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2008年7月

ちょっと良い話

 F176 パラオ共和国(「ナカムラ大統領」参照)に引き続いて、ミクロネシア連邦を訪れました。第1次大戦まではドイツ領でしたが、1914年戦争勃発とともに日本がこれを無血占領。1920年に国際連盟より委任統治領として認められ、第2次大戦終了まで南洋群島として統治していました。本家の日本がとっくに失ってしまった良い習慣、伝統が今でもちゃんと残っています。

 これは、(社)日本・南太平洋経済交流協会の機関誌に浜田信三郎氏が紹介しておられた話です。120593073428916328477 ミクロネシアは、ヤップ、激戦地だったトラック(現在のチューク)、首都のあるポナペ(現在のポンペイ)、そしてコスラエの4州からなる連邦国家ですが、浜田氏はこのコスラエ島をしばしば訪れては、大いに「癒され」てきたそうです。

 そんな氏に、あるお婆さんが自分の孫、16才のM君のことで相談します。父の事業の倒産、両親の離婚と行き場を失った彼は、登校拒否とあてのないぶらぶらの毎日。このままでは悪の道に進んでしまうと思った浜田氏は、気軽な気持ちで「南の島に放り込んでみたら?」とお婆さんに提案してみたものの、果たして異なる環境の南の島に馴染めるものかと心配になり、では試しにとM君を連れていくことになりました。

 空港でM君に初めて引き合わされた浜田氏はシマッタと思います。長髪、茶髪、鼻と耳にピアス、首にはクサリがじゃらじゃら、だぶだぶズボンで、そっぽを向いているだけで挨拶もなし。お互いに意志の疎通はなく、道中も、コスラエでも無言のまま。止めれば良かったと後悔したそうです。K1

 ところが、しばらくしてM君がコスラエに永住したいと言ってきます。半分困ったと思いながらも現地の人に相談し、ホームステイ先を確保。コスラエでM君の1人ぼっちの生活が始まりました。

 しかし、案ずるより生むが易し。半年ぶりにコスラエを訪れた浜田氏を「荷物をお持ちします」とニコニコ顔で出迎えたM君の変貌ぶりに氏は吃驚仰天。その後も周囲に打ち解け、学校に行きたいとまで言い出すほどで、日系のイセザキ家にホームステイ先を変え、現地の高校1年生からやり直し。毎日バイクで通学し、帰宅すれば家事や畑の手伝い、野球や釣りをしたりとすっかり島の若者になって健康な生活を送るようになったのです。

 実は、初めてイセザキ家にM君を連れていったとき、現当主のキリオンさんは、「日本人ダッタラ、シャントシロ!」と現在の日本では全く聞かれなくなった言葉を発するなり、壁に手をつかせ、長い茶髪をチョン切ったそうです。礼節を重んずる誇り高い日本人像が今でも生きているのです。

 4narashino2 話は変わり、2000年初め習志野市で、第1次大戦中に青島で捕虜になったドイツ兵約千人を収容していた「習志野捕虜収容所」の特別展が開かれました。彼らが収容所の中でモーツアルトやシューベルトの演奏会を開き、スポーツに興じ、日本人にハムやソーセージの作り方などを伝授した様子が紹介されました。これを見た人が、「第2次大戦でポナペに駐屯中のこと、『自分は習志野で捕虜だった』と語る現地人がいた。」という話をしたことから、その軍人と子孫探しが始まります。

 その結果、かの軍人は、ポナペにいたドイツ人Helgenberger氏と現地人女性Berminaとの間に生まれたWilhelmで、第1次大戦に水兵として応召し、乗っていた軍艦が青島沖で撃沈。海上を漂っているところを日本軍に助けられ、習志野に捕虜として収容され、第1次大戦の終結とともにポナペに戻ったのです。時が移り、今やその子孫は、70余名。お孫さんの一人のNancy Salomon女史は、唯一の女性州議会議員で、我々一行と州議会議員との会見では、ミクロネシアの将来を担う青少年の教育・訓練と女性の地位向上の重要性を熱く語っておられました。日本に対する期待がここでも大きいのです。米国との自由連合に基づく盟約金の支給も間もなく終わります。延長交渉中とはいえ、この国の経済発展の舵取りはいよいよ正念場です。

 空港を立つとき、見ず知らずの女の子が私の頭に花の冠を被せてくれました。いつも笑顔の絶えない島の人々を見ていると、物質的な豊かさには代えることの出来ない、心の豊かさを感じました。

甲斐 晶(エッセイスト)

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ナカムラ大統領

 2000年の夏、パラオ共和国とミクロネシア連邦(「ちょっと良い話」参照)を訪れました。いずれの国も終戦直後まで日本の委任統治が25年以上続き、良き時代であったことから、我が国に対して特別に好感を抱いています。Palauflag

  パラオは、古くからダイバーのパラダイスとして知られ、美しい珊瑚礁に囲まれた、紺碧の海が魅力の1つです。空港のある本島(バベルダオブ島)から、首都のコロール島までの道すがら、ゴミ1つ落ちていない清潔さが印象に残りました。ナカムラ大統領にお目に掛かった際に、このことに触れると、それは、日本の古き良き伝統が残っているからだとのこと。道路清掃の要員ばかりでなく、子供達が毎朝、自分の家の回りの清掃をそれぞれの役目として行う習慣が残っているのです。

 11_13_1 日系三世のナカムラ大統領に依れば、島民の4分の1近くが日系であり、現在でも、日本と緊密な関係にあるそうです。日常生活でも多くの日本語の単語が借用されており、丁度、大統領選挙運動中(3選禁止条項により、同大統領は不出馬)でしたが、センキョ、コウホシャ、ダイトウリョウなどの用語は日本語がそのまま使われているそうです。各候補者の看板にも日系の名字が散見されましたし、ある候補者の場合、その氏名がローマ字だけでなくカタカナでも標記されていました。70歳以上の古老は、今でも流暢な日本語を操る一方、カタカナしか読み書きできないそうで、カタカナでの投票も認めらているのです。

 経済的にも日本との結びつきは強く、輸入品の半分、自動車の場合には中古車を含め実にその9割が日本からのものとか。車体に○○教習所と漢字で書かれたままの中古車が走っていました。

 Map_2 1994年に米国との自由連合国として独立したばかりの若い国だけに、大統領の国造りにかける意欲は大きいものがあります。米国から15年間に亘って毎年供与される盟約金を有効に利用して、本島の周回道路の建設、首都移転、自由貿易区の創設、軽工業を中心とした産業の振興、養殖漁業の育成など、従来の観光だけに頼った経済からの脱却を目指しており、日本からの協力に対する熱い思いを述べておられました。

 人口約1万7千人のうち約5千人がフィリッピン人という偏った人口構成ですが、これは、働くパラオ人の殆どが公務員であって、他に見るべき産業がないことから、若者は賃金の高いサイパンやグアムに渡ってしまい、単純労働はいきおい外国人労働者に頼らざるを得ない産業構造にあるからなのです。大統領が目指している観光以外の産業の育成が急務である所以です。

 パラオは、この地域の国としては珍しく台湾との国交を199912月に樹立していますが、大統領に依れば、これは地理的な近さとこれまでの経済関係の密接さを考慮した結果とのこと。これから台湾との関係も緊密になると思われます。

 しかし、外国人の進出に伴い、思わしくない状況も出現しているようで、たまたま車窓から看板を見かけた中華料理店、美容院、映画館について、どんな店かを現地の大使館員に尋ねてみたところ、いずれについても口ごもるばかり。どうも看板に偽りのある怪しげなお店のようでした。R03031504

 大統領は、我々一行を島内1、2と評判の店にお招き下さいました。パラオでその養殖に力を入れているシャコ貝や特産のナポレオンフィッシュに伊勢エビなどの刺身、それにヤムやタロイモのフライとパラオならではのおもてなしでしたが、中でも圧巻は、特注のスープでした。

 10031551164 大統領が大型のスープ・ボウルの中に浮かぶ黒い物体をおもむろにお箸でつまんでいます。遠目には、昆布か何か海草が折り畳んであるのをほどいているように見えたのですが、広げてみると何とそれは、黒い大型の蝙蝠、フルーツ・バットの翼でした。果物ばかりを餌にしている清潔な蝙蝠だというのですが、一瞬、皆ひるみました。自分は、メキシコでネズミの丸焼きを食べたという一人の団員のコメントに励まされて、スープを飲んでみましたが、これが意外と美味。皆さんも機会があればお試しあれ。ただし、大統領のお言葉に依れば、パラオのバイアグラなのだそうです。

甲斐 晶(エッセイスト)

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ヒゲ談義

 ヒゲを生やすのは、どうも男性だけの特権のようで(女性でも立派な口ひげがある方がいますが)、180pxkyosuke_kindaichi_blownup男なら誰でも一度は生やしてみたいと思うものです。しかし、比較的に体毛の薄い日本人の場合、結局は見栄えがせず、断念することが多いようです。万葉集の歌に、「しかとあらぬひげかき撫でて」という表現が見受けられますから、古来よりあまり事情は変わらないようです。

 アイヌ語研究者で有名な金田一京助博士がまだ若い頃、アイヌ人の部落に出かけて子供達にスケッチの絵や自分の体の一部を示して、それをアイヌ語で何というのかを尋ね、アイヌ語の語彙を収集した時のこと。Nobunaga自分では、顎のヒゲを指して訊いたつもりなのに、教えられたのは顎を意味する言葉だったそうです。それが後で分かったのですが、アイヌの男達の立派なヒゲに比べれば、博士のは無いにも等しく、無理もなかったようです。

  120pxabraham_lincoln_head_on_should大和言葉では、ヒゲは「ひげ」の一語しかありませんが、漢字では、髭(くちひげ)、鬚(あごひげ)、髯(ほおひげ)と区別していますし、英語やドイツ語でもそれぞれ別の言葉が存在しており、このあたり彼我の文化の相違を感じさせます。G_aus003

  ヒゲを生やすことが宗教上の意味を持つことがあります。イスラム教では、ヒゲを生やさなければアラーの前に一人前ではありませんし、ユダヤ教にもナジル人と言って、一生剃刀を顔や頭に当てないことを00001a誓って神への帰依を示すグループがあります。旧約聖書に出てくるサムソンもその一人で、怪力でペリシテ人を悩ましましたが、その秘訣は剃刀を使わなかったために伸びた長い髪にありました。しかし、それを愛人デリラに打ち明け、その裏切りによって髪と怪力を失うのです。

  さて、最近、仕事柄イスラム圏の国々とのお付き合いが多いことから、私もヒゲを生やしてみました。アメリカ留学時代以来25年ぶりのことです。きっかけは、たまたまある週末に無精をしてひげを剃り忘れていたところ、翌週から長期海外出張に出かけ、A5b2dd92最後(2週間後)にエジプトを訪れることに気づき、遊び心でヒゲを伸ばしてみました。

  当初は、口の回りをそのまま伸ばしていたのですが、それではまるで「おやつは、カール」のおじさんみたいだとの、一部の家族の反対意見が強くて断念。そこである産油国の元首、シェイクJ閣下の顔写真を入手し、こEmir2れを洗面台の鏡の横に置き、毎朝これを手本にヒゲの手入れに専念したお陰で、多少は見られる格好になってきました。

 実際にヒゲを伸ばしてみて、ヒゲには功罪両面があることが分かりました。まずは功。やはり他人に与えるインパクトが強いことで、帽子に黒いサングラスでもしてドライブに出ようものなら、大概のことでは、先方のドライバーが折れてくれます。多分暴力団関係者と誤解されているのでしょう。また、初対面の人であっても当方の印象が強力に先方に残ります。また、ヒゲ面は少数派ですから、お互い同士、仲間意識が生まれ、特にイスラム圏の方々から連帯感を持って近づかれます。お陰で、某イスラム圏の国の大使(やはりおヒゲ顔)に、ご自宅のパーティに招かれたこともありました。

 次に罪の方ですが、まずは、毎日の手入れを怠れ無いことです。また、当方がヒゲを生やしたことを知らないでいる友人・知人に久しぶりに逢った場合に、なかなか認識して貰えない悩みがあります。更には、ヒゲのために、生命に関わる危険が生ずる場合もあるのです。Smurfs_panini_stickers_sticker_129_

 ある時のこと、シュノーケルをしようと目と鼻をすっぽり覆う海中マスクを着用したことがあります。泳ぎ回っている色とりどりの魚を見ようとマスクを海水中に漬けたとたんに、マスクの中に海水が入り込み、いやと言うほど鼻から海水を吸い込んでしまいました。幸いに溺れずに済みましたが、口の回りのヒゲがマスクと顔面の密着を妨げていたのです。

 同様のことが、放射線防護のために緊急時に着用する防護マスクについても言えます。原子力施設の放射線作業者にとって、万一の場合を考えると、ヒゲを生やすのは御法度なのです。

甲斐 晶(エッセイスト)

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