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2010年1月

ウィーンの森の嫌われ者

 1244478808919東京の23区もの広さがあるウィーンの森は、ウィーン子達の憩いの場として大いに親しまれています。季節を問わず、休日ともなると、四通八達した小径を散歩する市民で賑わいます。しかし、春先や秋口にウィーンの森でハイキングを楽しもうとするなら、この森に棲む真ダニ(Zecken)に注意が必要です。これに咬まれると脳炎などを発症する可能性があるからで十分な対策を要します。

S_zecken_map オーストリアのみならず、近隣のドイツ、ハンガリー、チェコ、スロバキア、スロベニア、さらにはポーランド、バルト3国などの中・東欧諸国では、森や草むらの真ダニがウイルス性脳炎を媒介しており、これに感染する恐れがあるのです。この脳炎には効果的な治療法が無く、罹患すると麻痺が残ったり、場合によっては命を落としたりすることがあります。幸いにして極めて効果的なワクチンがあるので、事前に予防接種を受けることと、ダニに咬まれないなどの対策が有効です。

ダニ媒介性の脳炎は日本脳炎と同じフラビウイルス属のウイルスによって引き起こされますが、日本脳炎と違って蚊ではなく真ダニがウイルスを媒介します。また、ヤギも感受性を有し、乳腺中で増殖したウイルスが乳汁中に移行し、これを生で飲用して罹患する例もあります。Fsme_h3

世界のダニ媒介性脳炎の患者は、毎年6000人の発生が報告され、多い年には1万人前後の感染が報告されています。主なものには、ロシア春夏脳炎や中部ヨーロッパ脳炎(初夏髄膜脳炎[FMSE]とも称される)などがあり、後者が中・東欧諸国に分布します。ロシア春夏脳炎は我が国でも10年ほど前に北海道で罹患例が報告されて、道南地域のイヌにウイルスの分布が判明しました。

IAEA職員に採用されると採用研修の一環として、オーストリアでの生活上必要な医療知識を学び、必ずFMSEのことも触れられます。私の時には、講師のインド人医師が、問題のウイルスは、日本脳炎が起源でロシアを経由して中・東欧に伝来したと言っていましたが、その真偽のほどはDNAを調べればすぐに分かることでしょう。Iv122_links

FMSEに罹患すると7~14日の潜伏期を経て、二期にわたる症状を呈します。第一期はインフルエンザのような発熱、頭痛、筋肉痛が1週間程度続き(約半数では第一期が認められない場合がある)、解熱後2~3日間で症状が消えて、第二期に移行。脳炎、髄膜脳炎、髄膜炎の形を取って、痙攣、眩暈、知覚異常などの中枢神経系症状を呈します。麻痺が3~23%で認められ死亡率は1~5%とされています。3560%の頻度で知覚障害、平衡感覚障害、難聴などの後遺症が残り、運動麻痺で車椅子生活を余儀なくされる場合もあります。

さて予防策ですが、まずはFMSEワクチンの接種です。2~4週間間隔で2回接種し、1年後に3回目の追加接種を行います。これで基礎免疫が獲得され(免疫効果99.6%と言われている)、最低3年間の持続効果があるので、以降は3年ごとに追加接種をすることになります。

50390_m3w468h320q75v50006 ただし、全ての真ダニがウイルスを有するわけではなく(10005000匹に1匹と言われている)、また、ウイルスに感染した場合でも30%程度の発症率ですから、FMSEの汚染地域で真ダニに咬まれてもパニックの必要はありません。真ダニは人の体に移ると、頭や首、肩、脇の下など血管が集まっていて皮膚の薄いところを狙って血を吸います。私の秘書の場合も咬まれたことに全く気付かず、シャワーを浴びていて初めて脇の下を咬まれていることを発見。慌てて除去したそうです。

Zeckweg 真ダニに咬まれたら、反時計回しにネジって除去するのが肝要で、呉々も無理に引きちぎって頭部が皮膚内に残らないようにと(肉腫を引き起こすとか)巷間では言われており、専用の除去ピンセットが市販されています。

日本人でこのFMSE にオーストリアで罹患し、命を落とした例も報告されています。2001年6月にオーストリアに住む娘さんを訪ねた61歳の日本人男性が田舎でダニに咬まれ、髄膜炎による四肢麻痺、意識障害を生じ、右大脳半球の出血にて死亡しました。真ダニは決して侮れないのです。

甲斐 晶 (エッセイスト

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カラスのチター

 Pdvd_0366 映画「第三の男」は、敗戦後のウィーンの街並みを見事に映し出したC・リード監督(19061976)の素晴らしいカメラワークと哀愁に満ちたA・カラス(19061985)のチターの調べにより、1949年9月、カンヌ映画祭のグランプリを獲得しました。枯れ葉の散る寒々とした中央墓地の並木道を無表情で立ち去るアンナを描いたラストシーンは印象的ですが、いかに名場面が連続していたとしても、そのバックにカラスのチターが無かったなら、その魅力も半減していたことでしょう。

カラスは、ハンガリー人の家系の次男としてウィーンに生まれ、8才の時に屋根裏部屋で見つけたチターと初めて出会います。その後、正規にチター奏法を学び始める一方、鍛冶職人の見習いとしても働き始めましたが、結局、プロのチター奏者の道を選び、16才にして既にその名はウィーン各地のホイリゲで知れ渡るようになっていました。Aantonkaras

第二次世界大戦の従軍中もカラスは小型のチターを持参し、将校達のために演奏したそうです。

戦後、194810月、ウィーンの森シーフェリングの自宅でくつろいでいたカラスにホイリゲに来るように電話が入ります。「第三の男」の制作のために英国からやってきたリード夫妻一行がウィーンの音楽を聴きたくて、カラスを呼んだのです。

Karasカラスのチターに魅了されたリードは、これを映画の音楽に使用しようと思い立ち、「後日、連絡する」旨、彼に伝えました。数日後、連絡を受けたカラスは、アストリア・ホテルに向かいます。リードの求めに応じて、次々に違った曲を引き続け、ついに4時間に及ぶに至ってようやく解放されたそうです。その時初めて、リードがウィーンを舞台にした映画を制作し、その音楽としてチターを採用したいとの意向をカラスに示したのです。

その後、ロンドンに来て欲しいとの連絡がリードから入り、気が重かったのですが、1949228日、ロンドンのリード邸に向かいました。

出来るだけ快適にとのリード夫妻の配慮にも拘わらず、ロンドン到着から2ヶ月たっても作曲は上手く進まず、ついにカラスはホームシックに罹ってしまいます。あの有名なハリーライムテーマの誕生の経緯については、内藤敏子著「激動のウィーン『第三の男』誕生秘話、チター奏者アントン・カラスの生涯」(マッターホルン出版)に詳しく述べられており、読む者の心を打ちます。119409434c57f76912139552874b1aa0f51

家族から離れ、一人、言葉の分からぬ異国に来させられ、朝から晩まで見慣れた故郷ウィーンの街並みの景色を見せられて、それに曲を付けるように言われるのですから、ホームシックになるのも無理ありません。そんな時に、リード夫人が気分転換にと、海のない国から来たカラスを大西洋の船旅に誘い、結局これが功を奏するのです。

実は、「第三の男」の主題曲、ハリーライムテーマ冒頭の4小節は、ロンドンに来てから思いついたのではなく、彼が「昔からこのテーマを時々口ずさんでいた。」とお嬢さんが証言しています。

映画の成功とともに、そのテーマ曲も世界を制覇します。彼は、バッキンガム宮殿や法皇庁での御前演奏の栄誉を受ける一方、世界各地にチターの演奏旅行に出かけ、日本にも3度来ています。

1 カラスは、自分の演奏を聴きたい人たちのためにホイリゲを作ろうと決意し、19531015日にシーファリングで開店します。大いに流行っていたのですが、1965115日に閉店に追い込まれます。その理由を、内藤敏子氏は、「演奏旅行のために不在がちで、折角来られたお客さんをがっかりさせることが多かったから。」とのお嬢さんの言葉を引用していますが、それなら演奏旅行を止めれば良いのであって、ちょっと腑に落ちません。20090726150553むしろ、裁判記録等から郡司貞則氏が指摘しているように(「滅びのチター師」(文藝春秋))、にわかに成功したカラス氏を妬んだ同業者に刺されたのではないでしょうか。

カラスはこうした妬みと中傷に耐えながら、昔の栄光を取り戻すことなく、1985110日、世を去ります。彼は、シーフェリング墓地第228に葬られ、その希望通りチターの形の墓石に、ハリーライムテーマの冒頭部分が刻まれています。Qtumb_cimg0079

甲斐 晶(エッセイスト)

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