泰西王侯騎馬図屏風
2013年のNHKの大河ドラマ「八重の桜」の舞台会津若松城は、現在、天守閣などが復元され、内部が博物館になっています。数年前に訪れた際 には、「泰西王侯騎馬図屏風」のレプリカが展示されていました。オリジナルは、かつての城主でキリシタン大名であった蒲生氏郷が描かせた南蛮絵を屏風に仕立てたものとされ、数奇な運命を辿ってその後神戸市美術館の所蔵となっています。
この縦2m、横5mの四曲一隻の金屏風絵は、西洋画の手法である短縮法や陰影法で描かれていますが、金箔の背景、彩色の岩絵の具などは日本画のもので、和洋折衷の見事な作品です。図柄は、堂々たる体躯のアラビア馬に跨って対峙する勇壮な甲冑姿の四名の王侯を描いたもの。それぞれ神聖ローマ皇帝ルドルフ2世、トルコのスルタン、モスクワ大公、タタール大汗だとされています。
抜き身の刀を振りかざして戦おうとする姿を描いた躍動感溢れるこの「動絵」は、戊辰戦争で鶴ヶ城が落城した際に、城主松平谷保の助命と会津藩に対する寛大な処分を主張した維新十傑の一人、長州軍の前原一誠に感謝して家老山川浩が贈ったものとされ、山口県萩市に持ち出されていました。
この絵の存在を人づてに耳にしたのが、神戸の有名な南蛮画の蒐集家、池永孟(1891-1955)です。南蛮画とは、桃山時代前後にポルトガル人やスペイン人がもたらした西洋画やこれを模倣して描いたキリスト教的な題材の絵画などのことです。
若くして財産家となった池永孟は、自らを「南蛮堂」と号するほど南蛮美術に魅せられた人物で、日本で製作された異国趣味美術品の集大成を目指し、昭和初めから私財を擲ってその蒐集に励みました。彼のコレクションは、歴史の教科書に良く出てくるあの有名な聖フランシスコ・ザヴィエルの肖像画やこの泰西王侯騎馬図屏風など、稀代の名品揃い。国際都市神戸に美術館が一つも無いことは国民の教養程度が察せられる国辱的なことと考えた彼は、昭和15年(1940)自分で「池長美術館」を建て、そのコレクションを一般に公開したのです。しかしながら、第二次世界大戦の戦局悪化によって、1944年に閉鎖されてしまいます。敗戦後は、過酷な財産税、固定資産税の課税対象とされ、蒐集品を切り売りせざるを得ない羽目に。コレクションの散逸の危機に直面した彼は、ついに昭和26年(1951)に貴重な7千点以上の美術品や資料を美術館とともに神戸市に委譲し、これが現在の神戸市立博物館に引き継がれて今日に至っているのです。
「泰西王侯騎馬図」を誰がどのような事情で描いたのかは、大いなる謎のままです。一説では、イエズス会の神学校であるセミナリヨで、キリスト教とともに西洋画法を学んだ日本人の絵師が描いたものと推定されており、それを描かせたのもイエズス会の宣教師とみなされています。また、この騎馬図の原図が存在し、アムステルダム刊行のウィレム・J・ブラウ世界地図(1606~1607年)を、1609年に改訂した大型の世界地図(現存しません)の上部を飾る騎馬図を拡大し、全く独自な騎馬人物図に仕上げたものと想定されています。
ところで、会津若松城にあった「泰西王侯騎馬図屏風」は、元来、四曲二双のもので、「動絵」と対をなす「静絵」が存在していました。これには甲冑姿の四名の王侯(ペルシャ王、エチオピア王、フランス王アンリ4世、イギリス王(あるいはカール5世とも)とされています)が、一戦を交える前なのでしょう、馬上で槍や王笏を手にして静かに対峙する姿が描かれています(四曲一双)。こちらの方は、落城後も昭和期まで松平家に残されていましたが、終戦後の混乱期に西宮市の某家の所有となり、現在ではサントリー美術館が所蔵しています。(1953年に、「動絵」、「静絵」の双方とも国の重要文化財に指定されました。)
1965年9月、鶴ヶ城の天守閣が復元され、唆工記念展が開かれたとき、「動絵」が神戸市の好意で城に送られて展示され、ほぼ百年ぶりに里帰りを果たしたのでした。また、2011年11月には、「動絵」と「静絵」が一堂に会した特別展がサントリー美術館で開催されました。
甲斐 晶(エッセイスト)
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