3シュトラウス
♪ 1999年は、ウイーンにゆかりのある音楽家である3人のシュトラウス、すなわちヨハン・シュトラウス親子とリヒャルト・シュトラウスにとって特別の年でした。奇しくもヨハン・シュトラウスⅠ世、ヨハン・シュトラウスⅡ世、そしてリヒャルト・シュトラウスの没後それぞれ150周年、100周年、50周年にあたっていたのです。そこで、彼らに関して知っても余り得にならない話ばかりですが、「読むクスリ」風に集めてみました。
♪ リヒャルト・シュトラウスは、ミュンヘン生まれのドイツ人で、共にウィーンで生まれ育ったヨハン・シュトラウス親子とは全く血がつながっておりません。ナチスの時代に、ユダヤ人だった自分の脚本家ツバイク(「影のない女」を脚本)を弁護して弾圧を受けますが、その後、妥協。これが元で、ナチスへの協力者との汚名を着せられました。オーストリアとの関係では、有名なザルツブルグ音楽祭の創設者の一人でもありますし、ウィーン国立歌劇場の共同監督も務めました。
♪ ヨハン・シュトラウス親子は、共に艶福家としても知られました。ヨハン・シュトラウスⅠ世は、奥さん以外の女性との間に7人の子供をもうけ、その1人からうつされた猩紅熱がもとで死にました。一方、ヨハン・シュトラウスⅡ世は、3度も結婚。60歳で30余り年下のアデレと一緒になり、彼女と結婚するためにプロテスタントに改宗、ドイツの市民権も得ました。その頃から、年を隠すために髪の毛と髭を黒く染め始めたそうです。
お互いに作風の違う友人、ヨーゼフ・ランナーとともにウィンナー・ワルツを創りあげましたが、その作品の中で最も良く知られているのはワルツではなく、行進曲です。ウィンフィルのニューイヤー・コンサートで必ずアンコール曲のトリを務め、聴衆が指揮棒に合わせて手拍子を取るのが恒例となっているあのラデツキー行進曲です。
♪ 「ワルツ王」ヨハン・シュトラウスⅡ世は、「美しき青きドナウ」を始め有名なワルツを多数生みだし、宮廷舞踏会音楽監督の肩書きを得ましたが、自らはワルツを踊れませんでした。
♪ 彼は、母親を捨てて女裁縫師の元に走った父とのそりが合わず、音楽家にはしないとの教育方針に反して密かにバイオリンを習っていました。(彼は、後年、バイオリンを弾きながら弓で指揮をとったことでも有名です。)彼が19歳で指揮者としてデビュー以来、2人は良きライバル。1848年3月の革命では、父親が体制派を支持したのに対し、息子の方は、蜂起した学生のために行進曲を作るほど。このためヨハン・シュトラウスⅡ世は要注意人物と見なされ、父と同じ「宮廷舞踏会音楽監督」の肩書きを何度も皇帝に求めますが拒否され、1863年になってようやく授与されました。
♪ 彼の「美しき青きドナウ」は、1867年のパリ万国博のテーマ・ソングにも採用され当時として史上最大のヒットとなりましたが、元々は男性合唱曲です。ウィーンの農民、家主、芸術家、政治家の運命を風刺したうえで、今の時をワルツを踊って楽しもうという内容の歌詞が付いていました。
♪ 彼はボストンの世界平和博覧会(1872年)に招かれ、この曲を10万人を収容する巨大なホールで演奏。総勢2万人の歌手と楽団員の呼吸を揃えるために副指揮者100名を配し、一段高いところから指揮して成功を収めました。彼のサインと巻き毛を求めて押し寄せる女性ファンの要求を満たすために、側近が黒い大型犬を購入。その毛を切って、彼の自毛と称して販売したほどの人気でした。
♪ ドイツ語で「シュトラウス」には、「ダチョウ」の意味もあります。「美しき青きドナウ」が作曲され、現在はヨハン・シュトラウスⅡ世記念館となっている彼の旧住居には、彼をダチョウの姿に描いた風刺画が陳列されています。
♪ 彼は晩年、「こうもり」や「ジプシー男爵」などのオペレッタで名声を不動のものとします。1899年5月22日に念願の宮廷歌劇場で初めて指揮。その12日後の6月3日にこの世を去りました。
甲斐 晶(エッセイスト)
(エッセイスト)
| 固定リンク
「音楽」カテゴリの記事
- 天上の響き、グラスハープ(2025.04.04)
- 小澤征爾さんを偲ぶ(2024.10.26)
- iPod nano (第6世代)(2022.10.23)
- カラスのチター(2010.01.10)
- マイ・フェア・レディ考(2009.09.19)
コメント