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2008年12月

アルカヌム

 Imgd81f9c3azikezj ヨーロッパには、マイセン(ドイツ)を始め、セーブル(フランス)、アウガルテン(オーストリア)、ヘレンド(ハンガリー)などの有名な窯が存在し、それぞれ見事な磁器を供給しています。このヨーロッパにおける磁器の開発の成功に錬金術師が関与していたこと、また、当時、東インド会社を通して到来する中国や日本の磁器は極めて貴重であり、その製造を独占すれば巨万の富を生むことになることからその製造方法が国家機密にされ、これをめぐって厳しい情報管理がなされる一方、その裏を掻くためのスパイ作戦や人材の引き抜き合戦などが行なわれていたことを、61esqm44k0l_ss500_J・グリーソン著「マイセン―秘法に憑かれた男たち」(南條竹則訳:集英社)で知りました。磁器造りの秘法を究め、マイセン窯の確立に貢献したザクセン王と3人の職人を巡る物語です。

 18世紀のヨーロッパの人々にとって、製造方法の不明な東洋からの磁器はエキゾチックな素材であるばかりか、魔術的で護符的な意味を持つ物質、長070801statueaugsut命、生命力、不死の霊薬であったようです。特に、ザクセン王国アウグスト強王(在位16941733)の磁器への情熱は、美女への欲望にも劣らず旺盛で、宮殿を4万の磁器で埋めつくすとともに、プロイセン王所有の磁器を得たいばかりに、自分の竜騎兵の連隊600名と取り替えたほどでした。

彼の磁器への飽くなき欲望は、ついには、ベトガー(16821719)という錬金術師を幽閉して、磁器の製法の秘密を探らせるまでに至ります。Boettgerstarke

当初、ベトガーは、卑金属を黄金に変える魔法の物質、「賢者の石」を生む秘法(アルカヌム)を会得したとの触れ込みで、アウグスト強王の庇護を求めて来たのですが、いつまで経っても、金を多量に作り出すとの王との約束は反故にしたまま。まさに王の逆鱗に触れなんとした時に、仲介に立ったのが宮廷顧問官で科学者のチルンハウスでした。Tchrnhau 彼は、錬金術同様の秘法、粘土を磁器に変える方法を追い求めており、ある程度の見当を得て(本物の磁器は、粘土とガラスを融合させて作ると確信して)いたのです。ベトガーの豊富な化学的知識や科学的才能を評価し、自分の研究の後継者として王に推奨。王はこれに同意し、金に勝るとも劣らない貴重品である磁器の開発をチルンハウスと共同で行なうようベトガーに命じ、その身柄をドレスデンの北西約25kmのマイセンに近いアルベルヒスブルグ城に幽閉します。Titelalbrechtsburg02

ところでチルンハウスの見当とは異なって、磁器の秘密は2つの主原料、カオリン及び長石を含む岩石を混ぜ、高温で焼成することにあります。長石に含まれる石英が熔けてガラス化し、粘土中の小孔にしみ込んで、その過程で磁器特有の非常に微細な構造に晶出するのです。

10027714686_2 ベトガーはザクセン地方で産出する原料(カオリンと雪花石膏(アラバスター))を変えて何度も試験焼きを繰り返し、試行錯誤の末に、白い半透明の磁器の秘密に迫る発見をします。改良を重ね、ついに1709328日、彼は「中国のものに勝るとも劣らない、上質の白磁」を製造できるようになったと報告。かくして1710123日、アウグスト王は王立磁器工場の新設を布告したのです。Alabaster

ベトガーの発明に加え、ヘロルト(16961775)、ケンドラー(17061775)という優れた絵付師や陶工職人が工房に入ったことによって、マイセン磁器の名声が確立。ザクセン王国の財政は大いに潤い、ドレスデンはエルベ河のフィレンツェと呼ばれるに相応しい芸術・文化の都として栄えます。

Img_965220_28643348_1磁器製造の秘法(素材粘土の産地、調合法、焼成温度、高温を得るための窯の設計、彩色絵具の成分など)を探ろうと、フランス、オーストリアなどヨーロッパ中の競争相手が、ドレスデンやマイセンの町にスパイを送り込むものの、ザクセン側は秘密漏洩に対する厳罰、作業者の監視、核心情報に接し得る人物の限定、素材の独占などの措置によって磁器製法の秘法を独占し得ました。Sub2 

しかし、いつしか機密が漏洩します。人材の引き抜きなどによって秘法が拡散し、各地に磁器造りの窯が設立。マイセンに代わってアウガルテンやセーブルなどの名声が高まることになるのです。

甲斐 晶(エッセイスト)

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インド事情

今回も、インド在住の日本の友人の招きで、デリー、ジャイプール、アグラのゴールデントライアングルを駆け抜けて来た時の見聞録です。

インドの交通事情について前回詳しく述べましたが(「インド交通事情」参照)、ひとつ書き漏らしたのは、スクーターに一家総勢4人が乗っているのが当たり前だと言うことです。父親が運転し、後部座席に横座りでサリー姿の奥さんが乗っているというのは、我々にとってもそう不思議な光景ではありませんが、よく見ると、両親の間にちょこんと小さな子供が座って、父親にしっかりしがみついているではありませんか。さらによく見ると、父親の前に、もう1人、大きな子供が乗っているのです。いやはや。Id0001

民族衣装のサリーで、女性がお腹を出していてもインド男性は、何も感じないようなのに、スカート姿には、好奇な視線を向けるので日本女性は服装に注意が必要です。サリー以外のインド女性の服装は、スカートではなく、足首までしっかり隠すパンジャビ(ズボン)スタイルだからです。

因みに、このパンジャビから英語のパジャマと言う言葉が出来たようです。05125この他、ヒンディー語から英語に入った言葉に、フルーツ・ポンチで代表される「パンチ」があります。ヒンディー語で「五」の意味のパンチからの派生語で、もと5種類の成分を混ぜ合せたことから来ているのです。

インドを旅していて、現地の人々との騙し騙されのやりとりが煩わしいと思っている間は、余り愉快なものではありませんが、これもインドとゲーム感覚で割り切れるようになれば、しめたものです。私達も、あれこれ興味深い体験をしました。

まずは、乗り物編。タクシーひとつ乗るにも一筋縄では、行きません。メーターが無い場合が多く、まずは、値段の交渉です。無事に交渉が成立しても安心は出来ません。行き先のホテルの名前を告げても、もっと良いところがあると、リベートが貰える自分の知り合いのところへ連れて行こうとするので、喧嘩腰に断らねばなりません。0118

ジャイプールの名所、アンバー城を訪れた時のことです。山上の城まで、象かジープで往復するのですが、麓の駐車場に我々の車が着くやいなや、英語を操れる客引きが寄ってきます。値段を聞くと象なら400ルピーでジープなら100ルピーとの返事。どっちを勧めるか尋ねるとジープだとの答え。お前がジープを持っているからだろうと言うと、ニヤリと薄笑い。図星だったのです。

城の見物が終わって、駐車場への帰路、頼みもしないのに土産物屋に連れ込まれます。見るのは只だからと、しつこく勧めるのを断るのにまた一苦労。通常の神経では、参ってしまいます。

次は、見学編。ここでも油断は出来ません。車から降りて、入口に向かう間中、アマゾン川に落ちた子牛に群がるピラニアのように、次々に押し寄せて来る土産物売りや自称「公式ガイド」を振り切ら無ければなりません。無事に中に入っても、気が許せません。ガードとおぼしき人物が親切に説明を始めたら要注意。後で、たっぷりガイド料をせびられることもあるのです。

タージマハールで廟に入るには、裸足になる必要があります。雨上がりだったので、ためらっていると、現地人がオーバーシューズを貸してくれました。幾らだと尋ねると、”As you wish.”と言うので、10ルピー渡したのですが、不満顔。これでは、”As you wish.”では、ありません。Img0399b774zik8zj

公衆トイレで、お金をせびられるのも不愉快です。ここは、公共施設だろうと言うと、いや、プライベートなトイレだと言い張ります。見るからにおかしいので、じゃあ、出るところに出ようと強く言うと、なにやらもごもご口ごもっておしまい。全てが、ダメもと精神のようです。

これは、インド在住の友人の経験なのですが、ある時、タージマハールを訪れると、生憎と閉まっています。思案に暮れていると、「旦那、私に付いて来れば、見せてあげるよ。」とインド人が接近。

狭い路地をあちこち通り抜けながら、連れて行かれたのは、何とタージマハールが裏から見える地点でした。文句を言うと、「タージマハールは、左右対称なので、どこから見ても同じ。」との返事には、開いた口が塞がらなかったそうです。

甲斐 晶(エッセイスト)

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インド交通事情

 前回(インド駆け歩き)に続いて、インド在住の日本の友人の招きで、デリー、ジャイプール、アグラのゴールデントライアングルを駆け抜けて来た時の体験記です。Sp1010005_bus_fullpeople

 友人から運転手付きで車を借り受けて3地点を回ったのですが、ジャイプールとアグラ間が片側1車線であったのを除き、いずれも片側2車線以上の比較的整備された、「ハイウェイ」と称する国道でした。しかし、後述するように、よほどの運転技術を備え、インドの交通事情に慣れていなければ日本人ではとても無事に目的地に着けそうもない状況でした。幸いにも、運転手のハラシュは、終始安全運転で大いに助かりましたが、披潤万丈のインド交通事情に、こちらは緊張の連続で、車内で安心してウトウト居眠りする心境には到底なれませんでした。

  Sp1010022_jeep_camelまず、「ハイウェイ」をラクダ、犬、牛などありとあらゆる家畜・動物が闊歩しています。街道筋の小都市・集落に入れば、これに豚、山羊、ロバなど多彩な動物が加わり、これらが道のど真ん中で休んでいたり、餌をあさったりしていて進路を塞ぎます。人間はと言えば、歩行者は勿論のこと、自転車、リヤカー付き自転車、輪タク、オート三輪(リキシヤ)、お客で鈴なりのミニジープやバス、荷台に人や荷物を満載したトラクターやトラック、そして乗用車などあらゆる形態の車両が四方八方から前触れもなく次々に現れますから、これを上手く交わしながらの運転です。Sp1010008_goatherd

  無秩序の秩序とでも言うのでしょうか。交通渋滞時のエトワールを想像していただくのが良いでしょう。相手が必ず避けてくれるものとの前提で、これらが車の前を横切って行きます。事故が起きないのが不思議なほどですが、さすがに途上で、時折、接触事故を起こしているのを目撃しました。

  Sp1010027_localtown_cowcamel中央分離帯のあるハイウェイでも安心は出来ません。下り(デリーから離れる方向の)車線にあると想定してください。脇道から出て来た上り方向に行きたい車は、下り車線を進んでその先の分離帯の切れ目で右折して上り車線に入るのがルールです。ところが分離帯が長過ぎて途中に切れ目が余り無い設計となっているので、先まで進むのが面倒なのでしょう。脇道から上り方向に行きたい車がいきなり下り車線を逆走して来るのです。初めてこれを目撃したときには、我が目を疑いましたが、現実です。大型トラックが猛スピードでこちらに向かって逆走してくるのに立ち向かうのは、実にスリル満点。まるで映画の1シーンのようでした。Sp1010039_3persons_on_scooter

  実は、ハラシュも逆走せざるを得ないことがしばしばありました。故障車があったり道路工事中の箇所では、前触れもなく突然、路上に小枝や小さな岩が置かれ、進路が塞がれていますから、その近辺の分離帯の切れ目で反対車線に入り込んで進まざるを得ないのです。そんな場合に、日本でならば、プラスチックの三角錐を並べて上りと下りの車線を分離し、安全が図られるのですが、インドでは、全く運転手の技量に委ねられるのです。Sp1010036_cycles

 前述した事情によって、ハイウェイの走行車線を人間や動物が闊歩し、ラクダに引かれた荷車などがノロノロ進んでいます。トラックやバスなどのスピードの遅い車も、いちいち進路変更してこれらを追い越すのは面倒なので、ともすれば追い越し車線をそのまま進行しており、しばしばこちらの行く手を阻みます。そうした場合、ハラシュは、クラクションをけたたましく鳴らして、先行車に警告を与え、これが走行車線に寄ったところで追い抜きます。相手が方向指示器の合図を出さずに進路変更してくる可能性があるからです。

 わずか、3日間のインドでの車による旅でしたが、強烈なインド式ドライブ方法がしっかり体に染み込んでしまったようです。無事、デリーから成田に戻り、空港ホテルの駐車場に預けていた車をピックアップして、家路に着いた時のこと。高速道路で追い越し車線を走行中に、走行車線を進んでいる先行車を追い抜こうとして、インド式に思わずクラクションを鳴らしそうになりました。ここは、日本だぞと言い聞かせながら、それでも夫婦して、口で「ブー、ブー」と警笛音を発しながらの帰宅でした。

甲斐 晶(エッセイスト)      

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