ロスアラモス研究所
2001年の春、米国ニューメキシコ州ロスアラモスにあるDOE傘下の国立研究所を訪れました。マンハッタン計画によって極秘裏に原爆の開発が行われたところです。核不拡散に携わる者にとって、ここは、広島、長崎と並んで一度は訪問する必要のある、
あらゆる事物の原点とも言うべき地です。
私がここを初めて訪れたのは、その丁度20年前のことで、NDA(非破壊分析)の訓練コースに参加するためでした。その後も何度か訪れていましたが、今回初めて(たまたま昔懐かしい建物で会議が行われたためなのですが)、廊下に飾ってある集合写真の中に20年前の若かりし我が姿を発見。タイムスリップした気持ちがしました。
副所長から研究所の概況説明を受けましたが、時代の流れなのでしょう。冷戦の終結に伴って、これまでの核兵器開発やその備蓄に係わる研究活動から、解体核の検証、安全保障、環境保全、情報科学などの分野に焦点が移っているようです。前年には、中国系研究者による機密漏洩事件が起こったり、山火事のため研究所の建物やデータが焼失する事態が危惧されたりと、研究所の内と外の両方から危機が迫ったと回顧しておられました。
2000年5月の山火事では、住民約1万9千人が避難。約160平方㎞が焼失し、350以上の家族が家を失い、損害額は10億ドルにも及んだとのこと。一年経っても、被災地の多くは空襲に遭ったかのように黒い焼け跡となり、空き地のままでした。
さて、ロスアラモス研究所への訪問者は、研究所の歴史、原爆開発の足跡を展示した博物館に案内されるのが常です。20年前には研究所構内のこぢんまりとした瀟洒な木造建築だったのが、今や研究所とは別の所に立派な建物として生まれ変わっていました。
広島型ウラン爆弾(ビッグボーイ)、長崎型プルトニウム爆弾(ファットマン)の模型や原爆開発に至った歴史的背景などの展示は、後で触れる1点を除いて余り変わっていませんでしたが、電子計算機の開発の歴史や環境保全に係わる展示などが加わっていたのは、研究所の活動内用が変化してきている表れでしょう。
ロスアラモス研究所を訪ねたことのある人なら、険しい峡谷に突き出た狭いメサ台地の上に周囲から隔絶して立地する研究所の姿に、良くもまあこうした軍事研究に格好の場所を探し当てたものと感心することでしょう。マンハッタン計画の総指揮に当たったグローブス大将、研究・開発の責任を負ったオッペンハイマー所長らの
最初の仕事は、研究所の候補地、外界から隔絶して極秘裏に研究を進められる所を探すことでした。研究者のために既設の住宅が十分にあること、土地収容が極秘裏に可能なこと、実験場を隔離できるほど敷地が広大かつ無人であること、機密を保持する上で出入り規制が容易であることなどの条件から、資産家の子弟を対象とした寄宿制の牧場体験学校があったこの地に白羽の矢が立ったのです。オッペンハイマー所長の別荘がたまたまこの地にあり、周辺を熟知していたことも大きく影響しました。
全米各地からフェルミ、ボーアなど著名な核物理学者達を結集。彼らには偽名が与えられ、外界との接触は途絶。ロスアラモスという地名は隠され、”P.O.Box 1663, Santa Fe, New Mexico”が宛名であり、身分証明書の住所表記でもありました。
原爆開発に伴う多くの技術的諸課題を、戦時中の物資調達難や時間的制約と戦いながらも克服し、1945年7月16日早朝、日本が降伏する約1ヶ月前に世界初の核実験に成功します。しかし、オッペンハイマーは、想像を絶するその威力を目の当たりにして、「私は、『死』、世界の破壊者となってしまった。」と後悔。以後、水爆開発に反対したことから、「赤狩り」の際に粛正の憂き目にあいます。
ところで、広島、長崎への原爆投下は不可避だったのでしょうか。これまで同博物館の展示は、本土決戦に伴い日米双方に多数の犠牲者を出さないために必要だったと、投下を正当化する論調でした。しかし、現在では、悲惨な原爆犠牲者の写真と共に、「日本は早晩、全面降伏する運命にあり、原爆投下は必要なかった。」とのグローブス大将の議会証言も紹介され、変わったなとの印象でした。
(エッセイスト)
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