オイゲン公の冬の宮殿
昨年は、名将オイゲン公(1663〜1736)の生誕350周年の年でした。彼は、オスマン・トルコ軍との戦いで名を挙げ、その優れた軍事的才能によって、ついには帝国軍の総司令官となるとともに、宮廷軍事会議議長、枢密顧問官などを歴任し、オーストリアで最も政治的影響力を有する人物となりました。多くの富と権力を得た彼は、いくつかの豪華な宮殿を建てましたが、その1つが彼の夏の離宮ベルベデーレ宮で、今日クリムトの「接吻」などの名画を展示する美術館として有名です。
一方、彼が住居兼接客用として使用した冬の宮殿の方は、旧市内ケルントナー通りの脇を入ったHimmelpfortgasse 8にあります。彼の死後、莫大な遺産を相続する子がおらず、姪の所有となります。ところが、彼女は1738年オイゲン公の財産を全てオークションに出し、結局、マリア・テレジアがこの冬の宮殿を宮廷の用のために購入。1848年まで彼女の所有となっていたのです。その後長らく財務省が使用していましたが、2007年から改装が開始され、オイゲン公の350回目の誕生日である昨年10月18日に一般公開されました。そして、本年4月27日まで(ちなみに彼の命日は4月21日です)生誕350年を記念する特別展「サヴォイのオイゲン公-350年」が開催されました。
昨年の晩秋にウィーンを訪問した際、知人からこのことを耳にして、私もこの冬の宮殿と特別展を見に出かけてみました。冬の宮殿は、オイゲン公の依頼によって、バロック建築家ヨハン·ベルンハルト·フィッシャー·フォン·エルラッハが1695年から1700年にかけて建設。その後、ベルベデーレ宮を設計した建築家ヨハン·ルーカス·フォン·ヒルデブラントによって増築されたものです。
新装なった冬の宮殿は純白の外観で瀟洒な佇まい。大きく開いた戸口から入り、右手の大階段を進むと正面の踊り場の壁にオイゲン公と覚しきレリーフとヘラクレスの像が我々を迎えてくれます。この階段を上りきった2階が展示会場です。
展示は、彼の生涯、その家柄、宮殿の建築、軍事上の功績などに焦点を当てています。また、展示の説明は、ドイツ語と英語の両方で書かれていましたが、30年前に初めてウィーンに出張したときには、美術館や博物館の説明は全てドイツ語だけだったことを思うと、このあたりは観光立国オーストリアの面目躍如というところでしょうか。
オイゲン公はイタリア起源のフランス貴族の息子としてパリで誕生。長男ではなかったため家督を継げず、ほとんど無一文でウィーンに辿り着いて、ハプスブルグ宮廷入りを果たします。当時、フランスと敵対するオーストリアに来ざるを得なかったのには、それなりの事情があったのです。
まず、彼は、1683年トルコ軍による第2次ウィーン包囲に際し、ロートリンゲン公カールの指揮下の皇帝軍に入って一将校として参戦。その後、武勲を重ねて目覚ましい昇進をし、1697年のゼンタの戦いでは最高指揮官として勝利を収めます。その後、カルロヴィッツの和約(1699年)によってオーストリアがハンガリー全土を獲得して戦争が終結するまでに、有力な将軍の1人となり、ついには帝国軍の総司令官にまで上り詰めたのです。
冬の宮殿には豪華な部屋が数多くあります。すなわち、ルイ・ドリニーが描いた天井フレスコ画がある青の間、かつての謁見室で皇帝ヨーゼフ1世、カール6世、それに愛馬に跨るオイゲン公の等身大の肖像画で飾られた赤の間、金色に輝く見事な金色の間などなど。中でも圧巻なのはイグナス・ジャック・パロセルによって壁一面に描かれたトルコ軍との戦闘の場面です。ドナウ河畔に展開する双方の多数の軍団を克明に描いた大スペクタクル画によって彼の武勲を偲ぶことが出来ます。
ところで、ここには江戸時代のものとされる総漆の和戸棚が展示されていましたが、これはトリノ市からの借り物のようで、残念ながらオイゲン公とは無関係のものでした。
特別展終了後はこの宮殿もベルベデーレ宮同様に美術館として利用され、オーストリア内外の現代芸術家の作品が展示されることになっており、新たな観光スポットとなることが期待されます。
甲斐 晶(エッセイスト)
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