伊能忠敬物語
落語が好きであちこちの落語会に良く出かけます。最近は立川志の輔にはまっていて、YouTubeにある彼の噺をせっせとダウンロードしては、iPodのファイル形式に変換して取り込んで楽しんでいます。彼は新作ものが多いのですが、中でも「親の顔」、「みどりの窓口」、「買い物ぶぎ」などが秀逸で大いに笑わせられます。
そんな中、2014年5月のことです。町田市民ホールで行われた彼の落語会に出かけ、2時間もの長講一席「大河ドラマへの道-伊能忠敬物語」を聴きました。足かけ17年をかけて日本全国を自分の脚で測量し、伊能図と呼ばれる『大日本沿海輿地全図』を完成させた伊能忠敬にまつわる話と2018年の彼の没後200年を記念してその生涯をNHKの大河ドラマにしようとする地元関係者の奮闘ぶりを描いた噺でした。その中で、彼の記念館が千葉県佐原(香取市)にあると知って興味をそそられ、出かけて見ました。
さして大きくもない記念館に入るとボランティアの方が展示物の説明をしてくれました。団塊の世代が定年退職し、社会奉仕のためあちこちでガイドを勤め始めたのは歓迎すべきことです。
館内最初の展示物は、裃を着て座る彼の肖像画(掛け軸)で、皆様もきっと教科書でお馴染みのことでしょう。その横には、巨大な映像パネルがあって、彼が前近代的な測量器具で実測して完成させた伊能図と最新の衛星画像による国土地理院の日本全図の二つが左右に示されています。見ていると両図は次第に近づいて画面中央でオーバーラップ。何とほぼぴったりと重なり合うのです。彼の仕事の偉大さを感じさせる展示ぶりです。
彼は17歳で佐原の酒造業を営む伊能家に婿入り。その商才によって傾きかけていた家業を見事に立て直すとともに、米取引、運送業、金融業など事業の拡大に成功し、多大な財産形成をします。一方、36歳で名主となった忠敬は、天明の飢饉の際には身銭を切って貧民救済に乗り出し、佐原村からは一人の餓死者も出しませんでした。
49歳で引退し家業を長男の景敬に委ねると、かねてから興味のあった暦学を志して江戸に出、天文学者高橋至時に弟子入り。その時忠敬は50歳、至時は19歳も年下の31歳でしたので、忠敬の決意のほどを伺い知ることが出来ます。
正しい暦づくりには地球の緯度1度の正確な距離を知る必要があり、日本ではこれを成した人物はいないことを至時から聞いた彼は、この偉業を成し遂げて後生に名を残そうとしたようです。
正確な値を出すためには、江戸から蝦夷地ぐらいまでの長距離を測れば良いとの至時の提案を受け、忠敬は蝦夷地南辺の測量を目指します。当時南下しつつあったロシアに対抗するためにも正確な蝦夷地の地図が必要との幕府の思惑とも合致し、至時の口添えで「御用」(幕府の公務)として蝦夷地測量の旅が忠敬55歳の寛政12年(1800年)閏4月19日に開始されるのです。
180日間の測量の旅(蝦夷地滞在117日)から戻り、約20日で完成させた蝦夷地の地図が幕府から高く評価され、追加の測量を命じられた結果がその後の全国踏破、ほぼ地球一周の4万㎞に及ぶ旅に繋がるのです。全国測量を終えた忠敬は全国図の完成を見ずに73歳で死去。その死は隠され、至時の息子景保を中心に作図作業が続けられ、ついに1821年に伊能図が完成するのです(左上図)。
記念館を出て「江戸優り」と称された当時の面影を残す町並みを散策していると、忠敬没200年記念に大河ドラマ化をと記されたのぼりが目に付きました。志の輔は噺の中で「一年間、測量姿の場面だけでは魅力が無い。かといって行く先々の名所旧跡の案内では『ぶらり途中下車の旅』と変わらない。各地の名物料理の紹介なら単なるグルメ番組となってしまう。」と揶揄していました。
ところが既に井上ひさしが「四千万歩の男」(全五巻)という長編小説を書き上げ、これが元で加藤剛主演の「伊能忠敬-子午線の夢-」という映画が出来ているのです。小説はどこまでが史実でどこからが創作なのか分からないほど、ドラマチックで面白い作品です。名脚本家を得さえすれば、きっと興味深い大河ドラマとなることでしょう。
甲斐 晶(エッセイスト〉
| 固定リンク
「人物伝」カテゴリの記事
「落語」カテゴリの記事
- iPod nano (第6世代)(2022.10.23)
- 続・伊能忠敬物語(2021.12.25)
- 伊能忠敬物語(2021.12.21)
- わさび小痴楽二人会(2021.06.17)
- 月刊少年ワサビ(2020.02.25)
コメント