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フライト・トラブルⅠ

  これまでに、飛行機の旅を何百回と重ねてきましたが、中には、ヒヤリとしたこともあります。061118_panam_logo

 それは、生まれて初めての空の旅のこと。今から40年ほど前、英国に留学のため羽田から旅立ちました。当時は、南回りが主流。現代の機種に比べて航続距離が格段に短いため、まず香港で給油、次いでバンコック、さらにニューデリー、カラチ、テヘラン、ベイルート、イスタンブール、ウィーン、そして最後にロンドンとまるで各駅停車です。

 各地で離着陸する度に、現地時間では、夕食時となり、毎回、フルミールの機内サービス。出されたものは残らず食べていたら、ついにカラチあたりで限界で、もうそれ以上は、受け付けない状態になりました。そんな中、いざテヘラン空港に着陸という段になって、車輪がまさに滑走路に触れようとする時に、機体は、再び機首を急角度で上げて上空へ。ちらっと窓の外を見ると、どうも進入角度が滑走路に対して平行ではなかったために着陸をやり直すようです。しかし、機内アナウンスは全くなく、上空をぐるぐると30分以上も転回。燃料を使い切らせて着陸失敗時に備えているらしく、心中穏やかではありません。幸いにして再着陸は成功し、ほっと胸をなで下ろしました。

 この時は、精神的な負担だけで物理的な損害はなかったのですが、共産党時代のモスクワ空港でのトラブルでは、窮屈な空港ゲートのラウンジに30時間以上も留め置かれたことがあります。Jal Oslahd126

 ウィーンからオーストリア航空でモスクワへ飛び、フランクフルト発成田行きの日航機に乗り換え。機体は離陸のために滑走路まで行ったものの、エンジンの状態が悪いために機長が離陸のOKを出さず、そのままゲートに逆戻り。エンジン整備が終わるまで延々と待たされたのですが、興味深かったのは、乗客の国籍による反応の違いです。

 日本人乗客は、「まあ、仕方が無いや。」と初めから諦め顔。Aeroflot乗客の応対に追われる地上職員に、同胞のよしみなのか同情的でさえあります。ところが、ドイツ人やオーストリア人と来たら、初めから激しく権利を主張。やれ食事を用意しろ、ホテルに泊まらせろ、代替機を飛ばせと矢継ぎ早の要求です。当時は、共産圏時代のモスクワ。とても西側の空港のような小回りは利きません。規則上、ホテルの予約には1日以上、特別機の着陸許可には3日以上の余裕が必要で、急場の対応は無理。 結局、エアロフロートに代替機の提供を依頼。30時間後にようやく再び機中の人となりました。

 さて、それから十数年たった秋のこと。今度はいきなり成田で18時間も出発便が遅れる羽目に。お陰で出張日程の一部をキャンセルし、1日分の日当を返却せざるを得ませんでした。

 Img4146 これは結果論ですが、オタワへの数あるルートの内で、まずカナディアン航空(200010月にエア・カナダに吸収)の直行便でトロントに飛び、そこでオタワ行きに乗り継ぐ経路としたのが失敗の元。機種はDC-10でしたが、これまた滑走路まで行ったところで、エンジン不良のためゲートに逆戻り。当初、午後2時40分発の予定が、小刻みに1時間、30分と遅延のアナウンス。とうとう、夜8時30分を過ぎても、エンジンの不良部品が国内では調達できないために出発できません。 800pxcp_air_737_at_whitehorse_1971結局、乗客は9時過ぎになって再度機内に誘導され、食事を提供された上で、成田のホテルに投宿。出発は、翌朝の9時となってしまいました。感心したのは、乗務員の応対ぶりで、かゆいところに手が届くお世話ぶり。携帯電話を貸して貰えたので、カナダへの国際電話も含め、関係者に遅延を連絡することが出来ました。

 Hart_house2 こういう一種の極限状態に置かれると、不思議に乗客同士で国籍を超えた連帯感が生まれます。普段ならお互い見知らぬ同士で終わってしまうのに、同じ境遇に置かれることで、身分を明かし合いようになり、極めて親密になります。こうして知己を得たトロント大学の教授と話している内に、音信不通になっていた同大学のJ教授と知り合いであることが判明。お陰で、その昔、我が母校に客員教授として来ていたJ教授と十数年ぶりにトロントでの懐かしい再会を果たせました。フライト・トラブルの思いがけない効用でした。 

甲斐 晶(エッセイスト)                

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