« 2021年6月 | トップページ | 2022年10月 »

2021年12月

続・伊能忠敬物語

200前回「伊能忠敬物語」では、現役を引退して50歳になってから江戸で学び、正しい暦づくりのため、「地球の緯度1度の正確な距離を知りたい」と、足かけ17年をかけて日本全国を自分の脚で測量。伊能図と呼ばれる『大日本沿海輿地全図』を完成させた伊能忠敬の生涯についてお話しするとともに、香取市佐原にある記念館の展示で伊能図の正確さに感動した立川志の輔が創作した、2時間にも及ぶ新作落語「大河ドラマへの道-伊能忠敬物語」のことを紹介しました。

忠敬が亡くなったのは1818年。伊能図の完成はその3年後の1821でしたから、今年はその200周年にあたります。それを記念して、志の輔はこの4月17日、江東区文化センターにおいて伊能図完成200 年記念落語会で「伊能忠敬物語 -大河への道-」を演じています(左上図)。また、お正月恒例の「志の輔らくごin PARCO」では、新装なった PARCO 劇場における約1カ月間のロング公演、「伊能図完成200年記念『大河への道』」を計画。しかしながら、その直前にご本人が肺炎になってしまい、急遽中止となってしまいました。

Photo_20211225180301このため、200周年には間に合いませんでしたが、来年の1月「志の輔らくご in PARCO 2022」としてリベンジ公演「伊能図完成200+1年記念『大河への道』」が企画されています。1枚7200円と落語会としては破格の高額チケットなのにもかかわらず、発売直後に20公演全てが完売。彼の人気のほどを示しています(左図)。

忠敬の生涯に興味をそそられて訪れた記念館の展示で、衛星画像に基づく精緻な日本全図と伊能図が見事に重なるのを見た感動と、館外で目撃した「忠敬没200年記念に大河ドラマ化を」とののぼり旗から、「伊能忠敬物語 -大河への道-」という大作を創り上げた志の輔の想像力に感服します。

私がこの噺を2014年に初めて聴いた時の演題は、「大河ドラマへの道-伊能忠敬物語」だったのが、今では単に「大河への道」に進化。内容もきっと公演を重ねるに連れ磨きが掛けられているのではと思わせられます。

さて、「大河への道」は起承転結の構成になっています。まず志の輔は、30分にも及ぶマクラの部分で忠敬の非凡な人生、すなわち、50歳で天文学者の高橋至時に弟子入りし、55歳から日本全国を自分の脚で測量、73歳で亡くなるまでに地球一周分の距離を踏破したその生涯を語ります。

次いで「承」では、地元の偉人を主役にした大河ドラマの実現を目指す「伊能忠敬大河ドラマ推進委員会」の一大プロジェクトの顛末が描かれます。委員会は大物脚本家の加藤に脚本の作成を依頼。しかし、最終プレゼンの土壇場になって加藤は「出来ませんでした」と推進委員会の主任池本に詫びます。激怒する池本に加藤は「日本地図を完成させたのは、伊能忠敬ではない。」と思いもよらぬ発見を伝えます。実は地図完成の3年前に忠敬は亡くなっていたのです。

ここから舞台は江戸時代にタイムスリップする「転」の部分へ。主役は高橋景保で至時の息子です。彼は忠敬の死を伏せながらその事業を引き継ぎ、3年後の1821年に伊能図を完成させます。江戸城で将軍に拝謁し、忠敬の死を打ち明けて日本全図を披露します。「これが余の国か」と感動した将軍は、「伊能、大義であった。余は満足じゃ、ゆっくりと休め」と今は亡き忠敬に優しい言葉を掛けるのです。

ここで、再び場面は大河ドラマ推進委員会へ。結局加藤には忠敬の大河ドラマの脚本は書けず、書けたのは景保のものだったのですが、主任はその意味を深く理解し、提出書類にこう書きます。「伊能忠敬なる人物、ドラマにするには大きすぎた」。そして舞台は暗転してこの噺のクライマックスの「結」へ。パラグライダーで空撮した海岸映像がスクリーンに大写しされます。やがて画面上に衛星画像を元に作成された正確な日本地図が出現、続いてその横から歩測で得られた伊能図が現われて、両者がピタリと重なるのです。志の輔が伊能忠敬記念館で感動したシーンの再現です。

Photo_20211225180201ところで、この「伊能忠敬物語 -大河への道-」が映画化され、来年の5月20日から全国で上映されます。主演は中井貴一で、志の輔の落語に感動した中井が「この落語、映画化したら面白いと思うんです。ぜひやらせてもらえませんか」と志の輔に直談判。中井をはじめ、松山ケンイチ、北川景子ら若手からベテランまでの個性豊かな俳優たちを揃えて、それぞれが一人二役で、大河ドラマ制作の行方を描く「現代劇」と、200年前の日本地図完成に隠された秘話を描く「江戸の時代劇」の2つの世界を行き来する不思議な映画となりました。予告編はこちらをクリックすると見られます。https://movies.shochiku.co.jp/taiga/
ちなみに、映画には原作者の志の輔も二役で登場しています。

甲斐 晶(エッセイスト〉

 

| | コメント (0)

伊能忠敬物語

Photo_20211221104301落語が好きであちこちの落語会に良く出かけます。最近は立川志の輔にはまっていて、YouTubeにある彼の噺をせっせとダウンロードしては、iPodのファイル形式に変換して取り込んで楽しんでいます。彼は新作ものが多いのですが、中でも「親の顔」、「みどりの窓口」、「買い物ぶぎ」などが秀逸で大いに笑わせられます。

そんな中、2014年5月のことです。町田市民ホールで行われた彼の落語会に出かけ、2時間もの長講一席「大河ドラマへの道-伊能忠敬物語」を聴きました。足かけ17年をかけて日本全国を自分の脚で測量し、伊能図と呼ばれる『大日本沿海輿地全図』を完成させた伊能忠敬にまつわる話と2018年の彼の没後200年を記念してその生涯をNHKの大河ドラマにしようとする地元関係者の奮闘ぶりを描いた噺でした。その中で、彼の記念館が千葉県佐原(香取市)にあると知って興味をそそられ、出かけて見ました。

Photo_20211221103801 さして大きくもない記念館に入るとボランティアの方が展示物の説明をしてくれました。団塊の世代が定年退職し、社会奉仕のためあちこちでガイドを勤め始めたのは歓迎すべきことです。

館内最初の展示物は、裃を着て座る彼の肖像画(掛け軸)で、皆様もきっと教科書でお馴染みのことでしょう。その横には、巨大な映像パネルがあって、彼が前近代的な測量器具で実測して完成させた伊能図と最新の衛星画像による国土地理院の日本全図の二つが左右に示されています。見ていると両図は次第に近づいて画面中央でオーバーラップ。何とほぼぴったりと重なり合うのです。彼の仕事の偉大さを感じさせる展示ぶりです。

彼は17歳で佐原の酒造業を営む伊能家に婿入り。その商才によって傾きかけていた家業を見事に立て直すとともに、米取引、運送業、金融業など事業の拡大に成功し、多大な財産形成をします。一方、36歳で名主となった忠敬は、天明の飢饉の際には身銭を切って貧民救済に乗り出し、佐原村からは一人の餓死者も出しませんでした。

Photo_20211221110701 49歳で引退し家業を長男の景敬に委ねると、かねてから興味のあった暦学を志して江戸に出、天文学者高橋至時に弟子入り。その時忠敬は50歳、至時は19歳も年下の31歳でしたので、忠敬の決意のほどを伺い知ることが出来ます。

正しい暦づくりには地球の緯度1度の正確な距離を知る必要があり、日本ではこれを成した人物はいないことを至時から聞いた彼は、この偉業を成し遂げて後生に名を残そうとしたようです。
正確な値を出すためには、江戸から蝦夷地ぐらいまでの長距離を測れば良いとの至時の提案を受け、忠敬は蝦夷地南辺の測量を目指します。当時南下しつつあったロシアに対抗するためにも正確な蝦夷地の地図が必要との幕府の思惑とも合致し、至時の口添えで「御用」(幕府の公務)として蝦夷地測量の旅が忠敬55歳の寛政12年(1800年)閏4月19日に開始されるのです。

180日間の測量の旅(蝦夷地滞在117日)から戻り、約20日で完成させた蝦夷地の地図が幕府から高く評価され、追加の測量を命じられた結果がその後の全国踏破、ほぼ地球一周の4万㎞に及ぶ旅に繋がるのです。全国測量を終えた忠敬は全国図の完成を見ずに73歳で死去。その死は隠され、至時の息子景保を中心に作図作業が続けられ、ついに1821年に伊能図が完成するのです(左上図)。
Photo_20211221104001

記念館を出て「江戸優り」と称された当時の面影を残す町並みを散策していると、忠敬没200年記念に大河ドラマ化をと記されたのぼりが目に付きました。志の輔は噺の中で「一年間、測量姿の場面だけでは魅力が無い。かといって行く先々の名所旧跡の案内では『ぶらり途中下車の旅』と変わらない。各地の名物料理の紹介なら単なるグルメ番組となってしまう。」と揶揄していました。
ところが既に井上ひさしが「四千万歩の男」(全五巻)という長編小説を書き上げ、これが元で加藤剛主演の「伊能忠敬-子午線の夢-」という映画が出来ているのです。小説はどこまでが史実でどこからが創作なのか分からないほど、ドラマチックで面白い作品です。名脚本家を得さえすれば、きっと興味深い大河ドラマとなることでしょう。

甲斐 晶(エッセイスト〉

 

| | コメント (0)

« 2021年6月 | トップページ | 2022年10月 »