文化・芸術

最後の晩餐

382pxleonardo_self イエス・キリストが十字架に架かる前の晩に行った弟子たちとの「最後の晩餐」のシーンは、古今の多くの画家によって取り上げられて来たモチーフですが、中でも傑作として有名なのは、レオナルド・ダ・ヴィンチの作品でしょう。

 ミラノのサンタ・マリア・デレ・グラツィェ修道院の食堂の壁に描かれたこの名画を初めて見たのは、今から約30年前のことでした。家族でローマ、ピサ、フィレンツェ、ヴェニスと飛行機で回った時に、ミラノで乗り換え時間が3時間ほど出来ました。急いで空港から市内まで往復して見てきましたが、Santamariadellegrazie当時、大修復作業の真っ最中で、絵の一部に布や櫓が掛けられていて全体を見ることができませんでした。ところが数年前、修復後の甦った名画を見る機会に恵まれました。

  ダ・ヴィンチは、時間を掛けてじっくり描くために伝統的なフレスコ画の手法(漆喰の乾かないうちに手短に描く必要がある)を捨てて、テンペラ画の手法をとりました。そのため、絵の完成した1498年の20年後には既に湿気、カビなどが原因で絵が傷み始めていたとの記録が残っています。

 その後さらに痛みが進み、この名画を保存しようとこれまでに何度と無く修復の手が加えられました。原画を油絵と勘違いして保存のために油絵の具やニスが上塗りされたり、原画を再現しようと油絵の具で破損部分が加筆されたりしました。

1979年から20年を掛けて行われた一番最近の修復作業では、顕微鏡、赤外線写真、レーダー、ソナーなどの現代技術を駆使することによって、ダ・ヴィンチの原画の絵の具の成分分析ができ、上塗りされた絵の具との区別が可能となりました。上塗りされた絵の具が剥げ落ちる際に、原画の絵の具も一緒に剥離させることも分かりました。

C0094808_19271186 そこで、今回の修復では、カビや埃だけでなく、上塗りされた絵の具も顕微鏡的な細心の注意を払いつつ除去する作業が続きました。1日わずか切手の大きさしか修復出来ないことがしばしばだったそうです。従来あった原画の部分を当初の色に加筆する一方、劣化して空白になった部分には、あえて手を加えなかったため、今回の修復後の絵は、完全な原画の再現ではなく、痛んだ部分はそのままに仕上がりました。しかしながら、原画の持つ迫力が見事に再現されています。 

まず気づくのは、12弟子がキリストを中心に3人ずつ4つのグループに配されていることです。しかも従来の古典画家の手法のように、テーブルの周りを囲んで配する(こうするとどうしても後ろ姿の弟子が出てきます)のではなく、個々の弟子の表情や仕草が生き生きと描けるようにと、テーブルの片側に全員を配しています。

 その結果、「あなた方の内の一人が私を裏切る」とのイエスの宣告に、一体自分たちの内の誰なのだろうと、水面を行く波紋のように弟子たちの間に伝搬する驚きの様子が見事に描き出されていて、見るものを大いに魅了します。

 Image1 どれが誰かを想像するのも興味深く、イエスの傍にいたとされるヨハネ、彼に「誰なのかイエスに聴け。」と迫る年輩者ペテロの両人は直ぐに判ります。ユダは、この3人の近くにいて、イエスの言葉にぎくりとした様子が描かれています。心なしか貧相な面容なのは、私の思い入れでしょうか。

 ダ・ヴィンチは、他の弟子たちも見て直ぐ判るように描いたとしているのですが、残念ながら、誰が誰やら見分けがつきません。展示室の外にある売店で解説書を見てようやく判断できました。

この絵は、キリストのこめかみを消失点とする透視法で描かれており、あたかも壁画の描かれた食堂の奥に更に空間が広がっているような見事な錯覚を与えています。

さて、最後に鑑賞上のアドバイスです。この名作を見るには、予約が必要です。見学者は、25人ずつ食堂に入場させられ、15分間の鑑賞が許されます。多くの人は、貸し出し用の音声ガイドを耳にしていますが、そうしたサービスを知らないで入場した私の場合、5分も経てばもう十分で、時間を持てあまし気味でした。ですから、くれぐれも入り口で、音声ガイドの借用をお忘れ無く。

甲斐 晶(エッセイスト)

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盆栽美術館

 海外に出かけると現地で必ず美術館や博物館めぐりをなさる方も多いことでしょう。では、外国からのお客さんを案内するとしたら、どんな博物館が興味深いでしょうか。首都圏ならJR市ヶ谷駅の近くにあった高木盆栽美術館をお勧めしたものですが、残念ながら5年ほど前に閉館してしまいました。

 ここは、我が国で初めてシュレッダーを商品化した明光商会の高木禮二社長が盆栽という日本の伝統文化を普及・発展するために、ご自身が収集された貴重な盆栽と盆器等を公開・展示していたものです。9階建ての明光商会本社ビルの一部が我が国初の盆栽美術館になっていました。12236_pc_m

 入館者は、まず最上階の屋上庭園に案内されますが、ここには、三方を白壁の土塀に囲まれた中に玉砂利と池を配した日本庭園がしつらえてあります。池の中央には、見事な枝ぶりの樹齢約500年とされる五葉松の盆栽が、やや離れてその左右には、定期的に入れ替えられる2鉢の盆栽が配置されています。この五葉松は、蔵王の岩壁に自生し風雪に叩かれながら生き続け、明治初期に採取され盆栽となったそうです。「千代の松」との銘に相応しいもので、幾星霜の風雪に耐えて培われた、堂々たる老大樹の風格を備えており、とにもかくにも圧倒されます。あるオランダ人の老医師夫妻を家内が案内した時には、実に30分以上も飽かずに眺めていたそうで、ここが都心のビルの屋上であることをすっかり忘れてしまう佇まいです。Photo

  8階は、屋内の常設展示場です。展示物は所有する500鉢以上の盆栽と4000点の盆器・飾台等の中から毎週月曜日(休館日)に入れ替えを行なっているので、毎週異なる四季折々にちなんだものを見ることが出来ます。例えば4月には、<春爛漫の盆栽展>と題して、桜・藤・サンザシなどの花ものの盆栽ともみじ、かえでなどの若葉、桜草、オダマキなどの山野草が展示されました。盆栽は、葉もの、花もの、果(み)もの、草ものと多種多彩なので、季節感溢れる演出が可能なのです。

 6階は、特別展示場で、様々なイベントが行われますが、ある年の5月にアメリカ人科学者夫妻を案内した時には、〈春の花 絵付け鉢展〉が行なわれていて、日本の江戸後期から昭和初期、中国の清朝期及びオランダの1800年代に作られた、さくら・ぼたん・バラなど春の花が描かれた盆栽鉢が書の掛け軸と共に展示されていました

 我々日本人は、盆栽を見るのが初めてではないので、余り素朴な疑問を抱くことはありません。しかし、同道したこのアメリカ人夫妻の場合、ご主人の方は、以前日本を訪れた際に盆栽の作り方の本を買い求め、帰国後実行してみたほどの盆栽好き(結局は、上手く行かなかった由)でしたが、奥様の方は初めての体験です。「盆栽の鉢は、どうして浅く平たいのか。」と核心的な疑問を呈しますが、こちらは答えがすぐには浮かびません。

 係員に尋ねると、盆栽は、真直ぐに伸びる直根を切って背丈が大きくならないようにし、更に枝を張らせ葉を繁らせるために根を横に広がらせなければならず、深い鉢ではなく平たいものになるそうです。鉢の底が浅いので、日に23回の水遣りが欠かせず、また、太陽光を浴びさせるために、室内展示の終わった盆栽は、ビルの谷間、8階の屋外に設けられた培養場で英気を養うのです。Img10552582282

 なお、9階から8階にかけての階段・踊り場には盆栽に因んだ浮世絵が展示されていて興味深いほか、2階には盆栽のビデオや図書なども用意された喫茶室があり、鑑賞の疲れを癒してゆっくりくつろげます。ちなみに、当初は、ケーキと飲み物の無料引換券を入場券を買った時に呉れたのですが、ある時、久しぶりに訪れてみると、備え付けの自動販売機用の無料カードに変っていました。

0727_p02 ところで喫茶室の奥は、明光商会の製品紹介を行なうコーナーになっていました。シュレッダーやラミネート機器が明光商会のものであることは知っていましたが、銀行や郵便局、病院などの窓口でよく見かける、受付の順番を音声と電光表示で知らせてくれる装置もその製品と知ってびっくり。こうしたユニークなヒット商品を次々に生み出して来たアイデア・マン社長高木禮二氏のお陰で、盆栽美術館が存在していたのです。

甲斐 晶(エッセイスト)

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津軽塗り

 前回(伊奈かっぺい)は津軽弁のコメディアン「伊奈かっぺい」のことを書きましたので、今回もついでに津軽にちなんだお話をしましょう。Cimg1361_2

 津軽の名産品には色々ありますが、工芸品で有名なのが津軽塗りです。縄文時代の人々の生活に関する従来の常識を次々と覆すことになった青森市郊外の三内丸山遺跡の泥炭層中からも極めて良好な保存状態で漆器が出土するなど、この地域と漆器との関係には大変深いものがあるようです。Wan11

しかし、現在の津軽塗りの歴史は、元禄時代に遡ります。今から300年ほど前の津軽4代の名君、信政公が漆工芸の隆興を図り、漆樹の植林育成により漆の自給自足を図るとともに、若狭の漆匠、池田源兵衛を召し抱え、技法の研究を命じたのが始まりで、その子源太郎により考案されたと伝えられています。

 その特徴は、数種の色漆を不均等に何回も塗り重ねて、研いでは塗り、塗っては研ぐを繰り返し、微妙で複雑な色紋様を研ぎ出す「唐塗り」にあります。Kara_pic_01 仕上げまでに40数回の工程と2ヶ月余りの日数を費やす製法の馬鹿丁寧さと製品の馬鹿丈夫さが「津軽の馬鹿塗り」とも呼ばれる所以です。0129c

  昔は、唐塗りの他にも様々な紋様を生み出す多くの手法が行われていましたが、今では、七々子(ななこ)塗りや錦塗りなどが残るだけ。Nanako_pic_02 七々子塗りは、下地の上に菜種の種子を蒔き付けて研ぎ出し、沢山の小さな丸い輪型の紋様を一面に散らす手法で、色遣いこそ単純なものの、細かい輪型の複雑なパターンには味わい深いものがあります。Nisiki

 私と津軽塗りとの出会いは、今から36年前のこと。初めての青森への出張で、朝虫温泉に投宿。温泉街のそぞろ歩きの途中で津軽塗りの専門店を見つけました。丁度、婚約中でしたので、結婚してからの普段使いにと、唐塗りの箸箱と、唐塗りの夫婦箸を求めたのですが、手間の多い製法を反映してとても値段が高く、清水の舞台から飛び降りる気持ちで大枚をはたいた記憶があります。

  爾来、「馬鹿塗り」の名に恥じずに、ほぼ毎朝、毎晩の酷使に耐えてきたのですが、さすがに25年余りも経つと、あちこち摩耗が目立つようになってきました。我々の結婚生活同様良くこれまで保ったものだと感謝しつつも、銀婚式を機に2代目を求めようと言うことになり、10年前にたまたまむつ市に出張の機会があったので物色してみました。ホテルから折角タクシーを飛ばして閉店間際の物産館や土産物屋に出かけたのですが、あるのは安物ばかり。やはり津軽塗りは下北ではなくて、津軽まで足を延ばす必要があるようです。

  ところがその数日後、同僚が都内某デパートの物産展で津軽塗りの箸の高級品を見かけたと教えてくれました。早速、出かけてみると、弘前市にある「游工房ギャラリー」の作品で、伝統的な津軽塗りの技法に現代的な味わいのデザインを施した魅力的なものばかり。一目で気に入りました。しかし、一膳4800円と値段が高いのが玉に瑕です。Kanban

  電話番号を調べて游工房に直接コンタクトしてみてびっくり。何と、工房で買えば3600円とか。デパートが3分の1もの中間マージンを取っているのです。夫婦箸は注文生産とのことなので、夏休みに旅行がてら弘前まで出かけ、見本を見せて貰ってから注文しようということになりました。

 いよいよ夏休みとなり、夫婦連れで青森へ飛び、レンタカーで弘前まで出かけました。事前に送ってもらっていた工房への手書きの順路図に従って、弘前市内から、L02012 岩木山の山麓に広がるリンゴ畑の中を行くアップルロードをドライブ。「海の日」で休日だったのにも拘わらず、主宰者の久保猶司さんが工房を開けて待っていてくれました。ニューヨークでの作品展の準備中ということでしたが、気持ちよく応対してくれました。ギャラリーには屏風やタンスなど現代感覚の洒落た漆工芸作品が沢山。お金が有れば買いたくなるものばかりです。

 Hashi 注文して待つこと3ヶ月半。11月上旬に素敵な仕上がりの夫婦箸が到着しました。これを青森の漆工芸店で買った七々子塗りの箸箱に入れて、毎日、毎日、大事に使っています。次に3代目を求めることになるのは、きっと金婚式の時でしょう。

甲斐 晶(エッセイスト)

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伊奈かっぺい

ある時、青森県青森市に出張しました。仕事を終えて帰京する段になり、おみやげをと地元のデパートに出かけ、あれこれ物色。名物のイカの加工品や生ウニに加え、青森県が生んだコメディアン「伊奈かっぺい」のCDなどを求めたのですが、そう広くもないレコード売場には彼のCDとカセット・テープが所狭しと並んでいて選ぶのに迷うほど。東京では取り寄せとなることが多いだけに、さすがは地元だなあと思わされました。P_ina_02

 ご存じでしょうか。伊奈かっぺいとは青森放送のディレクターで、サラリーマン生活のかたわら、ユーモア溢れるトーク・ショウを続けて来た人物です。もう十数年前になりますが、和田アキ子とのレギュラー番組が全国ネットで流されていましたので、ご記憶の方もいらっしゃることでしょう。ちゃんと標準語も話すのですが、やはり味があるのは独特の津軽弁をベースにした自作の詩の朗読とその合間の彼のお喋りです。そのライブはとても変わっていて、毎回「13日の金曜日」に公演するのが常。従って、1年以上も間が空くこともあれば、2ヶ月おきに立て続けに開くようなことになったりして、結構大変なようです。

 彼の存在を知ったのは、二十数年以上も前、職場の友人達と出かけた蔵王からの帰りのスキー・バスの中でのこと。運転手が何気なくかけてくれた彼のテープを聞いていて、津軽弁の語りや話の中身の余りの面白さに、すっかり気に入ってしまいました。東京に戻り、早速レコード店でそのテープを求めたのですが、生憎と在庫がなくて取り寄せ。バスの中で既に聞いた内容なのに、再び聞いても少しも飽きません。その一端をご紹介しましょう。戦争に行った父親のことを書いた詩です。41n50f3dq6l_ss500_

      <戦争(わぁ~)> 

 戦争前から 切手 集めであったんだど。

時々(とぎどぎ) 弘前(くに)の妻(かっちゃ)から 手紙くれば、大事にしまっておいだ切手がどんどど 貼らさて来るんだど。

 妻(かっちゃ)にしてみれば 良(い)い切手も 珍し切手も区別つぐわげでねし、切手は封筒(ふうと)さ貼(は)てポストさ入れるモノ位にしか考えでねもだどごで・・・。

 せっかぐ 長年 収集(あつめ)だ切手。 

せっかぐ 長年 収集(あつめ)でおいだ切手・・・。 

 途中で鑑(ふね)ぁ 沈められで届がね切手もあるべし―――。 

こうなれば 妻(かっちゃ)の手紙どんでも 切手もったいねくて――― 

『早ぐ戦争(いくさ)終われば良(い)ッ』       ど思ったんだど。

 戦争終わって 弘前(いえ)さ戻(もど)て来て『ただいま』って喋る前に

『切手 何枚(なんぼ)残(のご)てらば』って聞いだんだど。           わぁ~!  

     (「夜汽車で翔んだ落書き」より)  

青森からの帰路の車中、待ちきれずに「十三日の金曜日 青森でござい!」412qn6a5e3l_ss500_ というCDをイヤフォーンで聞きました。その中で彼が語る、ライブを続けることの苦労話のうち、このエッセイの連載を書いている私も同感だと思ったのが次の2点。

① 玄人と違って、素人なので同じネタを繰り返す訳にはいかない。しかも創作能力がないので、全てが実話である。

② 毎回、全力投球で、有るもの全てを出し切ってしまい、ネタを全部使い果たすので、終わると虚脱状態。次回までの充電が大変である。

 私があるところに連載エッセイを書き始めてから早いものでもう13年近くになりますが、毎回、産みの苦しみの連続。それでも、アイデアが浮かべば2、3ヶ月分まとめて書けるのですが、意欲が湧かないときは机に向かっても何も出てきません。

青森からの帰りの車内で彼のCDをイヤフォーンで聴きながら、そのおかしさに思わず声を出して大笑い。事情の分からぬ車内の人達は、きっと変人だと思ったに違いありません。彼のテープを聴くときには、くれぐれもご自宅でどうぞ。

甲斐 晶(エッセイスト)

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ミチコ・タナカ

 前回(ユリウス・マインル)、有名な「コーヒー王」ユリウス・マインルⅡ世の夫人が日本人声楽家の田中路子女史だったこと、133242_2 そして今でも、ユリウス・マインルのグラーベン店2階にある紅茶のコーナーで、彼女の名前を冠した「Michiko」というシリーズが売られていることを紹介しました。

 私が彼女のことを知ったのは、2度目のウィーン勤務で赴任して早々の1988年5月18日、彼女の逝去の報に接した時のことです。Michiko002 今回、彼女のことをもっと深く調べたくて、今は絶版になってしまった「ミチコ・タナカ 男たちへの賛歌」(角田房子著、新潮社)をAmazonで入手し、読んで見ました。

著者の角田房子が文藝春秋の勧めによって取材のため1960年にベルリンの路子を訪ねます。両者は年齢も近く、戦前に子女を海外に遊学させることが可能な家で育ったという似通った境遇にあったからなのでしょう、すぐに「ミチ」、「フサコ」と呼び合う間柄となります。以来20年以上に渡って交友を重ねた中からこの本が書かれましたが、路子が晩年を過ごした高級老人ホームで会った1981年の記述でこの本は終わっています。

路子は1909年、日本画家田中頼の娘として神田に生まれ、裕福に育ちます。小学校の同級生には中村勘三郎(17代目)がいたそうです。女学校時代から「恋多き女」の片鱗を見せていましたが、声楽を学ぶために入った東京音楽学校の本科1年の時に、当時ドイツから帰国したばかりだった新交響楽団(現在のN響)のチェリスト齋藤秀雄と深い仲になります。彼にはドイツ人の妻があり、道ならぬ恋に驚いた両親は路子をウィーン留学、いわば体のいい「国外追放」としたのです。

C_unt_julius2 当初ウィーンではハープの勉強をするよう新響指揮者近衛秀麿から勧められていたのですが、現地でプリマドンナ、マリア・イェリッツァの「サロメ」を聴いて、歌の道を歩む決心をし、ウィーン国立音楽学校声楽科に入学。後見人役の駐墺公使にかわいがられ、ウィーンの社交界にも出入りするようになるのですが、そこでユリウス・マインルⅡ世と運命的な出会いをし、求婚されます。彼は妻を亡くした身でしたが、路子とは親子ほども年が離れていました。

実は、当時、路子は社交界で自由奔放に振る舞っていてウィーン日本人社会における彼女の評判は芳しくなく、公使館によって「本国送還」命令が下される寸前になっていたのです。いわば、渡りに船で彼女は彼の庇護の元へ。マインルの手筈で彼女はオーストリア国籍と旅券を手に入れ、彼と結婚。この時彼は57歳、彼女は21歳でした。Michikode003

マインルは実業家だっただけではなく、教養ある文化人で、芸術にも大変造詣の深い人物でした。彼女は、彼のもとで文学者や芸術家との交流、声楽の修行を続け、オペラや映画界へのデビューを果たします。しかし、恋多き妻は夫公認で多くの男性との恋の遍歴を重ね、劇作家カール・ツックマイヤー、国際的映画俳優早川雪舟、そしてドイツ演劇界の大スター、ヴィクトール・デ・コーヴァと激しい恋に陥ります。そして、マインルの立ち会いの下、デ・コーヴァと再婚するのです。

社交的で世話好きな2人の性格から、ベルリンのデ・コーヴァ邸は第二次世界大戦の戦中・戦後の混乱期を通じて「私設日本領事館」といわれる存在になり、路子の世話になった日本人は数多いのです。政治家、財界人、学者、芸能人、音楽関係者と実に多彩で、特に音楽留学生に対する面倒見の良さは格別だったようです。そんな一人に、路子の最初の恋人、齋藤秀雄に指揮者としての薫陶を受けた小澤征爾がいます。Ozawaphoto9q Book_ozawa

小澤が指揮者の世界コンクールで次々に優勝した当時の自叙伝「ボクの音楽武者修行」(音楽之友社)には、路子の世話になったことが何と8回も出て来ます。事実、彼女の引きもあって、巨匠カラヤンの弟子入りを果たしたりしています。

路子は好き嫌いの気性が激しく、好きになった人物にはとことん入れ込みますが、一旦、気に入らなくなると徹底的に敬遠したようです。そんなエピソードに小澤の「燕尾服事件」があるのですが、残念ながら紙数が尽きました。原本でどうぞ。

甲斐 晶(エッセイスト)

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