センメリング鉄道
かけがえのない地球上の自然景観や先人の残した偉大な文化遺産を国家の枠を超えて保護し、次の世代に継承するために、様々な国の遺跡・文化財、自然環境がユネスコによって「世界遺産」として登録されています。2008年7月現在、878件(文化遺産679件、自然遺産174件、複合遺産25件)の物件が指定されています。
オーストリアでは、ザルツブルグ市歴史地区(1996)、シェーンブルン宮殿・庭園(1996)、ハルシュタット及びダッハシュタインのザルツカンマーグート文化的景観(1997)、センメリング鉄道(1998)、
グラーツ市歴史地区(1999)、ヴァッハウ渓谷文化的景観(2000)及びウィーン歴史地区(2001)の7件が、また、ハンガリーと連名でノイジードラー湖文化的景観(2001)が登録されています(数字
は、登録年)。このうち、 センメリング鉄道は、土木技術上の傑作として登録されている点で特色があります。
この鉄道は、ベニス生まれのカール・リッター・フォン・ゲーガ (Carl Ritter von Ghega [1802- 1860])によって1854年、6年の歳月を費やしながら世界初の山岳鉄道として完成しました。当時のオーストリア帝国内のウィーンからトリエステ(現在イタリア領)へ向かう鉄路の一部として設けられたものです。
ウィーンの南西約75kmの下オーストリア州グログニッツ(Gloggnitz)からシュタイヤマルク州ミュルツツーシュラーク(Mürzzuschlag)まで直線距離にしたら約21kmの区間なのですが、
最大標高差が459mもあり、また、その途中海抜1000m近くの山岳地帯を縫って行かなければならないため、その総延長は、直線距離の2倍の約42kmとなっています。この間の地形的な難しさを克服するために、15の大きな高架橋(延べ約1.5km)を架け、16のトンネル(延べ約5.4km)を穿たねばなりませんでした。ゲーガは、原則としてこれら構築物の資材に鉄鋼を使用することを拒み、6千5百万個のレンガと8万枚の板石を用いたことから、「レンガ鉄道」となった次第です。
高架橋の一部は、ローマ時代の水道橋のように、二重構造となっており、自然環境とも調和した美しい姿を残しています。ダイナマイトの発明される前で、日本では幕末に当る当時、鉄道土木技術の粋を集めて完成した世界初の山岳鉄道は、オーストリアの大きな誇りなのでしょう。センメリング鉄道がオーストリアの20シリング紙幣の意匠として用いられていたことがあります。表にはゲーガの肖像が、
裏にはオーストリア・アルプスを背景に美しい景観の一部をなしている優美なカルテ・リンネの二重高架橋が描かれていました。
実は、明治初年にこのセンメリング鉄道を旅した日本人の一行があります。明治維新後の新たな国造りのため、欧米の近代的諸制度を調査する目的で派遣された岩倉具視を団長とする使節団が、1873年6月3日、イタリアからセンメリング鉄道経由でウィーン入りしたことが 「米欧回覧実記(四)」(久米邦武編、岩波文庫)に記されています。「山脚走リテ路ヲ塞ケハ、洞ヲ刳(エグリ)テ背後ニ出ル、臥龍ノ頷(ノド)ヲ探ルカト疑フ、己ニシテ両石対峙ノ谷ニ至レハ、高梁ヲ造リテ、双虎の踞ヲ超過ル」
と美文調で鉄道土木技術の粋を描写するとともに、「墺国ニイリテヨリ、鉄路ハ常ニ山険ヲ越エ、山水ノ奇甚タ多キ中ニ、殊ニ此「セメリンク」ノ景ハ、人目ヲ聳カシ、鉄路建設ノ壮ヲ極メタレハ、今日鉄路ノ勝ハ、此ヲ第一トナスヘシ」と最大級の賛辞をもって、自然景観と調和した鉄路建設の様子を記しています。
開設当初は、蒸気機関車によって2時間以上もかかって峠越えしていたセンメリング鉄道も、105年後の1959年には全線が電化され、現在では、40分余りで行くことが出来ます。その昔、峠越えに苦労したセンメリングは、モータリゼーションの進展の結果、ウィーンから小1時間の距離にあるスキー場になっています。
今やすっかり便利になりましたが、列車の車窓から眺める素晴らしい景色は、刻一刻変化して飽きることがなく、岩倉使節団の昔といささかも変ってはいないようです。
甲斐 晶(エッセイスト)
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