海道から産地直送品を注文すると2,5003,000円もしていましたが、最近では、近くの生協でも手頃な値段で売るようになりました。でも、調理の仕方が分からなかったりで、日本で白アスパラが普及するのには、まだまだ時間が掛かりそうです。

800pxspargel_sauce_hollandaise 勿論、ウィーンでもレストランで食べる白アスパラは、良い値段がします。立派な太めのものを5、6本茹で上げてお皿に盛り、オランダ風ソース(卵黄とバターがベースのソース)を掛けたものが1,3002,000円程度します。しかし、たかが白アスパラと侮ること無かれ。実に風味深く、結構お腹が一杯になるのです。まあ、日本の竹の子のようなものでしょうか。

200506ll アスパラガスは、タマネギやニンニクなどと同様にユリ科の植物ですが、多年生で、種をまいてから2~3年でようやく収穫できるようになり、その後10年以上も採取することができます。放っておくと1~2mにも背丈が延びますが、食用には、先に述べたように若い芽のうちに収穫したものを供します。アスパラガスは、雌雄異株で、食用として栽培されるのはもっぱら雄株の方です。

古代ギリシャ時代から、アスパラガスは、利尿作用、鎮静作用のある植物として知られていますが、低カロリーでビタミン(A、B1、B2、C、Eなど)やミネラル(亜鉛など)が豊富なほか、新陳代謝を高め、疲労回復に効果があるとされるアスパラギン酸を含んでいます。日本には、江戸時代に観賞用として伝えられましたが、食用としては、大正時代に北海道で栽培が始まりました。

250pxdc3bcrnkrut5 オーストリア国内最大の産地は、ウィーン近郊のマルヒフェルト(Marchfeld)で、約150haに作付けされ、年間約750tと国内生産量の約70%を占めるに至っています。シャンペンなどの名称と同じようにマルヒフェルトアスパラガスの名称は、生産地商標としてEUによって正式に認定され、保護されています。(このあたりの事情や、アスパラガスに関する興味深い情報が満載のサイトをご覧下さい。ただし、ドイツ語です。)43023400x500

ウィーンに5月から6月下旬にかけてお出かけになる機会があれば、是非ともレストランで実際にお試し下さい。オランダ風ソースの代わりに、バターソースにお醤油や準和風に鰹節とお醤油でも結構行けます。また、ワインビネガーとオリーブオイルに胡椒を振ったものをお皿に入れ、穂先で掻き混ぜながら食べるのも乙なものです。

甲斐 晶(エッセイスト)

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たい焼き焼いた

 080319_part01_09 たい焼きに「天然物」と「養殖物」があるのをご存知でしょうか。これらは、「たい焼きの魚拓」という本を出された写真家宮嶋康彦氏の命名です。一世を風靡した「およげ!たいやきくん」に歌われているような、鉄板の上で焼いた大量生産のもの(これを氏は、「養殖物」と呼んでいます)ではなく、一匹ずつ焼いたのが「天然物」です。天然物は、職人がひとつひとつ丁寧に焼き上げるので、どうしても手間ひまが掛かり、非効率的で、いずれ滅び行く運命にあると、氏は断じています。

41hfd0z1fvl__ss400_ この本は、氏が20年ほどの歳月を掛けて全国を歩き、「絶滅寸前の『天然物』たい焼き37種」を収集したもので、それぞれの魚拓とともに、体長、体高、体重、値段、採取地、電話番号などのデータを収録。併せて、採取にまつわる逸話、主(あるじ)の人となりなどがエッセイ仕立てとなっており、読み物としても大いに楽しめます。

51243byd84l__ss400_ ある時、日光で釣りをし、釣果を魚拓に取っていた際に、たまたま食べずにいたたい焼きに気付き、面白半分にその魚拓を取ったのが採取の始まりだったとか。氏によれば、我が国で初めてたい焼きを魚拓に取ったのは、映画監督の山本嘉次郎氏1902~1974)ということになっています。

東京では、味の良さから「麻布十番・浪花家総本店、「四谷見附・わかば」、「人形町・柳屋」がたい焼きの「御三家」と言われていますが、さすがにこの本には、御三家全てが採録されています。

Im5408_anrutsu 「わかば」(新宿区若葉1-10)を絶賛したのは、寄席芸を好み、下町の人情を愛した「あんつる」こと安藤鶴夫氏(19081969)で、シッポにまでアンが入ったのを見つけ、「いまどき、こんな誠実な」と、いたく感激。読売新聞のコラムで取り上げた結果、「わかば」はすっかり有名になったのです。その包み紙には、「鯛焼のしっぽにはいつもあんこがあるように。それが世の中を明るくするように。」との氏の言葉が印刷されています。 

Rc_o05_yamakaji 安藤氏の見解に異を唱えたのが、「元祖」浪花家総本店を贔屓にし、食べ物エッセイを多く著した山本嘉次郎氏で、両者の間で有名なたい焼き論争が繰り広げられました。

この浪花家総本店(港区麻布十番1-8-14)の創業は、明治42年で、当主は4代目の神戸正守氏。初代が大阪から上京して今川焼きでも始めようとしましたが、丸い型では芸がないと庶民には高嶺の花である尾頭付きの鯛をモチーフにしたところ、大当たり。現在、7店ほどがのれん分けし、最近では佐久店ができました。また、「およげ!たいやきくん」のおじさんのモデルにもなった先代の守一氏は、山本嘉次郎氏の金婚式でコック帽と蝶ネクタイでたい焼きを披露したこともあり、以来、この姿で焼いているとは、宮嶋氏の本にある記述ですが、インターネット上の4代目当主はバンダナ姿。代替わりで伝統は失われたのでしょうか

 15769_yanagiya 一方、「柳屋」(中央区日本橋人形町2-11-3)は、店先で踊るようにどんどん焼き上げる職人さんの楽しいパフォーマンスが特徴です。これは、たいの焼き型1つが2㎏と重いので、体全体でバランスを取りながら支えようとして、自然発生的に生まれたようです。

 617m8yr56cl__ss400__2 収集された37種の「天然物」の魚拓を見ていると、それぞれに、豊かな個性と独特の表情があるのが分かります。美形のが有るかと思えば、使い込まれた焼き型のため、目や鱗のはっきりしないものもあります。通常よりも、ふた回りほど小粒のもの。尻尾をぴんと跳ね上げた威勢のいいものや普通の尻尾のもの。雌雄ペア(鱗の数が多く全体に丸っこい方がメス)もあれば、顔がムツゴロウ風のもあります。中味の餡がうぐいす餡や白餡の「亜種」も記載されています(最近では、カスタードクリームの「変種」も現れているようです)。

 所詮、たい焼きは、高級な和菓子では有りません。しかし、「天然物」のたい焼き、特に御三家のものは、たかがたい焼きと言ってはいけないようです。ひとつひとつが手焼きで、餡もじっくり時間を掛けて作り上げた上品な甘さ。実に、「たかがたい焼き、されどたい焼き」といった奥の深い世界なのです。

甲斐 晶(エッセイスト)

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イモリエ

 Logo原子力関係者にとって我が国原子力開発の発祥の地、茨城県東海村はいわばメッカのようなものです。ここを訪れたことのない原子力関係者はいないことでしょう。 

 東海村や近隣の市町村、ひたちなか市などで有名なのが乾燥芋(干しいも)の生産です。茨城県は干しいも、れんこん、鶏卵、みつばの生産額がいずれも全国第1位を誇っていますが、Simbol中でもひたちなか市(勝田市と那珂湊町が合併して形成)はその干しいも生産の大部分を占めています。今度、八百屋で国内産の乾燥芋の袋を手にしたら、裏をひっくり返して生産地の記載を見て下さい。十中八九がひたちなか市です。 また、冬期に東海村やひたちなか市などを訪れると、あちこちのビニール・ハウスで農家の人たちが乾燥芋作りに精を出しているのを見かけますし、毎年、建国記念の日に行われる「勝田全国マラソン」では、完走すると記念に干しいも(乾燥芋=完走芋の洒落)が貰えるほどです。20080112100205

 「干しいも」の正式名称は、「甘藷蒸し切り干し」と言い、アルコールの原料となる「甘藷生切り干し」と区別しています。干しいもの材料となる芋の主力であるImo_tamayutaka_c タマユタカは短紡錘形で大きく、皮の色は両端に淡紫紅色を帯びた黄白色をしています。生食用のベニアズマや高系などと違ってそのままではまずくてとても食べられないしろもの。元来は澱粉原料用及び飼料用品種として育成されましたが、蒸し切り干しに適していたため、現在は蒸し切り干しの主力品種となっているのです。

 ひたちなか市近隣はさつまいも収穫のほぼ北限にあたります。乾燥芋作りは、冬寒くなって乾燥した西風が吹くようになってから始まります。Imotop5 秋に収穫しておいたタマユタカを蒸気で蒸して、皮をむき、スライスしたものを1枚、1枚すだれの上で天日乾燥させたものが「平干し芋」です。 これに対して、形の小さなタマユタカを蒸して、丸のまま皮をむいて乾燥させたものが「丸干し芋」です。これは、平干し芋よりも割高ですが、風味豊かで、柔らかな口触りが楽しめ、一度味わったら病みつきになること請け合いです。Imotop4

 乾燥芋作りは、冬寒くなって乾燥した西風が吹くようになってからと言いましたが、気温が高かったり、湿っていたりすると腐ってしまうので、程良いタイミングを見極めるのが重要ですし、暖冬の時は出来が悪くなります。天気が良く、乾燥した日が続けば4日位で出来上がりますが、朝早くから蒸したり、乾燥中の芋を裏返したり、夜間、乾燥中の網を重ねて蓋をするなど、1つ1つが手作業ですから、大変、手間のかかるものなのです。81f04d04

 東海村やひたちなか市、大洗町などの近郷の出身者が多い職場に以前勤めていたときには、冬場になるともっぱら干しいも談義に華が咲いたもの。まずは、干しいもはそのまま食べるのが正式か、焼いて食べるのが正式かから始まり(固くなれば揚げるとか)、どこのものが最高かに話が及びます。門外漢である私にとっては、茨城県内のどこの産のものでも美味しいと感ずるのですが、干しいも専門家に依れば全然味が違うというのです。

 一度、そうした「干しいも専門家」の前でうっかり、「冬に東海村に出張すると必ず生協で乾燥芋を買うんだが、東海村の乾燥芋はとても美味しいねえ。」と口を滑らしたところ、猛反撃を受けました。東海村のは二流で、一流はひたちなか市のX地区農家のものだとのこと。第一に芋が違うのだそうです。かかる専門家に依れば、特定の農家と契約をしていて、毎年、一定量の出来た干しいもを買い取っているようです。しかもその農家の名前は、他人には極秘扱い。なかなか教えて貰えません。余りの自慢ぶりなので、論より証拠。実物をお裾分けして貰い、少し食べさせてもらいましたが、さすがに違います。とても柔らかくて、甘さもたっぷり。羊羹のような味わいでした。

  辛党の世界では、日本酒の聞き酒やワインのソムリエというのがあります。干しいもの世界でも、産地ごとに専門家による格付けを行ったらどうでしょう。聞き酒ならぬ聞き芋、ソムリエならぬ芋リエの登場です。

甲斐 晶(エッセイスト)

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メープルシロップ

 Ca カナダは、国旗の図柄にもなっているように、カエデ(maple;)がそのシンボルです。ある秋にオタワ、トロントに出張した際には、正に紅葉たけなわの候。夕陽に映える黄色や紅に染まった楓の葉の透明感溢れる光景が心に残りました。Mapleleaf735828

 さて、この楓からシロップや砂糖が採れるのをご存じでしょうか。それぞれ、maple syrup(カエデ糖蜜)maple sugar(カエデ糖) と呼ばれています。独特の味と香りで、焼き上がったパンケーキやワッフルに琥珀色のメープルシロップをかけると最高。高価なのですが病みつきになります。Qmaple_syrup

 北米大陸の原住民が傷ついた楓の枝から滴った樹液がつらら状に固まったものを見つけ、口にしたのがカエデ糖の始まりとか。次第に樹液を煮詰めて作る方法を修得。これを旧大陸から北米へ移住した人々が原住民から習ったようです。

 Maplesugar こうして得られたカエデ糖は、次第に自家消費だけではなく商品として売買されるようになり、植民地の重要な産品になりました。しかし、時代が進んで1890年以前に保護関税が廃止され、安いサトウキビ糖が国外から輸入されるに及んで次第にカエデ糖の売れ行きは悪化。むしろメープルシロップの人気が高まり、カエデ糖に代わってビンや缶入りで生産されるようになりました。

 メープルシロップ作りは、雪解けの始まる早春、気温が夜間は氷点下ながら日中は2~7℃まで上がる日が2、3日続くようになると始まります。この頃、サトウカエデ(acer saccharum)は、夏の間に蓄えたデンプンを糖に変え樹液として根から吸い上げる作用が最も盛んで、出来るシロップも上質です。しかし、気温がさらに上がり、夜間でも氷点下にならず、枝先の芽が膨らみ始める頃になると樹液の量が著しく減り、シロップ作りの季節は終わり。この間わずか数週間なのです。

 Maple1 樹液の採取は、樹齢が40年(幹の太さが25cm)ほどになると可能です。直径1cm、深さ4cm位の孔を幹に数カ所(太さ20cmあたり1カ所の割合)開け、差し込んだ管の先に容器を吊し、樹液を溜めます。この程度であれば採取によって木に悪影響はなく、樹齢100年位になるまで採取が可能。管をはずせば孔は翌春までに自然に塞がるそうです。

 Sefront 樹液は透明でやや甘い(糖分を2~3%含有する)液体で、シーズン中に1つの孔当たり平均して約40㍑採取できます。樹液は劣化しやすく採取後手早く蒸発濃縮する必要があります。伝統的には木に吊した容器に溜まった樹液をバケツで集め、さらにそれをそりや荷車に積んだタンクに移します。運搬にはトラクターや時には馬が用いられ、濃縮作業を行なう小屋(シュガーハウス)に集積されます。しかし最近では木に打ち込んだ管からの樹液を農園内の傾斜を利用した配管システムによって自動的に収集。効率化されています。

 Maple3 シュガーハウスでは蒸発濃縮器によって樹液を104℃まで加熱して煮詰め、糖分約66%のメープルシロップに仕上げます。約40㍑の樹液からできるメープルシロップはわずかに1㍑弱。高価なわけです(小売価格は1㍑当たり10米ドル程度)。製品の等級は、米国の場合にはLight,Medium,Dark Amberの3つがありますが、これは品質の違いではなく琥珀色の濃さによる分類です。好みにも依りますが、色の濃いほど香りが強くなります。Maple5

 メープルシロップの生産は北米の北東部が中心。カナダが世界生産の3/4、うちケベック州がその90%を占め、米国ではバーモント州が米国の1/3を生産しています。私の留学先のミシガン州でも生産。知り合いの大学教授の場合、広大な自宅の敷地内にサトウカエデが沢山あり、樹液の収集に小型蒸気機関車を使っていて敷地内に軌道を敷設。毎年春になるとこれを友人・知人に開放し、我々家族も招かれましたが、アメリカ国内各地から多数の鉄道愛好家が集まっていました。

  ヨーロッパ大陸でもナポレオンの時代に英国の海上封鎖に対抗してメープルシロップの生産が試みられましたが、春の到来が急激過ぎて樹液量が少ない、カエデの種類が違って含有糖分量が少ないなどの理由で上手く行きませんでした。我が国の場合北海道あたりで試したらどうでしょうか。              

甲斐 晶(エッセイスト)

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日本の味覚

 どんなに外国暮らしが長かったとしても、年齢とともに日本の味がどうも恋しくなるもののようです。特に、疲れたり体の具合が悪い時には、日本食でないと胃が落ち着きません。110696_3

 病気で食欲のない時などは、日本人ならお粥やおもゆでしょうが、欧米の人たちは、何を食べると思いますか。 正解は、チキン・コンソメスープにクラッカーだそうです。なるほどと思うのですが、それでもちょっと元気になればハンバーグというのですから、日本人には理解できません。

 そこで、外国に暮らしていると、日本からの来客がお持ち下さる日本の味覚がとても有り難いのです。何を頂戴しても、それはそれで貴重なのですが、どうしてもかさばらずに日持ちするものをと考えてお持ちになるので、どなたからも同じものが到来するということになりかねません。

 定番はお茶と海苔です。我が家のように、これらの消費量が多い家はそうでもないのですが、御家庭によっては、またかと言うところも少なくないようです。日本人会などのバザーで決まって出品されるのがこの二つです。90004532_l

 紀文がレトルトパックの蒲焼きを海外へのおみやげ用に成田空港で売り始めた頃です。来られる方が次から次に蒲焼きパックのおみやげということがありました。お持ちになる方は、きっと高価で珍しいからとのお気持ちなのでしょうが、そうそう毎日蒲焼きというわけには参りません。結局、狭い冷凍庫の奥に山積みとなり、ついには、アナゴの代わりに茶碗蒸しに入られる運命に。そんな変わり果てた蒲焼きウナギを箸で口に運ぶ度に、「お前も落ちぶれたね。」と語りかけたものです。E109_1899_18542932

 虎屋の羊羹も良く戴きました。当方を甘党と見込んだうえで、きっと重いから他の方はしないだろうとの判断でお持ち下さるのでしょうが、お生憎様。お好きな方は別でしょうが、3本も一度に戴いた日には、これまた、押入れ(あちらでは、クローゼット)の肥やしの運命です。「虎屋の羊羹をあちらでは良く戴いたけれど、日本に帰って値段を知って初めて、とても高価なもだと気が付いた。」とは、良く耳にする言葉です。Img1014834590

 それぞれ、好みはおありでしょうが、向こうで生活した身として、滅多に戴かなかったり、頂戴して有り難かったものを挙げてみましょう。まず海産物では、ウニの瓶詰めや明太子。06092702l 明太子は冷凍になっているので、機内で解凍しても旅先のホテルに備え付けの冷蔵庫に入れておけば、悪くなることはありません。タタミイワシやチリメンジャコも貰って嬉しいもの。(海産物の生ものは、やはりちょっと心配です。いつか、アジの干物をお持ちになった方がいらっしゃいましたが、日にちが経っていたのでしょう。すっかり変質していたことがあり、折角のご好意だったのに惜しいことをしました。ゴミ箱に直行でした。)

 甘味では、最中などは余り戴かないものの部類です。Jurakutop 普通、10個か20個の箱入りなので、とても一度には食べ切れませんが、身近の日本人にお裾分けしたり、冷凍にして少しずつ食べるという手があります。三温糖の干菓子なども抹茶のお茶請けには恰好です。余りかさばらないのも利点です。Img854_2

 ワサビ漬けも誰もお持ちにならないものの一つ。開封すると余り日持ちせず、また好き好きもあって難しいのですが、お好きな方には必ず喜んでいただけるものです。

 お子さまのいるお家なら、生ラーメンもお勧め。今や海外の大都市では日本風のラーメン屋のあるところが増えましたが、それでも1杯1500円もする高級品。気軽に家族全員でというわけには行きません。また、日本ソバや稲庭うどんなどの乾麺、半生製品も戴いて重宝しました。おもてなしの最後にお出ししてお客様から喜ばれたり、休日に一腹膨らますのに役立ったりしました。

 色々と書き連ねてきましたが、斯く申す私も海外出張の度に、出張先の日本人向けのおみやげに頭を悩ますものの一人です。こうして用意したおみやげをあちらに着いて先方にお渡ししてほっとするのも束の間。今度は日本へのおみやげに頭を抱えます。海外出張って一体何なのでしょうか。

甲斐 晶(エッセイスト)

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ユリウス・マインル

 551081g_2 ウィーンに出かけると必ず立ち寄るお店が2つあります。ひとつは、シュテファン寺院の裏にある紅茶の専門店(勿論、緑茶や中国茶も扱っています)、「ハース・ウント・ハース」です。 ここのフレーバー・ティー「サニー・アイランド」は日本人好みの味で、おみやげとして喜ばれます。

もう一つは、ウィーンの目抜き通りの1つ、グラーベン通りとコールマルクト通りの角にあるユリウス・マインルのグラーベン店です。大変お洒落な高級食料品の専門店で、日本で言えば、紀ノ国屋でしょうか。Pan_willkommen_83803こだわりの品揃えで、オーストリア国内はもとより世界中のデリカテッセンを豊富に取り揃えています。後で述べるように、元来が焙煎コーヒーで名をなしたチェーン店です。日本では高価なパッケージ入りコーヒーが手頃な値段で手に入るので、いつも沢山仕入れて帰ります。Top_1_aそのトレードマークは黄色の地に細長い赤のトルコ帽(フェズ)を被った黒人の坊やの横顔を描いた、「Meinl Mohr」(マインルのムーア人)です。

初めてウィーンに住んだ1980年代には、ウィーンの街のどこにでも見かけた、国内資本の食料品チェーン・ストアだったのですが、残念ながらその後外資との競争に負け、現在ではこの「マインル・グラーベン店」だけとなってしまいました。

ユリウス・マインルの創業は1862年、ユリウス・マインルI世が1区フライシュマルクトに開いたお店が始まりです。当初は、緑の生豆のみを扱っていたのですが、後に、焙煎したてのコーヒー豆を売るようになり、これが当たって商売は繁盛。大資本となり、1939年、ユリウス・マインルⅡ世の時には、ヨーロッパ全土で1000店を超える店舗を有し、様々な高級食料品を扱うまでになりました。このため、ナチスのオーストリア併合に際しては、ユダヤ系の大財閥ロスチルドに対抗しナチスに協力せよとの要請を受けましたが、きっぱりこれを拒否したという逸話が残っています。

しかしながら、第二次大戦を経てオーストリアの店舗と焙煎工場だけが残されたのですが、1960年代末には、280店舗を所有するまでになりました。系列には、もっと廉価なコーヒー分野の食料品を扱う「Brüder Kunz」の店舗78店や大規模スーパー・チェーン「Pam Pam」もありました。

ところが、2000年、オーストリアにおける食料品小売業の財政危機のため、撤退を余儀なくされ、グラーベンの専門店以外の全店舗を売却せざるを得ませんでした。これらは全て、REWE及びSPARによって買収され、元のユリウス・マインルのお店は、ドイツ系の「Billa」や「SPAR」に変わってしまいました。

今日、ユリウス・マインル社は、再び元来のコーヒー業に集中し直し、オッタークリングに焙煎工場を操業しています。また、有名なグラーベンのお店は、2000年に大幅な改装が行なわれ、2フロアーとなって売り場面積も広くなり、デリカテッセン「マインル・グラーベン店」として、再スタート。従来以上に繁盛しています。Pan_restaurant_32743ここに入っているレストランが、2004年、“Gault-Millau(オーストリア版ミシュラン)の三つ帽子(三つ星に相当)に認定され、根強い人気があります。

一方、東欧圏にあった支店網も次第に買収され、1999年にはハンガリーのものが、2005年にはチェコのものが買収され、唯一、ポーランドの支店だけが営業中です。ただし、「マインル・グラーベン店」の成功から、モスクワの赤の広場に、同様のデリカテッセンを開店する構想があるようです。

133242 ところで、「コーヒー王」ユリウス・マインルⅡ世の奥様は、日本人声楽家の田中路子女史でした。彼女は明治生まれの大和撫子でしたが、同様に国際結婚したクーデンホーフ・カレルギー光子とは全く対照的に決して貞淑な妻ではなく、夫も公認の恋多き妻でした。今や、ユリウス・マインルⅡ世も田中路子(「ミチコ・タナカ」参照)も故人となってしまいましたが、現在でも、「マインル・グラーベン店」の2階にある紅茶のコーナーでは、彼女の名前を冠した「Michiko」というシリーズが売られています。親子ほどの年齢差があったユリウス・マインルⅡ世の妻路子に対する変わらぬ愛情が窺い知れます。

甲斐 晶(エッセイスト)

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カー・ウント・カー

オーストリアの老舗には名前の前に「K.u.K.」(ドイツ語読みでカー・ウント・カー)という名称が付く場合があります。例えば、有名な菓子店、デーメルの場合、K.u.K. Hofzuckerbäcker Demel” K.u.K.宮廷菓子司デーメル)が正式な名称です。

この「K.u.K.」は、日本で言えば「皇室御用達」、英国ならthe Royal warrantに対応する名称で“Der kaiserlicher und königlicher Hoflieferant(皇室・王室御用達)のことです。なぜ、皇室と王室と二重になっているのかは、オーストリアの歴史を紐解く必要があります。それは、オーストリア・ハンガリー二重帝国に由来するのです。648pxaustriahungary_flag_18691918sv Austriahungary1

現在の中欧ほぼ全域とイタリアの一部を版図に収めていた多民族国家であるオーストリア、ハプスブルグ帝国は、有名なフランツ・ヨーゼフⅠ世(18301916)の時代に、領内各地で民族独立の動きが激しくなります。Kaiser20franz20josef事実、ハンガリーでは、貴族を中心とする独立闘争が続けられ、1848年の革命で一時独立を宣言しますが、結局、鎮圧されてしまいます。 一方、スラブ系諸民族の独立運動にも悩まされ続けていたオーストリアは、1866年に普墺戦争に破れると、非スラブ系であるハンガリー人貴族たちと妥協。ドイツ人とハンガリー人によるスラブ系諸民族の支配を図るため、1867年にハンガリーを立憲君主国に昇格させるとともに、その国王をハプスブルク皇帝が兼任する、オーストリア・ハンガリー二重帝国を成立させたのです。

現在でもこの特権的なK.u.K.の名称を用いているお店の業種は多種多様で、Ankerbrot(パン)、 Bösendorferピアノ)、Augarten(磁器)、Freytag & Berndt(地図出版)、L. Heiner菓子)、A. Heldwein宝石)、Lobmeyrガラス器)、E. Sacher菓子)、Zum schwarzen Kameelレストラン)、Zum Weißen Storch(薬局)といった具合。その多くは、目抜きのGrabenKörntner通りにあります。

ただ最近、これらの老舗が高騰する家賃のため廃業する例があり、Graben高級紳士服店、E. Braun & Coも庶民的な婦人服店H&Mに替わってしまい、大いに嘆くウィーン子も多いのです。

Kanda さて、一昨年3月赤坂に、その名も「カー・ウント・カー」というオーストリア料理のお店が開店。小泉前総理大臣も官邸から抜け出して、お出かけになったことが新聞報道されたりしました。

シェフは、弱冠30歳の神田真吾氏で、一生に一度しか受験できないという超難関のオーストリア国家公認料理マイスター試験に、2004年5月、日本人で初、いやヨーロッパ人以外で初めて合格された方です。4420310138

如何に難関かは、ご本人の体験談をまとめた「世界のマイスターをめざして」神田真吾著(創美社)に詳しいのですが、筆記試験は16科目。料理だけでなく、語学、栄養学、簿記などの知識も求められ、実技試験は5日間にも及びます。しかも実技では、自分で料理を作るのではなく、くじ引きであてがわれた助手をどう上手く使いこなして料理を完成したか、その「親方」としての資質が問われるのです。

日墺協会主催の夕食会が「カー・ウント・カー」で開催された際に、直接、神田シェフからご苦労話を伺いました。やはりオーストリア料理に適した食材探しが、一番の悩みのようで、日本では魚類は最高なのですが、牛肉は脂身が多く、オーストリアの味に近づけることが出来ないそうです。12_060525_h_006

レストランは黒とダーク・ブラウンを基調とした大変落ち着いた佇まいで、ウィーンの雰囲気そのもの。食器類はK.u.Kの称号を有するAugartenLobmeyrのものを使用。お料理も全てが本物志向で、ウィーン料理がこれほど洗練され、上品なものだったかと、改めて感服しました。ハプスブルグ家の宮廷料理はフランス料理の流れを汲んでいるようです。

お店の名前は、共同経営者で神田シェフが師と仰ぐ、我が国初のオーストリア国家公認お菓子マイスター、栢沼稔のイニシャルもKであることに由来するとか。素晴らしい料理を堪能した夕食会の参加者からは、Kultur und Kunst(文化と芸術)の略でもあるとの賞賛の声が聞かれました。 甲斐 晶(エッセイスト)

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