比翼連理
比翼連理と言う四字熟語をご存じでしょうか。白楽天がその長編詩、長恨歌において、玄宗皇帝と楊貴妃の仲睦まじさを描くのに、「天にあっては比翼の鳥、地にあっては連理の枝とならん」と表現したことから、相思相愛の夫婦仲のことです。
今から80年ほど前に国際結婚した中国人男性とオーストリア女性の夫婦が激動の
時代変化の中で、お互いに深い愛情を育んで生きた姿を描いた映画「愛に架ける橋」(英語名:On the Other Side of the Bridge、2002年中国製作)を見て感動し、この言葉を思い出しました。かなり脚色されていますが、この作品は実話に基づくもので、故国オーストリアを捨て、当時は文化の果つる地で生きることを選択した女性、Getrude(映画ではFannyという名:1916-2003)Wagnerの一生を描いています。
彼女がウィーンの警察学校に留学中の中国人青年Du Cheng-Rong (杜承榮、当時24歳)と出会ったのが1930年1月。(彼女の父は警察学校の教官の1人でした。)若い二人はいつしか惹かれ合い、愛情が芽生えます。ところが1933年12月、Duは帰国。日増しに恋焦がれるGetrudeは、「中国に渡って、彼と結婚したい。」と父に告げますが、許されません。しかし、彼女の決心は固く、18歳になった1934年12月、計画を実行。Duの財政的支援を得てイタリアから船で上海に渡ったのです。
彼女の両親は遠い国に旅立つ娘を良しとしませんでしたが、彼女は5年後には戻るからと約束して故国を離れたのでした。そして、1935年2月、風光明媚な浙江省杭州で結婚。Getrudeは中国名のHua Zhi-Ping (華知萍)を得ます。
彼らは、Duの故郷、浙江省東陽市上盧鎮湖滄村でも伝統に従った結婚式を挙げ、田舎の農村生活を開始。Getrudeは優しい思いやりのある夫に助けられ、不便ながらも次第に土地の風俗習慣に溶け込んで行きます。Duは、結婚して数年したら、彼女を連れてその両親に会いに行くつもりでした。
しかし、平穏な生活は長く続きません。混乱と災難が次々に到来。国民党と共産党との抗争に加え、1937年の日本軍の侵略により一家は国内を転々。重慶では日本軍による空襲を受け、命拾いをします。そして、1944年Duは国民党の支配下だった温州の警察学校長を拝命します。
1945年日本軍の降伏によって第2次世界大戦が終わりますが、国民党軍と共産党軍による内戦が勃発して、Duは故郷に帰還。混乱の中、貧困生活を余儀なくされ、Getrudeは母から貰った腕輪を仕方なく売って長男の学費などに充てたのです。この頃、国民党に協力的だったとしてDuは共産党の反革命分子狩りや大躍進運動(1958-1961)の標的となって迫害されます。また、政治運動や悪天候による大凶作(1960-1962)のため、困窮の度が増します。この間、1950年代初めや1960年代初めには、オーストリア政府やGetrudeの両親が帰国の手筈を整えますが彼女はこれを拒み、夫や家族と一緒の道を選ぶのです。
そして文化大革命(1966-1976)が追い打ちをかけます。裕福な家庭の出身で、国民党の親派、しかも西欧人と結婚していることで、Duは紅衛兵からの厳しい追及、総括を受ける羽目に。余りにもひどい責め苦にDuは自殺を考えますが、Getrude の愛に接して思いとどまるのです。1979年文革が終わり、Duはやっと72歳で名誉回復を遂げます。
ようやく彼ら二人の平穏な生活を取り戻せました。そして、彼女の弟が中国にあるオーストリア大使館に働きかけて彼女へのオーストリア旅券の再発行を求めたのです。
幸福な生活は10年ほど続きましたが、1989年Du は癌に冒され、健康が衰えて行きます。翌年4月、最愛の妻が手に入れたばかりのオーストリア旅券を眺めながら83歳で息を引き取ります。
その年の末、Getrudeはウィーン市長Zirkの招きで56年ぶりに帰国。55年間一緒に暮らし、二男三女をもうけた最愛の夫が一緒でなかったのが唯一悔やまれたことでした。
「愛に架ける橋」が中国で封切られたその前日の2003年2月19日、彼女は86歳の生涯を終え、愛する夫の傍らに安らかに眠っています。
甲斐 晶 (エッセイスト)
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