« 2008年7月 | トップページ | 2008年9月 »

2008年8月

ロスアラモス研究所

Lanl_logo 2001年の春、米国ニューメキシコ州ロスアラモスにあるDOE傘下の国立研究所を訪れました。マンハッタン計画によって極秘裏に原爆の開発が行われたところです。核不拡散に携わる者にとって、ここは、広島、長崎と並んで一度は訪問する必要のある、Lanlmap あらゆる事物の原点とも言うべき地です。

私がここを初めて訪れたのは、その丁度20年前のことで、NDA(非破壊分析)の訓練コースに参加するためでした。その後も何度か訪れていましたが、今回初めて(たまたま昔懐かしい建物で会議が行われたためなのですが)、廊下に飾ってある集合写真の中に20年前の若かりし我が姿を発見。タイムスリップした気持ちがしました。

Los_alamos 副所長から研究所の概況説明を受けましたが、時代の流れなのでしょう。冷戦の終結に伴って、これまでの核兵器開発やその備蓄に係わる研究活動から、解体核の検証、安全保障、環境保全、情報科学などの分野に焦点が移っているようです。前年には、中国系研究者による機密漏洩事件が起こったり、山火事のため研究所の建物やデータが焼失する事態が危惧されたりと、研究所の内と外の両方から危機が迫ったと回顧しておられました。     

20005月の山火事では、住民約19千人が避難。約160平方㎞が焼失し、350以上の家族が家を失い、損害額は10億ドルにも及んだとのこと。一年経っても、被災地の多くは空襲に遭ったかのように黒い焼け跡となり、空き地のままでした。

Bradburymuseum さて、ロスアラモス研究所への訪問者は、研究所の歴史、原爆開発の足跡を展示した博物館に案内されるのが常です。20年前には研究所構内のこぢんまりとした瀟洒な木造建築だったのが、今や研究所とは別の所に立派な建物として生まれ変わっていましたFmlb_l広島型ウラン爆弾(ビッグボーイ)、長崎型プルトニウム爆弾(ファットマン)の模型や原爆開発に至った歴史的背景などの展示は、後で触れる1点を除いて余り変わっていませんでしたが、電子計算機の開発の歴史や環境保全に係わる展示などが加わっていたのは、研究所の活動内用が変化してきている表れでしょう。

0614f2_la_mesa ロスアラモス研究所を訪ねたことのある人なら、険しい峡谷に突き出た狭いメサ台地の上に周囲から隔絶して立地する研究所の姿に、良くもまあこうした軍事研究に格好の場所を探し当てたものと感心することでしょう。マンハッタン計画の総指揮に当たったグローブス大将、研究・開発の責任を負ったオッペンハイマー所長らの0ppiegrovesgroundzero 最初の仕事は、研究所の候補地、外界から隔絶して極秘裏に研究を進められる所を探すことでした。研究者のために既設の住宅が十分にあること、土地収容が極秘裏に可能なこと、実験場を隔離できるほど敷地が広大かつ無人であること、機密を保持する上で出入り規制が容易であることなどの条件から、資産家の子弟を対象とした寄宿制の牧場体験学校があったこの地に白羽の矢が立ったのです。オッペンハイマー所長の別荘がたまたまこの地にあり、周辺を熟知していたことも大きく影響しました。

全米各地からフェルミ、ボーアなど著名な核物理学者達を結集。彼らには偽名が与えられ、外界との接触は途絶。ロスアラモスという地名は隠され、”P.O.Box 1663, Santa Fe, New Mexico”が宛名であり、身分証明書の住所表記でもありました。04783lastreet3

原爆開発に伴う多くの技術的諸課題を、戦時中の物資調達難や時間的制約と戦いながらも克服し、1945年7月16日早朝、日本が降伏する約1ヶ月前に世界初の核実験に成功します。しかし、オッペンハイマーは、想像を絶するその威力を目の当たりにして、Oppenheimer「私は、『死』、世界の破壊者となってしまった。」と後悔。以後、水爆開発に反対したことから、「赤狩り」の際に粛正の憂き目にあいます。

ところで、広島、長崎への原爆投下は不可避だったのでしょうか。これまで同博物館の展示は、本土決戦に伴い日米双方に多数の犠牲者を出さないために必要だったと、投下を正当化する論調でした。しかし、現在では、悲惨な原爆犠牲者の写真と共に、「日本は早晩、全面降伏する運命にあり、原爆投下は必要なかった。」とのグローブス大将の議会証言も紹介され、変わったなとの印象でした。

(エッセイスト)

| | コメント (0)

シーラカンス余話

Comor42 前回(「インドネシアにて」参照)は、インドネシアで「生きている化石」シーラカンスの標本を見たお話しをしました。10年前にインドネシアで生け捕りされたものです

Wetenschap__coelacanth_2 発見のきっかけは、19979月にスラウェシ島を新婚旅行中だったポス・ドクの海洋生物学者Mark Erdmann氏夫妻が二人で青空市場を歩いている時に、木製の荷車に載せられて引かれて行く不思議な魚を奥さんのArnazが見かけたことでした。ご主人のMarkは、すぐにシーラカンスだと気付いて写真を撮りますが、それが学問的にも一大発見だったとは知らずに、その写真を自分たちのハネムーンのホームページに掲載します。これを見たシーラカンス専門家のE.K.Balon博士が写真を削除するように助言。確認のため再度標本を捕獲するように、またこれに必要な資金の要請を行うようにと勧めました。Coelac1

プレスには内密にすることを条件に、National Geographic Society Nature そしてSmithsonian Institution がこの計画に乗ります。Erdmann博士は、11月にスラウェシに戻り、地元の漁師たちに報奨金付きでシーラカンスの生け捕りを依頼。ついに1998730日の朝、約130mの深さに仕掛けた鮫の網に体長約120cm、体重約30kgの得物が掛かったのです。Coelcartba_2

漁師のOm Lameh SonathamErdmann博士のもとに生きたまま届けます。その後6時間ほど生存。その間に博士夫妻は、その色彩、ヒレの動きや全般的な行動状況を写真に記録しました。DNA分析用の試料採取がなされ、冷凍保存後、標本にするための固定作業を行い、長期保存と展示のためにチビノンの動物標本館に移されました。この発見に関するErdmann博士の論文が彼の指導教官及びインドネシア科学院の同僚との共著で、同年924日号の「ネイチャー」誌に掲載され、世界を驚かせたのです。Naturecover

シーラカンスは絶滅種の国際取引に関する条約上、絶滅のおそれのある種に指定されていますが、

スラウェシ島での発見以来、日本人の密輸ブローカーが暗躍。島民の年収の8倍近い高値で捕獲を持ちかけたりしたそうです。一方、漁師の無知や貧困につけ込むこうしたブローカーの動きに心を痛めたJICAの日本人専門家や地元のNGO活動家が保護・啓蒙運動に乗り出したりしました。

 シーラカンスは1938年に最初の個体が発見されて以来、200匹ほどがコモロ、マダガスカル、モザンビークなど主に南アフリカの西インド洋で捕獲されています。それまでは、40億年前頃の化石の記録に現れ、8千年前には絶滅したとされていたため、珍しい「生きている化石」としてその標本が世界中の博物館などで展示されています。

また、シーラカンスの保護・啓蒙のために捧げられたウェブサイトも多数ありますが、最も充実しているのがこのサイトで、シーラカンスの泳ぐ姿も楽しめます。一方、シーラカンスの発見そのものが進化論の誤りを物語っているとするサイト もあります。実に世の中色々です。

甲斐 晶(エッセイスト)

| | コメント (0)

インドネシアにて

  Idn 2000年の夏、フィリピン(「マニラにて」参照)、マレーシア(「クアラルンプールにて」参照)に次いで、インドネシアを訪れました。ここでも省エネルギーや公害防止などの技術の移転を通じて、環境問題の解決に資する支援策を検討するために、政策担当者との対話を行いました。

 ジャカルタ空港に到着して機体のドアが開くやいなや、乗客が我先にとパスポート・コントロールに走る姿に、まるで日本と同じメンタリティだなと思わされました。空港から車で市内へのハイウェーに入ると、暫く両側には水田が広がり、Ind_map実に東南アジアらしい風景です。しかし、市内に近づくにつれてあたかも建築デザインコンテストのように超モダンな高層ビルが林立。一見したところでは、とても援助が必要な国には見えません。

ところが現地駐在員によれば、貧富の差が激しく、また、政府関係者による汚職や私腹を肥やす体質には目に余るものがあって、その状況は当時のワヒド政権になっても余り変わっていないようです。

 Map_jakarta_bogor_2_2 用務が無事終わり、知人のアレンジでインドネシア科学院関係の施設をいくつか見学しましたが、ジャカルタの南、車で約1時間ばかりの所にある有名なボゴール植物園にも参りました。 1817年に当時の宗主国オランダ政府によって開設され、広大な敷地内にインドネシア各地からの植物が収集され、育成されています。800pxbotanischer_garten_in_bogorバイオテクノロジーの進歩に伴い、遺伝子資源の確保が叫ばれる昨今ですが、200年も前にこうした地道な努力を始めたオランダの先見性に敬服します。第二次大戦中には、529175236_0847c54064日本の管理下になった時期もあり、木材調達のために園内の木々を伐採しようとする軍部に抵抗した日本人園長らの逸話が残っています。

  園内には、さほど綺麗な花は見あたりませんでしたが、とにかく大規模。ここにしかない貴重な植物種が多数集められおり、専門家にとっては垂涎の的とか。この植物園は、インドネシア語では「大きな庭園(Kubun Raya)」と呼ばれて地元の人々から親しまれ、週末ともなると大勢の家族連れや恋人同士で賑うそうです。園長(当時)は、東大小石川植物園に留学された日本語のとても達者な方で、日本の協力に大いに感謝されていました。

 ここには、動物標本館も付設されていたのですが、その老朽化が激しいため、生物多様性条約がらみの日尼協力の一環として、Chibinon2 チビノン地区に空調完備の立派な施設を新設して標本を移転する作業が行われています。珍しい蝶類、甲虫類の見事な標本を見せていただきましたが、ここで「生きている化石」シーラカンス(Coelacanth)の標本に出会うとは思っても見ませんでした。インドネシアのスラウェシ島近海で捕獲されたものです。それまで南アフリカ近くの西インド洋にしか生息していないと思われていたシーラカンス。それが1997年にインドネシアでも生きたまま発見されたのですが、その陰にはこんなエピソードがありますDay_15_pic_1

1997年9月、当時、加州バークレイ大で博士号を取ったばかりの海洋生物学者Mark Erdmann氏夫妻は、スラウェシ島を新婚旅行中でした。二人で青空市場を歩いている時に、奥さんが不思議な魚が木製の荷車に載せられて引かれて行くのを見かけ、ご主人の注意を引きます。彼は、すぐにそれがシーラカンスだと気付いて写真を撮り、漁師に現地産であることを確認したのですが、それが一大発見だとは分かりませんでした。Map_sulawesi

バークレイに戻って初めて、シーラカンスがマダガスカルの東では未発見で、まして1000kmも離れたインドネシアに生息している訳が無いと考えられていたことを知ります。 11月にスラウェシ島に戻った博士は、200人ほどの漁師の聞き取り調査をして、あの漁師の他にも3人からシーラカンスを捕まえたことがあるとの証言を得ます。地元では「海の王様(Raja Laut)」と呼ばれ、年に数尾捕まえられていました。Naturecover彼らに報奨金を約束して果報を待ちます。ついに1998730日の朝、スラウェシの北、モナド・トゥア島の近海で鮫の網に掛かったシーラカンスが生きたまま隣島の博士の家まで運ばれて来たのです。そのシーラカンスはその後数時間生きており、博士はその泳ぐ姿の撮影に成功しました。この発見が同年9月24日号の「ネイチャー」誌に報告され、世界を驚かせたのです

甲斐 晶(エッセイスト)

   

| | コメント (2)

クアラルンプールにて

  A0065687_15374443 2000年の夏、マニラに出張した後(「マニラにて」参照)、日を置かずにマレーシアの首都クアラルンプールを訪れました。省エネルギーや公害防止などの技術の移転を通じて、環境問題の解決に向けた支援方策を検討するために政策担当者との対話を行いました。

 Mylgflagクアラルンプールを訪れるのは私にとって初めての経験です。成田からの直行便で、暮れなずむクアラルンプールに到着。入国手続きは極めてスムーズで、「空港での第一印象によってその国と商売する気になるかどうかが決まる。」と語っていた商社マンの言葉を思い出しました。このあたり、荷物が出てくるまでに1時間以上も待たされた中央アジアの某国や、3時間以上も待たされた北西アジア某国の地方空港と大違いです。ちゃんとシステムが出来ており、維持されています。

 Lrg_10486867 Ec140ded テントをモチーフに丹下健三氏が設計したという空港内の案内板もマレー語、英語に並んで日本語で表示されています。日本などに学ぶ「ルック・イースト」を標榜しておられた、当時のマハティール首相の意気込みを痛感しました。空港から市内へのハイウエイも広い車線と淡い光の照明で好印象を与えます。途中、小高くなっていて市内が見下ろせる場所を通過しましたが、立ち並ぶ高層ビルの夜景が見事でした。

 20010608diii045808 市内は、イギリスによる統治時代を彷彿とさせる歴史的な建物と近代的な高層ビル群とが良くマッチした都市計画になっており、オレンジ色の屋根瓦の高層アパートなど、マレーシアの伝統的建物の特長を生かした建築物もあちこちに見られました。しかし、途中まで建てかけで放置された高層ホテルやモノレールの橋脚などが散見され、数年前のアジア経済危機の影響を感じさせられました。

 さて、折角、省エネルギーの政策対話に来たというのにビルの中の冷房がガンガン利いているのには閉口しました。部屋ごとのきめ細かな温度調節が不可能とのことで、真夏でもコートを羽織ったり冬服を着て執務するのが常とか。暑さにも拘わらず、冬支度の服装で通勤するのがステータスシンボルだそうで、冷房のガンガン利いた職場で働いていることを誇示しているのです。エネルギー資源の豊富な国ならではの現象でしょうか。

 Imga5f3acdenw2v1o 政策対話は、クアラルンプールから車で小一時間ほどの所にある新首都プトラジャヤの庁舎で行われました。各省の庁舎や各国大使館の建物、そして議事堂のほかモスクまで備えた新都市を建設中で、緑や草花が多く、まるで壮大な公園の中に来てしまったようです。ただ、長期滞在者の話では、こちらではどんなに新しいビルでもペンキがすぐ剥げてしまい、老朽化するとのこと。高温多湿で日差しが強いせいでしょう。

 新首都に向かう途中、突然のスコールに逢いました。我々の前を行くトラックの幌無しの荷台には、むき出しになったパンが山積みのまま。急な雨に戸惑ったのでしょうか、運転手は、雨宿りする風でもなくひたすら目的地に向けて運転を続行しています。びっしょり濡れてしまったあのパンを一体どうしたのだろうかと、余計な心配ながら気になりました。南の国のメンタリティーなのでしょうか。

 Sp1190765 物価は、日本の3分の1ほどでしょうか。食事も美味しく、マンゴーやドリアンなど果物も豊富。町並みも綺麗で、治安も悪くありません。近代的な設備が揃っており、便利なショッピングセンターがあちこちにあり、日本の商品も容易に入手できそうです。イスラム圏であることを割り引いても、日本人にとっては住み心地が良さそうです。

 ただし、びっくりしたのは、コンピュータ・ソフトや音楽CDの海賊版が多数売られていることでした。マレーシア政府職員の話では、日本からのお客さんに紹介して大いに喜ばれるのがそうした違法コピーを扱っている地区だそうで、どんなCDでも揃っているとか。その店に無くても、どこからか融通してくれ、感激するそうです。Dori1ko

  私の立場上、そうした怪しいところではなく、HMVに出向きました。イスラム圏なのにちゃんとコラールのCDがあり、格安の値段で入手でき大満足でした。

甲斐 晶(エッセイスト)

| | コメント (0)

エコノミークラス症候群

 Ana_logo 2000年前後から、我が国でも新聞などで「エコノミークラス症候群」のことが良く報道されました。これは、長時間、機内の狭い座席に座り続けた乗客が、機内や目的地に到着して飛行機から降りた直後に死亡するもので、成田ではそれまでの8年間に25名の利用客がこれで亡くなったとの分析結果が出されたりしています。Jal200011月に英国上院の科学技術特別委員会が英国政府や航空会社に対策を勧告したことから急に注目を集め始めたようで、全日空日航 もそのホームページで利用客注意喚起し、機内で適度の運動等の対応方策を紹介しています。A0055913_0145763

しかしながら、この「エコノミークラス症候群」は何も最近急に知られるようになったわけではなく、欧米では深部静脈血栓症として、既に1988年以前から医学雑誌などで指摘されていました。以前、私の勤めていたIAEA(国際原子力機関)でも、米国人の同僚トムが外国出張の途上、長時間の飛行の後に飛行機から降りたとたんに意識不明となり入院。幸いにも一命を取り止めたということがありました。

彼は、担当医からこの深部静脈血栓症の存在を知り、IAEA事務局に注意喚起の書簡を発出。その結果、出張などで6時間以上のフライトを利用する職員などに対して、199010月、以下のような注意書きが配布されました。3738361656

     長時間の飛行中、脱水や血中溶存ガスの減少によって、血液の粘性が増す。

     長時間座席に座ったままでいると、四肢、特に脚部や足部の血行が不良となる。血液の粘性が増せば増すほど、心臓の血液循環の働きは悪くなる。

     こうした状況下では、血管の塞栓が起こり得るが、これはその後、悪い影響を起こさずに溶解することもあるし、移動して心臓経由で肺に達し、肺血管の塞栓を起こすこともある。こうした血栓ができる確率は、長時間座ったまま、特に脚を組んだままにして血行を妨げると増大する。

     次のように簡単に行える予防法が有効である。まず、脱水を最小限にするために多量の水を飲むこと(注:アルコールは脱水作用があるので相応しくない)。また、可能ならば、通路側の座席に着席し、Sample011時間ごとに席を立って歩き回ること。座席に座ったままでの運動でもましであるが、歩いた方がずっと効果的である。座席を立つことが不可能な場合には、せめて脚を頻繁に動かしたり、深呼吸を頻繁に行うこと。こうすることで、血行が良くなり、血流のよどみが防げ、血栓の形成を防止できる。

要するに、長時間、狭い座席に拘束された結果脚部の血行が悪化してその静脈に血栓が出来、これが移動して肺に達すると、肺血管の塞栓が起こり、Embolus呼吸困難、そして意識喪失を起こし、ついには死亡に至るというものです。こうした深部静脈血栓症を起こしやすいのは、静脈瘤のある人、過去に脚部に血栓を起こしたり、脚部や骨盤を手術したり、脚部に怪我をしたりしたことのある人、妊婦や経口避妊薬を服用中の女性、肥り過ぎの人、大柄の人、高齢者、喫煙者などとされています。 

したがって、これを「エコノミークラス症候群」と呼ぶのは誤解を与えます。体質などによってはファーストクラスの乗客やパイロットでもその危険性があるのです。現に成田では、到着後コックピットで深部静脈血栓症のために倒れ、亡くなった米国人パイロットの例があります。また、航空機旅客以外にも発生する可能性があり(2004年新潟県中越地震の際に車中で長期間寝泊りした被災者に発生した例など)適切な表現とは言えないので、最近では、ちゃんと深部静脈血栓症と呼ぶようになっています。10030845770

さて、IAEA事務局に深部静脈血栓症の危険性を訴えた我が同僚トムについての後日譚です。彼は、血栓の出来やすい自分の体質を逆手に取って、2年に1度許されている自分の一時帰国の際に、飛行機の代わりに鉄道と船による米国への往復の旅を要求。論客で鳴らした彼のことです。ついには、豪華客船クイーン・エリザベスⅡ世号での復路を認めさせたのです。日本人だったらきっと、一時帰国そのものを諦めていたことでしょう。

甲斐 晶(エッセイスト)

                                 

| | コメント (0)

マニラにて

  Philippines2000年の夏、フィリピン、 マレーシア(「クアラルンプールにて」参照)、 インドネシア(「インドネシアにて」参照)の3ヶ国を相次いで訪れる機会がありました。省エネルギーや公害防止などの技術の移転を通じ、これらの国における環境問題の解決に資する支援策を検討するため、各国の政策担当者との対話を行って来ました。

 Idいずれの国もその首都を訪れるのはMalaysia_flag私にとって初めての経験です。各国は、アジア危機(1997年タイの通貨下落に端を発したアジア地域の金融危機)を見事に乗り切った国、そうでない国、元々経済状態が悪く危機の前後でさほど変化のない国(どれがどれかは、皆様のご想像にお任せします)と三者三様で、その実態を興味深く見聞出来ました。

 飛行機が最初の訪問国の首都マニラに近づくと、眼下に水田の広がる緑豊かな景色に、日本の原風景を見るような気がして、ああ、日本もこの東南アジアの国の一員なんだなとの感を深めました。

 インターネットのフィリピンに関するサイトで、「空港では、制服を着た係官でも要注意。空港税を出せと言われて騙し取られた例がある。また、『社長、社長』と日本語で馴れ馴れしく話しかけてくるフィリピン人にはご用心。『○○さん』と自分の名前を呼ばれても無視のこと。」との忠告を読んで大いに身構えていただけに、出迎えの知人に会えてほっとしました。フィリッピン出張に出かけた社員のうち1人が空港からそのまま車で連れ去られ、死体で発見されたなんて話は、枚挙にいとまがありません。

 Manila2 空港からホテルまでの車窓からの景色は、人々や車が道に溢れ、実に東南アジアらしい活気を見せていました。ただ、道端に放置されて積み上がった塵芥に、誰も片づけないのだろうかとの素朴な疑問が湧きます。マニラ生活が長い駐在員に聞くと、彼らはあまりゴミを気にしない由。着任早々、「マニラ湾の美しい夕陽」を眺めるとの謳い文句に誘われてクルーズに参加したところ、湾に浮かぶゴミと悪臭に閉口。とても優雅に夕陽を眺める風情ではなかったそうです。マニラの海岸は、雨が降ればすぐ水浸しになるものの、水が引けば道端のゴミも一緒に海に洗い流してくれると達観していて、ゴミなど片づける人はいないそうです。

 Pict48781 ところで、フィリッピンがスペインから独立するのに精神的指導者の役割を果たしたのが、国民的英雄として慕われている詩人ホセ・リサールです。彼は、その夢を果たす前に捕らえられて処刑されてしまいますが、その拘留されていた牢屋跡が記念館になっており、彼を忍ぶ遺品などが展示されています。処刑前に親族に渡した辞世の詩が英語、中国語、日本語などに訳されていますが、その祖国を思う熱情が読む人の心を打ちます。ちなみに、彼は、日本に滞在していたことがあり、その記念碑が日比谷公園内にあるのですが、Pict51371 残念ながらそれに気づく人は少ないようです

 会議の合間に、旧知のシアソン外相と連絡を取ったところ、わざわざ私の滞在しているホテルに来られて朝食をご馳走して下さいました。20年ほど前に彼がIAEA(国際原子力機関)事務局長のポストを争って破れ、その後UNIDO(国連工業開発機構)の事務局長に就任した頃からのお付き合いです。Unido 彼は、日本(教育大)に留学したことがあり、奥様が日本人であることから、流暢な日本語を操ります。日本駐在大使の後、ラモス政権下で外務大臣となり、エストラーダ政権でも同大統領の同級生であったことから、外相に留任。大変気さくな人柄でユーモアに富んだ会話を楽しみました。私の会議の相手がイスラム教徒であることを良く知っおられ、私が、「イスラム教徒は、4人まで奥さんを持てるそうですね。」と水を向けると、「いや、4人しかいなければイスラム教徒だけれど、5人以上いたら、それはカトリックなんだ。」との答え。当時、いずれ国連事務総長やフィリピンの大統領になるのではと目されている人物ならではの機知だなと思わされました(現在、再び駐日フィリピン大使)。10

 彼によれば、日本人が老後をフィリピンで優雅に暮らせるよう、病院付きの養老施設をセブ島に計画中とのこと。頭金300万円を支払えば、日本語を話す職員がきめ細やかにお世話してくれるそうです。皆さん、いかがですか。

甲斐 晶(エッセイスト)

| | コメント (0)

« 2008年7月 | トップページ | 2008年9月 »