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2008年3月

ミッキー

 毎年、クリスマスの時期になると、勤め先や自宅に仕事上の知人や個人的な友人から沢山のカードが舞い込みます。そんな中、ある年の12月初めに職場宛にかわいいメルヘンチックなカードが送られてきたことがあります。差出人の住所はデンマーク。差出人の名前にも心当たりが全くありません。いぶかしく思いつつも帰宅して家内に見せると、しばらく思い巡らしてのち、「ああ、ミッキーじゃないの。」と言います。もう一度カードを良く読み返してみると、「鎌倉では、お助けいただき有り難う。」とあります。

 そうです。あれは、敬老の日に鎌倉に出かけたときのこと。私の職場が主催する国際会議への参加者の奥様方のための観光案内を家内に頼んでおり、その下見に一緒に出かけたのです。北鎌倉でJRを降り、歩いて建長寺に到着。山門をくぐったところで、白人の青年(と初めは見えた)に呼び止められ、カメラのシャッターを押してくれと頼まれたのがミッキーとの出会いでした。121

 私はそのまま別れるつもりだったのですが、家内が我々も今日は鎌倉見物なので一緒に付いて来るかと尋ねると、渡りに船。家内にとっては、ガイド役の予行演習となりました。彼は、デンマークの高校をその夏に卒業したばかり。大学に入る前にボランティアを1年間やることを計画し(入学資格の1つになる由)、広尾にある叔母さんの家に滞在中とか。現在、女子校で英語のアシスタントをしており、1ヶ月ほどして故国に帰ってから、スペインにいる父親(スペイン人)を訪ねに行く予定だと話していました。

 その前年にお母さんが来日。鎌倉を訪れ、0427_5 竹寺(報国寺)が大いに気に入ったとのこと。是非お前も行ってみるようにと勧められたとか。良く知らない所でしたが、外人に人気があるのならと一緒に出かけることになり、その道すがら彼の身の上話を聞く羽目になりました。彼がまだ小さいときに、お母さんは離婚し、その後再婚した相手とはじきに死別。現在は、別の男性と同棲中で、ミッキーには、お母さんの再婚相手との間に生まれた父違いの弟があり、みんなで一緒に暮らしていることなど、かなり立ち入た話までしてくれました。家庭の複雑さなど感じさせない素敵な美少年です。

 竹寺を尋ねた後、鶴ヶ丘八幡宮へ。B14kngw_hacimanguunoichou 丁度、秋の大礼祭の最中で、境内は沢山の人出でごった返しです。外人連れの役得で部外者オフリミットの区域まで侵入。祭礼の人たちに配布しているゴム底の白足袋が気に入り、譲って呉れるよう交渉を仲介させられました。超LLサイズの物が彼の足にぴったり。千円を支払って彼は大満足。その後散策した日本庭園では、萩が盛りで見事でした。

 お昼に入ったそば屋で彼はカツ丼を注文。これが大好物と至極ご満悦です。家内は、せがまれるままに作り方を伝授。丁度その時、店の前を時代行列が通過しました。鎌倉時代の衣装に彼は興味津々。しきりにシャッターを切っていました。

 Pkamakuradaibutu2 最後は、大仏へ。鎌倉駅で江ノ電に乗り込むと、我々が英語で喋っているのを聞いたからでしょう、今度はベトナム出身のアメリカ人が付いて来ても良いかと尋ね、我々一行に加わりました(まるでハーメルンの笛吹き男の童話のようです)。

 ところが長谷の大仏でミニチュアの大仏像を買う段になって、彼は手元不如意なことに気付き、必ず返すので何某か融通してくれないかと頼んできました。この後、彼は別行動で銭洗い弁天に行くことになっていたので、その費用も含めいくら必要なのかを尋ねると、1500円で良いとのこと。あげたつもりで、その額を彼に渡しました。

 翌日の午後、台風一過の後、彼は広尾から自転車に乗って短パンにリュック姿で、名刺を頼りに都心の私の職場に現れました。秘書は場違いな訪問者にびっくりしていましたが、私の方は、彼が予想に反してちゃんと約束を果たしに来て呉れたことが爽やかな驚きでした。その時、クリスマスカードを寄越すように頼んでいたのが冒頭の出来事になったと言うわけです。彼の見かけに寄らない律儀さに改めて感心するとともに、人は見かけで判断してはいけないことを痛感した次第です。

甲斐 晶(エッセイスト)

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Erzgebirge

 Qkristkindlemarkt 毎年クリスマスが近づくと、ウィーンの市庁舎の前の広場にクリスマスの市が設けられます。冬の寒さの厳しいこの時期のアトラクションとしてウィーン子には勿論、観光客にも大変な人気です。1ヶ月ほどの開催期間中に延べ300万人余りの来場者があり、50億円もの売り上げがあるそうです。

 140ほどの屋台の店では、クリスマス・ツリーの飾りやクリッペン(キリスト降誕場面の人形)、クリスマスならではのハーブ入りクッキー(レーブクーヘン)やフルーツケーキ、それにプレゼント用品などが売られています。お客は屋台を一つずつ覗いては、お目当ての品を探すのですが、さすがに外気は氷点下。クリスマス用品よりもむしろ、体を中から温めるために売られているハーブ入りのホットワイン(グリューヴァイン)やベークトポテト、焼き栗などの方が人気があります。

 Karte_erzgebirge クリスマスの飾りで子供たちが特に好きなのは、ドイツのErzgebirge地方で作られている素朴な木工細工の人形です。「鉱物山地」を意味しているErzgebirgeは、ドレスデンの南西、チェコとの国境沿いの山地地帯で、東西両独の統一前には旧東ドイツに所属。その名が示すように、古くから銀、錫、コバルトなどの鉱物資源を産出したものの、いずれもほどなく枯渇。最近では、1991年の旧東欧の崩壊まで、ワルシャワ条約機構諸国にウランを供給するため、ウラン鉱石を産出してきました。

 旧東欧、旧ソ連邦の崩壊後、西側の基準と比べて見ると、その保安や環境保全対策が劣悪であったことが判明。ウラン鉱山も閉山の憂き目に。ウィーンからドレスデンへ車で旅行した際にこの地方、その名も「錫ヶ森(Zinnwald)」というところを通りましたが、鉱害のせいでしょうか、あたり一面の荒涼とした山野の光景に唖然としました。

 鉱物資源の枯渇と軌を一にして次第にこの地方でクリスマス飾りの木工細工が家内工業的に発達。チャイコフスキーの組曲で有名なくるみ割り人形(Nußknacker/nutcracker)もその一つです。Nutcracker

 最近では、日本や中国製の安物も出回っていますが、Erzgebirge産の本物は、風格が違います。大量生産ではなく、全て手作り。頭部、胴体、手足など各部は天然木材から旋盤で削り出し、一体、一体、華やかな色調で手塗り。頭髪や眉毛はフェルトやプラスチックではなく、ちゃんとウサギの自然毛を使用。王様や兵隊、鉱夫、猟師などを型取っていて、それぞれ種類も豊富。集めだしたらきりがありません。米国ワシントン州には、病膏肓に入って3000種ものくるみ割り人形やくるみ割り器を集め、専門の博物館を開いているおばさんがいます

 Erzgebirgeの木工細工には、この他にもパイプ人形(Rauchermann/smoker)Graupner_607_lクリスマス・ピラミッド(Weihnachtspyramide/Christmas pyramid)などがあります。パイプ人形は、煙突掃除人、猟師、屋根張り職人、大工さん、養蜂人、釣り師、羊飼いなど様々の職業人を型取っていて、人形が持っている小道具も種々雑多。猟師の場合には、チロリアンハット姿で鉄砲を担ぎ、片手に猟犬の手綱、もう一方の手には獲物のうさぎが袋から可愛い顔を覗かせていると言った具合。見ていてとても楽しくなります。共通しているのは、どの人形も開いた口にパイプをくわえていること。おなかの部分に工夫があって、上体を引っ張ると内部が現れ、そこに点火した三角錐状のお香を置き、また上体をかぶせます。すると口の部分から煙がパイプの煙よろしく立ち上るという仕掛けです。

 Christmaspyramide1 ピラミッドは、キリスト降誕の馬小屋の場面を木彫り人形で再現したもの。上部にプロペラの付いた軸に直角に円盤が固定され、そこに羊飼いや東の博士たちの人形が載っています。底部に円周状に配した数本のろうそくに灯をともすと、炎の熱で上昇気流が生じ、プロペラが回転。これにつれて、人形たちが飼い葉桶のイエスを中心にゆっくり回り出すとても幻想的なもの。円盤が1つだけの単純なものから3つもあって、それこそピラミッド状の豪華なものまであります。実物をお知りになりたければ、南軽井沢にある絵本美術館の売店か、HP(http://christmas-pyramids.meingoerlitz.de/)

をご覧下さい。

                           甲斐 晶(エッセイスト)

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続・和製英語

 前回(和製英語)は、T社のRV車に装備されたスペアタイヤのカバーに書かれた意味不明の英文コピーを例にして、変な和製英語の宣伝文句や製品名が身の回りに多く見受けられることを指摘するとともに、そうした英文コピーなどを英語を母国語とする人にチェックして貰おうともしない日本人の英語感覚の不思議さについて触れました。Landcruiserprado

 また、T社との手紙のやりとりにおいて、①T社としては、明らかな誤りではないものの分かりにくい表現なので、改める方向で検討すること、②ただし、変更の時期や表現内容については、未定であり、③コピーの表現の趣旨については、当方に通報するほどのものではないとの極めて慇懃無礼な回答ぶりに接し、失望したことを紹介しました。

 さて、その後1年以上も経ったでしょうか。こうしたやりとりのあったことすらすっかり忘れてしまっていた頃、再び私の前を行くT社のRV車のスペアタイヤのカバーに書かれた英文コピーがすっかり変わっているのに気が付きました。今度のは、"Society should reflect on the earth's tender environment."と、前のに比べてずっと簡潔になりましたが、やはりどことなく変です。前と同じ国際会議に再び参加する機会があったので、前回と同様に英語を母国語とする参加者にこのコピーからどんなメッセージが得られるか、改善するとすればどういう表現にすべきかを尋ねて見ました。

 Ni_s063_f002_m004_2_l 今回は、N社のRV車に装備されたスペアタイヤのカバーに書かれた英文コピーも奇妙奇天烈でしたので、併せて同様の質問をして見ました。N社のは、こんな表現です。"Whenever and every-where we can meet our best friend---nature. Take a grip of steering."

 Rollins_fig09bbT社の修正版については、多分「やさしい」地球環境という趣旨で使ったと思われる"tender"という単語が不適切で、その意味でならば"gentle"という言葉を使用すべきと言うのが一致した意見でした。「社会は、地球環境が損なわれやすいものだということに留意すべき」とのこのコピーの趣旨を全員が理解していましたので、前のに比べると大きな進歩です。ただ、"tender""gentle"の間違いを指摘されたことを考えると、このコピーも英語を母国語とする人のチェックを受けなかったのでしょうか。残念です。

 一方、N社のコピーを見たとたん,誰もが吹き出していました。コピーの意味が分からないと言うのです。箸にも棒にも掛からない代物のようで、強いて言えば、「車でなら、行けないはずのところにでも行けるようになる」との意味だろうかとしていました。改善案として、"Everywhere we are surrounded by nature, which we should respect. Be responsible in your actions, keeping in mind their effect on the environment"を挙げている人もいました。

 いずれにしても肝要なのは、英語が母国語の人にチェックして貰う手間を厭ってはならないと言うことです。同じようなことは、オリジナルが英語のものを日本語に訳す場合にも言えます。あるテレビ番組で紹介していましたが、ロスアンジェルスにあるユニバーサル・スタジオのレストランの日本語メニューが傑作だったのです。

 まず、表紙がいきなり「日本人の」となっています。これは、"Japanese"(日本語)の訳のつもりなのでしょう。中を開けると、"Diet Sandwiches"が「国会サンドイッチ」、"French Flies"が「フランス人の稚魚」、"Chicken Salad"が「青二才のサラダ」、"Ham with Cheese"が「アマチュア無線家、そしてチーズ」といった具合。実に噴飯ものの誤訳のオンパレードなのです。いずれもその英単語には、確かにそういう日本語の意味もありますが、前後関係からなぜわざわざそんな訳を付けたのか不可解です。簡単な翻訳ソフトでも使ったのでしょうか。

  このメニューは、最終的にはちゃんと日本人に訳を見て貰ったというのですが、一体どんな日本人に見て貰ったのでしょうか。

甲斐 晶(エッセイスト)

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和製英語

 今に始まったことではありませんが、英語で表現すると何となく格好良いと思うのでしょうか、宣伝文句に英語が用いられたり、製品名に英語もどきの名称が使用されているのを良く見かけます。不思議なのは、どうも日本人のスタッフだけで決めているようで、多少ともネイティヴ・スピーカーのチェックを受けていればそんな表現にはならないと思われる変な英語が、まま見受けられます。

 一例を挙げると、PHSの宣伝が華やかな頃、あるメーカーが「愛Phs する人とP(ピー)してる。」とのコマーシャルをしきりに流していましたが、これを聞いた英語を母国語とする人々に対して不快感を与えたそうです。というのも、peeとは、小用を足すことで、pissの最初の文字に由来しているのです。(ちなみにCalpisも「英語人=英語を母国語とする人」には、奇異な命名なのです。)また、コーヒーに入れる粉末状のクリームの商品名、Creep490272000508102 、多分、Creamとの関連性と日本語の語感だけ決めたのでしょうが、この語に「 (人にうまく取り入るような)いやなやつ」という意味があることが分かっていたなら、きっとボツになっていたことでしょう。

 さて、10年ほど前のある日、車を運転中のこと、私の前をT社のRV車が走っておりました。ノロノロ運転であったこともあり、何気なく後部に装備されたスペアタイヤのカバーに視線が行きました。大きく車種名が書かれた下に何やら、英文が見えます。"A trip with nature is always a special environmental adventure."との表現でした。この英文は、何を言いたいのでしょうか。"a trip with nature"というのは、自然と一緒の旅、自然と一体となる旅という趣旨なのでしょうが、意味不明です。また、"a special environmental adventure"というのも分かるようでいて分からない表現です。

 10102017_199801 ある国際会議に出席したついでに「英語人」に率直な感想を聞いてみました。幸いにもこの会議には、英国人、米国人、カナダ人、オーストラリア人と英語を母国語とする人たちがおりましたが、異口同音に「何を言おうとしているのか分からない」とのコメントでした。

 20060710100535z カナダ人は、「きっと、『このコピーが読めたら近づき過ぎです』との警告では、・・・」などと冗談を言っていましたが、英国人は、"an unintelligible aphorism"(難解な警句)だと言っていましたし、オーストラリア人は、"Delphic"(曖昧)だとしていました。アメリカ人は、"I don't get anything from the message. Perhaps, something like a walk in the woods can be something special."(どういう趣旨なのか全く分からない。「森の中を散歩するのは、何か特別なこと」と言った程度のことか。)と断った上で、"Trip with nature"とは "Trip in natural surroundings"ということなのだろうか、また、"environmental adventure"とは"a new experience involving the environment"(環境との関わりを持つ新たな経験)と言う趣旨なのだろうかなどと首をかしげていました。

 この結果を紹介しながら、T社に問題を含んだ英語表現である旨を指摘する手紙を出すと、丁重な礼状が参り、「私どもとしては、明らかな誤りではないと思っておりますが、ご指摘のとおりわかりにくい表現でございますので、改める方向で検討いたしたいと存じます。」との回答でした。しかし、問題の本質は表現に誤りがあるかどうかではなく、それ以前の「意味不明」、「英語のようだが、趣旨不明な表現」と言うところにあるので、本来どういう趣旨でこのコピーを作成したのか、また、どのように改めるつもりなのかを再度照会しました。すると、「変更時期、表現内容については、現在のところ未定で」あり、「コピーの表現の趣旨については、(私に対して)ご案内するほどのものではない」との、極めて慇懃無礼な回答ぶりにがっかりしてしまいました。

 世界に冠たるT社でさえ、「英語人」にチェックして貰ったとは思えない意味不明の英文コピーを麗々しく掲げて平気なのですから、日本人の英語感覚には、いささか問題がありそうです。

                            甲斐 晶(エッセイスト)

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メリー・ウィドウ

 Vop_neu_nah 10年ほど前から、ウィーン国立オペラとフォルクス・オペラのプログラムに変化が現れています。これまでオペラ中心だった国立オペラでオペレッタが度々行われる一方、オペレッタ中心だったフォルクス・オペラでオペラの演目が多くなって来ています。

  これまでにも、ヨハン・シュトラウスのオペレッタ「こうもり」は、例外的に両方で行われて来ました。しかし、格式Img_1高い国立オペラで「こうもり」以外に初めて演じられたオペレッタであるのがフランツ・レハールの「メリー・ウィドウ」。私が見たのは、プレミア直後の1998年2月8日の公演でした。長く親しまれてきたフォルクス・オペラの演出とは違って、舞台を1920年代のパリに設定。全体にパステル・カラーの色調、ベル・エポック風の衣装と舞台装置で、とても優雅な雰囲気を醸し出していました。ただ、第3幕のマキシムの場面で、オッペンバッハの「天国と地獄」からカンカンを取り入れているのは、フォルクス・オペラと同じ演出でした。

 Qlehar3 「メリー・ウィドウ」は、オペレッタの白銀時代(ヨハン・シュトラウスⅡ時代を黄金時代と称するのに対してこう呼ばれます)を築いたレハールが19051230日にアン・デア・ウィーン劇場で初演。大成功を収め、その後、ベルリン、パリ、ロンドン、ニューヨークでも大好評を博しました。

 物語は、架空の国「ポンテヴェドロ」のパリ公使館のサロンで始まります。膨大な財産を相続した美貌の未亡人、ハンナ・グラバリがパリの男と結婚してしまうと祖国から資金が流出。国家財政が危機に直面するのを案じた公使、ミルコ・ツェータ男爵は、ドン・ファンでマキシムに入り浸りの館員、ダニロ・ダニロビッチに祖国のために彼女と結婚してくれるように頼みます。

 財産目当ての結婚など男がすたると豪語していたダニロですが、相手が昔の恋人ハンナと知って、彼女との再会を喜びます。2人の間の恋の鞘当てを縦糸に、公使夫人ヴァランシェンヌに言い寄るカミーユと公使夫人とのやりとりを横糸にして物語が展開。カミーユが「君を愛している」と書き込んだ彼女の扇が重要な役割を果たして、結局は全ての誤解が解け、ハッピーエンド。ハンナとダニロは、目出度く結婚し、公使と公使夫人も元の鞘に収まります。その間に、「メリー・ウィドウ・ワルツ」を始めとする親しみやすい名曲の数々や、バルカン半島の舞踊が織り込まれています。

 Img_6 実は、この「メリー・ウィドウ」がパリの国立オペラでも取り上げられました。私が見たのは、レハールの没100年目にあたる1998年の暮れ、バスティーユにおいてでした。パリを舞台に、パリジャンの自由奔放な恋愛ぶりを描いたオペレッタを、そのパリにおいて原語のドイツ語で上演する(フランス語の字幕付き)のですから、とても興味深く出かけました。全体にシンプルな舞台装置ながら、さすがにマキシムでのカンカンは、本場もの。実に賑やか、かつ、華やかでした。ウィーンのものなどとても足下に及ばない感じでした。

 Map ところで「ポンテヴェドロ」という国名は、当初の台本では、バルカン半島に実在の「モンテネグロ」(1992年旧ユーゴスラビア連邦の解体に伴い、セルビア・モンテネグロを形成していたが、2006年6月に独立となっていました。しかし、検閲の結果、外交上好ましくないからと、モンテネグロという国名を架空のポンテヴェドロに変更。地図上に「ポンテヴェドロ」を探して見ても無駄です。しかし、登場人物の名前と民族衣装ですぐモンテネグロだと分かるのです。例Merrywidowえば、ハンナの名字、グラバリは、当時、モンテネグロの国民会議に参加を許された上流階級の呼称ですし、ダニロは、皇太子の名前です。また、ツェータとは、14世紀にモンテネグロが侯国領であった時の侯国の名称なのです。

 さて、一世を風靡したメリー・ウィドウ。アメリカのその後のミュージカルに大きな影響を与えるとともに、無声映画時代を含めて4度も映画化されました。そればかりか、カクテル下着41sttkm15ll_ss500_サボテンやチューリップの品種の名前にもなっています。Yahoo やGoogle などで"Merry Widow" を検索すると関連サイトがすぐ出てきますので、ご覧になって見て下さい。

                            (エッセイスト)

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メダカの学校

 我が家の水槽で8ヶ月ほど飼い続けたアフリカツメガエルが死に、その後水槽はこのカエルの餌として買ってきた緋メダカの天下になったことについては既に書きましたアフリカ・ツメガエル後日談

 Adojyou1 メダカだけではいかにも寂しいので、アルビノのドジョウを1匹買ってきたことがあります。普段は水底に横たわっていますが、息継ぎのために時折ゆらゆらと水面に昇って来ては、また水底に戻る姿が何ともユーモラス。しかし、仲間がいなくてはと、夏の暑い盛りに魚屋で柳川用に売られていたドジョウを1匹貰って水槽に入れました。

 当初は、仲間が来て嬉しいのか、しきりに2匹が絡み合うように遊んでいましたが、そのうちにアルビノの方に白い斑点の病気が発生。これがメダカに蔓延し、ついにはドジョウにまで感染してしまい、結局は全滅してしまいました。野生のドジョウは、川底の泥の中に住んでいますから、汚れていて病原菌のキャリアーだったのでしょう。

 Beta 次に求めたのがベタ。タイ原産のとても気性の荒い魚で、オス同士を一緒に入れると喧嘩してしまい、ヒレがぼろぼろになるまで徹底的に戦うことから、タイでは闘魚用に飼育されるとか。狭い容器でも構わず、水の汚れにも強く、餌も余り与えなくて済むとの宣伝文句に、マリンブルーのものを1匹買ってきました。お店では狭い容器の中で余り餌も与えられずに飼われていたのでしょうか。当初、色も悪く元気もなかったのが見る見る回復。輝く虹色の長い胸ビレや尾ビレを羽衣のようにたなびかせながら泳ぐ様は実に優雅で、見ていて飽きませんでした。

 緋メダカともちゃんと共存していたのですが、半年ほどすると、丈夫だとの触れ込みにも拘わらず餌を食べる元気がなくなり、結局は逝ってしまいました。いい加減にしたらとの家人からの非難の声にもめげず、また別のベタを購入。しかし、やはり半年もすると死んでしまいます。性懲りもなくこれを都合3回繰り返しましたが、今は、もう諦めてメダカ一筋。と行きたいところですが、浮気心なのでしょう。02ryukin1 実は尾ヒレの長い丸ころした金魚(琉金)を1匹、緋メダカと同居させております。 これまでのわずかな経験ながら悟ったことは、水槽の中は、一つの閉じた生態系、いわば小宇宙を形成していることです。その構成要素の微妙なバランスの上に成り立っており、これが崩れると破滅に至ります。例えば、呼吸により生ずる二酸化炭素やメダカが餌を食べ、その排泄物や食べ残しの餌が水中のバクテリアによって分解されて最終的に生ずる硝酸()は水質を酸性にします。しかし、水中の植物プランクトンや水草は日中、蛍光灯照明の光に助けられて光合成する際に水中の二酸化炭素などを分解・消費し、程良いpHに調整します。しかし、むやみに水替えをするとこれが崩れるのです。また、折角バランスが取れた小宇宙に、浮気心を出してペットショップから別の魚を移入すると、意外な病原菌が持ち込まれエイリアンよろしく既存の秩序を破壊してしまうのです。

 Himedaka 緋メダカが産卵し、これが無事に孵って可愛い稚魚が沢山生まれるととても嬉しいもの。苦労が報われます。私などはずぼらな方ですから、折角の卵をエサとして食べてしまう親メダカから隔離するために水槽内に設けた飼育器に入れても、すぐに忘れてしまい、2週間ほどしてから孵っているのにやっと気が付く程度です。しかし、世の中には研究熱心な人がいて、HPにデジタルカメラによる孵化までの日毎の観察記録を紹介しています

また、メダカ愛好家の会を紹介しているサイトもありますし、旧江ノ島水族館が指導した「メダカの飼い方」のダイジェスト版は、メダカの飼育環境、餌、病気の予防と治療法、繁殖など、およそメダカの飼育を志す人にとって必須の知識・情報を満載。字義どおり「メダカの

学校」です。

 さて、メダカをペットとして飼う場合の唯一の欠点は、散歩に連れ出せないことです。もっとも本人たちもそれを喜びはしないでしょうが・・・。

甲斐 晶(エッセイスト)

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3シュトラウス

♪  41672484091999年は、ウイーンにゆかりのある音楽家である3人のシュトラウス、すなわちヨハン・シュトラウス親子とリヒャルト・シュトラウスにとって特別の年でした。奇しくもヨハン・シュトラウスⅠ世、ヨハン・シュトラウスⅡ世、そしてリヒャルト・シュトラウスの没後それぞれ150周年、100周年、50周年にあたっていたのです。そこで、彼らに関して知っても余り得にならない話ばかりですが、「読むクスリ」風に集めてみました。

♪ リヒャルト・シュトラウスは、ミュンヘン生まれのドイツ人で、共にウィーンで生まれ育ったヨハン・シュトラウス親子とは全く血がつながっておりません。ナチスの時代に、ユダヤ人だった自Strauss4分の脚本家ツバイク(「影のない女」を脚本)を弁護して弾圧を受けますが、その後、妥協。これが元で、ナチスへの協力者との汚名を着せられました。オーストリアとの関係では、有名なザルツブルグ音楽祭の創設者の一人でもありますし、ウィーン国立歌劇場の共同監督も務めました。

♪ Strausssr1 ヨハン・シュトラウス親子は、共に艶福家としても知られました。ヨハン・シュトラウスⅠ世は、奥さん以外の女性との間に7人の子供をもうけ、その1人からうつされた猩紅熱がもとで死にました。一方、ヨハン・シュトラウスⅡ世は、3度も結婚。60歳で30余り年下のアデレと一緒になり、彼女と結婚するためにプロテスタントに改宗、ドイツの市民権も得ました。その頃から、年を隠すために髪の毛と髭を黒く染め始めたそうです。

♪ Joseph_lanner 「ワルツの父」ヨハン・シュトラウスⅠ世は、

お互いに作風の違う友人、ヨーゼフ・ランナーとともにウィンナー・ワルツを創りあげましたが、その作品の中で最も良く知られているのはワルツではなく、行進曲です。ウィンフィルのニューイヤー・コンサートで必ずアンコール曲のトリを務め、聴衆が指揮棒に合わせて手拍子を取るのが恒例となっているあのラデツキー行進曲です。

♪ 「ワルツ王」ヨハン・シュトラウスⅡ世は、「美しき青きドナウ」を始め有名なワルツを多数生みだし、宮廷舞踏会音楽監督の肩書きを得ましたが、自らはワルツを踊れませんでした。Johann_strauss_ii

♪ 彼は、母親を捨てて女裁縫師の元に走った父とのそりが合わず、音楽家にはしないとの教育方針に反して密かにバイオリンを習っていました。(彼は、後年、バイオリンを弾きながら弓で指揮をとったことでも有名です。)彼が19歳で指揮者としてデビュー以来、2人は良きライバル。1848年3月の革命では、父親が体制派を支持したのに対し、息子の方は、蜂起した学生のために行進曲を作るほど。このためヨハン・シュトラウスⅡ世は要注意人物と見なされ、父と同じ「宮廷舞踏会音楽監督」の肩書きを何度も皇帝に求めますが拒否され、1863年になってようやく授与されました。

♪ 彼の「美しき青きドナウ」は、1867年のパリ万国博のテーマ・ソングにも採用され当時として史上最大のヒットとなりましたが、元々は男性合唱曲です。ウィーンの農民、家主、芸術家、政治家の運命を風刺したうえで、今の時をワルツを踊って楽しもうという内容の歌詞が付いていました。

♪ 彼はボストンの世界平和博覧会(1872)に招かれ、この曲を10万人を収容する巨大なホールで演奏。総勢2万人の歌手と楽団員の呼吸を揃えるために副指揮者100名を配し、一段高いところから指揮して成功を収めました。彼のサインと巻き毛を求めて押し寄せる女性ファンの要求を満たすために、側近が黒い大型犬を購入。その毛を切って、彼の自毛と称して販売したほどの人気でした。Mcstrauss

♪  ドイツ語で「シュトラウス」には、「ダチョウ」の意味もあります。「美しき青きドナウ」が作曲され、現在はヨハン・シュトラウスⅡ世記念館となっている彼の旧住居には、彼をダチョウの姿に描いた風刺画が陳列されています。

♪ 彼は晩年、「こうもり」や「ジプシー男爵」などのオペレッタで名声を不動のものとします。1899年5月22日に念願の宮廷歌劇場で初めて指揮。その12日後の6月3日にこの世を去りました。

甲斐 晶(エッセイスト)

                            (エッセイスト)

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