大坂図屏風
オーストリア第2の都市グラーツは16世紀の街並みがほぼそのまま残された古都で、旧市内が全域、世界文化遺産に登録されています。その郊外にエッゲンベルグ城がありますが、このお城も世界遺産となっていて、神聖ローマ皇帝フェルディナント2世の顧問をつとめた公爵ヨハン・ウルリッヒ・フォン・エッゲンベルグが1625年に全宇宙をモチーフとした建てさせた平城です。すなわち、4つの塔が四季を、12の門が12ヶ月を、365の窓が一年の日数を表しているのです。
2006年9月、このお城で250年以上にもわたって居室の壁に描かれた画の一部と思われていたものが、実は豊臣秀吉の没した慶長3年(1598)前後の大坂城とその城下町の様子を詳細に描いた屏風絵(「豊臣期大坂図屏風」)で、日本国内にも残存例の少ない、大変貴重なものと判明しました。調査を依頼されたケルン大学エームケ教授が関西大学にその写真を持ち込んで判ったのです。一体、どうやって日本の屏風絵がはるばるオーストリアのグラーツで発見されるに至ったのでしょうか?この屏風絵の数奇な運命を辿ってみましょう。
時はオランダの東インド会社が盛んに東洋の事物をヨーロッパに紹介していた頃に遡ります。日本との関係では1609年、平戸にその商館が出来て交易が始まります。記録によると1642年6月に初めて屏風の注文がなされました。屏風は壁面を飾る装飾品として紹介されましたが、紙製のため、虫食いとか船旅の途中で蒸れたり濡れたりして損傷するリスクが高いのです。あまり儲からないためか、わずか4年で取引が終了してしまいます。90双輸出したうちヨーロッパに着いたのはわずかに12双。こうした屏風の1枚をエッゲンベルグ家が入手し、市内の宮殿で使っていたようです。
ヨハン・ウルリッヒの玄孫のマリア・エオノーラが1750年の城内改修にあたり、東洋趣味を盛り込んだロココ形式の小部屋を三つ造りました。ひとつは、磁器の間で、主に伊万里の色絵皿を部屋の壁一杯に埋め込みました。次は、中国風の布飾りの壁の間で、清朝の宮廷風景を描いた絹布をばらして、これまた部屋の壁一杯に貼り付けました。
そして、3つ目がインドの間です(当時のヨーロッパ人にとって、東洋=インドだったようです)。
八曲一隻であった豊臣期大坂図屏風(高さ182cm、幅480cm)がばらばらにされ、8枚のパネルとして壁面に埋め込まれ、西洋人の画工が想像して描いた中国趣味の絵と交互に飾られたのです。
こうした思いがけない扱いを受けたことがかえって幸いして、屏風絵を現代まで生き延びさせたのです。2000年にパネルの修復が行われたのが再発見のきっかけでしたが、パネルを外してみると枠の合間ごとにカンバスが張られて和紙が補強されており、パネルに入れられた事で湿気や温度の変化による劣化から守られました。また、城は第二次世界大戦中に侵攻したソ連兵の略奪に遭って多くの美術品が持ち去られましたが、壁と化していた屏風絵は略奪者の手から無事守られたのです。
お城のサイトに屏風絵の詳細な説明があります。豪奢な大坂城の城郭のみならず、秀吉にゆかりの神社仏閣や町屋が描かれるとともに、500人もの老若男女が詳細に描かれ、当時の武士や町人などの生活ぶりを覗うことができます。この屏風絵については、その発見に関わった三者、エッゲンベルグ城を含むシュタイアーマルク州立博物館ヨアネウム、関西大学、大阪城による共同研究が2007年に立ち上げられその成果が広く発表されています。また、日墺修好140周年の2009年9月、オーストリア大統領の来日の際にエッゲンベルグ城と大阪城の姉妹城郭提携が結ばれました。
共同研究の成果を紹介したBShiの特集番組を見て、機会があればこの目で見たいものと願っていましたが、ある秋の日、その願いが叶いました。ただ、くだんのインドの間は防犯警報装置が厳重で、屏風絵を間近で眺めることが出来ませんでした。せめてもレプリカの展示でもあればなあと思った次第です。
甲斐 晶(エッセイスト)
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