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2009年4月

アルトシュテッテン城

 アルトシュテッテン城のことをご存知で、わざわざここを訪れたことのある方は、よほどのオーストリア通でしょう。ここには、あの第一次世界大戦のきっかけとなったサライエボでの暗殺事件で命を落とした、フェルディナンド皇太子(大公)がその最愛の妻ゾフィーとともに葬られています。079_ferdinando

彼は、悲劇の皇帝と呼ばれたフランツ・ヨーゼフの甥でした。本来なら、皇帝の一人息子のルドルフがハプスブルグ朝の帝位を継承することになっていたので、彼が歴史にその名を残すことは無かったのかも知れません。しかし、ルドルフ皇太子がマイヤーリンクの狩の館で愛人と心中してしまったことにより、彼が皇位継承順位第一位となり、結局、セルビアの民族主義の秘密組織に命を狙われることになってしまったのです。

アルトシュテッテンは、ウィーンから100kmほどドナウ川を遡ったペヒラルンの近くにあり、バロック様式の修道院で有名なメルクからもそう遠くはありません。以前から訪れてみたいと願っていたところ、その近くで私の参加する会議が開催されたことから、ようやくその機会に恵まれ、会合出席者とともにハイキングがてら出かけて見ました。

102_schloss アルトシュテッテン城は、こぢんまりとしていて、城と言うよりは、むしろ館と言った感じです。建物全体がサライエボでの暗殺事件を中心としたフェルディナンドとその家族にちなんだ事物を常設展示する博物館となっていました。常設展のテーマは、「愛と帝冠のために」。オーストリアの博物館には珍しく英語の説明文もあり、妻ゾフィーに対する彼の愛と皇位継承との狭間の葛藤やサライエボ事件の秘められた事実を知ることが出来ました。

彼らが非業の死を遂げた遠因として、その結婚が貴賎婚姻だったことが挙げられます。将来の伴侶として彼が選んだ女性は、こともあろうに、ボヘミアの下級貴族の娘であることを知ったフランツ・ヨーゼフ皇帝は、「結婚を取るか、帝位を取るか」と大公に迫りました。しかしその両方を望む彼は、結局、結婚を認めてもらう代わりに、①皇位継承者の妃が受けるべき称号や特権は一切与えられない、②二人の間に生まれる子供達にハプスブルグ家の公子としての相続権、大公の名称は認められないとの屈辱的な条件を受け入れたのです。078_sophie

こうしてゾフィーは、皇太子の妃でありながら皇家の序列としては最下位を甘受せざるを得ず、公式行事において夫のフェルディナンドに同伴することは許されませんでした。しかし妻を愛する彼に唯一無二のチャンスが訪れました。ボスニア・ヘルツェゴビナでの軍事演習を指揮した後に予定されたサライエボへの公式訪問にゾフィーを同伴することが特別に皇帝から許可されたのです。

さてサライエボ訪問の当日、パレードの隊列に爆弾が投げ込まれるというハプニングがありましたが、幸いにも皇太子夫妻は難を逃れました。そこでパレードを中止していれば、悲劇は避けられたことでしょう。084_principしかし、急遽、当初の予定コースを変更したうえで、負傷者を見舞うことになったのですが、この情報が運転手にまで伝わっていませんでした。当初のコース通りに車が交差点を曲がろうとした際、その間違いに気付いた関係者がこれを正そうとして、隊列が停止してしまったのです。正にそこに盟約団「黒手組」の狙撃者、プリンツィップが待ち構えており、好機を逃がしませんでした。彼らは、その凶弾に倒れたのです。

彼らの死んだ後もその貴賎結婚の制約が厳然として実施されました。彼らの遺体は、ハプスブルグ家代々の皇帝や皇妃が眠るウィーン市内のカプチーナ教会の霊廟に収められることが許されず、はるばるとウィーンから100km以上も離れたこの地に運ばれて来ました。

097_tomb 夫婦同伴で公式の場に出たいとの彼の願いが初めて叶った時が、その最後の機会になってしまったとは、歴史の皮肉と言わざるを得ません。しかし、この城の地下廟において、フェルディナンドの棺は最愛の人の棺に寄り添うように並んで安置されており、訪れる者に感銘を与えているのです。

甲斐 晶(エッセイスト)

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