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2009年1月

チェコ再訪

 2002年の夏、天皇皇后両陛下が中東欧をご訪問されましたが、お出かけになられたプラハ、ワルシャワ、ウィーン、ブタペストは、いずれも筆者が実際に住んだり、訪れたりしたことのある場所でしたから、個人的にも大いに関心がありました。

Ambf101b 初めてプラハを訪れたのは、今から20ほど前の夏休み、まだ共産政権下の時代で、家族で出かけました。国営旅行社のチェドックを通じて宿の手配をしたところ、「プラハの春」の際に反体制派の民衆が集まったことで有名な、街の中心部ヴァーツラフ広場(ご訪問に際し、両陛下が献花を行なわれました)にあるアンバサダーホテルを割り当てられました。値段は超一流でしたが、共産圏の常で、朝食などのメニューは貧しく、コーヒーも色の付いたお湯と言ったところで、とても飲めた代物ではありませんでした。

Dscf1119_m しかし、2001年の晩秋、自由化後初めて、チェコを再訪しましたが、同ホテルは見違える程の変りよう。値段の高いのは、相変わらずですが、英語もしっかり通じますし、サービスも格段と良くなっていました。部屋のバスには、ジャグジーまで備わっています。ヴァーツラフ広場の周りも、以前は殺風景だったのが、洒落た感じのお店が並ぶようになり、マクドナルドまでありました。

Karlovy20vary 日程が週末にかかっていたので、これを利用してチェコの有名な温泉保養地のひとつ、カルロヴィ・ヴァリ(ドイツ語名カールスバード)を訪れてみました。プラハから北西120kmほど離れたドイツ国境に近いボヘミア地方にあります。日本では入浴が主体であるのに対して、ヨーロッパでは温泉に行く目的は、もっぱら飲泉、すなわち温泉水を飲んで胃腸病などを治療することにあります。

Odbget カルロヴィ・ヴァリは、こうした飲泉保養地として、ヨーロッパにおいて中世から良く知られた有数の温泉地です。その存在を個人的に知ったのは、2001年9月のことでした。遅い夏休みでしたが、家内のひざの状態が思わしくないので、湯治を兼ねて草津まで出かけた時のこと。Pop10_p温泉街に入る手前にある道の駅の一角が「ベルツ記念館」となっていて、これに立ち寄ったところ、ベルツに大変造詣の深い沖津館長が草津温泉とベルツ博士の関係、博士の功績など、実に詳しく熱弁を振るって説明して下さいました。

ベルツ博士は、明治時代、東京医学校(のちの東京大学医学部)の外国人教師として招かれ、日本医学の近代化に大きく貢献した人物で、日本人女性、花と結婚。彼女を記念した日本庭園が草津の姉妹都市であるカルロヴィ・ヴァリにあることを耳にして、大いに好奇心をそそられました。Balz02

 カルロヴィ・ヴァリへは、運転手つきのガイドを雇い、日帰りで出かけました。ガイドは日本文化への関心が高い初老の婦人。道中、ビロード革命のこと、ハベル大統領の人となり、モラビア対ボヘミアの民族・文化論、自由化の功罪など興味深い話を沢山してくれ、片道2時間弱をあっという間に過ごすことができました。

カルロヴィ・ヴァリは、谷合にあり、小川の両側に遊歩道が設けられ、瀟洒な宿やお店が並んでいます。どことなく日本の温泉街に似た雰囲気もありますが、洒落たコロナーダと呼ばれる泉源があちこちにあり、 Lrg_10403793扁平で吸い口の付いた独特の形状の陶製カップを手にしたお客が競い合うように温泉の湯(4472℃)を飲んでいる姿が違います私も試してみましたが、生理食塩水並みの薄い塩味で、そう沢山は飲めそうにありません。しかし、湯治客は、サナトリウムと呼ばれる宿に投宿し、数週間、毎日一定量の飲泉を処方され、運動のために小川の畔の散歩が義務づけられるそうです。

共産党時代には、ソ連が最上の建物を占有し、フルシチョフなど歴代の首相が好んで訪れていたのが、時代が変わって、今では、ロシアマフィアが進出。高級ホテルなどを買い占め、温泉地を闊歩している姿にガイドは、眉をひそめていました。Hana_stone_garden

ベルツ・花の石庭をガイドは知らなかったのですが、案内所で尋ねるとすぐ判りました。温泉街の外れ、リッチモンドホテルの入口で、ひっそり辺りの草木の中にすっかり溶け込んでいました。

甲斐 晶(エッセイスト)

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ヨーロッパ窯元めぐり

大航海時代の到来によって極東への商船の往来が可能となり、陸のシルクロード(絹の道)に対する海のシルクロード(陶磁の道)が開拓され、東インド会社を通じてヨーロッパにもたらされた大量の中国の磁器や我が国の伊万里磁器が大いに珍重され、バロック宮殿の空間を華やかに飾る装飾品となりました。金、銀を上回る価値のある、070801plateaugustこうした東洋の磁器と同じものをザクセンで作りたいとのアウグスト強王の野望が錬金術師ベトガーらの努力によって実現しましたが、この磁器製造の秘法が熾烈な諜報活動を経て、競争相手のヨーロッパ列強にも伝わり、各地に王立の磁器工房が設立されることになったのです(「アルカヌム」参照)。

Qqcimg0024 当時の流行に従いマイセンの初期の絵付は中国風でしたが、次第に有田の柿右衛門や古伊万里の文様の完全な模倣に移行。こうした模倣がマイセンを起点にしてフランスなどにも波及するとともに、各窯元独特の絵柄を確立させて行きました。同じお手本からそれぞれ模倣品が作られた結果なのでしょう、我が家にあるマイセンとヘレンドのデミタスカップの場合、窯元が全く違うのに図柄は酷似しています。

ヨーロッパにある名磁器の窯元を訪ねたり、アイテムを絞って収集したりするのも楽しいものです(各窯元のコーヒーセットを揃えたら、散財ものです)。我が家ではヨーロッパ滞在中に訪れた先々で、前述のようにデミタスカップを1客ずつ集めていますし、いくつか窯元を訪ねて見ました。

Qqca99sxq7   旧東独時代にドレスデンを訪れた際、マイセンに寄る事も可能でしたが、共産政権下の当時、窯元を訪れても見るべきものは無く、商品価値のあるものは全て西側に輸出されていると聞かされており、断念してしまったのが今でも残念です。また、アウグスト強王が収集した大量の東洋の磁器やマイセン窯の名品がツヴィンガー宮殿の一角に展示されていると知って訪れたのですが、これまた修復中で見ることが出来ませんでした。P1010110しかし、ドレスデン城の外壁に「君主の行列」と題する、長さ101mに及ぶ壁画がありますが、25千枚のマイセン磁器タイルを用いてザクセンの歴代の国王ら35人を描いた見事なものでした。

1744年、マリア・テレジアによって皇室直属の磁器窯に命じられたのが、ウィーン市内2区にあるアウガルテンです。前身の「デュ・パキエ」窯は1718年創業とヨーロッパで2番目に古く、ベトガーと一緒に働いて磁器製法を熟知したシュテルツェルを引き抜きました。1864年から休窯状態にありましたが1924年アウガルテン宮に工房を移して再建されました。Dscf24531 同宮は一角がウィーン少年合唱団の宿舎にもなっていますが、ある要人のお供で訪れたところ、工場長自らがご案内。有名なヴィーナーローズ柄のお皿の絵付やスペイン乗馬学校の騎馬像の作製作業などを見学しました。騎馬像は一体構造ではなく、まず各部分を成型後、接着剤で合体させていたのが意外でした。

Museeimage 瑠璃色のセーブル・ブルーの地に金彩の絵付で有名なセーブル窯は、パリ市内から地下鉄9番線に乗って終点で降りた、セーヌ川沿いの公園に接しています。前身のヴァンサンヌ窯は王室の資金援助で1738年に開窯。1753年ルイ15世の愛妾ポンパドール伯爵夫人の意向でQqcimg0027 「王立セーブル磁器製作所」となり、1876年現在の地点に移転。1789年フランス革命により一時閉窯するもののナポレオンによって再興され、今日に至っています。セーブルはほとんどが注文生産で、年間約6000個に限定。発注後、3年しないと手に入らないとパリ在住の知人から聞いていたので、すっかり諦めていましたが、行って見ると窯元で少量小売していました(我が家の宝の1つです)。ここに併設された陶磁器博物館は質・量ともに圧巻。必見です。

Qqcimg0020 この他にも、共産圏時代にブダペストの西南約200kmの片田舎、ヨーロッパ最大の淡水湖、バラトン湖畔にあるヘレンド窯までウィーンから苦労して訪ねたりしました。その甲斐あって、当時ウィーンではとても手に入らなかった、独特のヘレンド柄の磁器製ランプスタンドを購入。今や、我が家のリビングで柔らかな光を放っています。

甲斐 晶(エッセイスト)

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