欧州の十字路
島国である日本は、四方の海が天然の障壁となり、長年にわたり異民族の支配を受けないで来られました。唯一の例外は、第二次世界大戦における敗戦後の進駐軍による支配、北方領土のソ連軍による占領でしょうが、マッカーサー連合軍総司令官による本土統治は僅か7年間で終わりました。
しかし、こうした事例は、世界を見渡すと珍しい方でしょう。特に、国同士が地続きであるヨーロッパの場合には、ある地方が隣接する国によって取ったり、取られたりを歴史的に何度となく繰り返すことが少なくありません。その良い例が独仏の国境を成している、ヨーロッパ水上交通の大動脈であるライン河のほとりにある街、アルザス地方の州都ストラスブール(Strasbourg)です。
「街道の街」というその名が示すとおり、この街はヨーロッパ交通の要衝に位置し、また、この地方に良質の炭田を有していたことから、その支配を巡る独・仏間の係争に巻き込まれ、何度となく国を変わらざるを得なかった悲しい歴史があります(過去100年間に、実に3回も属する国が変わっています)。このあたりの事情を描写した、A・ドーデの「最後の授業」というお話を国語の教科書で読んだ方も多いのではないでしょうか。
第二次世界大戦中のストラスブールの小学校でのこと。ある日、フランツ少年が遅刻して学校にいくと、いつもと違って教室は、静まり返っています。先生が、「フランス語での授業は今日までで、明日からは、占領軍の国語、ドイツ語で授業が行われる。」と説明したのです。少年は、教室の外の楽しそうにさえずっている鳩たちも、「明日からは、ドイツ語をしゃべらなければならないのか。」と思ったと言う筋だったように思います。そんな記憶があったので、当地を初めて訪れた際には、特別な感慨がありました。
こうした悲しい歴史を抱えているからこそ、アルザス州もストラスブール市も第二次世界大戦直後から、歴史上の悲劇が再発するのを防止するため、欧州の十字路としての地理上の特徴を逆に生かして、欧州統合の象徴である国際都市の構築を目指し、欧州議会や欧州評議会の誘致を積極的に推進し、これに成功したのです。
こうした国際都市化の一環が、1987年、当時の中曽根首相が先進国首脳会議(サミット会合)で提唱した、生命科学及び脳科学研究を支援する国際基金、HFSP(ヒューマン・フロンティア・サイエンス・プログラム)事務局の誘致でした。現在、ヴィナッカー事務局長以下約30名の職員を擁するHFSP推進機構が当地に設置されています。これまでのところ、歴代の事務局次長及びHFSPの運営にあたる評議委員会の会長は、いずれも日本人が勤めています。
ユネスコの「世界遺産」にも指定されているストラスブールの歴史は古く、1989年には建都二千年を祝っており、また、先に述べたような歴史的な経緯から、 ドイツではザワークラウトと呼ばれる郷土料理も、ここではシュークルートと呼ばれて、フランス風にアレンジされています。
「アルザスの人々は夕方5時まではゲルマン民族の勤勉さで働き、5時以降はラテン民族の陽気さで過ごす。」と言われます。こうした質の高い労働力、豊富な資源・エネルギー、豊かな自然環境、積極的な企業誘致が相俟って、この地方の経済活動は目覚しく、1人当りの輸出高、外国企業の進出数が国内第1位、国内総生産、1人当りの売上高が国内第2位との統計が得られています。
ストラスブールの旧市内には、当地で活版印刷事業を目論みながら頓挫したグーテンベルグの名を冠した広場があり、その中央には「そして光あれ」との旧約聖書の1節が刻まれた印刷物を手にした彼の銅像があります。私が訪れた時には、悪戯されてその上に定期市のポスターが貼られていましたが、住民のラテン気質を見たような気がしました。
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