皇帝フェルディナントⅠ世
2003年は、ハプスブルグ家による君主体制を確立した皇帝フェルディナントⅠ世(1503-1564)の生誕500年にあたり、これを記念した特別展がウィーンの美術史美術館で4月中旬から8月末まで開催されました。
ご存じのように、ハプスブルグ家の始祖は、ルドルフⅠ世(1218-1291)で、元来、スイス北部の一豪族でしたが、ヨーロッパ群雄割拠の時代に、戦闘や諸侯との協約によりライン河に沿って着々と領土を拡大。1273年フランクフルトでの選定候による選挙によって、ドイツ王に選ばれ、アーヘンで、「ソロモンの王冠」(のちに神聖ローマ帝国の帝冠として500年にわたって使用、
現在はウィーンの宮廷宝物館に展示)を戴冠しました。1276年には、オーストリアに進出を果たし、ほぼ6世紀半にわたってウィーンは、ハプスブルグ家の支配下に入ったのです。
さて、皇帝フェルディナントⅠ世は、イベリア半島カスティリアに生まれ、そこで教育を受けましたが、16歳でオーストリアの領土の後継者(ルドルフⅠ世から11代目)として指名されるまで、ネーデルランドに暫く居ました。彼は常にその兄、皇帝カールⅤ世(スペイン王も兼務)の影に隠れる存在であり、また、ハプスブルグ家の他のメンバーの方がより魅力的で人気もありましたが、オーストリア史においては、最も重要な支配者と考えられています。
すなわち、彼の時代にネーデルランドからエルベ河までオーストリアの版図が拡大し、ハプスブルグ家の家訓である「戦(いくさ)は他家にまかせておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ。」との統治政策に沿った二重婚姻(両家の2組の兄妹同士が婚姻関係を結ぶこと)によって、ボヘミア・ハンガリー王国の王女アンナを娶とり、結果としてこれらの支配権を得ることになりました。こうして、ボヘミア・ハンガリー王国とアルプスとドナウを中心とするハプスブルグ家の領土との統合が達成されたのです。彼は、東の強大なオスマントルコ帝国と西のドイツとの間に挟まれた、中部ヨーロッパにおける多民族帝国、「太陽(ひ)の沈むことなき帝国」の基礎を築いたのです。彼は、先の家訓に忠実だったのか、妻アンナとの間に、実に16人もの子供をもうけました。この点では、かの有名な女帝、マリア・テレジア並みです。
皇帝フェルディナントⅠ世は、ウィーンに居を構えたばかりでなく、プラハにも住んで、これらハプスブルグ家の宮廷を中心として、芸術・文化の振興に力を入れ、積極的に支援しました。その結果、多くの芸術家を輩出しました。
従って、生誕500年記念の特別展では、こうした芸術家も含めた同時代の作者による作品が展示されていました。その中には、ピサネロ、チチアン、アルチンボルド、デューラーなどの作による絵画、描画、細密画、彫版画のほか、有名な甲冑作者による豪華な甲冑類、華麗なネーデルランドのタペストリー、見事な金細工などがあります。また、彼の時代には、トルコ軍の第一次ウィーン襲来や、ルターなどによる宗教改革の波を経験しており、これらにちなんだ展示もなされました。
ウィーン美術史美術館の新しいサービスとして、全館の展示について、随所において音声ガイドによる解説がなされています。特別展に関しても、入館者は、簡単な操作でこれを聴くことのできるハンディ・フォーンを無料で借りることができ、しかもドイツ語ばかりでなく、英語などの外国語でも聴け、よく分かるので、入館者には好評でした。
この特別展のシンボルは、タリバン風の帽子に出身地スペインの衣裳を身に着けた、初老の彼の全身肖像画です。ハプスブルグ家特有の大きな鼻と突き出た顎の容貌に、見事な髭をたくわえた威厳あるその姿には圧倒されます。ただし、大帝国の頂点に立った彼ですが、その行く末を見据えるかのように遠くを見る眼には、心なしか憂愁が漂っているように思えました。
甲斐 晶(エッセイスト)
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