世界に続く道
昨年(2019年)7月に道半ばにして急逝された、天野之弥前IAEA(国際原子力機関)事務局長の書かれた回顧録、「世界に続く道」(かまくら春秋社)を興味深く読みました。天野さんとは、仕事上の関係もあって大変親しくさせて戴きました。
天野さんと最初にお目にかかったのは、駐日パキスタン大使公邸でのディナー。たまたま私ども夫婦と天野さんご夫妻の席が隣同士になり、会話が弾みました。回顧録によれば、当時、お二人はご結婚後間もかったようで、天野さんはマルセイユ総領事時代の半ばに幸加夫人と結婚され、外務本省に戻って軍備管理・科学審議官組織の次席審議官に就任されたばかりでした。その後、私は、核不拡散や保障措置、核セキュリティ分野の業務に従事することとなり、軍縮・核不拡散をライフワークにされていた天野さんと業務上深い関係となった次第です。
すなわち、天野さんの前任者であるエルバラダイ事務局長の保障措置問題に関する諮問機関、次いで核セキュリティ問題に関する諮問機関のメンバーに任命され、しばしばウィーンでの会議に出向くこととなり、当時ウィーン駐在でIAEA担当大使であった天野さんに、会議の模様をご報告したり、会議の合間に大使公邸での会食にお招き戴いたりしました。(写真左:2005年12月天野大使主催のレセプションで。大使の右は幸加夫人。)
回顧録を読んで強い印象を受けたのは、この回顧録が、「私の人生に起こった出来事をありのままに記すことを目的とした」とはしがきに書いておられるように、ご自分の身に起こったことについて良いことも悪いことも、名誉なことも不名誉なことも、赤裸々に綴っておられることです。不遇だった子供時代のことや人生における失敗簞なども包み隠さずありのままに書いておられます。
回顧録は、生い立ちに始まって、社会人になるまでの青少年期の出来事、そして外務省に入ってからご自分のライフワークを見出すまでの外交官生活の遍歴が綴られ、ついには、ウィーンの国際機関日本政府代表部大使に着任し、熾烈なIAEA事務局長選挙に打って出て勝利するところで終わっています。事務局長選の顛末の詳細な記述は回顧録全体の5分の1を占めており、天野さんの人生における重さを示しています。惜しむらくは、事務局長に就任してからの出来事もお書き戴いていたらなあと思わされました。
回顧録を読んで初めて知ったのは、ウィーン駐在の国際機関日本政府代表部大使に着任することになった時から、既に、エルバラダイ事務局長の後任を目指して、国を挙げて事務局長選の準備を周到に進め、見事に制したことです。(写真左:2017年10月ホテルオークラでの講演会で)
事務局長としての天野さんの功績は、多岐にわたります。まず、ライフワークの核不拡散の分野では、イランと主要国との核合意の成立と履行に主要な役割を果たされました。
さらに、IAEAの使命の3本柱である、保障措置・安全確保・平和利用の促進のうち、開発途上国における農業・医療・工業分野での原子力技術の利用に力を注がれました。アイゼンハワー米国大統領の提唱によって設立された当時から使用されてきたIAEAのモットー”Atoms for Peace”(平和のための原子力)に”Development”(開発)を加え、” Atoms for Peace and Development”(平和と開発のための原子力)としたのもその表れです。 また、陳腐化したIAEAサイベルスドルフ原子力応用研究所の近代化プロジェクトReNuALを立ち上げ、加盟国からの特別拠出を得て、新たな装置や研究棟群の設置を成し遂げました。そして、故天野事務局長の功績を記念して「天野之弥研究棟」(The Yukiya Amano Laboratories)と命名された新研究棟の開所式が本年6月に行われたのです。(写真上:サイベルスドルフ原子力応用研究所全景。出典:IAEA)
天野さんとの個人的会話の中でお聞きしたことが回顧録でも言及されていて、その背景などを知ったことが幾つかありました。例えばある時、「私は、理科が好きな少年でした」と言われたことがあります。回顧録で子供の頃に野山や海で遊んだ記述に、虫や草花の名前が豊富に出てくるのに気づきました。理科好き少年の片鱗でしょう。そして、生化学を目指して東大の理科Ⅱ類に入学するのですが、数学で挫折。今度は外交官を目指して文科Ⅰ類に入り直されたというのは初耳でした。
また、前述のパキスタン大使公邸での会話で、家内が天野夫人から「主人は鯵が大好物」と伺って、その頃仕入れたばかりの「アジ(味)な丼」(鯵の干物を炊き込みご飯風にした上に鯵のタタキを乗せた2種類の鯵が楽しめる特製の丼)の話題になり、「きっと主人も喜ぶ」との言葉に、そのレシピを後日夫人宛にお送りしたことがありました。(写真上:アジな丼。出典:おいしんぐ!)
回顧録の湯河原(天野さんの生地)の項で、「戦争直後とはいえ、よく『アジが安いよ。』という威勢のいい掛け声とともに、オート三輪でアジを売りにきた。バケツ一杯100円だった。子供のころ食べたものは忘れられないと言うが、私が今でも一番好きな食べ物はアジフライである。」との文章を見て、なるほどと思った次第でした。
甲斐 晶(エッセイスト)
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