マイ・フェア・レディ考
5年ほど前のことですがミュージカル「マイ・フェア・レディ」を本場ロンドンで見る機会がありました。バーナード・ショー原作のこの作品は、オードリィ・ヘップバーン主演のミュージカル映画(1964年)で一躍有名になりましたが、元々は、「Pygmalion」と題する彼の戯曲に基づいています。この戯曲には、思い出があって、40数年前に英国に留学していたときのことです。きっと、当時、その映画が大ヒットしていたからでしょう。英国人の友人からペーパーバック版の「Pygmalion」をプレゼントされ、苦労しながら原語で読んだことがあります。
その後、1980年代にウィーンに赴任した際には、フォルクス・オペラで、「マイ・フェア・レディ」をドイツ語でやっていて、これを見たり、物価の安かった東ドイツに出張した折に、ドイツ語版レコードを安価で求めた記憶があります。
ご存じのように、お話の筋は、音声学の大家ヒギンズ教授が下町訛りの賎しい花売り娘イライザを6ヶ月間で貴婦人に仕立て上げて見せると友人のピカリング大佐と賭け、見事に勝つというものです。ロンドンでのミュージカルを見て、改めて原作の戯曲を読みたい衝動に駆られ、ロンドンの書店で原作を求めて読んだところ、驚いたことにミュージカルと戯曲ではその内容が大きく異なるのです。
まず、ミュージカルにおいて重要な役割を担っている、イライザのコクニィ(「アイ」を「エイ」と発音したり、「h」が発音できない)を矯正するのに苦労する場面(とりわけ、あの有名な”The rain in Spain stays mainly in the plain.”などのせりふ)や、イライザが上流社会の喋り方をある程度会得した段階でアスコット競馬に出かけたものの結局馬脚を現してしまう場面は、原作には全く存在しません。これらは皆、ミュージカル脚本家アラン・ジェイ・ラーナーの創作だったのです。
また、ミュージカルでは、イライザとヒギンズ教授の結婚を示唆するエンディングとなっていますが、原作では、ハッピィ・エンドとすることを拒むショーがわざわざ「続編」を付記し、イライザと一途に彼女を慕う没落貴族のしがない子息フレディとをゴールインさせています。
さて、原題のPygmalionとは、ギリシャ神話に登場するキプロス島の王のことで、彼は、象牙で作った理想的な女性の像を恋するあまり、女神アフロデテに願ってこれを人間の女ガラテヤに変えて貰い、結婚します。ヒギンズがイライザを自分の思い通りの女性に変え、ついには彼女に惹かれて行く様子をその題名に込めたのでしょう。
しかし、原作におけるイライザは、ヒギンズの手ほどきで公爵夫人への変身を成し遂げますが、同時に自立心をも獲得し、ついにはヒギンズの言いなりにはならなくなってしまうのです。
原作を読むと、ショーが英国の階級社会を痛烈に批判し、女性の権利向上に熱心であったことを窺い知ることができます。すなわち、貧民階層からの変身を遂げ、ひとつの人格として自分の頭で考え行動し始めるイライザ像と、貴族階級に属しながら常に不作法で、女性を物としか扱わない噴飯物のヒギンズ像を見事に対比して描き出しています。実際、彼は、穏健的社会主義活動家でした。
ところがショーの経歴を見ると、彼自身、貧しい花売り娘から貴族への変身を遂げたイライザを地で行くような生涯でした。彼は、1856年7月26日、アイルランドのダブリンでうだつの上がらない商人の家に生まれました(アイルランド人は、おつむがちょっと弱い存在としてしばしば英国人の嘲笑の対象となっています)。正規の学業もそこそこに(図書館が彼の学業の場と言われています)、15歳で地元の不動産会社に就職。そこから身を起こして、先にロンドンに出ていた歌手の母の元に身を寄せ、音楽・舞台評論に始まって、ついには、英国を代表する作家となり、ノーベル文学賞を受賞し、貴族に任ぜられるまでに至ったのです。
さて、意外だったのは、戯曲Pygmalionの初出版がドイツ語で、しかもその初演はウィーンでなされたことです。フォルクス・オペラで、「マイ・フェア・レディ」がドイツ語で掛かっていた背景がようやく分かった次第です。
甲斐 晶(エッセースト)
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