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ヨーロッパ窯元めぐり

大航海時代の到来によって極東への商船の往来が可能となり、陸のシルクロード(絹の道)に対する海のシルクロード(陶磁の道)が開拓され、東インド会社を通じてヨーロッパにもたらされた大量の中国の磁器や我が国の伊万里磁器が大いに珍重され、バロック宮殿の空間を華やかに飾る装飾品となりました。金、銀を上回る価値のある、070801plateaugustこうした東洋の磁器と同じものをザクセンで作りたいとのアウグスト強王の野望が錬金術師ベトガーらの努力によって実現しましたが、この磁器製造の秘法が熾烈な諜報活動を経て、競争相手のヨーロッパ列強にも伝わり、各地に王立の磁器工房が設立されることになったのです(「アルカヌム」参照)。

Qqcimg0024 当時の流行に従いマイセンの初期の絵付は中国風でしたが、次第に有田の柿右衛門や古伊万里の文様の完全な模倣に移行。こうした模倣がマイセンを起点にしてフランスなどにも波及するとともに、各窯元独特の絵柄を確立させて行きました。同じお手本からそれぞれ模倣品が作られた結果なのでしょう、我が家にあるマイセンとヘレンドのデミタスカップの場合、窯元が全く違うのに図柄は酷似しています。

ヨーロッパにある名磁器の窯元を訪ねたり、アイテムを絞って収集したりするのも楽しいものです(各窯元のコーヒーセットを揃えたら、散財ものです)。我が家ではヨーロッパ滞在中に訪れた先々で、前述のようにデミタスカップを1客ずつ集めていますし、いくつか窯元を訪ねて見ました。

Qqca99sxq7   旧東独時代にドレスデンを訪れた際、マイセンに寄る事も可能でしたが、共産政権下の当時、窯元を訪れても見るべきものは無く、商品価値のあるものは全て西側に輸出されていると聞かされており、断念してしまったのが今でも残念です。また、アウグスト強王が収集した大量の東洋の磁器やマイセン窯の名品がツヴィンガー宮殿の一角に展示されていると知って訪れたのですが、これまた修復中で見ることが出来ませんでした。P1010110しかし、ドレスデン城の外壁に「君主の行列」と題する、長さ101mに及ぶ壁画がありますが、25千枚のマイセン磁器タイルを用いてザクセンの歴代の国王ら35人を描いた見事なものでした。

1744年、マリア・テレジアによって皇室直属の磁器窯に命じられたのが、ウィーン市内2区にあるアウガルテンです。前身の「デュ・パキエ」窯は1718年創業とヨーロッパで2番目に古く、ベトガーと一緒に働いて磁器製法を熟知したシュテルツェルを引き抜きました。1864年から休窯状態にありましたが1924年アウガルテン宮に工房を移して再建されました。Dscf24531 同宮は一角がウィーン少年合唱団の宿舎にもなっていますが、ある要人のお供で訪れたところ、工場長自らがご案内。有名なヴィーナーローズ柄のお皿の絵付やスペイン乗馬学校の騎馬像の作製作業などを見学しました。騎馬像は一体構造ではなく、まず各部分を成型後、接着剤で合体させていたのが意外でした。

Museeimage 瑠璃色のセーブル・ブルーの地に金彩の絵付で有名なセーブル窯は、パリ市内から地下鉄9番線に乗って終点で降りた、セーヌ川沿いの公園に接しています。前身のヴァンサンヌ窯は王室の資金援助で1738年に開窯。1753年ルイ15世の愛妾ポンパドール伯爵夫人の意向でQqcimg0027 「王立セーブル磁器製作所」となり、1876年現在の地点に移転。1789年フランス革命により一時閉窯するもののナポレオンによって再興され、今日に至っています。セーブルはほとんどが注文生産で、年間約6000個に限定。発注後、3年しないと手に入らないとパリ在住の知人から聞いていたので、すっかり諦めていましたが、行って見ると窯元で少量小売していました(我が家の宝の1つです)。ここに併設された陶磁器博物館は質・量ともに圧巻。必見です。

Qqcimg0020 この他にも、共産圏時代にブダペストの西南約200kmの片田舎、ヨーロッパ最大の淡水湖、バラトン湖畔にあるヘレンド窯までウィーンから苦労して訪ねたりしました。その甲斐あって、当時ウィーンではとても手に入らなかった、独特のヘレンド柄の磁器製ランプスタンドを購入。今や、我が家のリビングで柔らかな光を放っています。

甲斐 晶(エッセイスト)

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