三島良績先生の想い出
1997年の春早々、三島良績先生が急逝され、そのご葬儀が上野の寛永寺輪王殿において、ご親族や関係者多数の参列の下、盛大な中にもしめやかに執り行われました。ご交友関係の広さを反映してか、祭壇には数多くの生花が飾り付けられていました。その贈り主の名前の多彩さを見るにつけても、先生がご専門の原子炉燃料や材料ばかりでなく、野球、切手、猫の会など、幅広いご趣味をお持ちであり、何れの面でも第一人者であられたことを伺い知ることができました。
先生は座談の名手であられ、酒脱な語り口は先生の講義でも同様。東大原子力工学科三大名講義のひとつとして、学生に大いに人気がありました。 私もIAEA在勤中に、会議などでお見えになった三島先生をウィーンの我が家にお招きする機会が何度かありました。夜の更けるにつれ、先生のお話はますます楽しく、本職の核燃料の分野に留まらず、草野球、切手、印刷と広範多岐。いずれも大変蘊蓄に富んでいて、開く者を飽きさせず、ふと気がつくと深夜であることもしばしばでした。
先生は並外れて几帳面です。これが遺憾なく発揮されたエピソードがフランクフルト空港での置き引き事件。カウンターでの搭乗手続き中、ふと足下に置いた鞄が盗まれてしまったのです。
この鞄の中には知人に頼んで入手したナチ時代の珍しいオーストリア切手や貴重な日記などが入っていたそうです。切手はまた買えば済むものの、日記の方はその日の天気や出したり受け取ったりした手紙の内容などを克明にメモしたものだそうで(そこまで記録するところが、先生のまめなところです)、諦めるに諦め切れません。
その日の天気の方はご令息の日記と照合するなどし、その他はご自身の記憶を辿って、ようやく日記を再構築したところ、盗まれていた鞄が出てきたとの朗報。価値ある切手は残念ながら盗られていましたが、泥棒にとって無価値の日記の方は幸いにも鞄に残されていたそうです。早速、書き直した日記と戻ってきたオリジナルとを比べて見たところ、その内容はほとんど違っていなかった由。それ程の記憶力なら日記など付ける必要はないわけで、何とも凄い先生です。
先生はまた印刷物の蒐集家でもあられました。その昔、原子力発電所の安全審査の現地調査でお供をした新幹線の車中。食べた駅弁の箸袋と外側の包装紙をしっかり集めておられたのが記憶に残っております。お話によれば、旅の記念に切符や入場券などはもとより、機内食に出るチーズやジャムのラベルも蒐集されておられたとか。 これに、愛用のオリンパス・ペンで撮った、おびただしい数の旅の写真が加わります。その整理だけでも大変だと思うのですが、これまたまめになさり、我々のごとき者までにも、スナップ写真やお書きになった随筆の写しなどを、時機を失せずに送って下さり、恐縮することもしばしばでした。
こうした資料の保管のために、ご自宅には荷重計算はもとより、耐震設計、浸水対策を施した本格的な書庫を設けておられたほどです。そして、卒業25周年の教え子の集まりなどに呼ばれると、大学紛争の当時に配られた「卒業式粉砕!」の全共闘のアジビラなどを書庫から持ち出して披露。集まりの場の雰囲気を盛り上げておられました。
ご専門の金属学の分野で、さすがと思わされたのは、三島家代々のお墓の納骨室の扉の件です。先生がまだ現役時代のこと。御尊父だったでしょうか、どなたかがお亡くなりになって、いざ納骨という段になり、久しぶりに納骨室の扉を開けてみたところ、すっかり腐り果てていたとか。これでは「紺屋の白袴」で金属屋の名折れだとばかり、当時はまだ珍しく、高価で生産量も少なかったチタンに着目され、納骨室への扉とその支持枠を総てチタン製にされたそうです。
「これでもう納骨室の扉は未来永劫もの。納骨室にはまだ余裕があるが、次にそこに入るのは、年から言って自分かな。」などと当時冗談を仰っておられた先生でした。今や、ご自分の設計された、朽ちることのない納骨堂の扉にしっかり守られて、安らかに眠っておられることでしょう。
甲斐 晶(エッセイスト)
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