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シューベルト生誕200周年

 「ウィーンは、ウィーンにやって来た多くの音楽家の命を奪った。」と評したひとがいます。確かにモーツァルトはザルツブルグに生まれ、ベートーベンはボンに生まれ、ブラームスはハンブルグに生まれたのですが、結局ウィーンに活躍の場を求めて到来。何れも最後は、ウィーンの地で息を引き取ったのです。

 ところでウィーンで亡くなった多くの音楽家の中で、歌曲王シューベルトの場合は生粋のウィーンっ子。1997年はその生誕200周年の記念の年にあたり、ウィーン市内のあちこちで、これにちなんだ催しが年間をとおして行われました。Schubert

 「僕は、ただ作曲するだけに生まれてきたんだ。」とは、シューベルトの言葉。実際、その短い生涯の間に、モーツァルトよりも多くの作品を残しています。ウィーン市歴史博物館では、8月末まで、"Schubert '97"と題する特別展が開かれ、約1000点に上る現存作品の全楽譜が詳しい解説付きで展示されました。そのうちの約300がオリジナルですが、モーツァルトやベートーベンの書き殴ったような楽譜を見慣れている者にとって、きちっと丁寧に書かれた彼の自筆の楽譜は新鮮な驚きです。まるで印刷したみたいなのです。彼の身の回りの品も展示されてはいますが、物質的な世界に無頓着だったその暮らしぶりを反映してか、余り多くありません。

 この特別展の入場券は、記念館である彼の生家と臨終の家への共通入場券ともなっていました。彼の生家は、市内9区のNussdorferstrasse 54にあります。展示品の中には、彼の愛用していた眼鏡もありますが、彼は、しばしば夜寝るときにもこれを外さず、翌朝目覚めてすぐに作曲にかかれるようにしていたそうです。彼が息を引き取ったのは、彼の兄弟の家(Kettenbrueckengasse 64)で、ここには遺髪と最後の作品を弾いたピアノなどが展示されています。Kirche2

 彼の生家の裏手、Marktgasse 409区)にあるLichtental教会は、彼が洗礼を受け、オルガニストを務め、その宗教音楽の幾つかが初演されたところです。ここでは、シューベルトの作曲したミサ曲の全てが112日までの毎日曜、午前10:30からの礼拝で演奏されていました。

 その年の5月の末にウィーンに出張した際に私も出かけてみました。入場無料だからでしょうか、定刻の遙か前にほぼ満席です。礼拝の一環としてミサ曲が演奏されるのですが、円蓋の下の内陣にオーケストラと聖歌隊、それに男声と女声のソリストを配置。このため音響効果は抜群で、大いに感銘を受けました。その日の曲目は、彼が1814年に作曲した最初のミサ曲(ヘ長調ミサ、D105)で、やはりここで初演されたものです。(早速、記念にと思い、市内のレコード店でこの曲のCDを求めてみました。大して大きなお店でもないのに、オーストリア放送協会交響楽団(ORF)が演奏したもの、ウィーン少年合唱団が共演したものなど3種類もの品揃えがありました。Bodaizyuさすがは、音楽の都ウィーンだなと実感したものです。)

  また、1025日までの毎土曜日、20:00から、この場で記念コンサートが開かれ、「野ばら」から「菩提樹」まで、「ドイツ舞曲」、弦楽四重奏曲「死と乙女」から様々な交響曲のハイライトまでポピュラーな作品が演奏されました。

このほか、7、8月の夏の音楽祭の一環として、毎木曜日、19:00Augustinerkirche1から、生家記念館においてピアノ曲の演奏会が、さらに、かっての王宮付属教会であったAugustina教会でも10月下旬まで、毎金曜日、19:30から宗教作品のコンサ-トが、また、毎日曜日、11:00から礼拝の一環としてミサ曲が演奏されました。

 11月には、彼の作品を年代順に紹介してきた恒例のSchubertiade15回目を迎え、いよいよ最終回となり、楽友協会で開催されました。  

  こうして、年末、1221日のウィン・フィルの定期公演において交響曲第6番が演奏される時に至るまで、生誕200周年の記念の年には、いつもどこかでシューベルトの音楽がウィーンの町に響きわたったのです。

    甲斐 晶(エッセイスト)

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