文化・芸術

続・大阪万博(EXPO 2025)に行って来ました

前回に引き続き、今年(2025年)の9月初めの週に、東京からとんぼ返りで大阪万博を覗いて来たときのご報告です。

当日見学した5つのパビリオンは、大国フランス、小国ルクセンブルグ、鎖国時代から日本と歴史的つながりの深いオランダ、自然とテクノロジーで知られるスイス、そして明治以来文化・芸術面で深い交流のあるオーストリアと、いずれもその国らしい特徴のある展示内容でした。ただ、 フランス館では、もっぱら、ルイ・ヴィトンの旅行トランクやクリスチャン・ディオールのドレスや香水の夥しい数の陳列ばかりが目立って、商業主義的な匂いを感じてしまいました。フランスらしいもっと文化・芸術の国らしい展示が望まれました。唯一の救いは、展示Img_1615_20250923234001 内容とは無関係に、手をモチーフにしたロダンのブロンズ彫刻の小品が見学通路のあちこちに配されていたことでした。また、円形状のプールの中央に設置されたステージの上に、見事なオリーブの巨木が展示されていたのが印象的でした。こんなに立派なオリーブの木はこれまで見たことがありません  (上図参照。写真をクリックすると拡大します。以下同様。)。

Heidi オーストリア館のお隣がスイス館。「ハイジとともにテクノロジーの頂へ」とのテーマで、公式マスコットであるアニメのハイジがアルプス文化と最新テクノロジーが共存するスイスの実像を紹介して呉れます。

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入館するとすぐに、スイスの街並みを描いた巨大な切り絵が目に飛び込んできます。そこに、アインシュタインの似顔絵と彼が特殊相対性理論から導き出したあの有名な数式、E=mc2 を見つけましたが(左図)、かつて首都ベルンで彼の住まいだった記念館を訪れたことを思い出し、彼がスイス国籍であったことを気付かされました。

ルクセンブルグ館は小粒ながらも魅力的な展示でした。これまで、ルクセンブルグには首都のルクセンブルグ市しか訪問したことがなく、都市のイメージしかなかったのですが、郊外には豊かな自然環境が存在することを知り、新たな発見でした。最後の展示室の床全体がほぼネット状になっていて、見学者が靴を脱いでそこに寝転ぶと、目の前の巨大な画面にルクセンブルグの田園風景の映像が映し出され、あたかも自分がその中に没入しているかのような臨場感を味わうことが出来ました。かくして、色々なパビリオンを経巡って歩き疲れた足と目を癒して呉れました。

Img_1629 オランダ館では、絵本で有名なあのミッフィが、館内のあちこちの解説パネルに登場(左図参照)。館のテーマである「コモングラウンド=共創の礎」、すなわち、人々が同じ土台に立ち、発想し合えば新しい価値観が生まれ、人類共通の課題を解決できるとの考えを示す展示へと導いてくれました。パビリオンの建物の真ん中に、直径11メートルの白い球体が浮かんでいるのが、その外観上の特徴です。再生可能なクリーンエネルギーと日の出を表していて、その内部は360度スクリーンになっています。入館すると、ひとりひとり、手のひらサイズの球体型デバイス「オーブ」を渡されますが、これが色を変えながら光ります。入館者は、水の流れを操るオーブによって、水素など新エネルギーへの転換を巡る旅へと導かれて行きます。

ベルギー館もルクセンブルグ館同様に、万博閉幕後は解体されて再利用されます。健康と医療分野の最新技術に強みを持つお国柄から、館内では、AI(人工知能)やロボットを活用した最新技術など、国を挙げて注力するライフサイエンス、ヘルスケア分野について紹介されます。「人間の再生」をテーマに、生命の源である「水」と「細胞」を表現したパビリオンとなっていて、水の三態である液体、固体、気体をイメージした外観は、3地方に大別される国土の象徴でもあるとのこと。また、パビリオンの中は3層に分かれていて、水の三態である「固体」「気体」「液体」をそれぞれのエリアで表現していました。見学のあとは、屋上テラスに設けられたレストランで、ビールのほかチョコレートやワッフルなどが提供されており、ステージや万博会場の眺めと共に楽しめるようになっていました。

Img_1636 5つのパビリオンを観終わってみて、オーストリア贔屓の筆者の偏見もあるのかも知れませんが、その展示内容の素晴らしさの点で、オーストリア館に軍配を上げる次第です。音楽の都ならではの「未来を作曲」というテーマは、展示内容ばかりでなく、オーストリア館の建築デザインにも反映されています。前回(大阪万博(EXPO 2025)に行って来ました)に述べたように、空に向かって立ち上がるような特徴的ならせん状のオブジェは、五線譜をモチーフとしていて、そこには「人類皆兄弟」を標榜するあの有名なベートーベンの「歓喜の歌」の冒頭部分、ミミファソ ソファミレ ドドレミ ミレレ の音符が描かれています(左上図)。

Img_1590  入館者が第1の部屋に入ると、まず、両国の絆を象徴する展示として、1873年のウィーン万博で明治天皇に献上されたという幻のピアノ「エンペラー」(ベーゼンドルフ社製グランドピアノ )のレプリカが目に入ります。その反響版にはあの有名な北斎の「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」の版画が描か れており、このモデルは世界に16台しか存在しないとのこと(左上図)。このグランドピアノには自動演奏の機能があって、入館者を迎えると、モーツァルトの曲と思しき作品を演奏し始めます。日本語ガイドの方にその曲名を尋ねてみると、なんとこれは、ウィーン大学の先生がAIを駆使してモーツァルト風の曲を作曲したものとか。うまく騙されました。天井から下げられたロブマイヤー社製のシャンデリアの光に包まれたグランドピアノの自動演奏を聴くのも素敵な体験でした。

Img_1596 オーストリア館のマスコットキャラクター、Aka-shiro-aka(左図参照)に導かれて入る、第2の部屋は「人々」がテーマで、オーストリアの著名人が紹介されるとともに、現代オーストリアの様々な科学技術・現代文化がデジタル技術で紹介されます。そして、これに続く第3の部屋では、オーストリア館のテーマ「未来を一緒に作曲」を入館者が実体験します。複数のスクリーンで、多数の入館者が同時に異なるSDGsを選択すると、その組み合わせに応じて独自の曲が作曲され、バーチャル・オーケストラによって演奏される仕組みです。

こうして、オーストリア館では、文化・芸術ばかりではなく科学技術の粋も体験することができました。

甲斐晶(エッセイスト)

 

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EXPO 2025 オーストリア館

__20250529220701 大阪・関西万博(EXPO 2025)が2025413日から1013日までの日程で大阪市の「夢洲」で幕を開けました。158の国と地域が参加しており、オーストリアも後述するようなユニークな形のパビリオン(オーストリア館)を建設して参加しています。

 修好156年を迎える日墺関係において、万博は特別な役割を果たしてきました。1873年のウィーン万博の際には、明治政府は文明国たる日本を世界にアピールする絶好の機会と捉えて、初めて自らのパビリオンを建設して参加。その結果、西洋にとってとてもユニークな文化であるジャポニズムが全ヨーロッパ、さらには世界へと大きく広がり、西洋の芸術・文化に多大な影響を及ぼしました。

 一方、オーストリアは、日本で初開催の大阪万博(1970年)は勿論、自然と共存する21世紀社会の創造を目指した愛知万博(2005年)にも、自らのパビリオンを建設して参加し、オーストリアの文化・芸術を幅広く紹介する場としました。

 Alexander_van_der_bellen_13072021_croppe 今回のEXPO 2025では、523日のオーストリアの日(ナショナル・デー)に行われたオーストリア館での式典に参加するため、アレクサンダー・ファン・デア・ベレン墺大統領が来日。これを記念して、日墺二国間の経済フォーラムが521日、目黒の雅叙園において開催され、同大統領も基調講演を行いました。

 このフォーラムでは、多くの演者から、①150年を超える両国関係を通じて、相互に相手国に対する敬意が醸成されており、②両国は、自由、人権、平和、安定、発展、開放、イノベーション、国際感覚などを重んじるlike-minded countries(志を同じくする国同士)であり、③すでにオーストリアから日本には約80社、日本からオーストリアには約100社が投資しており、④オーストリアはEUに展開する上での門戸、また日本はアジアへ展開する上での門戸であることなどが指摘されました。

 Takedaaheadaustria715x328 オーストリアと言えば、ともすればその文化・芸術だけをイメージしがちですが、実は官民を挙げてイノベーションに力を注いでおり、これに着目した武田製薬が、オーストリアの研究開発力と連携するため、20239月にウィーン郊外にバイオ関係の研究所(左上写真参照)を設立していることも紹介されました。

 先に述べたように、本年523日のオーストリアの日には、オーストリア館においてファン・デア・ベレン墺大統領の臨席のもと、ウィーン少年合唱団が両国歌を歌いました。またオーストリア観光大使のHYDE氏も大統領と交流。翌24日には大統領が兵庫県の姫路城を訪れ、同城とシェーンブルン宮殿の「姉妹城」締結式が行われました。(ちなみに大阪城は、「豊臣期大坂図屏風」(リンク先のServus!の記事を参照)が縁で2009年にグラーツのエッゲンベルク城と「友好城郭」提携を結んでいます。)

 Photo_20250529220001 さて、オーストリア館は、大阪・関西万博のシンボルである大屋根リングを時計回りに15分ほど歩いた位置にあり、木製の帯である五線譜がらせん状にぐるぐると17メートルの高さまで空に伸びて行くという、ユニークな外観で一段と人々の目を引きます(五線譜には、ベートーベンの「歓喜の歌」の一節が記されています)。同館は、万博の総合テーマ、「いのち輝く未来社会のデザイン」にちなんで「未来を一緒に作曲」するとのコンセプトで、入館者を両国関係に関する旅へと視覚的、音楽的、情緒的に誘って呉れます。

 Bsendorfer-grand-piano-under-lobmeyer 館の内部は3部構成になっています。まず、「両国関係」がテーマの第1の部屋に入ると、1869年に皇帝フランツ・ヨーゼフ1世から明治天皇に友好の印として送られたベーゼンドルフ社製グランドピアノにちなんで制作された、自動演奏機能を有するグランドピアノがあり、ロブマイヤー社製のシャンデリアの光に包まれています。その反響版にはあの有名な北斎の「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」の版画が描か38817_expoaustrianpavilionboesendorferkl れており、このモデルは世界に16台しか存在しないとのことです。この部屋では、1869年から今日に至るまでの両国関係の歴史における主な出来事が鮮明な動画でスクリーン上に映し出されています。

 やや狭い回廊となった第2の部屋は「人々」がテーマで、オーストリアの著名人が紹介されるとともに、現代オーストリアの様々な科学技術・現代文化がデジタル技術で紹介されます。

 これに続く第3の部屋では、オーストリア館のテーマ「未来を一緒に作曲」を入館者が実体験します。複数のスクリーンで、多数の入館者が同時に異なるSDGsを選択すると、その組み合わせに応じて独自の曲が作曲され、バーチャル・オーケストラによって演奏される仕組みです。

 パビリオン内部の見学を終えた入館者は、らせん状の帯に設けられた階段を登って屋上階に出ると、サウンド・オブ・オーストリアという音響装置があって、これに触れると、教会の鐘の音、ラデツキー行進曲、牧場の牛の鳴き声などを聞くことが出来、オーストリアのランド・スケープならぬサウンド・スケープを味わうことが出来ます。また、屋上からは、EXPO会場の素晴らしいパノラマ景観を眺めることが出来ます。

 Menyu-image17453119442871024x707 パノラマの展望を楽しんだ後は、カフェでオーストリアのグルメを楽しんで見ては如何ですか?定番のヴィーナー・シュニッツェル(左の画像をクリックして拡大して現れるメニューのNo.6)からグーラーシュ(同No.5)、そしてデザートのカイザーシュマーレン(同No.7)、アプフェルシュトゥルーデル(同No.8)、ザッハトルテ(同No.9)、リンツァーシュニッテ(同No.10)に至るまで何でも揃っています。そして、お食事の後には、本場のウィンナー・コーヒー(クライナー・ブラウナーまたはグローサー・ブラウナー、それぞれNo,11、No.12)を是非どうぞ。

甲斐晶 (エッセイスト)

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泰西王侯騎馬図屏風

2013年のNHKの大河ドラマ「八重の桜」の舞台会津若松城は、現在、天守閣などが復元され、内部が博物館になっています。数年前に訪れた際Photo_20230426084101 には、「泰西王侯騎馬図屏風」のレプリカが展示されていました。オリジナルは、かつての城主でキリシタン大名であった蒲生氏郷が描かせた南蛮絵を屏風に仕立てたものとされ、数奇な運命を辿ってその後神戸市美術館の所蔵となっています。

 この縦2m、横5mの四曲一隻の金屏風絵は、西洋画の手法である短縮法や陰影法で描かれていますが、金箔の背景、彩色の岩絵の具などは日本画のもので、和洋折衷の見事な作品です。図柄は、堂々たる体躯のアラビア馬に跨って対峙する勇壮な甲冑姿の四名の王侯を描いたもの。それぞれ神聖ローマ皇帝ルドルフ2トルコスルタンモスクワ大公タタール大汗だとされています。Photo_20230426084201

抜き身の刀を振りかざして戦おうとする姿を描いた躍動感溢れるこの「動絵」は、戊辰戦争で鶴ヶ城が落城した際に、城主松平谷保の助命と会津藩に対する寛大な処分を主張した維新十傑の一人、長州軍の前原一誠に感謝して家老山川浩が贈ったものとされ、山口県萩市に持ち出されていました。

Photo_20230426090801 この絵の存在を人づてに耳にしたのが、神戸の有名な南蛮画の蒐集家、池永孟(1891-1955)です。南蛮画とは、桃山時代前後にポルトガル人やスペイン人がもたらした西洋画やこれを模倣して描いたキリスト教的な題材の絵画などのことです。

Photo_20230426084102 若くして財産家となった池永孟は、自らを「南蛮堂」と号するほど南蛮美術に魅せられた人物で、日本で製作された異国趣味美術品の集大成を目指し、昭和初めから私財を擲ってその蒐集に励みました。彼のコレクションは、歴史の教科書に良く出てくるあの有名な聖フランシスコ・ザヴィエルの肖像画やこの泰西王侯騎馬図屏風など、稀代の名品揃い。国際都市神戸に美術館が一つも無いことは国民の教養程度が察せられる国辱的なことと考えた彼は、昭和15年(1940)自分で「池長美術館」を建て、そのコレクションを一般に公開したのです。しかしながら、第二次世界大戦の戦局悪化によって、1944年に閉鎖されてしまいます。敗戦後は、過酷な財産税、固定資産税の課税対象とされ、蒐集品を切り売りせざるを得ない羽目に。コレクションの散逸の危機に直面した彼は、ついに昭和26年(1951)に貴重な7千点以上の美術品や資料を美術館とともに神戸市に委譲し、これが現在の神戸市立博物館に引き継がれて今日に至っているのです。

「泰西王侯騎馬図」を誰がどのような事情で描いたのかは、大いなる謎のままです。一説では、イエズス会の神学校であるセミナリヨで、キリスト教とともに西洋画法を学んだ日本人の絵師が描いたものと推定されており、それを描かせたのもイエズス会の宣教師とみなされています。また、この騎馬図の原図が存在し、アムステルダム刊行のウィレム・J・ブラウ世界地図(1606~1607年)を、1609年に改訂した大型の世界地図(現存しません)の上部を飾る騎馬図を拡大し、全く独自な騎馬人物図に仕上げたものと想定されています。

Suntory1 ところで、会津若松城にあった「泰西王侯騎馬図屏風」は、元来、四曲二双のもので、「動絵」と対をなす「静絵」が存在していました。これには甲冑姿の四名の王侯(ペルシャ王、エチオピア王、フランス王アンリ4世、イギリス王(あるいはカール5世とも)とされています)が、一戦を交える前なのでしょう、馬上で槍や王笏を手にして静かに対峙する姿が描かれています(四曲一双)。こちらの方は、落城後も昭和期まで松平家に残されていましたが、終戦後の混乱期に西宮市の某家の所有となり、現在ではサントリー美術館が所蔵しています。(1953年に、「動絵」、「静絵」の双方とも国の重要文化財に指定されました。)

Suntory2 1965年9月、鶴ヶ城の天守閣が復元され、唆工記念展が開かれたとき、「動絵」が神戸市の好意で城に送られて展示され、ほぼ百年ぶりに里帰りを果たしたのでした。また、2011年11月には、「動絵」と「静絵」が一堂に会した特別展がサントリー美術館で開催されました。

甲斐 晶(エッセイスト)

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最後の晩餐

382pxleonardo_self イエス・キリストが十字架に架かる前の晩に行った弟子たちとの「最後の晩餐」のシーンは、古今の多くの画家によって取り上げられて来たモチーフですが、中でも傑作として有名なのは、レオナルド・ダ・ヴィンチの作品でしょう。

 ミラノのサンタ・マリア・デレ・グラツィェ修道院の食堂の壁に描かれたこの名画を初めて見たのは、今から約30年前のことでした。家族でローマ、ピサ、フィレンツェ、ヴェニスと飛行機で回った時に、ミラノで乗り換え時間が3時間ほど出来ました。急いで空港から市内まで往復して見てきましたが、Santamariadellegrazie当時、大修復作業の真っ最中で、絵の一部に布や櫓が掛けられていて全体を見ることができませんでした。ところが数年前、修復後の甦った名画を見る機会に恵まれました。

  ダ・ヴィンチは、時間を掛けてじっくり描くために伝統的なフレスコ画の手法(漆喰の乾かないうちに手短に描く必要がある)を捨てて、テンペラ画の手法をとりました。そのため、絵の完成した1498年の20年後には既に湿気、カビなどが原因で絵が傷み始めていたとの記録が残っています。

 その後さらに痛みが進み、この名画を保存しようとこれまでに何度と無く修復の手が加えられました。原画を油絵と勘違いして保存のために油絵の具やニスが上塗りされたり、原画を再現しようと油絵の具で破損部分が加筆されたりしました。

1979年から20年を掛けて行われた一番最近の修復作業では、顕微鏡、赤外線写真、レーダー、ソナーなどの現代技術を駆使することによって、ダ・ヴィンチの原画の絵の具の成分分析ができ、上塗りされた絵の具との区別が可能となりました。上塗りされた絵の具が剥げ落ちる際に、原画の絵の具も一緒に剥離させることも分かりました。

C0094808_19271186 そこで、今回の修復では、カビや埃だけでなく、上塗りされた絵の具も顕微鏡的な細心の注意を払いつつ除去する作業が続きました。1日わずか切手の大きさしか修復出来ないことがしばしばだったそうです。従来あった原画の部分を当初の色に加筆する一方、劣化して空白になった部分には、あえて手を加えなかったため、今回の修復後の絵は、完全な原画の再現ではなく、痛んだ部分はそのままに仕上がりました。しかしながら、原画の持つ迫力が見事に再現されています。 

まず気づくのは、12弟子がキリストを中心に3人ずつ4つのグループに配されていることです。しかも従来の古典画家の手法のように、テーブルの周りを囲んで配する(こうするとどうしても後ろ姿の弟子が出てきます)のではなく、個々の弟子の表情や仕草が生き生きと描けるようにと、テーブルの片側に全員を配しています。

 その結果、「あなた方の内の一人が私を裏切る」とのイエスの宣告に、一体自分たちの内の誰なのだろうと、水面を行く波紋のように弟子たちの間に伝搬する驚きの様子が見事に描き出されていて、見るものを大いに魅了します。

 Image1 どれが誰かを想像するのも興味深く、イエスの傍にいたとされるヨハネ、彼に「誰なのかイエスに聴け。」と迫る年輩者ペテロの両人は直ぐに判ります。ユダは、この3人の近くにいて、イエスの言葉にぎくりとした様子が描かれています。心なしか貧相な面容なのは、私の思い入れでしょうか。

 ダ・ヴィンチは、他の弟子たちも見て直ぐ判るように描いたとしているのですが、残念ながら、誰が誰やら見分けがつきません。展示室の外にある売店で解説書を見てようやく判断できました。

この絵は、キリストのこめかみを消失点とする透視法で描かれており、あたかも壁画の描かれた食堂の奥に更に空間が広がっているような見事な錯覚を与えています。

さて、最後に鑑賞上のアドバイスです。この名作を見るには、予約が必要です。見学者は、25人ずつ食堂に入場させられ、15分間の鑑賞が許されます。多くの人は、貸し出し用の音声ガイドを耳にしていますが、そうしたサービスを知らないで入場した私の場合、5分も経てばもう十分で、時間を持てあまし気味でした。ですから、くれぐれも入り口で、音声ガイドの借用をお忘れ無く。

甲斐 晶(エッセイスト)

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盆栽美術館

 海外に出かけると現地で必ず美術館や博物館めぐりをなさる方も多いことでしょう。では、外国からのお客さんを案内するとしたら、どんな博物館が興味深いでしょうか。首都圏ならJR市ヶ谷駅の近くにあった高木盆栽美術館をお勧めしたものですが、残念ながら5年ほど前に閉館してしまいました。

 ここは、我が国で初めてシュレッダーを商品化した明光商会の高木禮二社長が盆栽という日本の伝統文化を普及・発展するために、ご自身が収集された貴重な盆栽と盆器等を公開・展示していたものです。9階建ての明光商会本社ビルの一部が我が国初の盆栽美術館になっていました。12236_pc_m

 入館者は、まず最上階の屋上庭園に案内されますが、ここには、三方を白壁の土塀に囲まれた中に玉砂利と池を配した日本庭園がしつらえてあります。池の中央には、見事な枝ぶりの樹齢約500年とされる五葉松の盆栽が、やや離れてその左右には、定期的に入れ替えられる2鉢の盆栽が配置されています。この五葉松は、蔵王の岩壁に自生し風雪に叩かれながら生き続け、明治初期に採取され盆栽となったそうです。「千代の松」との銘に相応しいもので、幾星霜の風雪に耐えて培われた、堂々たる老大樹の風格を備えており、とにもかくにも圧倒されます。あるオランダ人の老医師夫妻を家内が案内した時には、実に30分以上も飽かずに眺めていたそうで、ここが都心のビルの屋上であることをすっかり忘れてしまう佇まいです。Photo

  8階は、屋内の常設展示場です。展示物は所有する500鉢以上の盆栽と4000点の盆器・飾台等の中から毎週月曜日(休館日)に入れ替えを行なっているので、毎週異なる四季折々にちなんだものを見ることが出来ます。例えば4月には、<春爛漫の盆栽展>と題して、桜・藤・サンザシなどの花ものの盆栽ともみじ、かえでなどの若葉、桜草、オダマキなどの山野草が展示されました。盆栽は、葉もの、花もの、果(み)もの、草ものと多種多彩なので、季節感溢れる演出が可能なのです。

 6階は、特別展示場で、様々なイベントが行われますが、ある年の5月にアメリカ人科学者夫妻を案内した時には、〈春の花 絵付け鉢展〉が行なわれていて、日本の江戸後期から昭和初期、中国の清朝期及びオランダの1800年代に作られた、さくら・ぼたん・バラなど春の花が描かれた盆栽鉢が書の掛け軸と共に展示されていました

 我々日本人は、盆栽を見るのが初めてではないので、余り素朴な疑問を抱くことはありません。しかし、同道したこのアメリカ人夫妻の場合、ご主人の方は、以前日本を訪れた際に盆栽の作り方の本を買い求め、帰国後実行してみたほどの盆栽好き(結局は、上手く行かなかった由)でしたが、奥様の方は初めての体験です。「盆栽の鉢は、どうして浅く平たいのか。」と核心的な疑問を呈しますが、こちらは答えがすぐには浮かびません。

 係員に尋ねると、盆栽は、真直ぐに伸びる直根を切って背丈が大きくならないようにし、更に枝を張らせ葉を繁らせるために根を横に広がらせなければならず、深い鉢ではなく平たいものになるそうです。鉢の底が浅いので、日に23回の水遣りが欠かせず、また、太陽光を浴びさせるために、室内展示の終わった盆栽は、ビルの谷間、8階の屋外に設けられた培養場で英気を養うのです。Img10552582282

 なお、9階から8階にかけての階段・踊り場には盆栽に因んだ浮世絵が展示されていて興味深いほか、2階には盆栽のビデオや図書なども用意された喫茶室があり、鑑賞の疲れを癒してゆっくりくつろげます。ちなみに、当初は、ケーキと飲み物の無料引換券を入場券を買った時に呉れたのですが、ある時、久しぶりに訪れてみると、備え付けの自動販売機用の無料カードに変っていました。

0727_p02 ところで喫茶室の奥は、明光商会の製品紹介を行なうコーナーになっていました。シュレッダーやラミネート機器が明光商会のものであることは知っていましたが、銀行や郵便局、病院などの窓口でよく見かける、受付の順番を音声と電光表示で知らせてくれる装置もその製品と知ってびっくり。こうしたユニークなヒット商品を次々に生み出して来たアイデア・マン社長高木禮二氏のお陰で、盆栽美術館が存在していたのです。

甲斐 晶(エッセイスト)

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津軽塗り

 前回(伊奈かっぺい)は津軽弁のコメディアン「伊奈かっぺい」のことを書きましたので、今回もついでに津軽にちなんだお話をしましょう。Cimg1361_2

 津軽の名産品には色々ありますが、工芸品で有名なのが津軽塗りです。縄文時代の人々の生活に関する従来の常識を次々と覆すことになった青森市郊外の三内丸山遺跡の泥炭層中からも極めて良好な保存状態で漆器が出土するなど、この地域と漆器との関係には大変深いものがあるようです。Wan11

しかし、現在の津軽塗りの歴史は、元禄時代に遡ります。今から300年ほど前の津軽4代の名君、信政公が漆工芸の隆興を図り、漆樹の植林育成により漆の自給自足を図るとともに、若狭の漆匠、池田源兵衛を召し抱え、技法の研究を命じたのが始まりで、その子源太郎により考案されたと伝えられています。

 その特徴は、数種の色漆を不均等に何回も塗り重ねて、研いでは塗り、塗っては研ぐを繰り返し、微妙で複雑な色紋様を研ぎ出す「唐塗り」にあります。Kara_pic_01 仕上げまでに40数回の工程と2ヶ月余りの日数を費やす製法の馬鹿丁寧さと製品の馬鹿丈夫さが「津軽の馬鹿塗り」とも呼ばれる所以です。0129c

  昔は、唐塗りの他にも様々な紋様を生み出す多くの手法が行われていましたが、今では、七々子(ななこ)塗りや錦塗りなどが残るだけ。Nanako_pic_02 七々子塗りは、下地の上に菜種の種子を蒔き付けて研ぎ出し、沢山の小さな丸い輪型の紋様を一面に散らす手法で、色遣いこそ単純なものの、細かい輪型の複雑なパターンには味わい深いものがあります。Nisiki

 私と津軽塗りとの出会いは、今から36年前のこと。初めての青森への出張で、朝虫温泉に投宿。温泉街のそぞろ歩きの途中で津軽塗りの専門店を見つけました。丁度、婚約中でしたので、結婚してからの普段使いにと、唐塗りの箸箱と、唐塗りの夫婦箸を求めたのですが、手間の多い製法を反映してとても値段が高く、清水の舞台から飛び降りる気持ちで大枚をはたいた記憶があります。

  爾来、「馬鹿塗り」の名に恥じずに、ほぼ毎朝、毎晩の酷使に耐えてきたのですが、さすがに25年余りも経つと、あちこち摩耗が目立つようになってきました。我々の結婚生活同様良くこれまで保ったものだと感謝しつつも、銀婚式を機に2代目を求めようと言うことになり、10年前にたまたまむつ市に出張の機会があったので物色してみました。ホテルから折角タクシーを飛ばして閉店間際の物産館や土産物屋に出かけたのですが、あるのは安物ばかり。やはり津軽塗りは下北ではなくて、津軽まで足を延ばす必要があるようです。

  ところがその数日後、同僚が都内某デパートの物産展で津軽塗りの箸の高級品を見かけたと教えてくれました。早速、出かけてみると、弘前市にある「游工房ギャラリー」の作品で、伝統的な津軽塗りの技法に現代的な味わいのデザインを施した魅力的なものばかり。一目で気に入りました。しかし、一膳4800円と値段が高いのが玉に瑕です。Kanban

  電話番号を調べて游工房に直接コンタクトしてみてびっくり。何と、工房で買えば3600円とか。デパートが3分の1もの中間マージンを取っているのです。夫婦箸は注文生産とのことなので、夏休みに旅行がてら弘前まで出かけ、見本を見せて貰ってから注文しようということになりました。

 いよいよ夏休みとなり、夫婦連れで青森へ飛び、レンタカーで弘前まで出かけました。事前に送ってもらっていた工房への手書きの順路図に従って、弘前市内から、L02012 岩木山の山麓に広がるリンゴ畑の中を行くアップルロードをドライブ。「海の日」で休日だったのにも拘わらず、主宰者の久保猶司さんが工房を開けて待っていてくれました。ニューヨークでの作品展の準備中ということでしたが、気持ちよく応対してくれました。ギャラリーには屏風やタンスなど現代感覚の洒落た漆工芸作品が沢山。お金が有れば買いたくなるものばかりです。

 Hashi 注文して待つこと3ヶ月半。11月上旬に素敵な仕上がりの夫婦箸が到着しました。これを青森の漆工芸店で買った七々子塗りの箸箱に入れて、毎日、毎日、大事に使っています。次に3代目を求めることになるのは、きっと金婚式の時でしょう。

甲斐 晶(エッセイスト)

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伊奈かっぺい

ある時、青森県青森市に出張しました。仕事を終えて帰京する段になり、おみやげをと地元のデパートに出かけ、あれこれ物色。名物のイカの加工品や生ウニに加え、青森県が生んだコメディアン「伊奈かっぺい」のCDなどを求めたのですが、そう広くもないレコード売場には彼のCDとカセット・テープが所狭しと並んでいて選ぶのに迷うほど。東京では取り寄せとなることが多いだけに、さすがは地元だなあと思わされました。P_ina_02

 ご存じでしょうか。伊奈かっぺいとは青森放送のディレクターで、サラリーマン生活のかたわら、ユーモア溢れるトーク・ショウを続けて来た人物です。もう十数年前になりますが、和田アキ子とのレギュラー番組が全国ネットで流されていましたので、ご記憶の方もいらっしゃることでしょう。ちゃんと標準語も話すのですが、やはり味があるのは独特の津軽弁をベースにした自作の詩の朗読とその合間の彼のお喋りです。そのライブはとても変わっていて、毎回「13日の金曜日」に公演するのが常。従って、1年以上も間が空くこともあれば、2ヶ月おきに立て続けに開くようなことになったりして、結構大変なようです。

 彼の存在を知ったのは、二十数年以上も前、職場の友人達と出かけた蔵王からの帰りのスキー・バスの中でのこと。運転手が何気なくかけてくれた彼のテープを聞いていて、津軽弁の語りや話の中身の余りの面白さに、すっかり気に入ってしまいました。東京に戻り、早速レコード店でそのテープを求めたのですが、生憎と在庫がなくて取り寄せ。バスの中で既に聞いた内容なのに、再び聞いても少しも飽きません。その一端をご紹介しましょう。戦争に行った父親のことを書いた詩です。41n50f3dq6l_ss500_

      <戦争(わぁ~)> 

 戦争前から 切手 集めであったんだど。

時々(とぎどぎ) 弘前(くに)の妻(かっちゃ)から 手紙くれば、大事にしまっておいだ切手がどんどど 貼らさて来るんだど。

 妻(かっちゃ)にしてみれば 良(い)い切手も 珍し切手も区別つぐわげでねし、切手は封筒(ふうと)さ貼(は)てポストさ入れるモノ位にしか考えでねもだどごで・・・。

 せっかぐ 長年 収集(あつめ)だ切手。 

せっかぐ 長年 収集(あつめ)でおいだ切手・・・。 

 途中で鑑(ふね)ぁ 沈められで届がね切手もあるべし―――。 

こうなれば 妻(かっちゃ)の手紙どんでも 切手もったいねくて――― 

『早ぐ戦争(いくさ)終われば良(い)ッ』       ど思ったんだど。

 戦争終わって 弘前(いえ)さ戻(もど)て来て『ただいま』って喋る前に

『切手 何枚(なんぼ)残(のご)てらば』って聞いだんだど。           わぁ~!  

     (「夜汽車で翔んだ落書き」より)  

青森からの帰路の車中、待ちきれずに「十三日の金曜日 青森でござい!」412qn6a5e3l_ss500_ というCDをイヤフォーンで聞きました。その中で彼が語る、ライブを続けることの苦労話のうち、このエッセイの連載を書いている私も同感だと思ったのが次の2点。

① 玄人と違って、素人なので同じネタを繰り返す訳にはいかない。しかも創作能力がないので、全てが実話である。

② 毎回、全力投球で、有るもの全てを出し切ってしまい、ネタを全部使い果たすので、終わると虚脱状態。次回までの充電が大変である。

 私があるところに連載エッセイを書き始めてから早いものでもう13年近くになりますが、毎回、産みの苦しみの連続。それでも、アイデアが浮かべば2、3ヶ月分まとめて書けるのですが、意欲が湧かないときは机に向かっても何も出てきません。

青森からの帰りの車内で彼のCDをイヤフォーンで聴きながら、そのおかしさに思わず声を出して大笑い。事情の分からぬ車内の人達は、きっと変人だと思ったに違いありません。彼のテープを聴くときには、くれぐれもご自宅でどうぞ。

甲斐 晶(エッセイスト)

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ミチコ・タナカ

 前回(ユリウス・マインル)、有名な「コーヒー王」ユリウス・マインルⅡ世の夫人が日本人声楽家の田中路子女史だったこと、133242_2 そして今でも、ユリウス・マインルのグラーベン店2階にある紅茶のコーナーで、彼女の名前を冠した「Michiko」というシリーズが売られていることを紹介しました。

 私が彼女のことを知ったのは、2度目のウィーン勤務で赴任して早々の1988年5月18日、彼女の逝去の報に接した時のことです。Michiko002 今回、彼女のことをもっと深く調べたくて、今は絶版になってしまった「ミチコ・タナカ 男たちへの賛歌」(角田房子著、新潮社)をAmazonで入手し、読んで見ました。

著者の角田房子が文藝春秋の勧めによって取材のため1960年にベルリンの路子を訪ねます。両者は年齢も近く、戦前に子女を海外に遊学させることが可能な家で育ったという似通った境遇にあったからなのでしょう、すぐに「ミチ」、「フサコ」と呼び合う間柄となります。以来20年以上に渡って交友を重ねた中からこの本が書かれましたが、路子が晩年を過ごした高級老人ホームで会った1981年の記述でこの本は終わっています。

路子は1909年、日本画家田中頼の娘として神田に生まれ、裕福に育ちます。小学校の同級生には中村勘三郎(17代目)がいたそうです。女学校時代から「恋多き女」の片鱗を見せていましたが、声楽を学ぶために入った東京音楽学校の本科1年の時に、当時ドイツから帰国したばかりだった新交響楽団(現在のN響)のチェリスト齋藤秀雄と深い仲になります。彼にはドイツ人の妻があり、道ならぬ恋に驚いた両親は路子をウィーン留学、いわば体のいい「国外追放」としたのです。

C_unt_julius2 当初ウィーンではハープの勉強をするよう新響指揮者近衛秀麿から勧められていたのですが、現地でプリマドンナ、マリア・イェリッツァの「サロメ」を聴いて、歌の道を歩む決心をし、ウィーン国立音楽学校声楽科に入学。後見人役の駐墺公使にかわいがられ、ウィーンの社交界にも出入りするようになるのですが、そこでユリウス・マインルⅡ世と運命的な出会いをし、求婚されます。彼は妻を亡くした身でしたが、路子とは親子ほども年が離れていました。

実は、当時、路子は社交界で自由奔放に振る舞っていてウィーン日本人社会における彼女の評判は芳しくなく、公使館によって「本国送還」命令が下される寸前になっていたのです。いわば、渡りに船で彼女は彼の庇護の元へ。マインルの手筈で彼女はオーストリア国籍と旅券を手に入れ、彼と結婚。この時彼は57歳、彼女は21歳でした。Michikode003

マインルは実業家だっただけではなく、教養ある文化人で、芸術にも大変造詣の深い人物でした。彼女は、彼のもとで文学者や芸術家との交流、声楽の修行を続け、オペラや映画界へのデビューを果たします。しかし、恋多き妻は夫公認で多くの男性との恋の遍歴を重ね、劇作家カール・ツックマイヤー、国際的映画俳優早川雪舟、そしてドイツ演劇界の大スター、ヴィクトール・デ・コーヴァと激しい恋に陥ります。そして、マインルの立ち会いの下、デ・コーヴァと再婚するのです。

社交的で世話好きな2人の性格から、ベルリンのデ・コーヴァ邸は第二次世界大戦の戦中・戦後の混乱期を通じて「私設日本領事館」といわれる存在になり、路子の世話になった日本人は数多いのです。政治家、財界人、学者、芸能人、音楽関係者と実に多彩で、特に音楽留学生に対する面倒見の良さは格別だったようです。そんな一人に、路子の最初の恋人、齋藤秀雄に指揮者としての薫陶を受けた小澤征爾がいます。Ozawaphoto9q Book_ozawa

小澤が指揮者の世界コンクールで次々に優勝した当時の自叙伝「ボクの音楽武者修行」(音楽之友社)には、路子の世話になったことが何と8回も出て来ます。事実、彼女の引きもあって、巨匠カラヤンの弟子入りを果たしたりしています。

路子は好き嫌いの気性が激しく、好きになった人物にはとことん入れ込みますが、一旦、気に入らなくなると徹底的に敬遠したようです。そんなエピソードに小澤の「燕尾服事件」があるのですが、残念ながら紙数が尽きました。原本でどうぞ。

甲斐 晶(エッセイスト)

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