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2008年6月

続・中央アジア

  Uz1 2000年2月、ウズベキスタンでの業務を終え(「中央アジア」参照)、早朝、トルクメニスタンの首都アシガバードへの便に乗るためにタシケント空港に向かいました。チェックインを済ませてラウンジで待ち、いざ搭乗という段になって、アシガバード便は目的地の空港が濃霧のため遅れるとのアナウンス。それから延々と数時間空港に留め置かれたのですが、その間詳細な情報は一切なし。このあたりの事情は、共産圏時代と余り変わっていないなとの印象でした。

 Tu5アシガバード空港に着いてみると、濃霧など嘘のような晴天。予定時刻よりも大幅な遅延だったにも拘わらず、通訳兼ガイド役の青年がずっと待っていてくれました。VIP通関のお陰で、余り手間取らずに入国手続きが完了。同じVIP通関で1時間以上も掛かったウズベキスタンとの差を感じます。Faq08ab02

 空港からホテルまで、道路の両側には綺麗な飾り付けがなされ、あちこちに巨大な大統領の肖像や「人民、祖国、トルクメンの首領(Halk,Watan,Turkmenbasy)」のスローガンが見られます。聞けば、明日19日は大統領の60歳の誕生日で、祝日「国旗の日」とのこと。そのせいでこれほど沢山の肖像やスローガンが掲げられているのかと思いきや、いつもこんな状態とか。政府の建物やホテルの外壁には大統領の巨大な肖像画が必ず掲げられ、香水やヨーグルトの容器まで彼の肖像入り。個人崇拝の強さを感じました。「Turkmenbasy(トルクメンの首領)」とは、ニヤゾフ大統領のための称号で、ソ連邦から独立後、重要な建造物や工場にはことごとくこの名称が冠されているほか、トルクメンバシと改名した都市まであるほどです。

 彼は、トルクメニスタンが旧ソ連邦の一員であったときの共産党第一書記で、ソ連邦の崩壊前、1990年の直接選挙で大統領に当選。独立後の1992年に大統領(支持率99.5%)に再選。新憲法では大統領の任期は5年、2期なのですが、1994年の国民投票で99.9%の驚異的な支持率で2002年まで任期を延長。更に1999年暮れには、終身大統領となることが一院制の国会で満場一致で議決されました。170

  トルクメニスタンは、国土の大部分をカラクム砂漠に覆われてはいるものの、天然ガスの埋蔵量が世界第4位と資源に恵まれています。しかし、旧ソ連時代にカラクム運河などの大規模な水利・灌漑事業、石油・天然ガス開発、パイプライン建設が進められ、ソ連邦への天然ガス・石油供給と綿花栽培に特化した経済構造を強いられました。

 20061225115058 1991年の独立以来、ニヤゾフ大統領は行政の非ロシア化を進め、トルクメン語を公用語に採用。ロシアとの関係は重視しながらも、同民族トルコとの連携を強化するとともに、イランやアフガニスタンなどに隣接している地政学的な配慮から、「積極的中立」政策を標榜し、1995年に、国連で「永世中立国」としての地位が認められました。

 前述したようなゆがんだ経済構造のため、他の旧ソ連邦諸国のように急速な経済自由化は進め得ず、漸進的な経済改革に取り組んでいます。恵まれた石油・ガス資源にも拘わらず、輸出先であるウクライナなどCIS諸国の代金未払いのため、生活必需品の太宗を輸入に頼らざるを得ない経済は大きな打撃を受けています。旧ソ連邦以外の国へのパイプラインの敷設が急務なのです。Faq08ab将来的には、シルクロードを経て中国・極東へのパイプラインの構想もあって、我が国の支援に対する期待が大きいのです。しかし、外国投資を増やすには、投資環境の整備が喫緊の課題ですし、企業家の養成、統制経済の抜本的改革が不可欠でしょう。

 政府要人との会談を通じ、若き指導者達の国造りに挑む熱い意気込みを感じ取るとともに、短時間の内に英語をマスターし、市場経済の本質を把握した彼らの有能さに敬服もしました。

  トルクメニスタン外務省の某局長のお誘いで、日本とトルコの企業が資本参加した繊維工場の開所式に参加する機会を得ました。子供達まで動員され、寒空の中を震えながら大統領の到着を待っています。ようやく大統領が到着すると、民族の踊りや歌の披露とともに、子供達が口々に大統領を称えている光景を目にして、どこかの国のTV映像を見ているようで複雑な思いがしました。Photo

追記:ニヤゾフ大統領は、20061221日に「心停止」のため、急逝し、後にグルンバングルイ・ベルディムハメドフ大統領代行が第2代大統領に就任しました

甲斐 晶(エッセイスト)

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中央アジア

 31171542 井上靖がその著作「西域物語」の序章で述べているように、古代中国の西側に広がる未知の世界、今日の中央アジア一帯を指して使われた「西域」という言葉には、未知、夢、謎、冒険といった要素が含まれています。シルクロードにゆかりのある中央アジアの地域は、日本人にとって悠久のロマンを秘めた地域のようです。

 しかしながら、旧ソ連時代に、異民族の分布状況に余り頓着せずに国境線が人為的に引かれた結果、ソ連邦の崩壊に伴って独立を達成した中央アジア5カ国はいずれも、1999年夏のキルギスでの人質事件の際に明らかになったように、大なり小なり複雑な民族問題を抱えることになりました。

 200506181 誰が言い出したのか、中央アジア5カ国の国名は、タレント「加藤タキ」さんの名前の1文字ずつと関連づけると覚えやすく、西から東に順に、「ザフスタン」、「ルクメニスタン」、「ズベキスタン」、「ジキスタン」、そして「ルギス」(この国だけは、正式名称に国を意味する「スタン」が付きません)です。いずれも独立後、統制経済からの脱却を目指していますが、その経済改革の歩みは必ずしも順調ではありません。2000年2月、これらのうちのウズベキスタンとトルクメニスタンに出掛ける機会を得ました。M2520098a20vpbuf1

 中央アジアの国へは、ヨーロッパ経由かトルコ経由の空路が一般的ですが、ウズベキスタンの場合、ソウル経由も可能です。これは、この地にスターリン時代に強制疎開させられた朝鮮民族が多く住んでおり、韓国資本の進出が著しいためでしょう。成田を発ち、ソウルでウズベキスタン航空に乗り換え、一路タシケントへ。空から往時のシルクロードに思いを寄せながらの旅となりました。

 Lrg_10175728 機は北京をかすめて飛び、間もなく眼下に大きく蛇行する黄河が氷結している光景が広がります。やがて山岳地帯に入り、峨々たる山々が人間の挑戦を退けてそびえ立っています。険しい山並みが終わると、今度は、果てしなく続く砂の原。一旦迷い込んだら方向を失い、無事には出られそうにもありません。砂漠の次は、一面の雪の原。そこを一条の道がどこまでも続いているのが見えます。

 Museum15 前漢時代に西域に遣わされ、汗血馬の知識をもたらした張騫。唐の時代に天竺に仏典を求めて旅した三蔵法師。元の時代にシルクロードを往来し、西洋に東洋の事物を紹介したマルコポーロなど。古代より、こうした道無き道を通り、山々の難、砂原の難、盗賊の難を乗り越えて東西交流を続けてきた人間の営みの凄さ。感慨深いものがあります。

 タシケントでは外国投資の拡大や産業の振興を図るためのセミナーに参加しました。ウズベキスタン政府は、ソ連時代に強制させられていた綿花生産などを中心としたモノカルチャー経済からの脱却を目指して、投資環境の整備、産業振興策の実施を行って来ており、西側諸国の知識や経験に学びつつ、漸進的に経済改革を進めているのです。

 しかしながら、政府関係者などと議論をしてみると、彼らは依然として旧ソ連邦当時の意識、すなわち政府が計画を立案し、これを国民に指示し、これに国民が服従するという図式から抜け切れていません。中小企業振興方策の具体案が先方から示されたのですが、民間の自発的な活動に期待し、これを助成する発想ではなく、一切を政府が決める官主導のトップダウン方式でした。これには、私の高校の級友、K教授も激怒。彼には、ウズベキスタンに惚れ込んで現地に渡り、3年間、政府経済研究所で教鞭を執り、市場経済の何たるかを教えてきたのにとの思いがあったのでしょう。

 20080120151746 タシケントには、戦後、極東から数百名の日本人抑留兵が移送され、有名なナボイ劇場の建設に従事。銘板にそのことが記されています。堂々とした劇場で民族の誇り的存在です。1966年にこの地を襲った大地震で殆どの建物が壊滅した中で、日本兵の建てたこの劇場は無傷で残ったのです。「日本兵は、毎日整然と隊列を組んで作業に向かっていた。」と語る現地の人の姿に、これからの国造りに対する日本への熱い期待を感じました。

 さて、ここで紙数が尽きました。トルクメニスタンについては、また別の機会と致しましょう。

甲斐 晶(エッセイスト)

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旅の健康法

 かつて、私の担当している国々の大部分が治安が悪いか衛生状態が悪い地域なので、これらの国に出かけるときには、黄熱病の予防接種をしたり、マラリヤ原虫を媒介する蚊避け対策のための蚊取り線香を持参するなど大いに気を遣わされました。

 Dscn9049 お腹をこわすこともあり得るので、生水に気をつけるのは勿論のこと、野菜サラダや氷入りのジュースも不衛生な水を使っているおそれがあるので避けるのが賢明。しかし、どんなに注意を払っていても、そんな地域に1週間もいれば、お腹の調子が悪くなることがあります。発熱は無いので、これは病原菌のせいではなく、腸内バクテリアのバランスが崩れるためのようです。(ちなみに、エスキモーが日本で暫く生活しても、下痢をするそうです。日本が不衛生な訳ではなく、腸内バクテリアのバランスが崩れるためなのです。)O157

 ただし、旅先で下痢をしても、下痢止めは飲まないようにしています。我が国でのO-157騒動の際、下痢止めを飲んだために、毒素が体外に排出されず、命を落とした例があったからです。

 また、旅先には、なるべく普段から使い慣れた常備薬を持参するようにしています。というのは、日本のような総合感冒薬は市販されていませんし、下手に薬を貰うと、体格の相違から効き過ぎる危険があるからです。ある通訳の方ですが、頭痛がひどくて旅先で鎮痛剤を貰ったところ、服用量が多すぎ、眠気と戦うのにひと苦労。まるで仕事にならなかったとの逸話を披露してくれました。

 そうでなくても海外の旅先では、健康を害しがちです。時差がある上、枕や寝床が変わって寝付けず寝不足がちという方もいらっしゃるでしょう。

また、どうしても欧米への往復や、旅先での移動が夜間にかかってしまい、3b90880bホテルに泊まれずに機中泊を余儀なくされると言うことも間々あります。どうも機内サービスというのは、乗客を極力寝かせないよう工夫されているようです(乗客が寝てしまうとスチュワーデス ひとりだけが目を覚ましているのはきついからでしょうか)。いきおい、十分な睡眠がとれません。機中では、食事が終われば、映画など見ずに眠るに限ります。

 また、旅先では、おもてなしを受ける機会も多く、カロリーオーバーの食事になりがち。加えて、色々な制約から、ともすれば運動不足に陥ります。こうした不摂生に陥りやすい環境を克服して、旅先でも健康を保つ工夫を、国際的に活躍するビジネスマン達はあれこれ試みています。

 Img1 最もポピュラーなのは、ジョギングやウォーキングでしょう。国際会議の会場として泊まったフランスのシャトーホテルでは、難易度別に幾つかのコースが用意されていました。また、ロンドンで泊まった高級ホテルでは、ハイドパークを利用したジョギングのルート図が、部屋に備え付けられていました。お客がジョギングから戻ってくるとドアマンがタオルとミネラル・ウォーターのボトルをサービスしてくれるホテルもあるようです。

 しかし、治安の悪い都市の場合には、ジョギングは身の危険を伴うので要注意です。私の知人で、ケニアのナイロビでジョギング中にホールドアップに遭った日本人がいます。ランニングとパンツ姿で、大したお金は所持しておらず、実害は少なかったのですが、驚いたことに、ホテルに戻ろうと角を曲がったとたんのこと。別の賊からまたホールドアップを受けたそうです。最初の被害の時に、ホールドアップ済みのステッカーでも貼っておいて欲しかったとは、彼の弁です。Chaland9_m78pkaraful

 プールやサウナ、ジム付きのホテルも増えているので、海水パンツをスーツケースに忍ばせておくと大いに役立ちます。ある時、フランクフルトに早朝着き、乗り換えまで10時間もありましたが、空港で荷物を預け、サウナ付きの公営プールに出かけ、大いにリフレッシュしました。

 道具が無くても、部屋で寝る前に腕立て伏せや、腹筋運動ぐらいは出来ますし、ヨガや太極拳の心得があればフィットネスには、最高でしょう。2007070100 縄跳びも、道具は余りかさばらず、運動不足解消に大いに役立ちます。貴方も次の外国出張には、スーツケースの片隅に忍ばせて見ては如何でしょう。

甲斐 晶(エッセイスト)

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アムシュテッテン事件

  Map 本年4月末、ウィーンの西約130kmに位置する人口約2万3千人の小都市アムシュテッテンで実におぞましい事件が明らかになりました。73才になる男ヨーゼフ・フリッツルがなんと実の娘(現在42才)を24年間も「地下牢」に監禁し、性的暴行を繰り返して7人の子どもを生ませ、そのうち3人を自分の養子とし、他の3人を娘と一緒に地下に閉じこめ、生後間もなく死んだ嬰児1人の遺体は自宅で焼却していたのです。この他、男には妻との間にこの娘を含めて7人の子どもがあり、この妻は、この間、夫の二重生活に全く気が付かなかったと言うのです。Gd7072994thispolicehandoutp8633

事件が発覚した切っ掛けは、父娘の間に生まれ、地下に実母と一緒に監禁されていた19才の長女が腎臓疾患で意識不明の重体となり、救急車で病院に運び込まれたことによります。男は当初この長女を自分の孫と称していましたが、治療のため長女の病歴が必要となり、医者から実母を呼ぶように求められ、男は止む無く娘を病院に出向かせ、その証言によってこの信じ難い犯罪事件の全貌が明らかになったのです。DNA検査の結果、長女の証言通り、これらの子ども達の父親がこの男だと判明したのです。

電気工のフリッツルは、娘が11才の頃から度々性的虐待に及びます。娘はこれを嫌って17才の時に家出をしますが、Basementすぐに警察によって発見され、自宅に連れ戻されます。そして、1984年、娘が18才の夏、男によって1年以上も前から周到に準備して作られていた地下牢に閉じこめられてしまうのです。

地下牢は当初、1部屋35m2だったものが1991年に3室60 m2に拡大。窓が無くて陽は入らず、防音上の高い機密性のために酸欠状態で息苦しくなると言います。狭い通路で互いに結ばれた高さ約1.7mの3部屋(トイレ兼浴室、台所及び4床の寝室)への入り口の扉は鉄とコンクリートで補強され、重さは300kgBasementfritzl フリッツルの地下作業場の収納棚の奥に隠され、彼だけが暗証番号を知っている電子錠が掛けられていました。この作業室へは、地下にある5つの部屋を通らなければなりませんが、その全てに鍵が掛けられ、また、地下牢の入り口の扉を開けて、更に監禁されていた娘とその3人の子ども達の部屋に行くには、暗証番号が必要な電子錠の掛かった扉がありました。そして、男は娘たちに、この扉をいじれば電気ショックで死ぬとか、逃亡を試みたり不測の事態となったりすれば、地下室を毒ガスで充満させると言って脅していたのです。

その後の調べで男には1967年にリンツでの婦女暴行等の性犯罪歴があり、禁錮18ヶ月の判決を受けていたことが判明しました。

この猟奇的事件を巡っていくつかの疑問が湧きます。なぜ家人や隣人が24年間も気が付かなかったのか。地下牢で生まれた子どものうち3人を男の養子とする際に何の疑念も生じなかったのか。なぜ、男の性犯罪の前科に当局が気が付かなかったのか。

娘が地下に監禁されて直ぐに妻が捜索願を警察に出しますが、男は娘に手紙を書かせ、「自分は、家族との生活にうんざりしている。カルト集団に入ったので探してくれるな。」と、家出歴のある娘の「意志」を信じ込ませるのに成功したのです。養子とされた3人の子ども達はいずれも生後間もなく自宅の玄関先に捨て置かれ、「他に世話をする子供がいて育てられない。」との娘の書き置きがあったことから、当局に詮索されずに養子手続きが進められたようです。もしもこの時に警察が男の性犯罪歴を把握していたらもっと早く事件が明るみに出たことでしょうが、オーストリアでは性犯罪等殺人罪以外の裁判記録は15年経つと抹消されてしまうのです。10061288085

オーストリアでは、10才の少女が登校途上ウィーンで誘拐され8年間も地下に監禁されていた事件が2006年8月にありました。オーストリア政府は、こうした異常事件の続発に、オーストリアのイメージアップを図るべく腐心しているようです。また、再発防止のため、性犯罪記録をより長期間保存したり、性犯罪者により厳罰を求める声が上がっています。0_51nak4pdqal__ss500_

しかし、こうした監禁事件は必ずしもオーストリア特有ではなく、我が国でも新潟で同様の事件があったことは記憶に新しいところです。現代社会に共通の病理の1つだとは言えないでしょうか?

甲斐 晶(エッセイスト)

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ベルンハルト作戦

 3_seen 今から45年前の19631031日に、オーストリア、シュタイヤマルク州にある長さ約2km幅約400mトプリッツ湖の湖底でミュンヘン出身の19才のスキューバ・ダイバー、アルフレド・エグナーの遺体が発見されました。彼は、その3週間前、仲間と3人で湖底に沈む「ナチスの埋蔵金」探しにやってきて、目的を果たせぬまま命を落としたのです。

 Map トプリッツ湖は、フランツ・ヨーセフ皇帝と皇妃エリザーベートがこよなく愛した温泉保養地、バード・イシュルからほど遠くありません。しかし、標高718mの僻地にあって車では直接行けません。まず隣接するグルンドル湖まで行き、さらにそのはずれから徒歩で20分も進まなければなりません。しかも大変危険な湖で、10mも潜れば日光がほとんど届かなくなり、30m以深では凍てつく水温になります。水深103mの湖底の水は酸欠状態のため、植物や魚類と言った生命体は全く見られません。加えて、湖底は倒木で厚く覆われている(十数mに及ぶ部分もある)ことから、ナチスが「埋蔵金」を隠すには理想的な場所と考えられたのです。Teplitzsee_mit_wasserfalle

実際に1945年のある早朝、当時21才だった農家の娘、イーダ・ワイゼンバッハーさんは、ナチスの将校から荷馬車を供出するように命じられます。沢山の重い箱を積み込んだ荷車を運んでトプリッツ湖まで3往復させられました。任務が終わって兵士達がボートから湖水にこれらの箱を放り込むのを彼女は目撃しましたが、これらの箱に一体どんなものが入っているので湖底に沈めなければならないのだろうかと、彼女はいぶかしく思ったそうです。イーダさんが目撃した箱には、果たしてナチスの金塊が一杯詰まっていたのでしょうか。

その最初の答えは、1959年にドイツの写真雑誌社、シュテルンがトプリッツ湖の調査のためにダイバーを派遣した時に得られました。彼らが発見したのは、金塊などではなく、英国ポンドの偽札、機密文書及び印刷機などが入った9つの木箱でした。Banknotes

後で、分かったのは、これら湖底からの発見物こそ、第二次大戦中にナチスが秘密裏に行っていた「ベルンハルト作戦」の名残だったのです。

ナチスは、敵国である英・米の経済に打撃を与えるために、ポンド及びドル札の偽造作戦を構想しました。当初、偽札を空からばら撒けば、拾って届け出るのはほんの僅かで、ほとんどの人がそのまま使い、経済が大混乱に陥るだろうとの目論見でした。しかしながら、当初の計画は関係者間の内紛や充分な数の飛行機が得られなかったことなどから、頓挫。1942年に紙幣偽造作戦は、ナチス親衛隊(SS)少佐ベルンハルト・クリューガーの指揮下に移され、その名を冠して「ベルンハルト作戦」と呼ばれました。

最終的には、ベルリン郊外のザクセンハウゼン収容所に集められた様々なユダヤ人技術者約140名を使って、5、102050ポンド札の偽札作りに成功。余りに精巧な出来映えに、英国銀行は5ポンド以上の高額面のお札の発行を止めてしまったほどです。結局、印刷された偽ポンド札は約900万枚総額1億3400ポンド(現在価値で、推定6千億円以上)に上り、スパイへの報酬、秘密工作、武器調達などの資金に用いられたのです。

Conterfeuters 偽札作りに加わった囚人の一人がスロバキア系ユダヤ人印刷工、アドルフ・ブルガー氏です。その手記(邦訳:『ヒトラーの贋金 悪魔の工房』(朝日新聞社、2008年))やローレンス・マルキン氏の史実本(邦訳:『ヒトラー・マネー』(講談社、2008年))をもとにベルンハルト作戦を描いたオーストリア映画 ”The Counterfeiters”(邦題「ヒトラーの贋金」)が、今年のアカデミー賞外国映画部門で最優秀賞を受けました。映画は、ナチスの贋金作りに積極的に協力する主人公ソロヴィッチと妻をアウシュビッツで失いナチスへの協力に良心の呵責を感じて抵抗し始めるブルガーとの葛藤を見事に描いています。

Bruger ところで、その後2000年に米国CBSテレビが先端海洋探査技術を駆使してトプリッツ湖の徹底調査を行った結果、更に多くの偽ポンド札が回収されました。調査に立ち会い、55年も経って自分の作った偽札を再び目にしたブルガー氏はとても感慨深げだったとか。現在、90才となった彼は、反ナチスの語り部として各地において熱心に活動しています。

甲斐 晶(エッセイスト)

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投票年齢

1191004595 今年2月、鳩山法務大臣が法制審議会に対して、成人年齢を18歳に引き下げるのか、それとも20歳のままにするのかについて諮問しました。

きっかけは、昨年5月に成立した憲法改正の手続きを定める国民投票法において投票年齢が18歳以上とされたことによります。同法の付則では、成人年齢について2010年の施行時までに、公職選挙法、民法その他の法令の検討を加え、「必要な法制上の措置を講ずる」と規定されています。これを受けて、政府は年齢条項の見直しに関する検討委員会を設置し、昨年11月に計191本の関連法を関係省庁が検討する方針を決めたところです。

Asahi何歳になれば社会的に一人前と見なせるのかは、大いに意見の分かれるところであり、そう簡単に結論を得ることはできそうにはありません。今回の諮問が一定の方向性を示さずに、異例の白紙で行われたことからも、審議の困難さが窺えます。法務省としては、法制審議会での検討と併行して世論調査などで広く国民の意見を聴くことも検討しているようです。

 新聞論調でも意見が分かれています。読売が世界主要国の動向から、積極的に成人年齢を18歳に引き下げるよう論陣を張っているのに対し、 朝日、日経は、成人年齢の変更は影響が大きいとして、慎重審議を主張しています。Nikkei

読売新聞によると、米英独仏などの欧米諸国を始め、ロシア、中国などの主要国も成年年齢は18歳以上であって、これが世界の大勢であり、国際標準でもあるとし、投票年齢を成年年齢とほぼ連動させて18歳以上とする国が約160か国にも及ぶと指摘しています。そして、国民投票法が投票年齢を「満18年以上」としていることに沿って関連法の整備を求めていることや、世界の大勢を見れば、成年年齢も投票年齢に合わせるのが、基本だろうとしています。

Yomiuri_2 このように、我が国では投票年齢を広く18歳とすることが大きな波紋を呼んでいるわけですが、実は、オーストリアでは投票年齢は既に十数年にわたって18歳とされていましたが、さらにこれが昨年7月、16歳に引き下げられたのです。すなわち、オーストリア政府は昨年5月2日、選挙権を18歳から16歳に引き下げる法案を閣議決定。その後国会の承認を経、昨年7月1日に施行されました。(オーストリアの投票年齢は、1949年に21歳から20歳に、1992年に20歳から19歳に引き下げられて来た経緯があります。At

これまでも、オーストリア及びドイツなどではすでに一部の地方選挙で16歳での投票が認められていましたが、全国レベルで16歳まで選挙権を拡大するのはEUでは初めてで、年齢引き下げを求める議論がある英国などにも影響を与えそうです。 この結果、早速、本年中に地方選挙で適用され、また、国政選挙では2010年に予定される総選挙から適用される見通しとなりました。この引き下げで現在は約610万人の有権者数が約20万人増えることになるそうです。

 なお、今回のオーストリアの法改正によって、被選挙権についても、大統領選(35歳)の場合を除いて、議員は現行の19歳から18歳に引き下げられ、国民議会(下院)議員の任期も4年から5年に延長されるとともに、在外居住者の郵便投票も導入されることになりました。Br

 欧米を始め主要国では選挙権が得られる年齢は18歳が主流で、 ブラジル、キューバ、Cuニカラグアなどが16歳となっています。このほか、投票年齢は、北朝鮮、スーダン、セイシェルが17歳となっているのに対し、台湾、ナウル、チュニジアが20歳、マレーシア、モルジブ、サモア、シンガポール、ソロモン諸島、トンガなどが21歳、Uz そしてウズベキスタンがなんと25歳となっています。

選挙権年齢や成年年齢の18歳への引き下げには、社会的に未熟だとして、疑問視する声があります。明治時代に民法で成人年齢を20歳としたのは、平均寿命や精神的成熟度からだとされます。寿命が大いに延び、パラサイト世代の出現で30歳になっても自立せずに親がかりの傾向にあります。何歳から一人前かを決めるのは至難の業です。

甲斐 晶(エッセイスト)

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所変われば

 外国に出かけて仕事をしたり、日本で外国の人々とビジネスをする上で、その国の日常の挨拶の言葉を身に着けたり、風俗習慣の違いをわきまえることが大いに役立つことがあります。「おはよう。」とか「こんにちわ。」とかいったちょっとした挨拶を片言ででも相手の国の言葉で言えると、雰囲気が和んでその後の会話も進みます。また、逆に風俗習慣の違いを知らなかったために、些細なことでお互いに気まずくなって、まとまる商談もまとまらなくなることがあるからです。Fin

 かくして、「おはよう。」とか「乾杯。」とかいった簡単なフレーズを英語、仏語、ドイツ語、イタリア語、ロシア語、スペイン語、中国語などの言葉では勿論のこと、滅多に使うことはないのですが、フィンランド語やハンガリー語でも覚えたりしていて、これが結構役立っています。Hunまた、「目は口ほどに物を言い。」の諺どおり、状況によってはボディ・ランゲージやエチケットの心得が大いに役立つことがありますし、風俗習慣の相違を心得ておくことで無用な戸惑いを避けることもできます。

 インドに出かけた時のことです。行く先々のオフィスでお茶やコーヒーを出されるのですが(ちなみに、給仕をしてくれるのは、不思議なことに日本と違って必ず男性です)、そんな場合に必ず、砂糖を入れるのか、ミルクを入れるのか当方の好みを聞かれます。自分の好みを伝えると、彼らは、判で押したように8の字を描いて頭を振るのです。こちらとしては、相手が腑に落ちない、承伏できない、よく分からないとのサインを送っているように思え、もう一度好みを伝えますが、何度やっても結果は同じ。頭を横に振られます。実は、これがインドでは、かしこまりましたの合図なのです。よく見ると、インドに駐在して日が長い我が同僚も、相手から質問されると、しきりに頭を8の字に振っています。ああ、しっかりインド人をやっているなあと思わされることしきりでした。Ind

 これまたインドでの出来事ですが、政府高官主催の晩餐会に招かれたことがあります。着席のはずなのに、1時間経っても、2時間経っても狭いロビーで立ち放しで、出されるのは、オードブルと飲み物ばかり。あれぇ、招待状を読み間違えたのかな。結局、今晩はカクテルだけか。それでは、おつまみだけでお腹を満たすことにするかと方針転換する段になって、漸く別室への扉が開き、宴席に招き入れられました。ビュッフェ式でしたので招待客は、銘々、一斉に食事を取り始め、そそくさと退散。これがインド式なのだそうです。

 時間がルーズなのは、インドばかりではありません。南太平洋の国々では、7時に宴会を始めようとしたら、案内状には「6時開宴」としておく必要があるそうです。しかも、立食の場合、お客は、飲み物がある限り、予定時刻が過ぎても何時間でも居続けるので、予定時刻になったらもう飲み物を出さないのがコツの由。いやはや、所変われば何とやらです。

 こんな風俗習慣の相違に対するビジネス上の心得について、タイムズ紙がコラムで取り上げたことがあります。ヨーロッパで英国人が仕事をする上でのエチケットとして、フランス人に一杯誘われたら決して断るな、ドイツ人とは必ず握手をせよ、Ude フィンランド人の前では腕組みをするな(横柄な態度に写るため)と助言しています。さらに、タイで靴の裏を他人に向ければ相手に対する侮辱と受け取られ、中国で物を指差したり、誰かに触ったりするのは不作法であると指摘しています。 会合を設定するのにも、相手の国の習慣に合わせよとして、イタリア人は昼食を取りながら商談するのを好み、エジプト人は個人の家での会合を好むとか、アラブ人との会合には、余裕を見る必要があり、2時間も遅れて現れるのは全く許容の範囲であるとの例を挙げています。

 英国には、ビジネスマンを対象にして、こうした各国の風俗習慣の違いについて教えるコースがあるようです。そこにおいて、日本に関してどんな内容の紹介がされているのか、大いに興味がそそられるところです。

甲斐 晶(エッセイスト)

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