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2014年12月

きよしこの夜伝説

 Oberndorfchapel世界で一番愛唱されているクリスマス・キャロルが「きよしこの夜」であることに異論はないでしょう。300以上の言語に訳されているそうです。

 オリジナル曲がギターの伴奏であったことから、パイプオルガンのふいごがネズミに囓られて壊れてしまい、急遽、副司祭のJ・モールが自作の詞をオルガニストのF・グルーバーに見せて作曲させたとの伝説が生まれたようです。(1943年に米国で出版された「きよしこの夜物語」にこの逸話が紹介されたのがその始まりとされています。)

しかし、最初の演奏がなされたオーベルンドルフ聖ニコラス教会の跡地に立つ、きよしこの夜記念堂のHPにはその由来に関しこう書かれています

Gruber18541030日付けのグルーバー自筆の由来記には『18181224日のこと、モールが自作の詞をグルーバーに渡し、ギター伴奏で合唱隊と二声ソロの曲を付けるように依頼した。』とあります。その日遅くグルーバーがモールに作品を渡し、気に入ったモールがこれを夕拝の一部に使用。モールがテノールを歌ってギター伴奏をし、グルーバーがバスを歌いました。グルーバーは、参列者(ほとんどが船舶運送人や船大工とその家族)のみんなが『この歌に満足』したと言っています。

「グルーバーの由来記には、この歌の創作の切っ掛けについて具体的な事情は書かれていません。ひとつの推測では、教会のオルガンが壊れてしまったので、モールとグルーバーがギター伴奏の曲を作ったことになっています。この「きよしこの夜」の初演をめぐっては、多くのロマンチックな物語や伝説が作られ、知られている史実にそれぞれ逸話に富む詳細を付け加えているのです。」

「モールの署名入りの自筆譜が1995年に発見され、そこに『作詞、副祭司J・モール、1816年』とあることから、作詞は既に1816年になされていたと考えられています。また、この自筆譜の右上に『作曲、F・グルーバー』と明記されています。」

『きよしこの夜』が作られたのは、ナポレオン戦争(1792-1815)直後の厳しい社会情勢下でした。ウィーン会議の結果、新たな国境線が画定し、『きよしこの夜』が初演されたオーベルンドルフは1818年にザルツァッハ川の向こう側のラウフェン(ドイツのババリアに帰属)から分離されてオーストリアのザルツブルグに編入されたのです。何世紀にもわたり、岩塩の船輸送が地域経済の基盤でしたが、ナポレオン戦争中に衰退の一途を辿り、回復することはありませんでした。この結果、地元は不況となり、運送業、造船業とその労働者が職を失い、将来に不安を抱くような困難な時期(1817-1819)にモールはオーベルンドルフで過ごしたのです。また、モールの前任地マリアプファールは、ババリア占領軍の撤退(1816及び1817年)に際し大きな痛手を受けました。モールはこれらのことを目撃し、それを念頭に1816年、『きよしこの夜』を作詞。そこには、平和と慰めに対する大いなる切望が表現されているのです。」

Ii現在、歌われている歌詞は3節までしかありませんが、グルーバーの原詞は6節まであります。そのうちの3、4、5節は歌い継がれるうちに失われてしまったようです。賛美歌研究者の川端純四郎氏は、「三つの節は、かなり重い内容なので、とても即興で作れるような詩ではありません」とした上で、第4節をこう訳されます。「今夜、父の愛のすべての力を注いで、私たちすべてを兄弟として恵み深く、イエスは世界の民をだきしめる。」

川端氏は「長く続いた戦争が終わり、待ち望んだ平和をたたえた歌だった」と説明します。チロルの手袋職人やコーラスグループによって紹介され、各地に歌い継がれ、19世紀中ごろには、ドイツ・ベルリンの宮廷や一般家庭で愛唱されるようになります。そして米国に伝わり、世界の隅々へ。「世界で広く歌われるようになるにつれ、政治的、社会的状況にかかわる歌詞が削除された」というのが川端氏の解釈なのです(川端純四郎「さんびかものがたり Ⅱ」日本キリスト教団出版局)。

毎年クリスマスイブに記念堂で6節版のオリジナルの「きよしこの夜」が演奏され、その様子はネットで紹介されています。

甲斐 晶(エッセイスト)

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コンチータ・ヴルスト

 Eurovisionlogoユーロビジョン(Eurovision)をご存じですか?

欧州および北アフリカの放送局からなる組織、欧州放送連合European Broadcasting Union)が提供する特別なTV音楽番組の冒頭に表れる統一ロゴです。有名なのは、毎年、元日の朝(日本では夜)に全世界に向かって放映される、ウィーンフィルのニュー・イヤー・コンサートでしょう。ロゴとともに流れるテーマソング、マルカントワーヌ・シャルパンティエの「テ・デウム」の前奏曲でお馴染みなことでしょう。

Eurovisionsongcontest2014ユーロビジョンの名を上げたのは、なんと言っても欧州統一の象徴として1956年に始まったユーロビジョン・ソング・コンテストでしょう。その優勝者にはABBAやセリーヌ・ディオンなど、その後世界的なアーティストとして活躍している歌手が多いことでも知られています。


さて、今年5月にデンマークのコペンハーゲンで開催された
2014ユーロビジョン・ソング・コンテストで、実に48年ぶりにオーストリアの歌手が優勝しました。48年前の優勝者は、Udo Jurgensで、オーストリアのさだまさしと私が勝手に呼んでいるシンガー・ソング・ライターです。時事問題などシリアスなテーマを取り上げながらも軽快な曲に仕上げてドイツ語圏で人気があります。

Conchita_wurst_2ところで今年の優勝者Conchita Wurstの舞台姿がとても奇妙であったことから、その歌唱力は別にして、大いなる議論を地元オーストリアは勿論、ヨーロッパ中に巻き起こしてしまっているのです。(その伸びやかで澄んだ歌声はYouTubeで検索して聴くことができます。あわせて、その奇抜な舞台姿もどうぞご覧下さい。)

ひと言で言えば、彼女(実は彼)は「ひげ面美人」なのです。生まれはれっきとした男性で、本名はThomas Neuwirthと言うのですが、はるな愛などと違って性転換はしておらず、マツコ・デラックスなどのような女装タレントに属します。ムキムキなのに厚化粧とど派手な衣装なのはいわゆる典型的なdrag queen(男性が女装して行うパフォーマンス)なのですが、とても濃いひげ面なのが違和感を呼びます。多分それで自分と他のdrag queenとの差別化を狙っているのでしょう。

彼女は198811月、オーストリアのグムンデン生まれ。学校時代には同性愛者であることから常にいじめられるのではないかとのおそれを感じ、休憩時間にトイレに行くのもためらうほどであったと語っています。2007年にオーストリアのタレント・オーディション番組「Starmania」で決勝に進出する一方、20112月にグラーツの服飾学校を卒業。この経験が彼女の舞台衣装姿に影響を与えているのかも知れません。

2011年からdrag queen「コンチータ・ヴルスト」として登場。この姿は「すべての人々に差異に対する寛容を呼びかける、重要なメッセージである」として、同性愛者、同性婚、性同一性障害者などへの差別の撤廃を訴えています。 ちなみに、「ヴルスト(Wurst)」とはドイツ語で「ソーセージ」を意味しており、「Das ist mir doch alles Wurst」(どれも同じ、気にしないの意)というドイツ語の慣用句に由来しているそうです。

 優勝後、故郷に錦を飾った彼女は、何千人ものファンを前にしてウィーンの新王宮前広場でコンサートを実施。大成功を収めました。コンサート前にはファイマン首相(社民党)と面談し、彼女が寛容を推進していることに謝意が表されました。

しかし、批判がないわけではありません。現政権の連立相手の国民党は、家族制度を重んずる伝統的価値観に立っており、首相の発言は歌手を政治目的に利用するものと激しく非難しています。

Eurovisionlsongcontest2015実は、彼女が昨年9月にオーストリア放送協会の内部選考によりユーロビジョン・ソング・コンテスト2014のオーストリア代表に選出された直後から、国内でも大論争となり、フェイスブックの「反ヴルスト」のページは31千を超える支持が集まったそうです。

規定により、来年のコンテストは優勝国オーストリアでの開催が決まっています。来年はどんな歌手が登場して優勝するのか今から楽しみです。

甲斐 晶

(エッセイスト)

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