ルドルフ・ディットリッヒ
モーツアルトのオペラ「魔笛」は意外にも日本と関係があって、その初演の台本では王子タミーノが「きらびやかな日本の狩衣をまとって」登場するとされています。しかしながら、本格的に日本を舞台にしたオペラと言えば、やはりプッチーニの「蝶々さん」でしょう。
ただ、日本人の演出家によるものでない限り、我々日本人が見ると登場人物の服装や所作などが噴飯もののことが多いのです。蝶々さんの着物が左前なのは、西洋のドレスの感覚からして止むを得ないとしても、綿入れのどてら風だったりするのは戴けません。その他、畳間に椅子とテーブルが並べられていたり、土足のまま居間に上がり込んだりと、違和感を覚えるシーンが多々あります。
ところで「蝶々さん」には、「君が代」を始め、「宮さん、宮さん」、「お江戸日本橋」など日本のメロディーがあちこちに出てきます。日本に来たことのないプッチーニがどうやって、日本の音楽を知ったのでしょうか。それには当時の大山久子駐伊日本大使夫人が果たした役割が大きいのです。
大山夫人は、プッチーニと再三会って日本の音楽や文化について貴重な情報を提供するとともに、自ら日本の歌を琴で演奏したり、日本から楽譜やレコードを取り寄せたり、自分が所有するレコードをプッチーニに貸したりしました。また、最近の研究では、西洋と日本の音楽の橋渡しをしたお雇い外国人、 オーストリア人のルドルフ・ディットリッヒ(Rudolf Dittrich:1869-1919)が出版した日本歌曲の楽譜集が大きな影響を与えたようで、プッチーニは、楽譜集所載の端唄、さくら、お江戸日本橋、地突き歌の4曲を取り 入れています。
我が国の近代化を進めた明治政府は、学生や政府高官を海外に派遣する一方で、多くの外国人専門家を大学教授や政府顧問として我が国に招聘し、欧米の諸制度や科学技術、芸術・文化の吸収に努めました。こうしたお雇い外国人の中のひとりが上野音楽学校(現在の東京芸術大学)で教鞭を取り、日本における西洋音楽の発展に貢献したディットリッヒなのです。当時、日本に派遣する音楽家の選任の任にあったのがウィーン駐在の日本国公使、戸田伯爵でした。当初、彼が白羽の矢を立てたのは、ワルツ王ヨハン・シュトラウスでしたが、これはいかにも無理で実現しませんでした。その代わりに音楽教授として招聘されたのがブルックナーの薫陶を得ていたディットリッヒでした。
バイオリンとパイプオルガンの演奏に秀でていた彼は、上野音楽学校で教鞭を執って優れた日本の音楽家を育成する一方、鹿鳴館の舞踏会で指揮を務めたりピアノやバイオリンの演奏をしたりしています。このように素晴らしい功績を収めたディットリッヒでしたが、1894年の日清戦争の勃発が日墺関係に影を落とし始めたことから、故国に戻ります。その後も音楽活動を続け、1906年から亡くなる1919年までウィーン音楽大学でパイプオルガンの教授を務めました。
ところで、彼にはPetronellaという奥さんがいましたが、任期半ばの1891年に亡くなってしまいます。そして、彼に日本の音曲を教えたことが切っ掛けだったのか、三味線師匠の森菊と関係ができ、1893年8月に息子の乙(おっと:独名、Otto)が生まれます。このあたり蝶々夫人のピンカートンを彷彿とさせますが、違うのは、帰国するにあたり「非嫡出子Ottoのため毎年少なくとも銀貨60円を菊に前払いする。ただし、私の求めに対してOttoの引き渡しを拒む場合、この義務は無くなる。」との誓約書を領事館で書いていることです。
結局、森乙がオーストリアの父の元に加わることはありませんでしたが、彼は、父の才能を受け継いでプロのバイオリニストとして活躍します。そして、なんとその長男が、歌手ペギー葉山とおしどり夫婦として有名だった根上淳でした。
ディットリッヒの伝記を著してこのことを明らかにした平沢博子女史は、2007年9月に彼の子孫を訪ね(ウィーンに戻った彼は1900年に再婚、息子二人が誕生しています)、ウィーン中央墓地にあるその墓に根上淳の遺灰の一部を収めています。なんとなく心温まるお話しですね。
甲斐晶(エッセイスト)
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