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2008年9月

フライト・トラブル対策

 航空券は、鉄道の特急券や座席指定券と違って指定の便に乗り遅れた場合でも無効とはならず、他の便に余裕があれば、手数料無しに(他社便であっても)変更が可能です。では、出発時刻の何分前位までにチェックインしたら、乗り遅れとならずに済むのでしょうか。国内線の場合には、20分前が目安で、それ以降だと空席待ちのお客を入れてしまいます。国際線の場合には、1時間前というのが航空会社側の言い値ですが、実はこれよりも際どい体験をしたことがあります。

31202f春先のことでした。自宅から車で3時間も見れば十分と、出発の4時間半前に成田に向かったのですが、生憎と季節はずれの雪が降り出して、高速道路はどこも混雑。空いていそうなルートをあれこれトライしますが、全てダメです。高速を諦めて常磐道の柏から一般道で成田まで行こうとしたのですが、 今度は柏インター出口が予想以上に大混雑。その時点で既にあと1時間(出発まで2時間)しかありません。31204g急がば回れと常磐道を谷田部まで逆戻り、一般道に出て、筑波学園都市、牛久経由で成田空港に向かうことになりました。しかし、谷田部で高速を下りた時点で出発の1時間50分前。とても間に合いそうにもありません。

199709_digital_carphone_e203_hyper 自動車電話で航空会社に連絡し、事情を説明。出発の50分前でもOKということになりましたが、その時刻になってもまだ成田空港まで10kmの地点で、もはや絶望的。やっと成田に着き、チェックイン・カウンターに到達したのが何と出発の35分前。常識的には100%乗り遅れのはずでしたが、係員が「ああ、お電話いただいていた方ですね。お待ちしていました。」と言ってくれて、滑り込みセーフ。預ける荷物がなければ、30分前でも大丈夫とは、とある経験者の弁ですが、これが真実かを試してみるには相当の勇気が必要です。

そこで、教訓その1:空港への交通手段は、車を避け、より確実な電車などにすること。

03what_photo1 さて、予定通りにチェックインが済み、搭乗手続きを終え、飛行機の指定座席に落ち着き、乗務員が安全の注意のデモンストレーションを始めたとしても安心は出来ません。折角、滑走路に辿り着き、いざ離陸という段になって、整備不良のため、機体がゲートまで引き返した経験が何度かあるからです。いつぞやは、機内で拘束されること約10時間。交換部品が日本に無いため、結局その日は出発できず、成田に宿泊を余儀なくさせられました。出張日程が狂って困りましたが、それ以上に、閉口したのは、着替えなどが預けたスーツケースの中にあるため取り出せず、Img55409404着の身着のままで一夜を過ごさざるを得ませんでした。そこで、教訓その2: 機内持ち込みの手荷物には、1回分の着替えなど、最低限の身の回りの品を入れておくこと。これは、航空会社に預けた荷物が目的地で到着便と一緒に届かない場合にも有効です。

旅の途中でもトラブルは避け得ません。米国でロスアンゼルスからアルバカーキに向かうのに、直行便とフェニックス経由の2つのオプションがありました。Southwestairlines_2 直行便の航空会社では、事前に座席指定を行わず早いもの順に搭乗させるため、搭乗開始時刻の1時間前からゲートで並ぶ必要があり、お奨めできないとのロス在住の友人のアドバイスで、フェニックス経由にしました。244606408_24a992391c

フェニックスでは、乗り換え時間が50分しかなく、急いでアルバカーキ便の出発ゲートに出向くと、ラスベガスからやってくるはずの乗り継ぎ便が遅延するとの表示です。待つこと2時間。結局、機器不良で到着便がキャンセルとなってしまいました。その日の内に目的地に着かないと、以後のスケジュールが滅茶苦茶になってしまうので、大いに慌てました。結局は、代替機を出してくれたので4時間遅れで目的地に着くことが出来ました。800pxamerica_west_a319 そこで教訓その3:乗り継ぎ便は避け、可能な限り直行便とするか余裕のある日程とすること。

 教訓その4は、米国の航空会社の場合には、オーバーブッキングに遭う確率が高いのでコンファメーションが済んでいても十分早めのチェックインを。搭乗出来ないことがあるのです。これは、冒頭書いたように、航空券の場合には予約便に乗り遅れても無効にならないことから、予約しておきながら何らかの事情で時間までに現れないお客が必ず何%かいるからです。空席が出るのを避けるため、航空会社は座席数以上に予約を受け付けます。オーバーブッキングの率をどの程度にするかは、各社のノウハウのようです(20%との噂もあります)。でも、オーバーブッキングの場合に、必ずしも不運とは限りません。ご用とお急ぎでなく予約したフライトを他人に譲れるお客には多額の金券を提供するとのオファーを享受できる場合もありますし、座席をアップグレード(ビジネスクラスからファーストへなど)してくれる場合もありますので、却ってラッキーです。

甲斐 晶(エッセイスト)

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ユーロ登場

 408pxeuro_symbol_gold_svg欧州統合の象徴として、今から6年前の2002年元旦から、オーストリア、ベルギー、フィンランド、フランス、ドイツ、ギリシャ、アイルランド、イタリア、ルクセンブルグ、オランダ、ポルトガル及びスペインの12ヶ国において共通通貨EUROが導入されました(ご興味の方は「ユーロにまつわるトリビア」もご覧下さい)。しばらくは各国のこれまでの通貨も流通するよう経過期間が置かれましたが、最も遅い国でもその年の31日以降は使えなくなりました。

 新通貨の名称EUROは、1995年のEUサミットで正式に採用。1ユーロは、100セントで、両単位とも英語では単複同形です。その通貨記号は、ギリシャアルファベットの第5字ε(epsilon:英語のE)に由来しており(上図参照)、ヨーロッパの頭文字でもあります。Euro_banknotes_2

  さて、新たに発行された7種類のユーロ札(5、102050100200及び500ユーロ)のデザインを手がけたのは、1996年のコンテストを勝ち抜いた、オーストリア国立銀行所属のデザイナーRobert Kalina氏です。Sm_kalina4b1 お札のデザインは、ヨーロッパの建築遺産を象徴しており、表側には開かれたヨーロッパと協力の精神を示す窓や門を、裏側には建築史の7つの時代区分(小さい金種から順に、古典、ローマ、ゴシック、ロマネスク、バロック・ロココ、鉄とガラスの建築及び20世紀建築)の橋をモチーフにして、ヨーロッパ人同士及びヨーロッパと世界の人々とのコミュニケーションを表しました。

 T_kal_100_b Kalina氏が苦労したのは、「どのデザインもいかなる国の特定の記念建造物や英雄を示唆してはならない。」との制約でした。そこで彼は、ヨーロッパの偉大な橋のあちこちの部分をコンピュータで組み合わせて、誰にでも受け入れられる中立的な橋に仕上げたのです。しかも、これを構造設計の専門家にチェックさせて、強度上問題ないことを確認したそうです。T_kal_100_f_2

発足当時の各お札に共通なのは、EU旗、12の星、EUの地図、ユーロ加盟12ヶ国の言語による欧州中央銀行の略称名(BCEECBEZBEKTEKP)、同総裁の署名、通貨単位のラテン文字(EURO)及びギリシャ文字(ΕΥΡΩ)での表記でした。

 626pxeuro_coins_version_ii 一方、8種類の金種(1251020及び50セント並びに1及び2ユーロ)で発行されるコインの場合、裏側のデザインは、お札同様各国共通のデザインですが、表側のモチーフは、各国自由なものとなっています。従って、全部で8x1296種類の新しいコインが発行されるのですから、蒐集家にとっては、たまらないことでした。しかも、ユーロ加盟国のどの国が発行したコインでも他のどの国でも通用します。ドイツ人がフランス発行のコインをポルトガルで使うということが可能なのですから、欧州統合の象徴的な出来事のひとつになります。At_coins

オーストリアの場合、8種のコインのデザインは、1セントから始まって大きい方へ、それぞれ、リンドウ、エーデルワイス、アルプス・サクラソウ、シュテファン寺院、ベルベデーレ宮殿、分離派会館、1eモーツアルト、そして、2ユーロは、ノーベル平和賞受賞者のベルタ・フォン・スットナー女史とオーストリアの植物、建築物及び著名人をモチーフにしています。 

さて、ユーロへの切り替えを機に、犯罪組織が一儲けを企んでいました。人々が未だ新しい通貨に不慣れな内に、偽札を掴ませようとの魂胆で、特にお年寄りを狙って「早めに新通貨に交換すれば、良いレートで替えられる。」と言って騙そうとしたそうです。いつも割を食うのは社会的弱者のようです。偽造団に対抗するため、欧州中央銀行側も新紙幣の特徴について詳細は、最後の最後まで公表を控えていましたが、現在では、欧州中央銀行のウエブサイトで、分かりやすい説明がなされています。皆さんも騙されないよう良くご覧になって見て下さい。

甲斐 晶(エッセイスト)

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アメリカ人気質(かたぎ)

  前々回お話ししたロスアラモス研究所への訪問(「ロスアラモス研究所」参照)は、Logo_snl_name_900x347サンタフェで開かれた約10日間の国際会合の一環として、ホスト国の米国がアレンジしたもので、アルバカーキ空港に近いサンディア研究所訪問も同時に行われました。両研究所とも冷戦終結を受けて、新たな活路を目指した活動を拡充しつつあるとの印象を受けました。

7478bf65a6225dfe977419feec19aa4cサンタフェの会合では、週末が含まれていましたが、こうした場合の常である、ホスト側の用意したオプショナルツアーといったものは一切無く、皆さんどうぞ御勝手にという、実に会合参加者の自主性に委ねられた企画でした(というと、聞こえは良いのですが、随分、あっさりし過ぎだなあというのが参加者の偽らざる気持ちです。個人主義至上のアメリカだからなのでしょうか)。Santafe 

当地に友人・知人がいたり、夫婦連れの参加者達は、それぞれ招かれたり、レンタカーを借りたりして週末を楽しんだようでした。仕事中毒で知られたアメリカ人参加者(どのアメリカ人も多少その気味があります)は、週末もホテルに籠もってドラフト作業三昧。その他のあぶれ組であるドイツ、フィンランド、オーストラリアからの参加者と私の4人でレンタカーをして、ロスアラモス近くのインデアンの遺跡(Bandeliar国立記念史跡 )Sia0182を訪れたり、世界最大と称するカルデラ(Valle Grande)を見たりインデアン居留地(Taos Pueblo)P336787taos_pueblo へ遠出したりしました。左ハンドル車に慣れたドイツ人に運転を任せましたが、運転が荒いのではとの先入観に反して、これが超安全運転。ステレオタイプの判断はいけません(ただし、彼もお国のハイウェーでは、時速200kmで平気で飛ばす由)。

ホスト国の名誉のために申し添えますと、全く気遣いがなかったわけではなく、ある日の晩には、

ホストのお招きで夕食をステーキハウスでご馳走になりました。ただし、ここでも飲み物は自腹というのが、いかにもアメリカ的です。私は、ソフトドリンクだけでしたので只でした。

レストランのテーブルで私の横に座ったのは、私達参加者のお世話をしてくれた、40代半ばの女性職員でした。テキサス州出身で、ご主人の仕事の関係で当地に来たようです。

Img10471674855 話がお互いの学生時代(私の場合には、アメリカでの留学時代)のことに及ぶと、彼らも時間はあってもお金がない身分。私同様、テント持参であちこち車で旅したとか。貧乏学生でお金がないので「2日キャンプしては3日目にモーテルに泊まった。」と話せば、彼女は、「そうそう、シャワーを浴びるためでしょう?」と聞いてきます。Air_mattress 「いや、寝袋の下に敷く2つのエアマットの1つに微細な穴が開いていたため、夜中になると次第に空気が抜けて、背中に直に石が当たって痛くなる。3日に1回はモーテルのベッドで体を休めないと持たないから。」と答えると、相手も、「我が家もエアマットの空気が良く抜けて、夜中に主人が起き出しては、隣で空気の吹き込み口に口を当ててフウフウ吹いていたのを思い出す。」と言うので大いに共感し合いました。世代を越え、国籍を越えて似たような体験をしていたのですから。

Michigan当時、4ヶ月もある長い夏休みをどう過ごそうかと悩んだ末、級友からテント一式を借り受けてミシガン州を一周したことがありました。Petoskey2 ペタスキーという貴石で有名なリゾート地でキャンプしたときのことです。真夜中に急に激しい雷雨に見舞われ、テントが雨漏り。テントの屋根からしみ出して床に溜まった雨水を吸い取ろうと、着ていた衣類を1枚脱ぎ、2枚脱いでいる内にとうとう丸裸に。仕方なく家族全員、車の中に避難しましたが(真夜中でしたから、誰にも見られずに済みました)、排気量5000ccもの大型車1 だったので、結局、車の中で親子3人が一夜を過ごすことが出来て助かったことがありました。そんなエピソードを紹介すると相手は大笑い。彼女たちのテントも雨漏りしたことがあったとのことです。ひょんなことからお互いに急に親近感が増しました。

アメリカ人の良いところは、初対面の間柄でもこうして直ぐ打ち解け合えることでしょう。西部開拓時代の滅多に人に会わない環境が生み出した、旅人を持て成す良き風習なのでしょうか。

甲斐 晶(エッセイスト)

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ナターシャ・カンプシュ

オーストリアの小都市アムシュテッテンで18才の娘が実の父親に24年間も監禁され、性的虐待を繰り返し受け、子供7人を出産していた事件のことを書きました(「アムシュテッテン事件」参照)オーストリアで少女監禁事件が発覚したのはこれが初めてではなく、ウィーンの少女ナターシャ・カンプシュが10才の時に登校途中に誘拐され、男(当時36才)によって自宅の車庫の下の地下室に8年間も監禁されていた事件が、今から2年ほど前の2006年8月に明らかになりました。Ein_unauff_lliger_t_137850g

事件の概要はこうです。彼女は1998年に行方不明となり、8年に亘って男に監禁されていましたが、2006年8月23日、掃除機を使って車内の掃除を命じられた際に、男が携帯電話に出て掃除機の騒音がうるさくて車を離れたわずかな隙に、隣家に逃げ込んで無事保護されたものです。犯人ウォルフガング・プリクロピル(44才)は、通信技術者で、彼女が逃げ出した夜、警察の追求を逃れ列車に飛び込んで自殺を果たしてしまいます。

Verzweifelte_suche_137838g この誘拐事件が起きた当時、オーストリア警察により隣国ハンガリーにも亘る大々的な捜査が行われ、犯行に使われた白いバンと同じものを彼が所有していたことから、捜査が彼の元にも及びましたが、結局容疑不十分で逮捕を免れたのでした。

保護当時、彼女の体調は良好で、監禁中に暴行などは受けなかったと語り、警察の聴取に対し、「犯人は確かに犯罪者だと思いますが、私にはいつも親切でした。」と述べたそうです。ある心理学者は、彼女が「ストックホルム症候群」(長期間監禁が続いた際、被害者が犯人に親近感を抱くという異常な心理状態)に陥っていたと分析しました。Treppe_zum_verlies_137856g

T_r_in_die_freiheit_137794g 彼女は誘拐された日、犯人に車の中に引きずり込まれ、「おとなしくしろ、さもないと痛い目にあうぞ」と言われ、結局8年間、ガレージの下の僅か5m2ほどの空間に監禁されました。しかし、その間、「自分は監禁されるために生まれたのではないと」言い聞かせ続け、自由の身になることを決して諦めなかったという気丈さには感服します。

保護直後のインタビューで誰もが驚いたのが彼女の知性と語彙の豊富さでした。それもそのはずで、犯人は彼女に多くの本を与え、教育していたのです。また、彼女はラジオを聞き、テレビも見ていました。誘拐後数年間、彼女は犯人の名前を知りませんでしたが、彼女にとって彼は父親のような存在で、基本的なことから生理用品の使い方に至るまで何もかも教えられていたようです。_42058444_kampusch_index

彼女は極めて前向きです。「監禁されていた8年間で何かを失ってしまったとは感じていない、むしろ喫煙や飲酒や悪い友達との交友などを避けることができた。」と語っています。

現在、彼女は高等教育に専念中であり、将来はメディアで活躍し、女性や子供に対する暴力を正すプロジェクトに従事したいとの夢を自らのサイトで述べています。

 Webアムシュテッテン事件について感想を求められ、彼女は自分の体験と重ね合わせながら、「被害者をそっとしてやって欲しい。時間だけが傷を癒すから。」と述べ、被害者の42才になる娘とその子供達に25,000(約400万円)ものお金を寄贈したことを明らかにし、また、同胞達にも彼らへの同様の寄附を呼びかけています。事件の原因を問われた彼女は、「この事件はどこの国でも起こり得ることですが、やはり第二次大戦の後遺症でしょう」と指摘し、「ナチスの教育が女性の抑圧と権威主義をもたらした」としています。

ナチス時代に醸成されたオーストリア人のメンタリティがアムシュテッテン事件の一因とする意見は他にもあります。この事件の存在を薄々感じていた住民は何人もいたのに、見て見ぬふりや知っていながら知らないふりをしていたのは、正にオーストリアの国民がナチスの強制収容所の存在に敢えて目をつぶっていた歴史と重なると厳しい指摘をする人もあります。でも同様の傾向は、列車や街中で行われる犯罪を傍観し、面倒な関わり合いにはなりたくないとする、無関心な我が日本の都会人にも言えるのではないでしょうか。

甲斐 晶(エッセイスト)

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