音楽

カラスのチター

 Pdvd_0366 映画「第三の男」は、敗戦後のウィーンの街並みを見事に映し出したC・リード監督(19061976)の素晴らしいカメラワークと哀愁に満ちたA・カラス(19061985)のチターの調べにより、1949年9月、カンヌ映画祭のグランプリを獲得しました。枯れ葉の散る寒々とした中央墓地の並木道を無表情で立ち去るアンナを描いたラストシーンは印象的ですが、いかに名場面が連続していたとしても、そのバックにカラスのチターが無かったなら、その魅力も半減していたことでしょう。

カラスは、ハンガリー人の家系の次男としてウィーンに生まれ、8才の時に屋根裏部屋で見つけたチターと初めて出会います。その後、正規にチター奏法を学び始める一方、鍛冶職人の見習いとしても働き始めましたが、結局、プロのチター奏者の道を選び、16才にして既にその名はウィーン各地のホイリゲで知れ渡るようになっていました。Aantonkaras

第二次世界大戦の従軍中もカラスは小型のチターを持参し、将校達のために演奏したそうです。

戦後、194810月、ウィーンの森シーフェリングの自宅でくつろいでいたカラスにホイリゲに来るように電話が入ります。「第三の男」の制作のために英国からやってきたリード夫妻一行がウィーンの音楽を聴きたくて、カラスを呼んだのです。

Karasカラスのチターに魅了されたリードは、これを映画の音楽に使用しようと思い立ち、「後日、連絡する」旨、彼に伝えました。数日後、連絡を受けたカラスは、アストリア・ホテルに向かいます。リードの求めに応じて、次々に違った曲を引き続け、ついに4時間に及ぶに至ってようやく解放されたそうです。その時初めて、リードがウィーンを舞台にした映画を制作し、その音楽としてチターを採用したいとの意向をカラスに示したのです。

その後、ロンドンに来て欲しいとの連絡がリードから入り、気が重かったのですが、1949228日、ロンドンのリード邸に向かいました。

出来るだけ快適にとのリード夫妻の配慮にも拘わらず、ロンドン到着から2ヶ月たっても作曲は上手く進まず、ついにカラスはホームシックに罹ってしまいます。あの有名なハリーライムテーマの誕生の経緯については、内藤敏子著「激動のウィーン『第三の男』誕生秘話、チター奏者アントン・カラスの生涯」(マッターホルン出版)に詳しく述べられており、読む者の心を打ちます。119409434c57f76912139552874b1aa0f51

家族から離れ、一人、言葉の分からぬ異国に来させられ、朝から晩まで見慣れた故郷ウィーンの街並みの景色を見せられて、それに曲を付けるように言われるのですから、ホームシックになるのも無理ありません。そんな時に、リード夫人が気分転換にと、海のない国から来たカラスを大西洋の船旅に誘い、結局これが功を奏するのです。

実は、「第三の男」の主題曲、ハリーライムテーマ冒頭の4小節は、ロンドンに来てから思いついたのではなく、彼が「昔からこのテーマを時々口ずさんでいた。」とお嬢さんが証言しています。

映画の成功とともに、そのテーマ曲も世界を制覇します。彼は、バッキンガム宮殿や法皇庁での御前演奏の栄誉を受ける一方、世界各地にチターの演奏旅行に出かけ、日本にも3度来ています。

1 カラスは、自分の演奏を聴きたい人たちのためにホイリゲを作ろうと決意し、19531015日にシーファリングで開店します。大いに流行っていたのですが、1965115日に閉店に追い込まれます。その理由を、内藤敏子氏は、「演奏旅行のために不在がちで、折角来られたお客さんをがっかりさせることが多かったから。」とのお嬢さんの言葉を引用していますが、それなら演奏旅行を止めれば良いのであって、ちょっと腑に落ちません。20090726150553むしろ、裁判記録等から郡司貞則氏が指摘しているように(「滅びのチター師」(文藝春秋))、にわかに成功したカラス氏を妬んだ同業者に刺されたのではないでしょうか。

カラスはこうした妬みと中傷に耐えながら、昔の栄光を取り戻すことなく、1985110日、世を去ります。彼は、シーフェリング墓地第228に葬られ、その希望通りチターの形の墓石に、ハリーライムテーマの冒頭部分が刻まれています。Qtumb_cimg0079

甲斐 晶(エッセイスト)

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マイ・フェア・レディ考

 Q1083_019529 5年ほど前のことですがミュージカル「マイ・フェア・レディ」を本場ロンドンで見る機会がありました。バーナード・ショー原作のこの作品は、オードリィ・ヘップバーン主演のミュージカル映画(1964年)で一躍有名になりましたが、元々は、「Pygmalion」と題する彼の戯曲に基づいています。この戯曲には、思い出があって、40数年前に英国に留学していたときのことです。きっと、当時、その映画が大ヒットしていたからでしょう。英国人の友人からペーパーバック版の「Pygmalion」をプレゼントされ、苦労しながら原語で読んだことがあります。

 Vw20071126 その後、1980年代にウィーンに赴任した際には、フォルクス・オペラで、「マイ・フェア・レディ」をドイツ語でやっていて、これを見たり、物価の安かった東ドイツに出張した折に、ドイツ語版レコードを安価で求めた記憶があります。

 ご存じのように、お話の筋は、音声学の大家ヒギンズ教授が下町訛りの賎しい花売り娘イライザを6ヶ月間で貴婦人に仕立て上げて見せると友人のピカリング大佐と賭け、見事に勝つというものです。ロンドンでのミュージカルを見て、改めて原作の戯曲を読みたい衝動に駆られ、ロンドンの書店で原作を求めて読んだところ、驚いたことにミュージカルと戯曲ではその内容が大きく異なるのです。Pygmalion

 まず、ミュージカルにおいて重要な役割を担っている、イライザのコクニィ(「アイ」を「エイ」と発音したり、「h」が発音できない)を矯正するのに苦労する場面(とりわけ、あの有名な”The rain in Spain stays mainly in the plain.”などのせりふ)や、イライザが上流社会の喋り方をある程度会得した段階でアスコット競馬に出かけたものの結局馬脚を現してしまう場面は、原作には全く存在しません。これらは皆、ミュージカル脚本家アラン・ジェイ・ラーナーの創作だったのです。

また、ミュージカルでは、イライザとヒギンズ教授の結婚を示唆するエンディングとなっていますが、原作では、ハッピィ・エンドとすることを拒むショーがわざわざ「続編」を付記し、イライザと一途に彼女を慕う没落貴族のしがない子息フレディとをゴールインさせています。

 Pygmalion_galatea さて、原題のPygmalionとは、ギリシャ神話に登場するキプロス島の王のことで、彼は、象牙で作った理想的な女性の像を恋するあまり、女神アフロデテに願ってこれを人間の女ガラテヤに変えて貰い、結婚します。ヒギンズがイライザを自分の思い通りの女性に変え、ついには彼女に惹かれて行く様子をその題名に込めたのでしょう。

 しかし、原作におけるイライザは、ヒギンズの手ほどきで公爵夫人への変身を成し遂げますが、同時に自立心をも獲得し、ついにはヒギンズの言いなりにはならなくなってしまうのです。

 原作を読むと、ショーが英国の階級社会を痛烈に批判し、女性の権利向上に熱心であったことを窺い知ることができます。すなわち、貧民階層からの変身を遂げ、ひとつの人格として自分の頭で考え行動し始めるイライザ像と、貴族階級に属しながら常に不作法で、女性を物としか扱わない噴飯物のヒギンズ像を見事に対比して描き出しています。実際、彼は、穏健的社会主義活動家でした。Shaw_2

 ところがショーの経歴を見ると、彼自身、貧しい花売り娘から貴族への変身を遂げたイライザを地で行くような生涯でした。彼は、1856726日、アイルランドのダブリンでうだつの上がらない商人の家に生まれました(アイルランド人は、おつむがちょっと弱い存在としてしばしば英国人の嘲笑の対象となっています)。正規の学業もそこそこに(図書館が彼の学業の場と言われています)、15歳で地元の不動産会社に就職。そこから身を起こして、先にロンドンに出ていた歌手の母の元に身を寄せ、音楽・舞台評論に始まって、ついには、英国を代表する作家となり、ノーベル文学賞を受賞し、貴族に任ぜられるまでに至ったのです。

さて、意外だったのは、戯曲Pygmalionの初出版がドイツ語で、しかもその初演はウィーンでなされたことです。フォルクス・オペラで、「マイ・フェア・レディ」がドイツ語で掛かっていた背景がようやく分かった次第です。

甲斐 晶(エッセースト)

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メリー・ウィドウ

 Vop_neu_nah 10年ほど前から、ウィーン国立オペラとフォルクス・オペラのプログラムに変化が現れています。これまでオペラ中心だった国立オペラでオペレッタが度々行われる一方、オペレッタ中心だったフォルクス・オペラでオペラの演目が多くなって来ています。

  これまでにも、ヨハン・シュトラウスのオペレッタ「こうもり」は、例外的に両方で行われて来ました。しかし、格式Img_1高い国立オペラで「こうもり」以外に初めて演じられたオペレッタであるのがフランツ・レハールの「メリー・ウィドウ」。私が見たのは、プレミア直後の1998年2月8日の公演でした。長く親しまれてきたフォルクス・オペラの演出とは違って、舞台を1920年代のパリに設定。全体にパステル・カラーの色調、ベル・エポック風の衣装と舞台装置で、とても優雅な雰囲気を醸し出していました。ただ、第3幕のマキシムの場面で、オッペンバッハの「天国と地獄」からカンカンを取り入れているのは、フォルクス・オペラと同じ演出でした。

 Qlehar3 「メリー・ウィドウ」は、オペレッタの白銀時代(ヨハン・シュトラウスⅡ時代を黄金時代と称するのに対してこう呼ばれます)を築いたレハールが19051230日にアン・デア・ウィーン劇場で初演。大成功を収め、その後、ベルリン、パリ、ロンドン、ニューヨークでも大好評を博しました。

 物語は、架空の国「ポンテヴェドロ」のパリ公使館のサロンで始まります。膨大な財産を相続した美貌の未亡人、ハンナ・グラバリがパリの男と結婚してしまうと祖国から資金が流出。国家財政が危機に直面するのを案じた公使、ミルコ・ツェータ男爵は、ドン・ファンでマキシムに入り浸りの館員、ダニロ・ダニロビッチに祖国のために彼女と結婚してくれるように頼みます。

 財産目当ての結婚など男がすたると豪語していたダニロですが、相手が昔の恋人ハンナと知って、彼女との再会を喜びます。2人の間の恋の鞘当てを縦糸に、公使夫人ヴァランシェンヌに言い寄るカミーユと公使夫人とのやりとりを横糸にして物語が展開。カミーユが「君を愛している」と書き込んだ彼女の扇が重要な役割を果たして、結局は全ての誤解が解け、ハッピーエンド。ハンナとダニロは、目出度く結婚し、公使と公使夫人も元の鞘に収まります。その間に、「メリー・ウィドウ・ワルツ」を始めとする親しみやすい名曲の数々や、バルカン半島の舞踊が織り込まれています。

 Img_6 実は、この「メリー・ウィドウ」がパリの国立オペラでも取り上げられました。私が見たのは、レハールの没100年目にあたる1998年の暮れ、バスティーユにおいてでした。パリを舞台に、パリジャンの自由奔放な恋愛ぶりを描いたオペレッタを、そのパリにおいて原語のドイツ語で上演する(フランス語の字幕付き)のですから、とても興味深く出かけました。全体にシンプルな舞台装置ながら、さすがにマキシムでのカンカンは、本場もの。実に賑やか、かつ、華やかでした。ウィーンのものなどとても足下に及ばない感じでした。

 Map ところで「ポンテヴェドロ」という国名は、当初の台本では、バルカン半島に実在の「モンテネグロ」(1992年旧ユーゴスラビア連邦の解体に伴い、セルビア・モンテネグロを形成していたが、2006年6月に独立となっていました。しかし、検閲の結果、外交上好ましくないからと、モンテネグロという国名を架空のポンテヴェドロに変更。地図上に「ポンテヴェドロ」を探して見ても無駄です。しかし、登場人物の名前と民族衣装ですぐモンテネグロだと分かるのです。例Merrywidowえば、ハンナの名字、グラバリは、当時、モンテネグロの国民会議に参加を許された上流階級の呼称ですし、ダニロは、皇太子の名前です。また、ツェータとは、14世紀にモンテネグロが侯国領であった時の侯国の名称なのです。

 さて、一世を風靡したメリー・ウィドウ。アメリカのその後のミュージカルに大きな影響を与えるとともに、無声映画時代を含めて4度も映画化されました。そればかりか、カクテル下着41sttkm15ll_ss500_サボテンやチューリップの品種の名前にもなっています。Yahoo やGoogle などで"Merry Widow" を検索すると関連サイトがすぐ出てきますので、ご覧になって見て下さい。

                            (エッセイスト)

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3シュトラウス

♪  41672484091999年は、ウイーンにゆかりのある音楽家である3人のシュトラウス、すなわちヨハン・シュトラウス親子とリヒャルト・シュトラウスにとって特別の年でした。奇しくもヨハン・シュトラウスⅠ世、ヨハン・シュトラウスⅡ世、そしてリヒャルト・シュトラウスの没後それぞれ150周年、100周年、50周年にあたっていたのです。そこで、彼らに関して知っても余り得にならない話ばかりですが、「読むクスリ」風に集めてみました。

♪ リヒャルト・シュトラウスは、ミュンヘン生まれのドイツ人で、共にウィーンで生まれ育ったヨハン・シュトラウス親子とは全く血がつながっておりません。ナチスの時代に、ユダヤ人だった自Strauss4分の脚本家ツバイク(「影のない女」を脚本)を弁護して弾圧を受けますが、その後、妥協。これが元で、ナチスへの協力者との汚名を着せられました。オーストリアとの関係では、有名なザルツブルグ音楽祭の創設者の一人でもありますし、ウィーン国立歌劇場の共同監督も務めました。

♪ Strausssr1 ヨハン・シュトラウス親子は、共に艶福家としても知られました。ヨハン・シュトラウスⅠ世は、奥さん以外の女性との間に7人の子供をもうけ、その1人からうつされた猩紅熱がもとで死にました。一方、ヨハン・シュトラウスⅡ世は、3度も結婚。60歳で30余り年下のアデレと一緒になり、彼女と結婚するためにプロテスタントに改宗、ドイツの市民権も得ました。その頃から、年を隠すために髪の毛と髭を黒く染め始めたそうです。

♪ Joseph_lanner 「ワルツの父」ヨハン・シュトラウスⅠ世は、

お互いに作風の違う友人、ヨーゼフ・ランナーとともにウィンナー・ワルツを創りあげましたが、その作品の中で最も良く知られているのはワルツではなく、行進曲です。ウィンフィルのニューイヤー・コンサートで必ずアンコール曲のトリを務め、聴衆が指揮棒に合わせて手拍子を取るのが恒例となっているあのラデツキー行進曲です。

♪ 「ワルツ王」ヨハン・シュトラウスⅡ世は、「美しき青きドナウ」を始め有名なワルツを多数生みだし、宮廷舞踏会音楽監督の肩書きを得ましたが、自らはワルツを踊れませんでした。Johann_strauss_ii

♪ 彼は、母親を捨てて女裁縫師の元に走った父とのそりが合わず、音楽家にはしないとの教育方針に反して密かにバイオリンを習っていました。(彼は、後年、バイオリンを弾きながら弓で指揮をとったことでも有名です。)彼が19歳で指揮者としてデビュー以来、2人は良きライバル。1848年3月の革命では、父親が体制派を支持したのに対し、息子の方は、蜂起した学生のために行進曲を作るほど。このためヨハン・シュトラウスⅡ世は要注意人物と見なされ、父と同じ「宮廷舞踏会音楽監督」の肩書きを何度も皇帝に求めますが拒否され、1863年になってようやく授与されました。

♪ 彼の「美しき青きドナウ」は、1867年のパリ万国博のテーマ・ソングにも採用され当時として史上最大のヒットとなりましたが、元々は男性合唱曲です。ウィーンの農民、家主、芸術家、政治家の運命を風刺したうえで、今の時をワルツを踊って楽しもうという内容の歌詞が付いていました。

♪ 彼はボストンの世界平和博覧会(1872)に招かれ、この曲を10万人を収容する巨大なホールで演奏。総勢2万人の歌手と楽団員の呼吸を揃えるために副指揮者100名を配し、一段高いところから指揮して成功を収めました。彼のサインと巻き毛を求めて押し寄せる女性ファンの要求を満たすために、側近が黒い大型犬を購入。その毛を切って、彼の自毛と称して販売したほどの人気でした。Mcstrauss

♪  ドイツ語で「シュトラウス」には、「ダチョウ」の意味もあります。「美しき青きドナウ」が作曲され、現在はヨハン・シュトラウスⅡ世記念館となっている彼の旧住居には、彼をダチョウの姿に描いた風刺画が陳列されています。

♪ 彼は晩年、「こうもり」や「ジプシー男爵」などのオペレッタで名声を不動のものとします。1899年5月22日に念願の宮廷歌劇場で初めて指揮。その12日後の6月3日にこの世を去りました。

甲斐 晶(エッセイスト)

                            (エッセイスト)

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シューベルト生誕200周年

 「ウィーンは、ウィーンにやって来た多くの音楽家の命を奪った。」と評したひとがいます。確かにモーツァルトはザルツブルグに生まれ、ベートーベンはボンに生まれ、ブラームスはハンブルグに生まれたのですが、結局ウィーンに活躍の場を求めて到来。何れも最後は、ウィーンの地で息を引き取ったのです。

 ところでウィーンで亡くなった多くの音楽家の中で、歌曲王シューベルトの場合は生粋のウィーンっ子。1997年はその生誕200周年の記念の年にあたり、ウィーン市内のあちこちで、これにちなんだ催しが年間をとおして行われました。Schubert

 「僕は、ただ作曲するだけに生まれてきたんだ。」とは、シューベルトの言葉。実際、その短い生涯の間に、モーツァルトよりも多くの作品を残しています。ウィーン市歴史博物館では、8月末まで、"Schubert '97"と題する特別展が開かれ、約1000点に上る現存作品の全楽譜が詳しい解説付きで展示されました。そのうちの約300がオリジナルですが、モーツァルトやベートーベンの書き殴ったような楽譜を見慣れている者にとって、きちっと丁寧に書かれた彼の自筆の楽譜は新鮮な驚きです。まるで印刷したみたいなのです。彼の身の回りの品も展示されてはいますが、物質的な世界に無頓着だったその暮らしぶりを反映してか、余り多くありません。

 この特別展の入場券は、記念館である彼の生家と臨終の家への共通入場券ともなっていました。彼の生家は、市内9区のNussdorferstrasse 54にあります。展示品の中には、彼の愛用していた眼鏡もありますが、彼は、しばしば夜寝るときにもこれを外さず、翌朝目覚めてすぐに作曲にかかれるようにしていたそうです。彼が息を引き取ったのは、彼の兄弟の家(Kettenbrueckengasse 64)で、ここには遺髪と最後の作品を弾いたピアノなどが展示されています。Kirche2

 彼の生家の裏手、Marktgasse 409区)にあるLichtental教会は、彼が洗礼を受け、オルガニストを務め、その宗教音楽の幾つかが初演されたところです。ここでは、シューベルトの作曲したミサ曲の全てが112日までの毎日曜、午前10:30からの礼拝で演奏されていました。

 その年の5月の末にウィーンに出張した際に私も出かけてみました。入場無料だからでしょうか、定刻の遙か前にほぼ満席です。礼拝の一環としてミサ曲が演奏されるのですが、円蓋の下の内陣にオーケストラと聖歌隊、それに男声と女声のソリストを配置。このため音響効果は抜群で、大いに感銘を受けました。その日の曲目は、彼が1814年に作曲した最初のミサ曲(ヘ長調ミサ、D105)で、やはりここで初演されたものです。(早速、記念にと思い、市内のレコード店でこの曲のCDを求めてみました。大して大きなお店でもないのに、オーストリア放送協会交響楽団(ORF)が演奏したもの、ウィーン少年合唱団が共演したものなど3種類もの品揃えがありました。Bodaizyuさすがは、音楽の都ウィーンだなと実感したものです。)

  また、1025日までの毎土曜日、20:00から、この場で記念コンサートが開かれ、「野ばら」から「菩提樹」まで、「ドイツ舞曲」、弦楽四重奏曲「死と乙女」から様々な交響曲のハイライトまでポピュラーな作品が演奏されました。

このほか、7、8月の夏の音楽祭の一環として、毎木曜日、19:00Augustinerkirche1から、生家記念館においてピアノ曲の演奏会が、さらに、かっての王宮付属教会であったAugustina教会でも10月下旬まで、毎金曜日、19:30から宗教作品のコンサ-トが、また、毎日曜日、11:00から礼拝の一環としてミサ曲が演奏されました。

 11月には、彼の作品を年代順に紹介してきた恒例のSchubertiade15回目を迎え、いよいよ最終回となり、楽友協会で開催されました。  

  こうして、年末、1221日のウィン・フィルの定期公演において交響曲第6番が演奏される時に至るまで、生誕200周年の記念の年には、いつもどこかでシューベルトの音楽がウィーンの町に響きわたったのです。

    甲斐 晶(エッセイスト)

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エリザベート

 2f016wien0 1998年4月25日、アン・デア・ウィーン劇場において、丸5年以上にわたってロングランを続けてきたドイツ語のミュージカル「エリザベート」が大好評のうちに千秋楽を迎えました。

 「エリザベート」は、シッシィ(Sisi)の愛称で親しまれた、美貌のオーストリア皇妃の悲劇的な半生を描いたミュージカルです。彼女のお姉さんとその従兄弟、若きオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフとのお見合いの場に居合わせた彼女が、皇帝に見初められ、お姉さんに代わって皇妃に選ばれたことから、その数奇な運命が始まります。

 Cb3a3b68 その時、彼女はわずかに16才と3ヶ月。しかし、おとぎ話のように甘いはずのロマンスもじきに辛いものに変わってしまいます。自由奔放に育ったシッシィにとって、ウィーン宮廷の厳格な礼儀作法・しきたりには、うんざり。叔母さんである姑のゾフィー皇太后や宮廷員達との仲も最悪です。きらびやかな籠の中にあって窒息しそうになり、宮廷の務めや夫から逃れる方便として急病になるコツを直に修得。これらに時間を費やす代わりに、自分のスリムな容姿や美しく長い髪の手入れ、詩作、乗馬などに費やしましたが、それでも彼女の心に安らぎは、もたらされませんでした。

 060922002 いつも大きなメランコリーを感じていたシッシィは、ヨーロッパを端から端まで常に旅し続けることによって、これを紛らわそうとしました。そして1898年、そうした旅の途上、レマン湖畔で、イタリア人無政府主義者、ルケーニによって暗殺されてしまうのです(右:暗殺場所の記念碑)。

 Lucheni1nj3 ミュージカル「エリザベート」は、過去100年間にわたって煉獄で続けられているルケーニ(写真:右)の審問で始まります。「なぜ彼女を殺したのか」との尋問に対して彼は、「彼女は、『死』(トート)と恋仲にあり、彼女自身が死を望んでいた。」と主張し、「『死』が彼にナイフを手渡したからだ。」と自分の行為を正当化します。そして、彼が狂言回し役となってミュージカルが展開。色々なエピソードを交えながら、真に自立を目指した女性としてのシッシィ像が描かれて行きます。Erzsebet1867

 M・クンツェの詞とS・レバイの曲による音楽は、「キャッツ」などを手がけたA・ロイド=ウェーバー風の名曲揃い。特に、シッシィが歌う主題曲、"Ich gehoer nur mir"(私は、私だけのもの) は、『死』と彼女が舞う場面での曲、"Der letzteTanz"(最後のダンス)と並ぶ珠玉の名曲です。また、ジャッキによってそれぞれが上下に独立して動く8分割の舞台全体が回転するようになっていて、場面展開に応じて複雑に動き、圧倒させられます。さらに、舞台構成や演出の面でも色々なアイデアが盛り込まれており、見ていて大いに楽しめます。

 観客は、断然若者が多く、特に、千秋楽のこの日には、舞台と観客が一体となっていました。開演前、客席にオリジナル・キャストが現れると熱狂的な歓声と拍手。舞台に主役が現れても同様です。一曲歌い終わるごとにキャー・キャー、ワー・ワーと大騒ぎ。これがマナーにうるさいウィーンの劇場なのかといぶかしくなるほどでした。

 実は、このミュージカルは、日本とハンガリーでもそれぞれの国の言葉とキャストにより公演されました。Elisabeth_2 日本では、宝塚歌劇が2度ほど行いましたが、全く宝塚風にアレンジされ、オリジナルとは似て非なるもの。何しろフィナーレには、主役がそれぞれカーニバル風の羽根飾りを背中に背負って、電飾階段に登場。最後は、タイツ姿で黄色い声を上げての宝塚恒例のラインダンスでした。 ウィーンの千秋楽の舞台では、メインの公演が終わった後、間髪を置かずに余興として、オーストリア、日本、ハンガリーそれぞれのエリザベート役3人とオーストリア、日本の『死』(トート)役2人がそれぞれの言葉で競演。 日本版トート役は、元宝塚雪組トップの一路真輝でしたが、宝塚風の衣装と振り付けで「最後のダンス」を唄い終わると、客席は、万雷の拍手に沸いていました。

 この年の9月10日は、エリザベートがジュネーブ湖畔で暗殺されてから丁度100年目。これを記念してウィーンでは、エリザベートにゆかりの3ヶ所の宮殿において展示会が行われました。

甲斐 晶(エッセイスト)

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観客気質

 欧米の国に出張した際には、できるだけその地のオペラやミュージカルを見るように心がけています。前回は、オペラ談義に話の花を咲かせましたので、今回は、国による観客気質・鑑賞マナーの違いに触れてみましょう。6150146

 まずは、ウィーンから。とてもマナーのうるさい地です。演奏中に音を出すのは、御法度。アメリカのように、ヒーローやヒロインが舞台に出てきただけで拍手などしようものなら、すぐさまこちらの方を睨まれたり、シーッと言われたりします。拍手は、演奏が終わって一呼吸置いてするのが常識。オペラのアリアが終わらないうちに、感激した観客が拍手をすると言うことはまずありません。51d8ixbmpl_ss500__2

 ところが、演奏が終わったからと言って安心して拍手をすると、これまた顰蹙を買う場合があります。それは、ワーグナーの祝祭劇「パルジファルの第1幕の後のこと。これは、厳粛な宗教的楽劇であり、礼拝的要素があるので拍手は自粛するようにとの原作者ワーグナーからの指示がなされているからです。

 日本の場合のように、開演前、切符の表示を見ながら勝手に自分の座席に行ってはいけません。必ず係員に座席まで案内して貰い、その人からプログラムを買って、端数の小銭をチップとして差し上げるのが習わし。また、会場での録音、写真撮影も御法度で、プログラムに日本語でそう注意書きがしてあるのには、同胞としてちょっと肩身が狭い思いがします(もっとも、最近では、幕間での撮影は許されているようです)。

 服装の方は、国立オペラ座の場合には、天井桟敷や立ち見席でもない限り、ジーンズ姿は見かけず、割としっかりしています。しかし、平土間などの上席以外では、夜会服など着た人はいません。時折、大した席でもないのに、きっとガイドブックの記述のせいでしょう。場違いにフォーマルな服装の日本人観光客を見かけたりします。An_der_wien_2

 左様までに、ちょっと堅苦しい雰囲気のあるウィーンなのですが、これは、もっぱら国立オペラ座の話であって、フォルクスオペラやミュージカルの場合には、もっと砕けています。アン・デア・ウィーン劇場に最近評判になっているミュージカル「エリザーベート」 を見に行ったところ、人気歌手が出て来ただけで、若者達が熱狂的な拍手をしていました。劇場の違いや客層の違いのためもあるのでしょうが、これもウィーンの姿なのかと驚かされました。2f016wien0

 これがロンドンやニューヨークともなるとそんなのは、当たり前。日本の宝塚歌劇のファンのように、打てば響くような観客ばかり。舞台と聴衆が一体となって盛り上がります。この点日本の観客は、一般に慎み深く、おとなし過ぎるようです。外国から来たエンタテナーが手拍子をするよう日本の観客に求めても、なかなか乗って来ないので苦労するそうです。

 これは、ニューヨークでミュージカル「美女と野獣」134533 を見たときのこと。私の後ろに座っていたラテン系の女性客達なのですが、興が乗ってくると歌手の歌に合わせて鼻歌を歌い出すのには、参りました。まるで自宅の居間でテレビの歌謡ショウを見ている風情。彼女達のラテン気質がなせる技かとも思ったのですが、このリラックスムードは彼らだけではありません。他の観衆もオーケストラの演奏が始まり幕が上がっているのに、ざわざわと私語をし続けたまま。とてもウィーンでは考えられない光景でした。もっとも、ロンドンで見たミュージカル"Me and My Girl"でも同様でしたから、ウィーンがちょっと堅苦しすぎるのかもしれません。Memygirl

 オペラやコンサートのように音楽を芸術としてじっくり味わうには、ウィーン式の鑑賞態度が良いのでしょう。しかし、オペレッタやミュージカルのように気軽にエンタテーメントとして楽しむには、舞台と観客が一体となって盛り上がる方がベターです。

 上に述べた観客気質の違いも、実は、お国柄による相違と言うよりも、案外、オペラとミュージカルの相違によるところが大なのかも知れません。

甲斐 晶(エッセイスト)

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オペラ談義

 30年以上も待ち続けていた新国立劇場が落成し、Zpfile000_2 そのこけら落としに團伊玖磨氏作の「健・TAKERU」の公演が行われのは、もう10年以上も前の平成19年の秋でした。ようやく国立のオペラ専用の劇場が出来、これで日本も本格的なオペラ時代が到来するのではとの高い期待がありました。    

  オペラの楽しさは、演劇と音楽が総合された芸術であるところにあります。したがって、初めのうちは、単に有名なアリアを聴くだけで大満足なのですが、次第に、演出家による演出の違いや、同じアリアでも歌手によってどう唄いこなされるのかを堪能したくて、同じ演目なのに何度でも見に(かつ聴きに)出かけるようになるのです。

 かく申す私も当初は、食わず嫌い。「あんな黄色い声を張り上げるものが何で面白いのか」と思っていたうちの一人でした。ところが30代半ばでウィーンに赴任。初めて本物に接し、その魅力に取り付かれて病膏肓になりました。これまで内外で鑑賞したオペラやオペレッタの演目は、全部で100種類以上にもなります。41baevqn7l_ss500_

  これらの中で、見る度に感激するのは、プッチーニのラ・ボエームです。お針子のミミと詩人ロドルフォの恋を縦糸に、彼の仲間の貧乏芸術家達の友情を横糸にして織りなされる人間模様。重病となって死期の間近なミミのために、仲間達がわずかばかりの持ち物をそれぞれ売り払って、薬などを用立てる場面は、涙無しには見られません。

  パリのオペラ座(バスチーユ)で見たときのこと。フランス語訳が舞台上方の字幕に出ていて、つたない私のフランス語力でも訳語を目で追ううちに登場人物の心の綾がひしひしと伝わります。「古い外套よ」と売り払う外套に別れを告げるコルリーネのアリアのところで、遂に涙が目から溢れ、これを隠すのに一苦労。幸い字幕が上の方にあったので助かりました。感涙を落とすのは、私だけではないようで、ブエノスアイレスのコンロン劇場で隣り合わせた老婦人とのオペラ談義でも、彼女はラ・ボエームで涙すると言っていました。51veskmtk9l_ss500_

   同じプッチーニの蝶々夫人も、彼女のけなげで一途な愛に心を打たれます。特に、待ち焦がれていたピンカートンの艦船が夜が明けると長崎港に戻って来るのを心待ちにする時に流れる間奏曲は、感動的です。ところがそんな彼女の純真な愛を踏みにじってアメリカ女性と結婚し、子供だけを引き取りに来るピンカートンの身勝手さは、ただただ腹立たしい限り。加えて、外国で見るこのオペラの登場人物の着物は、袖の大きさや帯の締め方など和服とは似て非なるもの。時には、主人公の着物が左前だったり、お辞儀をしながら合掌したり、畳の上を靴でずかずか上がったりと、日本人が見ると噴飯もので、見終わって憤りが残ります。51afbu0u6dl_ss500_

  ヴェルディの椿姫では、パリで高級娼婦にうつつを抜かしている息子のアルフレードにプロバンスの故郷に戻ろうと切々と諭すお父さんジェルモンのバリトンでのアリアが胸を打ちます。

  ところで、見ていて哀れなのは、同じヴェルディのリゴレット513i612ob0l_ss500_ 愛する一人娘が主君に拐かされた上、自分の差し向けた刺客によって殺されてしまうのです。この時の彼のアリアは、悲痛です。

  51qi9wmzusl_ss500_ 一方、ユーモラスなのは、モーツワルトの魔笛あまりに人間的なパパゲーノの生き方が火や水、無言の行を経て神殿入りを許されるタミーノとパミーナのカップルとは好対照で観客の笑いを誘います。51xzgoixnll_ss500_ 

  年末ウィーンで恒例の「こうもりも全編これ楽しい出し物。特に、監獄の場で黙役で出る看守のフロシュ役はコメディアンが務めるのが常で、そのコミカルな語りと演技にお腹を抱えます。 41z71kx8r8l_ss500_

  遺産が目当ての遺族から頼まれて、死んだ金持ちにまんまと成りすまし、偽の遺言状を書く羽目になるプッチーニのジャンニスキッキも人間の欲とそれに振り回される人々をコミカルに描き出していて実に愉快です。そうした泥臭い人間劇の合間に、娘ラウレッタのアリア「私のお父さん」などの珠玉の名曲がちりばめられているのです。

  かくしてオペラは、人間の喜怒哀楽をオーケストラ演奏と最高の楽器である声楽で描き出す素敵な世界。やっぱりオペラって止められませんね。

甲斐 晶(エッセイスト)

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天使の歌声

オーストリア命名千年が祝われた年、1996年にウィーン少年合唱団の15回目の来日公演が3月末から6月末にかけて全国53の都市で行われました。私もゴールデン・ウィークに高崎市で行われた公演に出かけてみました。Wsk

 彼らの「天使の歌声」を初めて聴いたのは、今から50年ほど前の初来日公演。小学校の担任の先生に引率されて、両国の旧国技館まで出かけました。同年代の少年たちの美しいボーイ・ソプラノの歌声に大いに魅了されたことを覚えています。

 二度目は、ウィーンの旧市内、王宮の一角にある宮廷礼拝堂で毎日曜日に行われているミサでした。聖歌隊である彼らの歌声を入場券を求めて観光客と一緒に聴きました。バルコニーの一角に特別にしつらえられた座席から彼らの声は良く聞こえるのですが、その姿は見えません。しかし、これがかえってその華麗な歌声を一層「天使の歌声」として聞こえさせる仕掛けにもなっています。このミサの途中で観光客席にもちゃんと献金の袋が回ってくるので、戸惑う観光客もいました。

 宮廷礼拝堂でのこの聖歌隊としてのお勤めこそウィーン少年合唱団のそもそもの始まりで、今から約500年前の14987月、皇帝マクシミリアンI世が勅令で「宮廷音楽隊(Hofmusikkapelle)」の組織、運営を定めたことに遡ります。宮廷音楽隊はウィーン・フィルハーモニイ管弦楽団、国立歌劇場合唱団、そしてウィーン少年合唱団で構成され、ミサや式典での演奏を担当していました。

 こうしてハブスブルグ家代々の皇帝の庇護を受けたウィーン少年合唱団でしたが、1918年、第一次世界大戦に敗れてハブスブルグ家が滅亡。ウィーン少年合唱団も解散の憂き目に遭うのですが、この時に私財をなげうってまでその再興を図ったのが宮廷音楽隊の楽長だったシュニット神父で、1924年に新たなウィーン少年合唱団が誕生します。それまでの士官候補生の制服を現在のセーラー服に変えたり、寄宿制にして音楽ばかりでなく他の勉学にも専念できるようにしたのも彼の発案です。

現在、ウィーン少年合唱団には125名ずつ4組の本科クラスと年少組の予備クラスの合わせて約110名の少年たちがいます。半数の2組はいつも国内外で3カ月ずつの演奏旅行中にあり、残りが1947年以来その本拠地となっているアウガルテン宮殿(有名な磁器工場もその一角にあります)で寄宿舎生活を送っています。Augarten_01その1日は毎朝6時半には起床。8時から12時半までが一般科目の勉強で、昼食後2時までは自由時間。2時から4時までが合唱の練習で、その後7時までがおやつと休憩の時間をはさんで楽器の練習です(少年たちは歌の他に1つか2つの楽器をマスターすることが求められています)。夕食の後は9時の消灯まで自由時間。演奏に差し支えるので十分な睡眠と大声を出さないことに心がけているそうです。

 長い歴史を持つウィーン少年合唱団です。あのハイドンやシューベルトといった大音楽家も少年時代にはこの合唱団の一員でした。音楽関係以外に政財界で活躍するOBもいます。私が日本人であることを知ったウィーンの国際機関、IAEAの音響担当の若いテクニシャンから「自分も団員として日本に公演に行ったことがある」と話しかけられ、意外と身近に団員経験者がいるのを知ったこともありました。

 さて冒頭の高崎での彼らの公演に話を戻しましょう。演奏会での彼らの様子は実にあどけなく、子供そのものでした。勿論その歌唱力は「天使の歌声」と呼ばれるのに相応しいものでしたが、時差のせいか演奏中にあくびが出たり、長時間じっとしていられない子供もいたりしました。例えば、痒いのか頭や頬にしきりに手をやったり、指揮をする先生の目を盗んでは後ろから前の子供をつついて悪戯している子供がいたりと、実に良い意味での子供らしさを感じさせられました。

 それにしても50年前、小学校5年生の時の初来日公演で感じたあの感激はどこに行ってしまったのでしょうか。高崎での演奏に決して非の打ち所はないのですが、今一つ感動がありません。年齢とともに感受性が衰え、何を聴き、何を見、何を食べても余り驚かなくなったのは困りものです。

甲斐 晶(エッセイスト)

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夫婦の絆

最近の地方自治体の芸術・文化志向には目覚ましいものがあって、ちょっとした地方都市には立派な美術館や音楽ホールが見られるようになりました。

 我家の近く、東京近郊のT市にもウィーンの楽友協会ホールを模したというシュー、・ボックス型の豪華なコンサート・ホールが建てられています。ここの目玉はお手本にした楽友協会ホール並みの優れた音響効果とドイツからわざわざ取り寄せたという立派なパイプ・オルガンで、色々な企画が精力的になされています。A7

 オープンしたての最初の年の年間プログラムにはバッハ研究家として名高い音楽評論家を招いてのバッハの作品を中心にした解説付きのオルガン・コンサートのシリーズがありました。T市の補助があるのでしょう、入場料が格安なのが有り難いところで、早速、家内と一緒に出かけてみました。

都内の有名なホールは何れも繁華な都心にあるため、せっかく素敵な演奏やオペラを満喫しても、公演が終わって一歩外に出てみると都会の喧噪や雑踏で今までの良い気分も台無し。演奏会の余韻を楽しめる都市構造となっていないところが興ざめでした。しかしこのT市のコンサート・ホールの場合には最寄りの駅から会場までが素敵なプロムナードになっており、その辺の配慮が行き届いていて一遍に気に入りました。

 ところが来ているお客にはちょっとばかり失望させられました。たまたま我々の後ろの席にテニス仲間とおぼしき56人のおばさんの一団が座っていたのですが、そのお喋りの凄まじいこと。開演前はまあ良いとして、オルガン演奏の合間になされる解説者のお話の間中ペチヤ・クチャが止まりません。余程怒鳴ってやりたい気分でしたが、ぐづと我慢。演奏会が終わってしげしげとおばさん連中の顔を見るに、それほど無教養でもなさそうですし、身なりもちゃんとしています。ただただ演奏会のマナーを心得ていないのです。

おばさん連れが目立つのは何もこの時ばかりではなく、他の演奏会やオペラでも同様で、これは欧米の常識からは考えられない、日本だけの特色でしょう。欧米では夫婦連れや恋人同士などの男女のカップルが基本で、同性ばかりが数人というのは異例です。欧米のオペラハウスで出張者とおぼしき日本人男性の一団がずらっと良い席を占めているのをよく見かけますが、これは欧米人にとってはとても異様な光景なのです。

 もちろん日本でも恋人同士とおぼしきカップルを見かけますが、夫婦連れは少数です。世の男性たちが結婚前には恋人をオペラやコンサートなどにせっせと連れ出すのに、結婚してしまうとこれらに全く興味を示さなくなってしまうのは「釣り上げた魚に餌は不要」という考え方からなのでしょうか。クラシックが駄目でカラオケ好きの男性ばかりだとも思えません。現に連れのいない中年男性独りだけの観客も日本ではよく目にします。これとて実に日本的な光景で、欧米ではそんな場合には必ず誰か女性を誘って出かけるところでしょう。

 それではなぜ日本では夫婦一緒に出かけないのでしょうか。家内によれば「亭主となんか出かけたくない」というおばさん連中の気持ちは良く分かるそうです。趣味が合わないということもあるでしょうが、むしろ、「女房が亭主を世話する」という家庭の日常性から解放され、気楽に振る舞いたいからのようです。亭主関白を決め込んで良い気でいるといつかとんだしっぺ返しに遭うのです。C02086 Ichidahiromi

 かつて、こんなサントリーの緑茶のコマーシャル・フイルムがありました。「ダイヤモンドに訪問着。おいしい弁当にお茶買うて、亭主のへソクリ使っこたった。ああおいしい。」と友達連れの旅先で陽気に歌う奥方と、本の間に隠しておいたへソクリを一生懸命探している哀れなご亭主の姿が印象的でした。

 世のご主人方、長年連れ添った奥様から見放されないためにも奥様との日頃のコミュニケーションと家庭サービスが肝要のようですね。

甲斐 晶(エッセイスト)

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