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2009年6月

ウィーンの市電

Wiennatram ウィーンを象徴するものは、シュテファン寺院を始めとして、数多くありますが、ウィーンの市電もそのひとつでしょう。NHKの名曲アルバムのシーンなどで、二頭立ての観光馬車フィアカー同様、良く出て来る被写体です。

1 その車体は、赤と白のツートーンカラーで、ウィーン市の市旗と同じ配色です。(ちなみにオーストリア国旗の色は、上から順に赤白赤となっています。これは十字軍遠征でオーストリア大公レオポルトⅤ世がアッコンの戦いで奮戦し、甲冑の上に着用していた白い衣服が血染めになり、ベルトのところだけ白く残ったのをモチーフにしたものだという説があります。)

Kurzparkzone201 市電に限らず、ウィーン市の公共交通機関は全て改札が無く、省力化が図られています。各駅の改札口に改札要員を配したり、自動改札機を設置したりするよりも、検札で無法者を取り締まることにより、無賃乗車を抑制したほうが、安上がりで合理的だとの計算のようです。その背景には、大多数は正直者であり、システムを悪用する輩は少ないとの性善説に立っているのでしょう。(このオーナー(名誉:honor)システムによる省力化は、オーストリアの随所に見かけられます。短時間に限って駐車が許される市内の指定区域(Kurzparkzone)では、利用者がタバコ屋などで指定の駐車チケットを購入し、そこに駐車開始日時を自ら記入し、車外から見易い所に掲示しておくシステムです。許容時間を過ぎても駐車しているのが見つかれば、罰金というわけで、パーキングメータを設置する費用が節約できるのです。その場合、運転手達が正直に駐車開始時刻を記入するとの前提に立っており、許容時間を超えて駐車できるようサバを読んで時刻を先付けしたりする事は無いという建前なのでしょう。)

U6_sperre 地下鉄や近郊電車の駅では、ホームへの入り口に出入り自由のゲートがあり、そこに刻印機があって、乗客が切符を差し込むと、駅の略号と入場時刻が印刷される仕組みです(バスや市電の場合には、車内の柱に設けられた刻印機を利用します)。一定時間内であれば、一方向どこまで行こうが、また、市電、市バス、地下鉄、近郊電車に何度乗換えても構いません。

Planquchaos 改札が無い代わりに厳しい検札が行われ、違反者には高額な罰金が課せられます。知らなかった、買い忘れたなどの言い訳は一切通用しません。ドイツ語が分からない振りをしても駄目で、車内には、独・英・仏語で「無賃乗車には、罰金をもって処する」旨、表示されています。

ある日の朝のこと、私の娘が登校に際し、定期券を家に置き忘れたところ、運悪く検札に引っかかってしまいました。友人がしきりに事情を説明して、助け舟を出してくれたのですが駄目で、止む無く大枚を支払う羽目になったことがありました。Entwerter

ただし、刻印を忘れた場合には、大目に見てくれるようで、有効な乗車券を所持していれば、見逃してくれるそうです。また、土・日曜日や夜間は検札も手薄です。こうしたことを悪用して、無賃乗車で捕まる確率と罰金額の積(言わば罰金の期待値)を計算し、これが一回ごとの乗車料金を下回ることから、只乗りするのが最も経済的と豪語する輩が居りましたが、これは如何なものかと思われます。

2806718663_ab5c6c1e50 市電に限らず、市バス、地下鉄などウィーンの公共交通機関の車内アナウンスは、どういうわけか、全ての路線で10年1日の如く、同じ男性の声です。あまり抑揚の無い、感情を抑えたトーンで、次の駅の名前や乗換え案内を実に淡々と流します。長い旅行から戻って、久しぶりに市電などに乗り、あのアナウンスに接すると、「いやあ、ウィーンに帰ってきたなあ。」とほっとするウィーン在住の日本人も少なくないようです。ただ、聞き慣れると懐かしいこのアナウンスも、ウィーンに赴任した早々はちっとも聞き取れず、どこで降りたら良いのか不安になった経験があるのは、私だけでしょうか。

甲斐 晶(エッセイスト)

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皇帝フェルディナントⅠ世

2003年は、ハプスブルグ家による君主体制を確立した皇帝フェルディナントⅠ世(1503-1564)の生誕500年にあたり、これを記念した特別展がウィーンの美術史美術館で4月中旬から8月末まで開催されました。

Rudolf1 ご存じのように、ハプスブルグ家の始祖は、ルドルフⅠ世(1218-1291)で、元来、スイス北部の一豪族でしたが、ヨーロッパ群雄割拠の時代に、戦闘や諸侯との協約によりライン河に沿って着々と領土を拡大。1273年フランクフルトでの選定候による選挙によって、ドイツ王に選ばれ、アーヘンで、「ソロモンの王冠」(のちに神聖ローマ帝国の帝冠として500年にわたって使用、Oukan2現在はウィーンの宮廷宝物館に展示)を戴冠しました。1276年には、オーストリアに進出を果たし、ほぼ6世紀半にわたってウィーンは、ハプスブルグ家の支配下に入ったのです。

さて、皇帝フェルディナントⅠ世は、イベリア半島カスティリアに生まれ、そこで教育を受けましたが、16歳でオーストリアの領土の後継者(ルドルフⅠ世から11代目)として指名されるまで、ネーデルランドに暫く居ました。彼は常にその兄、皇帝カールⅤ世(スペイン王も兼務)の影に隠れる存在であり、また、ハプスブルグ家の他のメンバーの方がより魅力的で人気もありましたが、オーストリア史においては、最も重要な支配者と考えられています。

Kaiser_ferdinand1 すなわち、彼の時代にネーデルランドからエルベ河までオーストリアの版図が拡大し、ハプスブルグ家の家訓である「戦(いくさ)は他家にまかせておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ。」との統治政策に沿った二重婚姻(両家の2組の兄妹同士が婚姻関係を結ぶこと)によって、ボヘミア・ハンガリー王国の王女アンナを娶とり、結果としてこれらの支配権を得ることになりました。こうして、ボヘミア・ハンガリー王国とアルプスとドナウを中心とするハプスブルグ家の領土との統合が達成されたのです。彼は、東の強大なオスマントルコ帝国と西のドイツとの間に挟まれた、中部ヨーロッパにおける多民族帝国、「太陽(ひ)の沈むことなき帝国」の基礎を築いたのです。彼は、先の家訓に忠実だったのか、妻アンナとの間に、実に16人もの子供をもうけました。この点では、かの有名な女帝、マリア・テレジア並みです。

皇帝フェルディナントⅠ世は、ウィーンに居を構えたばかりでなく、プラハにも住んで、これらハプスブルグ家の宮廷を中心として、芸術・文化の振興に力を入れ、積極的に支援しました。その結果、多くの芸術家を輩出しました。20090305_446113

従って、生誕500年記念の特別展では、こうした芸術家も含めた同時代の作者による作品が展示されていました。その中には、ピサネロ、チチアン、アルチンボルド、デューラーなどの作による絵画、描画、細密画、彫版画のほか、有名な甲冑作者による豪華な甲冑類、華麗なネーデルランドのタペストリー、見事な金細工などがあります。また、彼の時代には、トルコ軍の第一次ウィーン襲来や、ルターなどによる宗教改革の波を経験しており、これらにちなんだ展示もなされました。

ウィーン美術史美術館の新しいサービスとして、全館の展示について、随所において音声ガイドによる解説がなされています。特別展に関しても、入館者は、簡単な操作でこれを聴くことのできるハンディ・フォーンを無料で借りることができ、しかもドイツ語ばかりでなく、英語などの外国語でも聴け、よく分かるので、入館者には好評でした。180pxhans_bocksberger_der_aeltere_0

この特別展のシンボルは、タリバン風の帽子に出身地スペインの衣裳を身に着けた、初老の彼の全身肖像画です。ハプスブルグ家特有の大きな鼻と突き出た顎の容貌に、見事な髭をたくわえた威厳あるその姿には圧倒されます。ただし、大帝国の頂点に立った彼ですが、その行く末を見据えるかのように遠くを見る眼には、心なしか憂愁が漂っているように思えました。

甲斐 晶(エッセイスト)

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