カラスのチター
映画「第三の男」は、敗戦後のウィーンの街並みを見事に映し出したC・リード監督(1906-1976)の素晴らしいカメラワークと哀愁に満ちたA・カラス(1906-1985)のチターの調べにより、1949年9月、カンヌ映画祭のグランプリを獲得しました。枯れ葉の散る寒々とした中央墓地の並木道を無表情で立ち去るアンナを描いたラストシーンは印象的ですが、いかに名場面が連続していたとしても、そのバックにカラスのチターが無かったなら、その魅力も半減していたことでしょう。
カラスは、ハンガリー人の家系の次男としてウィーンに生まれ、8才の時に屋根裏部屋で見つけたチターと初めて出会います。その後、正規にチター奏法を学び始める一方、鍛冶職人の見習いとしても働き始めましたが、結局、プロのチター奏者の道を選び、16才にして既にその名はウィーン各地のホイリゲで知れ渡るようになっていました。
第二次世界大戦の従軍中もカラスは小型のチターを持参し、将校達のために演奏したそうです。
戦後、1948年10月、ウィーンの森シーフェリングの自宅でくつろいでいたカラスにホイリゲに来るように電話が入ります。「第三の男」の制作のために英国からやってきたリード夫妻一行がウィーンの音楽を聴きたくて、カラスを呼んだのです。
カラスのチターに魅了されたリードは、これを映画の音楽に使用しようと思い立ち、「後日、連絡する」旨、彼に伝えました。数日後、連絡を受けたカラスは、アストリア・ホテルに向かいます。リードの求めに応じて、次々に違った曲を引き続け、ついに4時間に及ぶに至ってようやく解放されたそうです。その時初めて、リードがウィーンを舞台にした映画を制作し、その音楽としてチターを採用したいとの意向をカラスに示したのです。
その後、ロンドンに来て欲しいとの連絡がリードから入り、気が重かったのですが、1949年2月28日、ロンドンのリード邸に向かいました。
出来るだけ快適にとのリード夫妻の配慮にも拘わらず、ロンドン到着から2ヶ月たっても作曲は上手く進まず、ついにカラスはホームシックに罹ってしまいます。あの有名なハリーライムテーマの誕生の経緯については、内藤敏子著「激動のウィーン『第三の男』誕生秘話、チター奏者アントン・カラスの生涯」(マッターホルン出版)に詳しく述べられており、読む者の心を打ちます。
家族から離れ、一人、言葉の分からぬ異国に来させられ、朝から晩まで見慣れた故郷ウィーンの街並みの景色を見せられて、それに曲を付けるように言われるのですから、ホームシックになるのも無理ありません。そんな時に、リード夫人が気分転換にと、海のない国から来たカラスを大西洋の船旅に誘い、結局これが功を奏するのです。
実は、「第三の男」の主題曲、ハリーライムテーマ冒頭の4小節は、ロンドンに来てから思いついたのではなく、彼が「昔からこのテーマを時々口ずさんでいた。」とお嬢さんが証言しています。
映画の成功とともに、そのテーマ曲も世界を制覇します。彼は、バッキンガム宮殿や法皇庁での御前演奏の栄誉を受ける一方、世界各地にチターの演奏旅行に出かけ、日本にも3度来ています。
カラスは、自分の演奏を聴きたい人たちのためにホイリゲを作ろうと決意し、1953年10月15日にシーファリングで開店します。大いに流行っていたのですが、1965年11月5日に閉店に追い込まれます。その理由を、内藤敏子氏は、「演奏旅行のために不在がちで、折角来られたお客さんをがっかりさせることが多かったから。」とのお嬢さんの言葉を引用していますが、それなら演奏旅行を止めれば良いのであって、ちょっと腑に落ちません。
むしろ、裁判記録等から郡司貞則氏が指摘しているように(「滅びのチター師」(文藝春秋))、にわかに成功したカラス氏を妬んだ同業者に刺されたのではないでしょうか。
カラスはこうした妬みと中傷に耐えながら、昔の栄光を取り戻すことなく、1985年1月10日、世を去ります。彼は、シーフェリング墓地第2区28に葬られ、その希望通りチターの形の墓石に、ハリーライムテーマの冒頭部分が刻まれています。
甲斐 晶(エッセイスト)
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