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2009年7月

欧州の十字路

Img02島国である日本は、四方の海が天然の障壁となり、長年にわたり異民族の支配を受けないで来られました。唯一の例外は、第二次世界大戦における敗戦後の進駐軍による支配、北方領土のソ連軍による占領でしょうが、マッカーサー連合軍総司令官による本土統治は僅か7年間で終わりました。

Strasbourg しかし、こうした事例は、世界を見渡すと珍しい方でしょう。特に、国同士が地続きであるヨーロッパの場合には、ある地方が隣接する国によって取ったり、取られたりを歴史的に何度となく繰り返すことが少なくありません。その良い例が独仏の国境を成している、ヨーロッパ水上交通の大動脈であるライン河のほとりにある街、アルザス地方の州都ストラスブール(Strasbourg)です。

「街道の街」というその名が示すとおり、この街はヨーロッパ交通の要衝に位置し、180pxalphonse_daudetまた、この地方に良質の炭田を有していたことから、その支配を巡る独・仏間の係争に巻き込まれ、何度となく国を変わらざるを得なかった悲しい歴史があります(過去100年間に、実に3回も属する国が変わっています)。このあたりの事情を描写した、A・ドーデの「最後の授業」というお話を国語の教科書で読んだ方も多いのではないでしょうか。

第二次世界大戦中のストラスブールの小学校でのこと。ある日、フランツ少年が遅刻して学校にいくと、いつもと違って教室は、静まり返っています。先生が、「フランス語での授業は今日までで、明日からは、占領軍の国語、ドイツ語で授業が行われる。」と説明したのです。4591098524少年は、教室の外の楽しそうにさえずっている鳩たちも、「明日からは、ドイツ語をしゃべらなければならないのか。」と思ったと言う筋だったように思います。そんな記憶があったので、当地を初めて訪れた際には、特別な感慨がありました。

こうした悲しい歴史を抱えているからこそ、アルザス州もストラスブール市も第二次世界大戦直後から、歴史上の悲劇が再発するのを防止するため、欧州の十字路としての地理上の特徴を逆に生かして、欧州統合の象徴である国際都市の構築を目指し、欧州議会や欧州評議会の誘致を積極的に推進し、これに成功したのです。

Logohfsp こうした国際都市化の一環が、1987年、当時の中曽根首相が先進国首脳会議(サミット会合)で提唱した、生命科学及び脳科学研究を支援する国際基金、HFSP(ヒューマン・フロンティア・サイエンス・プログラム)事務局の誘致でした。現在、ヴィナッカー事務局長以下約30名の職員を擁するHFSP推進機構が当地に設置されています。これまでのところ、歴代の事務局次長及びHFSPの運営にあたる評議委員会の会長は、いずれも日本人が勤めています。Strasbourg_24

ユネスコの「世界遺産」にも指定されているストラスブールの歴史は古く、1989年には建都二千年を祝っており、また、先に述べたような歴史的な経緯から、

ラテン文化とゲルマンの両文化が融合した独特な佇まいを見せています。旧市内の「小フランス」地域にある美しい木組みの家々は、ドイツのロマンチック街道の町並みを髣髴させますし、20081110_421031 ドイツではザワークラウトと呼ばれる郷土料理も、ここではシュークルートと呼ばれて、フランス風にアレンジされています。

「アルザスの人々は夕方5時まではゲルマン民族の勤勉さで働き、5時以降はラテン民族の陽気さで過ごす。」と言われます。こうした質の高い労働力、豊富な資源・エネルギー、豊かな自然環境、積極的な企業誘致が相俟って、この地方の経済活動は目覚しく、1人当りの輸出高、外国企業の進出数が国内第1位、国内総生産、1人当りの売上高が国内第2位との統計が得られています

Stras07 ストラスブールの旧市内には、当地で活版印刷事業を目論みながら頓挫したグーテンベルグの名を冠した広場があり、その中央には「そして光あれ」との旧約聖書の1節が刻まれた印刷物を手にした彼の銅像があります。私が訪れた時には、悪戯されてその上に定期市のポスターが貼られていましたが、住民のラテン気質を見たような気がしました。

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ハルデン・プロジェクト

 04_a_halden060130162_27888d 2002年の秋に、北欧ノルウェーのハルデンにあるOECD/ HRP(ハルデン炉計画)を訪問する機会を得ました。今日の我が国の原子力研究・開発の指導者達の多くがその若い日にハルデン炉施設(HBWR)に派遣され、ここにおいて研鑚を重ねて得られた知見がその後の我が国の原子力開発利用に活かされて来たことをしばしば耳にしていたことから、前々から機会があれば是非一度尋ねてみたいと望んでいただけに、ようやく念願が叶った次第です。

 Haldensijaintikartta ハルデンは、ノルウェーの首都オスロから南西約100kmに位置しており、スウェーデン国境に近く、オスロフィヨルドに面した、古い歴史を有する小さな町で大変風光明媚な場所です。この地は、歴史的にデンマーク王の領地であったことから、町の外れの小高い丘には、デンマーク王フレデリックの中世の城塞が残されており、瀟洒なハルデンの町並みを眺望できる市民の憩いの場所にもなっています。

  HBWRは、当初、ノルウェー国内の肥料工場の副産物である重水とオランダから供給された天然ウランを用いた、天然ウラン燃料、重水沸騰水型炉(25MWth)として、ハルデンの町中の製紙工場に隣接した岩山の中に設置されました。その特徴は、なんと言っても、原子炉建屋全体(容積4,500㎥)がすっぽり天然の岩屋の中に納まっていることでしょう(原子炉を覆う岩の厚さは50m)。Q214_hrp_model外から見た限りでは、とてもここに原子炉があるようには思えません。どこかの独裁者が聞いたら、大いに喜びそうな設計です。また、材料照射の目的のための利用に加え、プロセス蒸気の製造も行っており、隣接するパルプ工場に供給しています。

 Logo_ife ハルデン研究所の運営主体IFEInstitute for energyteknikk: エネルギー工学研究所)の前身、IFA (原子力研究所:Institute for atomenergi) は、1948年にオスロ近郊のシェラーで発足し、1954年にハルデン炉の設置を決定しています(19596月臨界)。Logo11958年には、HBWRを用いた国際共同照射研究であるOECD/HRPが発足しており、我が国は、1967年にその加盟を果たしました。現在、HBWRでは、20ヶ国の参加を得て共同で行っているOECD/HRPとこれと予算的には同規模の参加国機関との二国間契約に基づく照射研究を行なっています。OECD/HRP予算の約30%は、ホスト国のノルウェー政府がResearch Council経由で負担しているほどの力の入れようです。Large

  同研究所には、炉工学部門と人間工学部門の2部門があり、訪問当時全職員は約280名で、うち炉・照射施設の運転等に約80名が従事。この他、我が国を含め約20名の派遣研究者が駐在しています。

 OECD/HRPがこれまでに大きな成果を生み出し、その意義が認識され、参加国が拡大してきている理由として、Logo2漫然とプロジェクトを継続するのではなく、3年間に研究期間を限定し、研究計画についてのきめ細かい事前・中間・事後評価を行って、さらに継続するかどうかを判断してきたことが大きいのではないかとの印象を受けました。

  原子力発電国でもないノルウェーが積極的に国際プロジェクトを立ち上げ、40年以上にもわたってこれを継続し、世界の原子力安全に多大の貢献をして来ていることに深い感慨を覚えました。

 ところで、訪問時に在オスロ日本国大使のK氏と経済担当書記官Mさんとは、その昔、一緒に南太平洋を訪問したことがありました。出張計画の立案に際して、ハルデンからオスロに戻った際にお二人に表敬したい旨申し入れていましたところ、大使から、折角の機会なので、ハルデン研究所の所長以下関係者も含めて、夕食に公邸へどうぞとお招きを受けました。大使公邸は、有名なオリンピック・ジャンプ台の近くにあり、邸内には素敵な日本庭園もしつらえてあったりして、きっと外国人のお客様には印象深いものだったことでしょう。

 大使のご趣味がフィッシングだと聞き及んだハルデン研究所の日本人部長M氏は、大きな専用ボートを所有しているその道の大ベテラン。お二人はすっかり意気投合し、早速一緒に出かける約束をしていましたが、その後の釣果はどうなったのか、いささか気になるところです。

 甲斐 晶(エッセイスト)

 

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