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中央アジア

 31171542 井上靖がその著作「西域物語」の序章で述べているように、古代中国の西側に広がる未知の世界、今日の中央アジア一帯を指して使われた「西域」という言葉には、未知、夢、謎、冒険といった要素が含まれています。シルクロードにゆかりのある中央アジアの地域は、日本人にとって悠久のロマンを秘めた地域のようです。

 しかしながら、旧ソ連時代に、異民族の分布状況に余り頓着せずに国境線が人為的に引かれた結果、ソ連邦の崩壊に伴って独立を達成した中央アジア5カ国はいずれも、1999年夏のキルギスでの人質事件の際に明らかになったように、大なり小なり複雑な民族問題を抱えることになりました。

 200506181 誰が言い出したのか、中央アジア5カ国の国名は、タレント「加藤タキ」さんの名前の1文字ずつと関連づけると覚えやすく、西から東に順に、「ザフスタン」、「ルクメニスタン」、「ズベキスタン」、「ジキスタン」、そして「ルギス」(この国だけは、正式名称に国を意味する「スタン」が付きません)です。いずれも独立後、統制経済からの脱却を目指していますが、その経済改革の歩みは必ずしも順調ではありません。2000年2月、これらのうちのウズベキスタンとトルクメニスタンに出掛ける機会を得ました。M2520098a20vpbuf1

 中央アジアの国へは、ヨーロッパ経由かトルコ経由の空路が一般的ですが、ウズベキスタンの場合、ソウル経由も可能です。これは、この地にスターリン時代に強制疎開させられた朝鮮民族が多く住んでおり、韓国資本の進出が著しいためでしょう。成田を発ち、ソウルでウズベキスタン航空に乗り換え、一路タシケントへ。空から往時のシルクロードに思いを寄せながらの旅となりました。

 Lrg_10175728 機は北京をかすめて飛び、間もなく眼下に大きく蛇行する黄河が氷結している光景が広がります。やがて山岳地帯に入り、峨々たる山々が人間の挑戦を退けてそびえ立っています。険しい山並みが終わると、今度は、果てしなく続く砂の原。一旦迷い込んだら方向を失い、無事には出られそうにもありません。砂漠の次は、一面の雪の原。そこを一条の道がどこまでも続いているのが見えます。

 Museum15 前漢時代に西域に遣わされ、汗血馬の知識をもたらした張騫。唐の時代に天竺に仏典を求めて旅した三蔵法師。元の時代にシルクロードを往来し、西洋に東洋の事物を紹介したマルコポーロなど。古代より、こうした道無き道を通り、山々の難、砂原の難、盗賊の難を乗り越えて東西交流を続けてきた人間の営みの凄さ。感慨深いものがあります。

 タシケントでは外国投資の拡大や産業の振興を図るためのセミナーに参加しました。ウズベキスタン政府は、ソ連時代に強制させられていた綿花生産などを中心としたモノカルチャー経済からの脱却を目指して、投資環境の整備、産業振興策の実施を行って来ており、西側諸国の知識や経験に学びつつ、漸進的に経済改革を進めているのです。

 しかしながら、政府関係者などと議論をしてみると、彼らは依然として旧ソ連邦当時の意識、すなわち政府が計画を立案し、これを国民に指示し、これに国民が服従するという図式から抜け切れていません。中小企業振興方策の具体案が先方から示されたのですが、民間の自発的な活動に期待し、これを助成する発想ではなく、一切を政府が決める官主導のトップダウン方式でした。これには、私の高校の級友、K教授も激怒。彼には、ウズベキスタンに惚れ込んで現地に渡り、3年間、政府経済研究所で教鞭を執り、市場経済の何たるかを教えてきたのにとの思いがあったのでしょう。

 20080120151746 タシケントには、戦後、極東から数百名の日本人抑留兵が移送され、有名なナボイ劇場の建設に従事。銘板にそのことが記されています。堂々とした劇場で民族の誇り的存在です。1966年にこの地を襲った大地震で殆どの建物が壊滅した中で、日本兵の建てたこの劇場は無傷で残ったのです。「日本兵は、毎日整然と隊列を組んで作業に向かっていた。」と語る現地の人の姿に、これからの国造りに対する日本への熱い期待を感じました。

 さて、ここで紙数が尽きました。トルクメニスタンについては、また別の機会と致しましょう。

甲斐 晶(エッセイスト)

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