趣味

iPod nano (第6世代)


_57  いつもの日課となっている1時間ほどのインターバルウォーキングでは、iPod nanoに取り込んだモーツァルトの曲や落語の噺などを聴いたり、FM放送を楽しんだりしています。iPod nanoは2005年5月の発売開始以降、2017年7月に販売を終了するまで、左の図に示すように、その形、大きさ、機能が時とともに大きく変遷してきました

51r7fi0ziil_ac_sy879_ 私の愛用しているのは、これらのうち、タッチパネルで操作し、超小型で(37.5x40.9 
x8.78mm)、クリップ機能の付いた第6世代です(左図。一番上の機種変遷の図では、下段の左から2つ目のモデル)。とても軽く(21.1g)、簡単に襟や袖口にクリップ止めでき、歩きながら聴くのにはとても便利です。
 

 私のモデルは容量が8GBで、音楽ソフトiTunesを使ってPCにCDやApple Musicなどから取り込んだ楽曲や落語をインポートしたものが1100曲/席ほど入っており、プレイリストから適宜選んで毎回違った楽曲や噺を楽しんだり、FM放送でニュースや音楽番組を聴いています。

 こうして長年便利に愛用してきたのですが、今年の初め、突然タッチパネルの画面がフリーズ。操作ボタンも機能しなくなってしまいました。大いに困っていたところ、幸いにも娘が私の喜寿のお祝いにと、アマゾンのギフト券(喜寿の77にちなんで17777円分)を贈ってくれ、記念に好きなものを買ってと言ってくれました。早速、アマゾンで予算内で購入でき、若干の残が出ました。

028941905727  この新しいiPod nano(といっても、第6世代のiPod nanoは10年前に製造中止となっているので、購入したのは新品ではなく、中古品を整備したものなのですが)をPCに接続し、iTunesを使って楽曲や落語の噺をインポートしようとしました。ところが、その昔Apple Musicで購入(ネットからダウンロード)したモーツァルトのホルン協奏曲第1~4番のアルバム(ザイフェルトとベルリンフィルの演奏でカラヤンが指揮)がPCに見当たらないことに気づきました。iTunesのアルバムの画像(上図)は表示されているのに、これをクリックしても、曲が元の場所には無いとのエラーメッセージが出るのです。

 そこで、購入当時に使用していた昔のApple IDとパスワードを使って、再ダウンロードを試みるのですが、IDまたはパスワードが違うとしてハネられてしまいます。仕方なくAppleサポートに電話を入れると、このIDは8年ほど利用されていなかったので無効になっているとのこと。以前確かに購入したことが先方のシステム上で確認できたので、新しいIDを告げて再ダウンロードを開始しました。

 ところが、何度試みても、全11曲中の一部しかダウンロード出来ません。最後の手段として、先方の提案で画面共有セッションを開始。私のPCでiTunesを立ち上げた画面を先方と共有しつつ、先方の指示に従って操作すると、全てをダウンロード出来ました。勿論、画面共有にあたっては個人情報(パスワードなど)が先方に漏れるリスクを危惧したのです が、パスワードを打ち込む際には画面共有を辞めてくれました。

 かくして、ウォーキングでiPod nanoを再び利用できるようになりました。一方、先にタッチパネルの画面がフリーズしてしまい、ボタン操作もできなくなっていたiPod nanoの方は、そのまま長らくほったらかしにしていたのですが、試しに充電してみると、なんと機能が復活。完全に放電したのが良かったのかどうかは分かりませんが、再びウォーキングで利用できるようになりました。

しかしながら好事魔多し。プレイリストを選んでシャッフルに指定しても、同じ曲目が何度もリピートされるという不具合が発生。仕方なく、アマゾンで求めた方に代えてみたのですが、どういう訳か、今度はこちらも同じ症状になってしまいました。ネットで検索して初期化をと調べたのですが、初期化すると全てのデータが失われると知って取り止めに。2_20221023213401 ネットで調べて、試しに、スリープ/スリープ解除ボタンと音量を下げるボタンを同時に押して強制的に再起動してみました(左図。出典:上記リンク先)。すると見事にシャッフル機能が戻りました。何らご参考まで。


甲斐 晶(エッセイスト)

 

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プラナリア殲滅作戦

 Suisou 世には色々な趣味がありますが、老若男女に広く愛好されているものもあれば、男女どちらかに片寄っているものもあります。「趣味の王様、王様の趣味」と称される切手蒐集は、前者に属するものでしょうが、宝塚歌劇の鑑賞では、観客は圧倒的に女性が主体で男性は遠慮がちに出かけています。また、観賞魚の飼育の場合には、専門店に出入りするお客は男性ばかりが目立つようです。

 Biroro1職場などで熱帯魚の話題が出た際に、目を輝かしながら苦労話などを披露するのは、必ずおじさん達です。我が家でも水槽に緋メダカを飼っていましたが、その世話を熱心にするのはもっぱら私の方でした。 以前、アフリカ・ツメガエルを飼っていたところ元気が無くなり、延命措置には生餌が良いと言われて導入した緋メダカでしたが、肝心のカエルのほうは薬石効無くご臨終。今や緋メダカが水槽を占有している次第については、いつかお話ししたことがありますアフリカ・ツメガエル後日談。水草に親が卵を産みつけ、これを飼育室に移し変え、そこから約3週間ほどで小さな稚魚が孵化し、これを大きく育てる喜びは、体験した者しか味わえない喜びです。119351765_1

しかし苦労も付き物です。病気で緋メダカが全滅したり、水質の影響でコケが生えたり、知らない間に巻貝(スネール)が外部から侵入して駆除に手を焼くといった具合です。巻貝は、買ってきた水草に付着して入ってくるようで、その繁殖力たるや凄まじく、うっかりしているとすぐGaityuu1水槽全体に蔓延してしまいます。ただし、コケを食べて呉れるお陰で水槽のガラス面がきれいに保てる効用もあり、気にさえしなければ良いのでしょう。

さて、ある時、水槽内にこれまで見かけたことの無い、ベージュ色をした細長い生き物(体長約1cm)が現れました。頭部は菱形で、ルーペで良く見ると、Planarian72かわいい二つの目があります。水面を器用に裏返しになってすいすい泳いだいり、ガラス面を這い回っています。ところが、これまたやたらと増えるので、困りものなのです。しかも、味が悪いのか、緋メダカは見向きもしません。

その正体や如何にと、ネット上での探求の旅が始まりました。20090222151601確か中学校の生物の授業で習ったようだったとのかすかな記憶を頼りに、単細胞生物では無いか、原生動物では無いかと検索。ついに執念が実ってプラナリアであることが判明しました。例の、体を二つに切断しても、頭部からは尻尾が、尻尾のほうからは頭が再生する生物です。

プラナリアは厄介な代物で、単体生殖と分裂の両方で増殖するため、あっと言う間に水槽全体に蔓延するのです。かわいい顔つきの一方、その繁殖力たるや不気味な存在です。しかし、蓼食う虫も好き好き。プラナリア愛好家のサイトではその生態や飼育法(放っておいてもいくらでも増えるように思えるのですが)が嬉々として語られます。

さて、我が家ではプラナリア殲滅作戦の開始です。敵は、数が多い上に体が小さく、指では捕まえられません。最善策は、水槽のリセット(全取替え)だそうで、それほど、一度プラナリアに侵入された水槽の原状完全復帰は困難なのです。

Fullturkeybaster ともかく、一匹一匹、駆除するしかありません。こちらの兵器は、ローストターキー用の巨大スポイト。見つけ次第吸い取る作戦ですが、一進一退の繰り返しです。というのは、奴らはフィルター内にも進入し、こちらの目の届かないところで増殖するので、厄介至極なのです。一匹でも目残しにすると、すぐ増え、また最初からやり直しです。

Eyes0901 プラナリア対策を記したサイトで銅イオンが効果があると知り、今度は5円玉を水槽内に投下。物理作戦に加え、化学兵器の導入です。この他、実際には試みませんでしたが、鶏のレバーを餌にするトラップ作戦もあるようです。(まるで昔の米軍とベトコンとの闘いを髣髴させます。)苦労の末、最後の一匹まで駆除したのですが、惜しいことにこれを見逃してしまいました。その後、長期出張に出かけ、作戦中断。ひどい事に成っているだろうと思いながら、帰国してみると、何と敵は殲滅されていました。化学兵器が効いたようです。

さて、完全制圧宣言をしたものの、一抹の寂しさを覚えたのは何だったのでしょうか。

甲斐 晶(エッセイスト)

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ヨーロッパ窯元めぐり

大航海時代の到来によって極東への商船の往来が可能となり、陸のシルクロード(絹の道)に対する海のシルクロード(陶磁の道)が開拓され、東インド会社を通じてヨーロッパにもたらされた大量の中国の磁器や我が国の伊万里磁器が大いに珍重され、バロック宮殿の空間を華やかに飾る装飾品となりました。金、銀を上回る価値のある、070801plateaugustこうした東洋の磁器と同じものをザクセンで作りたいとのアウグスト強王の野望が錬金術師ベトガーらの努力によって実現しましたが、この磁器製造の秘法が熾烈な諜報活動を経て、競争相手のヨーロッパ列強にも伝わり、各地に王立の磁器工房が設立されることになったのです(「アルカヌム」参照)。

Qqcimg0024 当時の流行に従いマイセンの初期の絵付は中国風でしたが、次第に有田の柿右衛門や古伊万里の文様の完全な模倣に移行。こうした模倣がマイセンを起点にしてフランスなどにも波及するとともに、各窯元独特の絵柄を確立させて行きました。同じお手本からそれぞれ模倣品が作られた結果なのでしょう、我が家にあるマイセンとヘレンドのデミタスカップの場合、窯元が全く違うのに図柄は酷似しています。

ヨーロッパにある名磁器の窯元を訪ねたり、アイテムを絞って収集したりするのも楽しいものです(各窯元のコーヒーセットを揃えたら、散財ものです)。我が家ではヨーロッパ滞在中に訪れた先々で、前述のようにデミタスカップを1客ずつ集めていますし、いくつか窯元を訪ねて見ました。

Qqca99sxq7   旧東独時代にドレスデンを訪れた際、マイセンに寄る事も可能でしたが、共産政権下の当時、窯元を訪れても見るべきものは無く、商品価値のあるものは全て西側に輸出されていると聞かされており、断念してしまったのが今でも残念です。また、アウグスト強王が収集した大量の東洋の磁器やマイセン窯の名品がツヴィンガー宮殿の一角に展示されていると知って訪れたのですが、これまた修復中で見ることが出来ませんでした。P1010110しかし、ドレスデン城の外壁に「君主の行列」と題する、長さ101mに及ぶ壁画がありますが、25千枚のマイセン磁器タイルを用いてザクセンの歴代の国王ら35人を描いた見事なものでした。

1744年、マリア・テレジアによって皇室直属の磁器窯に命じられたのが、ウィーン市内2区にあるアウガルテンです。前身の「デュ・パキエ」窯は1718年創業とヨーロッパで2番目に古く、ベトガーと一緒に働いて磁器製法を熟知したシュテルツェルを引き抜きました。1864年から休窯状態にありましたが1924年アウガルテン宮に工房を移して再建されました。Dscf24531 同宮は一角がウィーン少年合唱団の宿舎にもなっていますが、ある要人のお供で訪れたところ、工場長自らがご案内。有名なヴィーナーローズ柄のお皿の絵付やスペイン乗馬学校の騎馬像の作製作業などを見学しました。騎馬像は一体構造ではなく、まず各部分を成型後、接着剤で合体させていたのが意外でした。

Museeimage 瑠璃色のセーブル・ブルーの地に金彩の絵付で有名なセーブル窯は、パリ市内から地下鉄9番線に乗って終点で降りた、セーヌ川沿いの公園に接しています。前身のヴァンサンヌ窯は王室の資金援助で1738年に開窯。1753年ルイ15世の愛妾ポンパドール伯爵夫人の意向でQqcimg0027 「王立セーブル磁器製作所」となり、1876年現在の地点に移転。1789年フランス革命により一時閉窯するもののナポレオンによって再興され、今日に至っています。セーブルはほとんどが注文生産で、年間約6000個に限定。発注後、3年しないと手に入らないとパリ在住の知人から聞いていたので、すっかり諦めていましたが、行って見ると窯元で少量小売していました(我が家の宝の1つです)。ここに併設された陶磁器博物館は質・量ともに圧巻。必見です。

Qqcimg0020 この他にも、共産圏時代にブダペストの西南約200kmの片田舎、ヨーロッパ最大の淡水湖、バラトン湖畔にあるヘレンド窯までウィーンから苦労して訪ねたりしました。その甲斐あって、当時ウィーンではとても手に入らなかった、独特のヘレンド柄の磁器製ランプスタンドを購入。今や、我が家のリビングで柔らかな光を放っています。

甲斐 晶(エッセイスト)

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アルカヌム

 Imgd81f9c3azikezj ヨーロッパには、マイセン(ドイツ)を始め、セーブル(フランス)、アウガルテン(オーストリア)、ヘレンド(ハンガリー)などの有名な窯が存在し、それぞれ見事な磁器を供給しています。このヨーロッパにおける磁器の開発の成功に錬金術師が関与していたこと、また、当時、東インド会社を通して到来する中国や日本の磁器は極めて貴重であり、その製造を独占すれば巨万の富を生むことになることからその製造方法が国家機密にされ、これをめぐって厳しい情報管理がなされる一方、その裏を掻くためのスパイ作戦や人材の引き抜き合戦などが行なわれていたことを、61esqm44k0l_ss500_J・グリーソン著「マイセン―秘法に憑かれた男たち」(南條竹則訳:集英社)で知りました。磁器造りの秘法を究め、マイセン窯の確立に貢献したザクセン王と3人の職人を巡る物語です。

 18世紀のヨーロッパの人々にとって、製造方法の不明な東洋からの磁器はエキゾチックな素材であるばかりか、魔術的で護符的な意味を持つ物質、長070801statueaugsut命、生命力、不死の霊薬であったようです。特に、ザクセン王国アウグスト強王(在位16941733)の磁器への情熱は、美女への欲望にも劣らず旺盛で、宮殿を4万の磁器で埋めつくすとともに、プロイセン王所有の磁器を得たいばかりに、自分の竜騎兵の連隊600名と取り替えたほどでした。

彼の磁器への飽くなき欲望は、ついには、ベトガー(16821719)という錬金術師を幽閉して、磁器の製法の秘密を探らせるまでに至ります。Boettgerstarke

当初、ベトガーは、卑金属を黄金に変える魔法の物質、「賢者の石」を生む秘法(アルカヌム)を会得したとの触れ込みで、アウグスト強王の庇護を求めて来たのですが、いつまで経っても、金を多量に作り出すとの王との約束は反故にしたまま。まさに王の逆鱗に触れなんとした時に、仲介に立ったのが宮廷顧問官で科学者のチルンハウスでした。Tchrnhau 彼は、錬金術同様の秘法、粘土を磁器に変える方法を追い求めており、ある程度の見当を得て(本物の磁器は、粘土とガラスを融合させて作ると確信して)いたのです。ベトガーの豊富な化学的知識や科学的才能を評価し、自分の研究の後継者として王に推奨。王はこれに同意し、金に勝るとも劣らない貴重品である磁器の開発をチルンハウスと共同で行なうようベトガーに命じ、その身柄をドレスデンの北西約25kmのマイセンに近いアルベルヒスブルグ城に幽閉します。Titelalbrechtsburg02

ところでチルンハウスの見当とは異なって、磁器の秘密は2つの主原料、カオリン及び長石を含む岩石を混ぜ、高温で焼成することにあります。長石に含まれる石英が熔けてガラス化し、粘土中の小孔にしみ込んで、その過程で磁器特有の非常に微細な構造に晶出するのです。

10027714686_2 ベトガーはザクセン地方で産出する原料(カオリンと雪花石膏(アラバスター))を変えて何度も試験焼きを繰り返し、試行錯誤の末に、白い半透明の磁器の秘密に迫る発見をします。改良を重ね、ついに1709328日、彼は「中国のものに勝るとも劣らない、上質の白磁」を製造できるようになったと報告。かくして1710123日、アウグスト王は王立磁器工場の新設を布告したのです。Alabaster

ベトガーの発明に加え、ヘロルト(16961775)、ケンドラー(17061775)という優れた絵付師や陶工職人が工房に入ったことによって、マイセン磁器の名声が確立。ザクセン王国の財政は大いに潤い、ドレスデンはエルベ河のフィレンツェと呼ばれるに相応しい芸術・文化の都として栄えます。

Img_965220_28643348_1磁器製造の秘法(素材粘土の産地、調合法、焼成温度、高温を得るための窯の設計、彩色絵具の成分など)を探ろうと、フランス、オーストリアなどヨーロッパ中の競争相手が、ドレスデンやマイセンの町にスパイを送り込むものの、ザクセン側は秘密漏洩に対する厳罰、作業者の監視、核心情報に接し得る人物の限定、素材の独占などの措置によって磁器製法の秘法を独占し得ました。Sub2 

しかし、いつしか機密が漏洩します。人材の引き抜きなどによって秘法が拡散し、各地に磁器造りの窯が設立。マイセンに代わってアウガルテンやセーブルなどの名声が高まることになるのです。

甲斐 晶(エッセイスト)

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お手軽バード・ウォッチング

 最近バード・ウォッチングをする人が増えましたが、わざわざ野山に出かけて行かなくても、良く気を付けていれば、都心でも身近に色々な種類の野鳥を見ることが出来ます。

 郊外のお宅なら庭先に餌台を作って気長に待っていると、やがて鳥たちが見つけてやってきます。餌が確実にあって、危険ではないと分かって貰えるまでには少し時間がかかりますが、辛抱して待つことです。我が家の場合、以前住んでいたマンションのベランダですが、木製の屋根付きの餌台を買ってきて手すりに置いていたところ、一年余り経った冬にようやく野鳥が餌を食べに来るようになりました。自然界に餌が少なくなる冬場は、ベランダや庭先に野鳥を呼び寄せる格好の機会のようです。Shijukara_wb_3_001

 当然のことながら餌の種類によってやって来る鳥が違います。初めにむきアワとヒマワリの種を混ぜた市販の餌を置いたところ、まずやって来たのはシジュウカラとスズメでした。Suzume1612270 シジュウカラはヒマワリの種をくわえると近くの木の枝に飛んで行って、種を脚の指と杖の間に上手に挟み込み、嘴でつついて種を割って食べています。

 スズメのほうはもう少し神経が図太く、団体さんで来訪。しっかり餌台を占領して、嘴を左右に振ってアワだけを選んで食べるものですからヒマワリの種は跳ね飛ばされ、ベランダに散らかり放題で始末が悪くて困ります。スズメ君ご一行様にはお気の毒でしたがアワは止めにしてヒマワリの種だけとさせて戴きました。

 次にリンゴとミカンを置いたところ、シジュウカラよりやや大形の鳥が、つがいなのでしょうか、二羽で現われ、やや太くて長い嘴をストローのようにミカンの実にしっかり差し込んで果汁を吸っています。その名前が知りたくて日本野鳥の合の「フィールドガイド日本の野鳥」を求めました。Hiyo_dori1612280

 こちらに気付かれないようにカーテン越しに観察するのですが、なかなかその細部の特徴が掴めません。全体が黒っぽくて胸の辺りがまだらなのはクロツグミに似ていますが、嘴が黄色ではなくて黒くてやや太めなので違います。何度かその姿          を観察し、ようやく頭部が灰色ぽい水色で、その羽毛を逆立てるのがわかりヒヨドリと判明しました。

 ベランダでのウォッチングを重ねているうちに鳥の習性があれこれ分かってきます。同じ種類の烏でも個性の違いがあります。例えばシジュウカラは殆どが餌台でヒマワリの餌をくわえると安全のため近くの枝に飛んでいって食べます。これを一度に三回ほど繰り返すのが普通なのですが、中には大胆なのか、あるいは横着なのか、じっくり餌台の屋根の上で食べるものもいます。

 鳥も一日三食のようで、朝、昼、夕方の特定の時間帯には給餌に来る鳥のラッシュがあって、餌台の傍で順番待ちをしているのも見かけます。Karugamo95

 さて当事の我が家の近くの小川には渡りを忘れたのでしょうか一年中マガモがアヒルに混じって仲良く泳ぎ、冬になるとこれにお馴染みのカルガモや、ぴんとした長い尾のオナガガモが加わって河面は賑やかになります。Onagagamo_450_img_14

 朝晩の通勤途上これらの水鳥を眺めていて、ある日アヒルに似た奇妙な格好の鳥を見かけました。羽の色が白一色のものと見栄えのしない白と黒のまだら模様のものの2種類あり、目の周りの顔面が七面鳥のように一部露出していて赤いのが特徴です。その姿はお世辞にもかわいいとは言えず、むしろグロテスク。さすがに「日本の野鳥」には、記載がありません。百科辞典で調べた結果は、バリケン(一名台湾アヒル)でした。Bariken_1170002746

 ペルー原産の野生種が家禽化され、新大陸発見とともにヨーロッパに入り(その名前はオランダ語bergeendに由来)、その後台湾に伝来。丈夫で飼い易く、暑さに強く、藻や草を食べるのでこの川の浄化のため数年前にアヒルと一緒に放されたとか。ところがこの鳥が増え過ぎて、その強い飛翔力で川沿いのマンションの3階のベランダまで出かけてのフン公害。爪が鋭いので駐車中の車に乗って車体を傷つけたり、車道を我が物顔で横行するので今やすっかり厄介者扱いです。ものごとすべて中々思うようには行かないもののようです。

甲斐 晶(エッセイスト)                                     

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Machinery Hall

  旅先、しかも海外で骨董品を探すのは楽しいものです。今から10年ほど前になりますが、ロンドンに行ったときのこと。アンティーク・ショップが軒を並べていることで有名なポートベロー・マーケットに出かけてみました。「ロンドン最大のアンティーク・マーケット」というだけあって、通りの両側は、その手のお店で一杯。脇道に入ると、まるで中東のバザールのよう。銀製のブローチ専門の店があったかと思うとその隣はライターだけのお店といった具合。どんなコレクターのニーズにも対応できそうです。Machineryhall

 私も早速Souvenir Spoonの物色にかかると、ありました、ありました。純銀製で、柄のところは、鷲が羽を広げたレリーフと七宝製の星条旗のモティーフ付き。匙の部分は、直径3cmほどの円形で、水辺にヨーロッパ風の建物が並ぶ風景が七宝で描き出された美麗品。下端には何やら文字が刻まれていて、店の親父さんに拡大鏡で読んで貰うと、"Machinery Hall"とありました。Machinery_hall_2

 「これは、米国製なんだろうが、どこの町のものか全然分からないので、売れないんじゃない」と、ケチをつけにかかる私。ところが相手もさるもの。「いや、『これは私の町のものだ』というお客が現れるもの」と、一歩も引きません。あれこれやり取りの末、27ポンドの言い値を23ポンドまで負けさせて商談が成立しました。

 さて、帰国してからが大変。"Machinery Hall"が一体どこにあるのか、気になってしかたがありません。Souvenir Spoonのモチーフになるくらいですから、きっと有名なものに違いありません。取り敢えず、インターネットで調べてみました。

 Yahoo!での検索結果は、1件。しかし、全く的外れなものです。そこで、Alta Vistaに変更。ところが、今度は、33万件もの検索結果となり、これまた役立ちません。検索条件を"exact match"として再度トライ。ようやく191件に絞り込めました。 この検索結果を逐一クリックしていくと、まず出てきたのは、ボストンにある3人組のロックグループの名称。次は、米国東部の大学のキャンパスにある歴史的建造物の名称なのですが、その写真はスプーンの七宝の絵柄とは、とても似ても似つかぬもの。これまた違います。そして、最後に行き当たったのが、1893年にシカゴで行われた万博、"World's Columbian Exposition"に関する3つのホームページ、Machineryhall003wf106 (http://users.vnet.net/schulman/Columbian/columbian.html)(http://xroads.virginia.edu/~ma96/WCE/title.html)(http://www.bc.edu/bc_org/avp/cas/fnart/fa267/1893fair.html)です。この万博の数あるパビリオンの一つに"Machinery Hall"というのがあり、そのイラストたるやスプーンの絵柄と寸部と違わないではありませんか。100年以上も前の代物だったのです。71932618

 この万博は、コロンブスの新大陸発見400年を記念するもので、19世紀に開催された万博としては最大規模のもの。半年の開催期間中の総入場者数は、2700万人を超え、当時の米国人の4人に1人がこの万博を見た勘定になるとか。欧州に優るとも劣らないだけの力を備えてきたことを米国が世界に示すとともに、その後の米国社会を特徴づけた工業・消費文化を示す絶好の機会でありました。 特に、電灯によるイルミネーション、電車による観客輸送、ムービーの前身の展示など、当時まだ目新しかった電気の実用化のデモンストレーションを大々的に実施。開会式ではクリーブランド大統領がスイッチを押し、"Machinery Hall"に設置された発電機とポンプを始動させて、所要の電力と水の会場への供給を開始させるという趣向でした。 "Machinery Hall" には、この他、紡織機や製紙機械、印刷機械などが置かれ、工場そのものが展示物となっていたのです。

 残念ながら"Machinery Hall"は、万博翌年の火事で焼失。スペイン・ルネッサンス様式のその優美な姿は、今やスプーンに留めるのみなのです。Starsstripes

 100年以上も前のスプーンと分かって一つ謎が解けたのですが、新たな謎も生まれました。シカゴ万博当時の州の数は44なのに、柄に描かれた星条旗の星の数は42しかありません。どなたかこの謎解きをお願いできませんでしょうか。

甲斐 晶(エッセイスト)

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一期一会

 人間、齢を重ねるにつけ、己れ自身が古くさくなるためでしょうか、次第に骨董品に関心が湧いてくるもののようです。

 我が家の近くのK市では、降っても照っても、毎月28日に青空骨董市が日の出から日没まで開かれます。たまたま、土日や休祭日にあたったときに出かけてみるのですが、結構な賑わいです。しかし、来ているお客は、年輩者ばかり。若者は余り見かけません。

 そんな中で、意外なのは外人客を多く見かけることです。どんなものを買っているのかを観察してみると、とても興味をそそられます。

 まずは古着。地味で粋なものよりも、キンキラキンの柄物を好んで買っていくところが外人らしいところです。とても丈が合わないと思うのですがお構いなし。仕立て直して、イブニングドレスにするのです。ウィーンでパーティに招かれたお宅の家で、そんなドレス姿のアメリカ人客と一緒になり、なるほど良いアイデアだと思ったことがあります。このほか、豪華な柄の打ち掛けなどをタペストリー代わりに壁に掛けたり、和服の端ぎれを縫い合わせてキルトに仕上げたりと、古着もインテリアとして立派に役立つのです。Qqqlampcimg0130

 その昔、量り売り用に使った酒徳利も人気の的。友人のスイス人の場合、表参道のお店で見つけた酒徳利の口の部分に電球、その上に笠を取り付けて、素敵な電気スタンドに変身させました。徳利の表面に書かれた草書風の判読困難な屋号や電話番号もなかなか味があります。

 このほか、日本人ならとても買う気にはならない、昔の民家にあった陶器の便器なども外人の目には、素敵なインテリアに写るようです。男性用の円筒型の小便器は何と傘立てに、大便用のものは花生けとして使うのです。固定観念にとらわれない、外人らしい自由な発想です。便器に描かれた絵柄が彼らにはとてもクールなのでしょう。

 Qspoon外国の旅先で、骨董品を探すのも面白いものです。

 民主化運動のうねりが高まるさなかにウィーンからハンガリーへ車で出かけたときのことです。丁度、ガソリンの値上げを政府が決定したことからタクシーやトラックの運転手達が全国でスト。彼らが主要都市の入り口をトラックなどで封鎖したため、どこの道路へ行っても大渋滞。とても目的地のブダペストまで行けそうにありません。とうとう途中の町で断念せざるを得ませんでした。

 食事をすませてから、とあるアンティークのお店を物色。共産党政権時代のこと、余り大したものはありません。当時からスーベニア・スプーンを集めていたものですから、ウィーンのステファン寺院を七宝で描いた絵の付いたものが目に留まりました。ハンガリーの地方都市のおみやげにウィーンのスーベニア・スプーンというのも変でしたが、銀製のとても手の込んだ細工の美麗品です。邦貨にして約1万2千円という言い値を8千円まで負けさせ、良い買い物をしたと大いなる満足感に浸りながら帰宅。

 Qspoonhead銀がやや黒ずんでいたので、磨いてみてびっくり。「27 Sept 1895」と刻んだ文字が浮き出てきました。何と百年も前の代物だったのです。当時はオーストリア・ハンガリー二重帝国時代。よく見ると柄には双頭の鷲が描かれています。ウィーン観光の土産にハンガリーの人が買って記念に彫らせたのでしょうか。

 良い思い出ばかりとは限りません。これは日本への一時帰国を終え、ウィーンへの帰途上、英国内を家族でドライブ中のことです。休憩で寄った片田舎のコーヒーショップの隣が骨董品店でした。家内と娘が古い黒塗りの電話器を発見。金色の唐草模様で縁取りされた素敵な逸品です。とても気に入ったのですが、何せ旅行中のこと。このまま車でウィーンに戻るのならまだしも、ロンドンからウィーンへは飛行機ですし、一時帰国で買った日本からの手荷物が一杯。これ以上荷物は増やせません。泣く泣く諦めたのですが、今だに二人は買っておけば良かったと悔やむことしきり。「骨董品は一期一会」とは作家、林望の言葉。逃がした魚は大きく、気に入ったときが買い時なのです。

甲斐 晶(エッセイスト)

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