きよしこの夜伝説
世界で一番愛唱されているクリスマス・キャロルが「きよしこの夜」であることに異論はないでしょう。300以上の言語に訳されているそうです。
オリジナル曲がギターの伴奏であったことから、パイプオルガンのふいごがネズミに囓られて壊れてしまい、急遽、副司祭のJ・モールが自作の詞をオルガニストのF・グルーバーに見せて作曲させたとの伝説が生まれたようです。(1943年に米国で出版された「きよしこの夜物語」にこの逸話が紹介されたのがその始まりとされています。)
しかし、最初の演奏がなされたオーベルンドルフ聖ニコラス教会の跡地に立つ、きよしこの夜記念堂のHPにはその由来に関しこう書かれています。
「1854年10月30日付けのグルーバー自筆の由来記には『1818年12月24日のこと、モールが自作の詞をグルーバーに渡し、ギター伴奏で合唱隊と二声ソロの曲を付けるように依頼した。』とあります。その日遅くグルーバーがモールに作品を渡し、気に入ったモールがこれを夕拝の一部に使用。モールがテノールを歌ってギター伴奏をし、グルーバーがバスを歌いました。グルーバーは、参列者(ほとんどが船舶運送人や船大工とその家族)のみんなが『この歌に満足』したと言っています。」
「グルーバーの由来記には、この歌の創作の切っ掛けについて具体的な事情は書かれていません。ひとつの推測では、教会のオルガンが壊れてしまったので、モールとグルーバーがギター伴奏の曲を作ったことになっています。この「きよしこの夜」の初演をめぐっては、多くのロマンチックな物語や伝説が作られ、知られている史実にそれぞれ逸話に富む詳細を付け加えているのです。」
「モールの署名入りの自筆譜が1995年に発見され、そこに『作詞、副祭司J・モール、1816年』とあることから、作詞は既に1816年になされていたと考えられています。また、この自筆譜の右上に『作曲、F・グルーバー』と明記されています。」
「『きよしこの夜』が作られたのは、ナポレオン戦争(1792-1815)直後の厳しい社会情勢下でした。ウィーン会議の結果、新たな国境線が画定し、『きよしこの夜』が初演されたオーベルンドルフは1818年にザルツァッハ川の向こう側のラウフェン(ドイツのババリアに帰属)から分離されてオーストリアのザルツブルグに編入されたのです。何世紀にもわたり、岩塩の船輸送が地域経済の基盤でしたが、ナポレオン戦争中に衰退の一途を辿り、回復することはありませんでした。この結果、地元は不況となり、運送業、造船業とその労働者が職を失い、将来に不安を抱くような困難な時期(1817-1819)にモールはオーベルンドルフで過ごしたのです。また、モールの前任地マリアプファールは、ババリア占領軍の撤退(1816及び1817年)に際し大きな痛手を受けました。モールはこれらのことを目撃し、それを念頭に1816年、『きよしこの夜』を作詞。そこには、平和と慰めに対する大いなる切望が表現されているのです。」
現在、歌われている歌詞は3節までしかありませんが、グルーバーの原詞は6節まであります。そのうちの3、4、5節は歌い継がれるうちに失われてしまったようです。賛美歌研究者の川端純四郎氏は、「三つの節は、かなり重い内容なので、とても即興で作れるような詩ではありません」とした上で、第4節をこう訳されます。「今夜、父の愛のすべての力を注いで、私たちすべてを兄弟として恵み深く、イエスは世界の民をだきしめる。」
川端氏は「長く続いた戦争が終わり、待ち望んだ平和をたたえた歌だった」と説明します。チロルの手袋職人やコーラスグループによって紹介され、各地に歌い継がれ、19世紀中ごろには、ドイツ・ベルリンの宮廷や一般家庭で愛唱されるようになります。そして米国に伝わり、世界の隅々へ。「世界で広く歌われるようになるにつれ、政治的、社会的状況にかかわる歌詞が削除された」というのが川端氏の解釈なのです(川端純四郎「さんびかものがたり Ⅱ」日本キリスト教団出版局)。
毎年クリスマスイブに記念堂で6節版のオリジナルの「きよしこの夜」が演奏され、その様子はネットで紹介されています。
甲斐 晶(エッセイスト)
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