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2008年2月

世界に響け平和の鐘の音

  Innsbruck_w000冬季オリンピックが2度開かれたことのあるチロルの州都インスブルックにヨーロッパでも有数の歴史を誇る鐘のメーカーがあります。その存在を知ったのは、ウィーンで日墺文化協会の常務理事をされていた佐藤喜美子女史を通してでした。 Kimiko_sato001オーストリアのスキーメーカー、アトミック社の工場があるアルテンマルクトと岩手県松尾村とが姉妹都市となり、それが縁で松尾村役場にオーストリア製のカリオン(色々な音程の鐘を用いてメロディーを奏でる装置)が設置され、その仲介を佐藤女史がされたのです。

  そんなことが記憶にあったので、10年ほど前にある教会が新会堂を建てることになり、屋根の上に念願の鐘を付けたいとの相談を受けた時に、すぐ佐藤さんに連絡を取りました。輸送費を入れても、日本で製作する場合の約3分の1以下の値段とすこぶる魅力的。お話を進めて貰いました。

 女史の日本出張が間近となり、その際には詳細を打ち合わせましょうと言っていた矢先、新聞でその訃報に接してびっくり。一緒に出張することになっていた方が、どうもおかしいと連絡を取ってみたら、お一人暮らしのアパートでお亡くなりになっているのを発見したとのことでした。

 日本で関係者による先生を偲ぶ会も無事終わったところで、はたと困ったのが先生にお願いしていた鐘のメーカーの名前も連絡先も不明なこと。幸い、先生からのファックスに添えられていた図面の欄外にそのメーカーのファックス番号が小さく印字されており、ようやく連絡が取れました。かくしてスペックの詳細も確定。いよいよ代金を前支払いする段になって、たまたまインスブルックにあるその工場を訪れる機会を得ました。 Image10

  チロリアン航空の小型ジェット機が、雪を頂くアルプスの峰々に抱かれた小さなインスブルック空港に到着。そこからタクシーを飛ばして、市内へ。お店と博物館、事務所兼住居となっているLogo1グラスマイヤ社の建物はすぐに分かりました。

 要件を告げると、現れたのは輸出担当のヨハネス。とても好感の持てる青年で、2f016wien0裏手にある工場を案内しながら会社の説明をしてくれました。親族6人で経営する町工場ながら、従業員は55人、年商は8億円とか。1599年創業のヨーロッパでも1、2を競う老舗の鐘のメーカーで、彼が14代目。今でも現役で鳴っているグ社の鐘のうち、最も古いものは1635年製で、南チロルにあるそうです。

 1つの鐘の音は50以上もの成分音から成っており、仕上がった鐘の音色の善し悪しは微妙な鐘の形状と材料の錫と銅の混合割合にあり、それがノウハウのようです。平時は鐘作りに専念するものの、戦争になれば大砲作りに変身。平和が戻ればまた鐘作りと、いつでも仕事はあったようです。こうした歴史のためでしょうか、この会社では、「平和」がキーワード。1つ1つが手作りの鐘の鋳型に金属を溶かし込む時には、その鐘の音を聞く人々に平和と祝福があるようにと必ず司祭を招いて祈るそうです。また、工場の中庭には、「平和」という言葉が54カ国語で刻まれた重量2.5tの大きな鐘が置かれていました。

 Travel147 所用が済むとヨハネスが市内を案内して呉れた上、有名な「黄金の小屋根」の前のテラスでお昼をご馳走して呉れました。彼のご両親も加わって遠く東洋からのお客への懇ろなもてなしでした。

 さて、1999年の春、久しぶりにヨハネスからの手紙が舞い込みました。グ社の創業400年となるのを記念して行う「世界に響け平和の音」キャンペーンに参加しないかとのお誘い。世界平和を祈念して、異なる時間帯の50カ国から選ばれた鐘を一定の時刻(午後7時)に鳴らそうというもの。5月7日午後7時にインスブルックで鐘を鳴らし始めてから、順次、1時間毎に西へ西へと移動して行き、日付変更線を越えたら、今度はその時間帯の5月8日午後7時に鐘を鳴らすこととし、インスブルックまで戻ったところで、同じ時間帯に属するヨーロッパ各地から集められた鐘を一斉に鳴らそうという趣向です。インターネットに載せ、マスコミにも流すということでしたが、どんな結果だったか、残念ながら遠い日本からでは把握できませんでした。

甲斐 晶(エッセイスト)

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イモリエ

 Logo原子力関係者にとって我が国原子力開発の発祥の地、茨城県東海村はいわばメッカのようなものです。ここを訪れたことのない原子力関係者はいないことでしょう。 

 東海村や近隣の市町村、ひたちなか市などで有名なのが乾燥芋(干しいも)の生産です。茨城県は干しいも、れんこん、鶏卵、みつばの生産額がいずれも全国第1位を誇っていますが、Simbol中でもひたちなか市(勝田市と那珂湊町が合併して形成)はその干しいも生産の大部分を占めています。今度、八百屋で国内産の乾燥芋の袋を手にしたら、裏をひっくり返して生産地の記載を見て下さい。十中八九がひたちなか市です。 また、冬期に東海村やひたちなか市などを訪れると、あちこちのビニール・ハウスで農家の人たちが乾燥芋作りに精を出しているのを見かけますし、毎年、建国記念の日に行われる「勝田全国マラソン」では、完走すると記念に干しいも(乾燥芋=完走芋の洒落)が貰えるほどです。20080112100205

 「干しいも」の正式名称は、「甘藷蒸し切り干し」と言い、アルコールの原料となる「甘藷生切り干し」と区別しています。干しいもの材料となる芋の主力であるImo_tamayutaka_c タマユタカは短紡錘形で大きく、皮の色は両端に淡紫紅色を帯びた黄白色をしています。生食用のベニアズマや高系などと違ってそのままではまずくてとても食べられないしろもの。元来は澱粉原料用及び飼料用品種として育成されましたが、蒸し切り干しに適していたため、現在は蒸し切り干しの主力品種となっているのです。

 ひたちなか市近隣はさつまいも収穫のほぼ北限にあたります。乾燥芋作りは、冬寒くなって乾燥した西風が吹くようになってから始まります。Imotop5 秋に収穫しておいたタマユタカを蒸気で蒸して、皮をむき、スライスしたものを1枚、1枚すだれの上で天日乾燥させたものが「平干し芋」です。 これに対して、形の小さなタマユタカを蒸して、丸のまま皮をむいて乾燥させたものが「丸干し芋」です。これは、平干し芋よりも割高ですが、風味豊かで、柔らかな口触りが楽しめ、一度味わったら病みつきになること請け合いです。Imotop4

 乾燥芋作りは、冬寒くなって乾燥した西風が吹くようになってからと言いましたが、気温が高かったり、湿っていたりすると腐ってしまうので、程良いタイミングを見極めるのが重要ですし、暖冬の時は出来が悪くなります。天気が良く、乾燥した日が続けば4日位で出来上がりますが、朝早くから蒸したり、乾燥中の芋を裏返したり、夜間、乾燥中の網を重ねて蓋をするなど、1つ1つが手作業ですから、大変、手間のかかるものなのです。81f04d04

 東海村やひたちなか市、大洗町などの近郷の出身者が多い職場に以前勤めていたときには、冬場になるともっぱら干しいも談義に華が咲いたもの。まずは、干しいもはそのまま食べるのが正式か、焼いて食べるのが正式かから始まり(固くなれば揚げるとか)、どこのものが最高かに話が及びます。門外漢である私にとっては、茨城県内のどこの産のものでも美味しいと感ずるのですが、干しいも専門家に依れば全然味が違うというのです。

 一度、そうした「干しいも専門家」の前でうっかり、「冬に東海村に出張すると必ず生協で乾燥芋を買うんだが、東海村の乾燥芋はとても美味しいねえ。」と口を滑らしたところ、猛反撃を受けました。東海村のは二流で、一流はひたちなか市のX地区農家のものだとのこと。第一に芋が違うのだそうです。かかる専門家に依れば、特定の農家と契約をしていて、毎年、一定量の出来た干しいもを買い取っているようです。しかもその農家の名前は、他人には極秘扱い。なかなか教えて貰えません。余りの自慢ぶりなので、論より証拠。実物をお裾分けして貰い、少し食べさせてもらいましたが、さすがに違います。とても柔らかくて、甘さもたっぷり。羊羹のような味わいでした。

  辛党の世界では、日本酒の聞き酒やワインのソムリエというのがあります。干しいもの世界でも、産地ごとに専門家による格付けを行ったらどうでしょう。聞き酒ならぬ聞き芋、ソムリエならぬ芋リエの登場です。

甲斐 晶(エッセイスト)

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メープルシロップ

 Ca カナダは、国旗の図柄にもなっているように、カエデ(maple;)がそのシンボルです。ある秋にオタワ、トロントに出張した際には、正に紅葉たけなわの候。夕陽に映える黄色や紅に染まった楓の葉の透明感溢れる光景が心に残りました。Mapleleaf735828

 さて、この楓からシロップや砂糖が採れるのをご存じでしょうか。それぞれ、maple syrup(カエデ糖蜜)maple sugar(カエデ糖) と呼ばれています。独特の味と香りで、焼き上がったパンケーキやワッフルに琥珀色のメープルシロップをかけると最高。高価なのですが病みつきになります。Qmaple_syrup

 北米大陸の原住民が傷ついた楓の枝から滴った樹液がつらら状に固まったものを見つけ、口にしたのがカエデ糖の始まりとか。次第に樹液を煮詰めて作る方法を修得。これを旧大陸から北米へ移住した人々が原住民から習ったようです。

 Maplesugar こうして得られたカエデ糖は、次第に自家消費だけではなく商品として売買されるようになり、植民地の重要な産品になりました。しかし、時代が進んで1890年以前に保護関税が廃止され、安いサトウキビ糖が国外から輸入されるに及んで次第にカエデ糖の売れ行きは悪化。むしろメープルシロップの人気が高まり、カエデ糖に代わってビンや缶入りで生産されるようになりました。

 メープルシロップ作りは、雪解けの始まる早春、気温が夜間は氷点下ながら日中は2~7℃まで上がる日が2、3日続くようになると始まります。この頃、サトウカエデ(acer saccharum)は、夏の間に蓄えたデンプンを糖に変え樹液として根から吸い上げる作用が最も盛んで、出来るシロップも上質です。しかし、気温がさらに上がり、夜間でも氷点下にならず、枝先の芽が膨らみ始める頃になると樹液の量が著しく減り、シロップ作りの季節は終わり。この間わずか数週間なのです。

 Maple1 樹液の採取は、樹齢が40年(幹の太さが25cm)ほどになると可能です。直径1cm、深さ4cm位の孔を幹に数カ所(太さ20cmあたり1カ所の割合)開け、差し込んだ管の先に容器を吊し、樹液を溜めます。この程度であれば採取によって木に悪影響はなく、樹齢100年位になるまで採取が可能。管をはずせば孔は翌春までに自然に塞がるそうです。

 Sefront 樹液は透明でやや甘い(糖分を2~3%含有する)液体で、シーズン中に1つの孔当たり平均して約40㍑採取できます。樹液は劣化しやすく採取後手早く蒸発濃縮する必要があります。伝統的には木に吊した容器に溜まった樹液をバケツで集め、さらにそれをそりや荷車に積んだタンクに移します。運搬にはトラクターや時には馬が用いられ、濃縮作業を行なう小屋(シュガーハウス)に集積されます。しかし最近では木に打ち込んだ管からの樹液を農園内の傾斜を利用した配管システムによって自動的に収集。効率化されています。

 Maple3 シュガーハウスでは蒸発濃縮器によって樹液を104℃まで加熱して煮詰め、糖分約66%のメープルシロップに仕上げます。約40㍑の樹液からできるメープルシロップはわずかに1㍑弱。高価なわけです(小売価格は1㍑当たり10米ドル程度)。製品の等級は、米国の場合にはLight,Medium,Dark Amberの3つがありますが、これは品質の違いではなく琥珀色の濃さによる分類です。好みにも依りますが、色の濃いほど香りが強くなります。Maple5

 メープルシロップの生産は北米の北東部が中心。カナダが世界生産の3/4、うちケベック州がその90%を占め、米国ではバーモント州が米国の1/3を生産しています。私の留学先のミシガン州でも生産。知り合いの大学教授の場合、広大な自宅の敷地内にサトウカエデが沢山あり、樹液の収集に小型蒸気機関車を使っていて敷地内に軌道を敷設。毎年春になるとこれを友人・知人に開放し、我々家族も招かれましたが、アメリカ国内各地から多数の鉄道愛好家が集まっていました。

  ヨーロッパ大陸でもナポレオンの時代に英国の海上封鎖に対抗してメープルシロップの生産が試みられましたが、春の到来が急激過ぎて樹液量が少ない、カエデの種類が違って含有糖分量が少ないなどの理由で上手く行きませんでした。我が国の場合北海道あたりで試したらどうでしょうか。              

甲斐 晶(エッセイスト)

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フライト・トラブルⅡ

 前回(フライト・トラブルⅠ)は、エンジントラブルのため成田で出発便が18時間も遅れ、結局成田のホテルに投宿する羽目になったことをお話ししました。

 その時に多くの乗客が困っていたのは、チェックイン時に預けたスーツケースが機内のコンテナーに入ったままで、手元には客室に持ち込んだ手荷物しかなく、着替えなどに不自由したことです。

 必要最低限の洗面用具類はホテルの部屋に備えられていますし、浴衣があるので寝巻きは問題ありません。しかし、折角、風呂に入ってさっぱりしても、着替えがないので、汚れたままの下着類をまた着用せざるを得ません。こんな場合のための生活の知恵をいくつかご紹介いたしましょう。

 その1。目的地にスーツケースが一緒に届かないという苦い経験を何度かしたことから、私は、常々、洗面道具と1日分の着替え(下着と靴下)を機内持ち込みのバッグに忍ばせています。これが今回大いに役立ちました。また、会議用の書類なども、同じ理由から機内持ち込みにしています。これに、旅先の知人・友人へのおみやげもすぐに渡せた方が良いと思って機内持ち込みとするので、いつも大荷物です。

 Photo_eir その2。着替えを持ち合わせていない場合に役立つのが、いつか永六輔さんがどこかで書いておられたヒントです。まずは、下着を着たまま、石鹸を使ってシャワーを浴びます。石鹸分を洗い流した後、浴室にある足拭きマットなど厚手のタオルに下着をくるくる巻き込みます。これを浴室の床に置き、思い切ってその上に飛び降ります。そうすると、下着の水気がかなり取れますが、仕上げは、部屋に備え付けの冷蔵庫。よく絞った下着をこの冷蔵庫の中に一晩置くと、翌朝には、すっかり乾燥。ひんやりと肌に冷たくとても着心地が良いとか。この話を聞いて以来、ホテルの部屋の冷蔵庫の中の飲み物が飲めなくなりました。

 その3。先に書いたように、目的地にスーツケースが一緒に届かないということは、良くあることです。特に、乗り継ぎ便との時間的余裕が無い場合にそうです。普通は、直近の次のフライトに乗せられ、宿泊先を航空会社に告げておけば、そこまで届けてくれます。もしも、その日のうちに届かないで、洗面道具や着替え類を買わざるを得なっかった場合には、領収書など明細があれば、航空会社にクレームする事が出来ます。

 荷物に関するトラブルもこれまで色々経験しました。一番閉口したのは、共産圏時代のモスクワ空港でのこと。まず荷物が到着便の表示と無関係にあちこちのターンテーブルから出て来るのです。しかも、全てが出終わるのに2時間も掛かるため、あちこちこれは自分のではないか、あれはどうかと飛び回っている内にすっかり疲労困憊。Svo

 紛失届けを出し、後刻、「見つかりました。」との連絡があっても、宿泊先まで転送してくれるわけではありません。空港まで取りに来いというので行ってみると、データをコンピュータに入力し忘れているためでしょう。「未だ見つかっていない。」とのつれない返事。ここで引き下がったら、未来永劫私のスーツケースは手元に戻って来ません。そんなことはないはず、確かに見つかったとの連絡を受けたのだからと押し問答の末、ようやく倉庫に案内されます。乱雑に荷物が山積みになった中から見つけ出すのは至難の業でしたが、執念です。やっと見つけることが出来ました。

 Iaea1 もう一度は、IAEAに勤務中のことでした。お正月を故国で迎えようと、家族共々日本に一時帰国。ウィーンからの土産を別送品としたのですが、一向に到着しません。生憎クリスマス休暇となって、ウィーンの運送会社と連絡が取れません。ようやくコンタクト出来たと思ったら、今度は、日本側の運送会社が年末年始のお休みに。結局、荷物が届いたのは、ウィーンへ出発する3日前でした。残された日々で躍起になってあちこちにお土産を配りまくり事なきを得ましたが、実に薄氷を踏む思いでした。電話連絡の経費や別送品が届かなかったために代替品を購入した経費を運送会社に請求。これをちゃんと支払ってくれたのには、さすがに保険制度の発達した国と感心しました。              

甲斐 晶(エッセイスト)

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フライト・トラブルⅠ

  これまでに、飛行機の旅を何百回と重ねてきましたが、中には、ヒヤリとしたこともあります。061118_panam_logo

 それは、生まれて初めての空の旅のこと。今から40年ほど前、英国に留学のため羽田から旅立ちました。当時は、南回りが主流。現代の機種に比べて航続距離が格段に短いため、まず香港で給油、次いでバンコック、さらにニューデリー、カラチ、テヘラン、ベイルート、イスタンブール、ウィーン、そして最後にロンドンとまるで各駅停車です。

 各地で離着陸する度に、現地時間では、夕食時となり、毎回、フルミールの機内サービス。出されたものは残らず食べていたら、ついにカラチあたりで限界で、もうそれ以上は、受け付けない状態になりました。そんな中、いざテヘラン空港に着陸という段になって、車輪がまさに滑走路に触れようとする時に、機体は、再び機首を急角度で上げて上空へ。ちらっと窓の外を見ると、どうも進入角度が滑走路に対して平行ではなかったために着陸をやり直すようです。しかし、機内アナウンスは全くなく、上空をぐるぐると30分以上も転回。燃料を使い切らせて着陸失敗時に備えているらしく、心中穏やかではありません。幸いにして再着陸は成功し、ほっと胸をなで下ろしました。

 この時は、精神的な負担だけで物理的な損害はなかったのですが、共産党時代のモスクワ空港でのトラブルでは、窮屈な空港ゲートのラウンジに30時間以上も留め置かれたことがあります。Jal Oslahd126

 ウィーンからオーストリア航空でモスクワへ飛び、フランクフルト発成田行きの日航機に乗り換え。機体は離陸のために滑走路まで行ったものの、エンジンの状態が悪いために機長が離陸のOKを出さず、そのままゲートに逆戻り。エンジン整備が終わるまで延々と待たされたのですが、興味深かったのは、乗客の国籍による反応の違いです。

 日本人乗客は、「まあ、仕方が無いや。」と初めから諦め顔。Aeroflot乗客の応対に追われる地上職員に、同胞のよしみなのか同情的でさえあります。ところが、ドイツ人やオーストリア人と来たら、初めから激しく権利を主張。やれ食事を用意しろ、ホテルに泊まらせろ、代替機を飛ばせと矢継ぎ早の要求です。当時は、共産圏時代のモスクワ。とても西側の空港のような小回りは利きません。規則上、ホテルの予約には1日以上、特別機の着陸許可には3日以上の余裕が必要で、急場の対応は無理。 結局、エアロフロートに代替機の提供を依頼。30時間後にようやく再び機中の人となりました。

 さて、それから十数年たった秋のこと。今度はいきなり成田で18時間も出発便が遅れる羽目に。お陰で出張日程の一部をキャンセルし、1日分の日当を返却せざるを得ませんでした。

 Img4146 これは結果論ですが、オタワへの数あるルートの内で、まずカナディアン航空(200010月にエア・カナダに吸収)の直行便でトロントに飛び、そこでオタワ行きに乗り継ぐ経路としたのが失敗の元。機種はDC-10でしたが、これまた滑走路まで行ったところで、エンジン不良のためゲートに逆戻り。当初、午後2時40分発の予定が、小刻みに1時間、30分と遅延のアナウンス。とうとう、夜8時30分を過ぎても、エンジンの不良部品が国内では調達できないために出発できません。 800pxcp_air_737_at_whitehorse_1971結局、乗客は9時過ぎになって再度機内に誘導され、食事を提供された上で、成田のホテルに投宿。出発は、翌朝の9時となってしまいました。感心したのは、乗務員の応対ぶりで、かゆいところに手が届くお世話ぶり。携帯電話を貸して貰えたので、カナダへの国際電話も含め、関係者に遅延を連絡することが出来ました。

 Hart_house2 こういう一種の極限状態に置かれると、不思議に乗客同士で国籍を超えた連帯感が生まれます。普段ならお互い見知らぬ同士で終わってしまうのに、同じ境遇に置かれることで、身分を明かし合いようになり、極めて親密になります。こうして知己を得たトロント大学の教授と話している内に、音信不通になっていた同大学のJ教授と知り合いであることが判明。お陰で、その昔、我が母校に客員教授として来ていたJ教授と十数年ぶりにトロントでの懐かしい再会を果たせました。フライト・トラブルの思いがけない効用でした。 

甲斐 晶(エッセイスト)                

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落語の楽しみ

X1padjo0uco2h3xbqotg1h8zts9skl73v6u ジャニーズ系タレントが落語修業に打ち込む民放の連続TVドラマ「タイガー&ドラゴン」が高視聴率を上げて以来、落語ブームが続いていると言います。実際に、寄席やホール落語などに出かけてみると、高齢者に混じって、結構、若い人の姿を見かけます。これに、Chi_ttl_idx NHKの連続朝ドラ「ちりとてちん」が小浜出身の女流落語家の物語を取り上げたことが拍車を掛けているようです。

ラジオしか無かった時代が幼少期であった筆者にとって、H1103121早く寝なさいという親のことばを尻目に、頭から被った布団の中で周波数分離の悪い鉱石ラジオから聞こえる演芸番組に懸命に耳を傾けていた頃が懐かしく思い起こされます。そんなわけで、大概のはなしの筋は覚えてしまい、まくらの部分を聞けばオチが分かる程です。しかし、何度聞いた話であっても、その都度大いに笑えるのは、歴史の篩いに掛けられて生き残ってきた古典芸能の力でしょうか。 H1103124

長ずるに及び、今は故人となってしまった志ん生(五代目)、小さん(五代目)、 圓生(六代目)など、それぞれ味があって、寄席やホール落語会に出かけては、堪能したものです。志ん生の2人の息子、馬生(十代目)と志ん朝にも、話のうまさに早くから注目していたのですが、残念ながら2人とも相次いで早世してしまいました。H1103123202

現在、活躍中の噺家の中では、柳家小三治、春風亭小朝、桂文珍の3人が好きです。

小三治は、ちょっと間抜けな役柄の与太郎ものをやらせれば秀逸です。高校教師であるご両親の期待に反して大学受験に失敗。本来の反骨精神からか、落語家を目指して小さん(五代目)に入門。めきめき頭角を顕し、小さん亡き後は、その名跡を継ぐのではと目されていたのですが、結局は、小さんの長男の三語楼が六代目に就任。してやられた感がありましたが、これも無理押しはしないという彼の人生哲学の表れなのでしょうか。Kosanji_01

彼は大変な凝り性で、熊の胆、蜂蜜、石鹸、バイク、語学と次々にそれぞれの究極を求め、涙ぐましいまでに探求。その体験談などをはなしのまくらにするのですが、これが本題よりもすこぶる面白く、時には1時間近くもやるのです。ついには、このはなしの「まくら」だけを集めた本を出版(「ま・く・ら」講談社文庫)。お読みになれば抱腹絶倒すること請け合いです。自宅のバイク置き場にホームレスが住み着いた顛末記では、彼の見かけに依らない心の優しさが窺えますし、語学修行にニューヨークに出かけた時の苦労譚は、努力家である彼の一面を知ることが出来ます。

20070410sopia_07_koasa 小朝は、古典落語も上手ですが、新作物や古典を現代風にアレンジした噺も大いに笑えます。クールな語り口のあちこちに「くすぐり」が用意されているのです。越路吹雪が亡くなって間もない頃、飯野ホールで「越路吹雪物語」を聴きました。関東では珍しく釈台を使いながら、不世出の歌姫の生涯を、ある時は可笑しくある時はしんみりとした語り口で描き出し、お客の喝采を浴びていました。彼の「源平盛衰記」も聞き物です。

Qimg017_2関西落語の文珍は、老人問題やコンピューター社会を巡る悲喜こもごもの人間模様をとぼけた口調で面白可笑しく語ります。古典と新作の融合も狙っているようで、いつかANAの機内で聴いた「商社殺油地獄(しょうしゃごろしあぶらのじごく)」には、涙が出るほど笑わされました。

ある産油国、駐在員3人だけの日本商社の出先の噺です。新国王となるアラマ・ハッサンは、日本留学の経験もある大の親日家。能狂言に関心が有り、王位就任レセプションで狂言をやるように注文しますが、狂言に疎い日本人商社マンは、にわか勉強で国王の前で新作狂言Papathumb 『天才バカボン』を演ってみせるという筋です。これが、滅茶苦茶に可笑しいのです。もう一度聴きたいと思い、彼の独演会に出かけて見るのですが、未だに空振りです。東京近郊での独演会を聞きに行った際、駅前でぱったり文珍さんに出会い、二言三言、言葉を交わしましたが、その際のやりとりが当日の高座のまくらで紹介され、面はゆい気持ちをした記憶があります。サービス精神旺盛な噺家です。

甲斐 晶(エッセイスト)

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公衆マナー

欧米で生活した方々が日本に帰国して見て、Masucci_29_01彼我の違いに気付くことのひとつに、公衆のマナーやエチケットがあります。

例えば、米国などでは、見知らぬ者同士であっても、ホテルなどのエレベーターで一緒になった場合、必ず「ハーイ」と笑顔で挨拶を交わします。日本では、同じマンションの住人同士でも無い限り、こうした場合、お互いに無言のままでしょう。

また、欧米では、Masucci_14_01電車の中や人混みで思わず体が触れ合ったりすると、必ず「失礼」と言う言葉がどちらからともなく発せられ、大いに気持ちの良いものです。日本だとお互いに黙ったままですし、ともすれば満員電車の中で足を踏まれても、相手に無視されたままということが良くあります。

さらに、建物の出入り口などで、締まり掛かったドアを押さえて、後から続いて入ってくる人のために開けたままにしていると、欧米では、後から入って来た人から必ず「有り難う」という感謝の言葉が返ってきますが、残念ながら日本では、ごく当たり前のような顔をしてそのまま目の前を通り過ぎて行くのが関の山。腹立たしいことしきりです。

 3 こうした、何気ない挨拶がごく自然に交わされることで、社会生活が円滑に進むのです。欧米の公衆マナー、エチケットの基本にあるのは、相手への思いやりの心ではないでしょうか。社会的弱者へのいたわりの気持ちが態度や行動に良く表れた公衆マナーの例をウィーンの路面電車やバスで日常的に見かけます。それは、赤ちゃんを乳母車に載せたお母さんが乗降しようとする際の乗客の対応です。

戸口にいる男性乗客は、若者であれ、お年寄りであれ、そうしたお母さんの姿に気づくや否や、さっと乳母車に手を伸ばして抱え上げ、車内に引き入れます。051206viecimg1526 戸口のそばには、乳母車専用の固定場所があり、ここに安全に置くことができます。降車の際も同様に身近の男性客が乳母車を持って、お母さんと赤ちゃんが無事に降りられるまで手助けするのです。

それでは、日本の場合にはどうでしょうか。電車に乗ろうとしていたお母さんが、赤ちゃんを載せたベビーカーを締まり掛かった電車のドアに挟まれてしまい、車掌も気づかぬままに電車が発車。お母さんはホームに取り残されてしまって、パニックになります。そばにいた乗降客がようやくこれに気づいて車掌に合図。電車はベビーカーを挟んだまま数十メートル走行後、ようやく停止し、幸いにも赤ちゃんは無事であったとのニュースがありました似たようなことがその後も続きましたPic_mechakaru_ev570_gp

こうした危険の再発防止のために、鉄道会社はベビーカーのお母さん方に駆け込み乗車をしないように呼びかけるキャンペーンを開始するとの報道に接して、家内の義憤は最高潮に達しました。お母さん側に注意喚起するのではなく、ウィーンのような乗客の公衆マナーを涵養すべきとの意見なのです。

早速、JR、西武鉄道、東急電鉄のお客様係に電話をしたようです。3社のうち対応が良かったのが東急で、JRが最悪であったとか。

Dscf2052_2 家内の主張はこうです。ベビーカーのお母さんは、好き好んで駆け込み乗車をしているわけではない。ベビーカーを抱えてお母さんが悪戦苦闘しているのに、乗客は誰一人助けて呉れない。電車が停車し、ドアが開いても、どっとお客が乗り降りするので、ベビーカーは取り残されてしまい、直ぐには乗れず、どうしても発車間際になってしまう。これを解決するには、ウィーンのように乗客が進んで手助けするよう、公衆マナー向上のキャンペーンを実施すべきである。

P1000173これに対してJRの担当者は、「昔はベビーカーなど無く、背負い紐だったのでこんなことは無かった。困ったもの。」とのネガティヴな反応だったとか。家内は猛反撃を開始し、ウィーンの事情を懇切に説明。携帯電話の車内での通話が無くなったように、根気よくキャンペーンすれば、状況は変わると説明し、ようやく先方の賛同を得たようです。Odakyu1

でも、何故、3社だけで京王電鉄には言わなかったのか家内に尋ねると、娘が自分の家から我が家まで孫を連れてくる経路に当たるのが、東急電鉄とJRと西武鉄道だからとの明快な答え。げに恐ろしき、孫思うおばあちゃん心(老婆心)でしょうか。

(エッセイスト)

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空のサービス

Jal  JALが3大テノールを動員して、シート間隔を一層ワイドにした、新たなエグゼグティブクラスの宣伝を始めたのが、1996年の秋のことでした。当時から、エグゼグティブクラスをファーストクラスの快適さに近づけようとするのは世界的な趨勢です。Copy20of20continentalair_logo1_2

  例えば、その頃、コンチネンタル航空は利用客の少ないファーストクラスを廃し、代わりに55in(インAircanada950014490_2チ)[140cm]間隔のスリーパー・シートをいち早く導入。 これにエアー・カナダ(55in)、TWA(57in)、Az_logo_2 アリタリア(50-54in)が続きました。また、Sas_logo2 SAS、Klm_logo KLM、ノースウェスト (1部路線)もファーストクラスを廃してしまいました。

 こうなるとファーストクラス席を温存している航空会社にも、そのエグゼグティブクラスの質の向上への競争圧力が加わります。 その結果、エア・フランス、 ユナイテッド、Cxlogo ブリティッシュ、キャセイ・パシフィックが座席間隔を48-50inに改善。 バージン・アトランティックでは55-60inのスリーパー・シートや機内ラウンジ・バーの創設、マッサージやマニキュアなど美容セラピーの実施、出発・到着の両空港でのリモ・サービスの提供を他社に先駆けて実施しています。こうした各社のサービス競争は利用者にとっては大歓迎です。Virgin_logo

 そもそもこのエグゼグティブクラスなるものは1970年代半ばまでは存在しませんでした。当時はファーストとエコノミーだけです。しかし、パック・ツアーの進展とともに、エコノミー席を正規料金で利用する人が次第に減少。ほとんどがその2~3分の1以下、時には10分の1のパック料金での利用者です。こうなると、正規料金の客から不満が続出。そこで、座席を少しゆったりさせ、食事もやや上等にし、食器はプラスチックでなく陶器を使うといったエコノミー席とは差別化させたものが登場したのです。Logo_air_france

 エグゼグティブクラスのサービス内容は各社で異なります。導入当初、エアーフランスでパリ乗り継ぎで一泊するような場合、市内の指定ホテルでの宿泊と空港までの往復のタクシーが用意されました。Singaporeairlineslogoシンガポール航空でシンガポール乗り継ぎをした時には、これに加えて市内観光のサービス付きでした。

 United_logo1ユナイテッドでは、夜間フライトで早朝に到着するような場合には、空港近くのホテルが無料で利用できます。かつて、アルゼンチンへ出張した際には、ブエノスアイレスからユナイテッド便でニューヨークに朝の6時に到着。乗り継ぎの全日空便の出発がお昼過ぎでしたので、早速このサービスを利用。空港近くのラマダインにチェックインしてシャワーを浴び、朝食を充分取ってリフレッシュすることができました。またアメリカン航空ではエグゼグティブクラス専用の待合室にはリフレッシュのためにジムやシャワーの設備まで揃っています。日本でならさしずめサウナや温泉施設というところでしょうか。どこかの航空会社で早く始めて欲しいものです。

 この他、116_logo20finnair フィンエアでは国道16号線内在住者への成田空港までのハイヤーサービス、イベリア航空では早朝便利用者への成田空港周辺ホテルでの前泊サービスなどがあります。手荷物の無料配送サービス、座席の事前指定サービス、専用待合室の利用などはどこの航空会社でもやっています。

 さて、どの航空会社に人気があるのでしょうか。昨年7月に英国の航空関係調査会社Airtraxが発表した2007年のWorld Airline Award によると、全世界で93を超える国籍の乗客総数14836129人に面接を行い、機内サービスなど35項目についてのアンケート調査の結果、第1位となったのは、 シンガポール航空で、次いで タイ、キャセイ・パシフィック、Qatar_airways_logo カタール、Logo1a_qantas_w130 カンタス、Malaysiaairlineslogo_new マレーシア、Air_new_zealand_logo エアー・ニュージーランド、 中華、 エミレーツ、英国航空の順。なんと、欧米の航空会社でトップテンに入ったのは、英国航空だけでした。ちなみに、2006年は英国航空がトップChina_airlinesの座を占め、残りのトップ5は、カンタス、キャセイ・パシフィック、Thaiairlogo03タイ、エミレーツ航空でした。Emirates_logo私の経験でも、これら東南アジア系の航空会社ではエキゾチックで微笑みを絶やさないスチュアーデスが魅惑的で、お客本位のきめ細かいサービスをしてくれます。その逆に、頑強なおばちゃんスチュアーデスがつっけんどんなまでにてきぱきと食事や飲み物を配布するのが昔のノースウェスト。568pxnorthwest_airlines_logosvg_000以前、アメリカ人の友人にその話をしたら、「そりゃノースワーストだな」と言っていましたが、今はどうなのでしょうか。

甲斐 晶(エッセイスト)

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シューベルト生誕200周年

 「ウィーンは、ウィーンにやって来た多くの音楽家の命を奪った。」と評したひとがいます。確かにモーツァルトはザルツブルグに生まれ、ベートーベンはボンに生まれ、ブラームスはハンブルグに生まれたのですが、結局ウィーンに活躍の場を求めて到来。何れも最後は、ウィーンの地で息を引き取ったのです。

 ところでウィーンで亡くなった多くの音楽家の中で、歌曲王シューベルトの場合は生粋のウィーンっ子。1997年はその生誕200周年の記念の年にあたり、ウィーン市内のあちこちで、これにちなんだ催しが年間をとおして行われました。Schubert

 「僕は、ただ作曲するだけに生まれてきたんだ。」とは、シューベルトの言葉。実際、その短い生涯の間に、モーツァルトよりも多くの作品を残しています。ウィーン市歴史博物館では、8月末まで、"Schubert '97"と題する特別展が開かれ、約1000点に上る現存作品の全楽譜が詳しい解説付きで展示されました。そのうちの約300がオリジナルですが、モーツァルトやベートーベンの書き殴ったような楽譜を見慣れている者にとって、きちっと丁寧に書かれた彼の自筆の楽譜は新鮮な驚きです。まるで印刷したみたいなのです。彼の身の回りの品も展示されてはいますが、物質的な世界に無頓着だったその暮らしぶりを反映してか、余り多くありません。

 この特別展の入場券は、記念館である彼の生家と臨終の家への共通入場券ともなっていました。彼の生家は、市内9区のNussdorferstrasse 54にあります。展示品の中には、彼の愛用していた眼鏡もありますが、彼は、しばしば夜寝るときにもこれを外さず、翌朝目覚めてすぐに作曲にかかれるようにしていたそうです。彼が息を引き取ったのは、彼の兄弟の家(Kettenbrueckengasse 64)で、ここには遺髪と最後の作品を弾いたピアノなどが展示されています。Kirche2

 彼の生家の裏手、Marktgasse 409区)にあるLichtental教会は、彼が洗礼を受け、オルガニストを務め、その宗教音楽の幾つかが初演されたところです。ここでは、シューベルトの作曲したミサ曲の全てが112日までの毎日曜、午前10:30からの礼拝で演奏されていました。

 その年の5月の末にウィーンに出張した際に私も出かけてみました。入場無料だからでしょうか、定刻の遙か前にほぼ満席です。礼拝の一環としてミサ曲が演奏されるのですが、円蓋の下の内陣にオーケストラと聖歌隊、それに男声と女声のソリストを配置。このため音響効果は抜群で、大いに感銘を受けました。その日の曲目は、彼が1814年に作曲した最初のミサ曲(ヘ長調ミサ、D105)で、やはりここで初演されたものです。(早速、記念にと思い、市内のレコード店でこの曲のCDを求めてみました。大して大きなお店でもないのに、オーストリア放送協会交響楽団(ORF)が演奏したもの、ウィーン少年合唱団が共演したものなど3種類もの品揃えがありました。Bodaizyuさすがは、音楽の都ウィーンだなと実感したものです。)

  また、1025日までの毎土曜日、20:00から、この場で記念コンサートが開かれ、「野ばら」から「菩提樹」まで、「ドイツ舞曲」、弦楽四重奏曲「死と乙女」から様々な交響曲のハイライトまでポピュラーな作品が演奏されました。

このほか、7、8月の夏の音楽祭の一環として、毎木曜日、19:00Augustinerkirche1から、生家記念館においてピアノ曲の演奏会が、さらに、かっての王宮付属教会であったAugustina教会でも10月下旬まで、毎金曜日、19:30から宗教作品のコンサ-トが、また、毎日曜日、11:00から礼拝の一環としてミサ曲が演奏されました。

 11月には、彼の作品を年代順に紹介してきた恒例のSchubertiade15回目を迎え、いよいよ最終回となり、楽友協会で開催されました。  

  こうして、年末、1221日のウィン・フィルの定期公演において交響曲第6番が演奏される時に至るまで、生誕200周年の記念の年には、いつもどこかでシューベルトの音楽がウィーンの町に響きわたったのです。

    甲斐 晶(エッセイスト)

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ネットオークション

皆さんは、ハイダ・ベッド(hide-a-bed)をご存じですか。15814_2普段はソファーとして使用しますが、急な泊まり客があった時には、ベッドに早変わりします。 日本のはソファーベッド(写真:右上)と呼ばれているもので、ソファーの背もたれ部分が倒れてベッドに変わるタイプです。 これに対してハイダ・ベッドは、Qturkuazソファーの腰掛け部分の下にベッドが折り畳んで収納されていて、これを引き出すとダブルベッドとして使用できるのです(操作:右下連続写真参照)。日本では余りポピュラーではありませんが、欧米ではこのタイプがごく普通です。

ハイダ・ベッドの存在を知ったのは、アメリカに留学した時のことです。家族用学生住宅に住んだのですが、居間に備え付けの家具としてハイダ・ベッドがあり、思いがけない泊まり客の時に大変便利でした。 ウィーンに居た時も、転勤する外交官が日本人会会報に出した広告を目敏く見つけて購入。 専用の客室がなかったものですから、気の置けない泊まり客の場合には、居間のハイダ・ベッドが大いに活躍しました。

ところで、嫁いだ娘が昨年夏に実家の我が家で出産することになりましたが、手狭な我が家では余分の寝室がありません。ハイダ・ベッドがあったらなあということになりました。

インターネットで情報を得ようと、「ハイダ・ベッド」で検索しても該当無し。「ソファーベッド」に変えると何と140万件もが該当。 仕方がありません、頭から、虱潰しにクリックして行きます。でも出てくるのは、いずれも背もたれが倒れるタイプ。根気よくクリックしているうちに、何頁目かでようやくハイダ・ベッドに遭遇、ヤフー・オークションに出品されている物で、確かにこちらが求めているものでした。

入札開始価格は3000円。残り時間は1日余り。出品者への問い合わせと回答の記録はありますが、まだ誰も入札していないようです。Auction

ヤフー・オークションに参加するには、まず登録が必要です。手続きを済ませ、3500円で入札。こちらは、初心者なのでシステムが良く分かりません。3500円としたはずなのに、入札価格の表示は3000円のまま。後で判ったのですが、この時入力していたのは「最高価格」で、そこまでは、入札価格を上げる用意があるという、株式市場で言う「指し値」だったのです。このことが、土壇場まで分からず、後で述べるように無駄な緊張をする羽目になりました。

その後も入札者が現れず、しめしめとほくそ笑んでいた矢先、何と締め切り5分前になって対抗者が出現。3500円を越える価格で入札してきます。では5000円ならと応じると、間髪を入れずにオークション管理者から相手が5500円にしたのでこれを上回る価格で入札するように促されます。5600円にすると、すぐ相手は5700円といった具合。競争者を上回る数値を入れると即座にこちらを上回る数値が表示されます。どうも、当方が先方の指し値(最高価格)以下で応札して来る限り、当方の価格を上回る入札を自動的にやるシステムになっているようです。こうなると、先方の指し値が幾らか推定しつつ、姿の見えない敵を相手に応札。この間、残り時間は延長に次ぐ延長。早く確定しないかと、はらはらどきどき、心臓に良くありません。

ベッドのリース料金などをネットでチェックしつつ、家内と相談しながらの入札。相手もなかなか諦めません。神経戦です。結局、当初価格の10倍以上の値でこちらに落札。最後の5分間の実に長かったこと。どうも出品者が入札していたのではと勘ぐりたくなる始末です。振り込め詐欺防止のため、代金引換で配送を依頼。ちゃんと美麗な品物が届きました。Users06img600x4501198893728p1240324

次に、落札したのはVORNADO社の足温器。それまで10年ほど使用していたもののスイッチが壊れてしまいましたが、メーカーでは生産中止で修理不能。ヤフー・オークションで見ると1000円での出品がありました。今度は競争者もなくこの価格で入札に成功。どうも、これからネットオークションに嵌りそうな気配です。

甲斐 晶(エッセイスト)

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三島良績先生の想い出

 1997年の春早々、三島良績先生が急逝され、Img_kanei_2そのご葬儀が上野の寛永寺輪王殿において、ご親族や関係者多数の参列の下、盛大な中にもしめやかに執り行われました。ご交友関係の広さを反映してか、祭壇には数多くの生花が飾り付けられていました。その贈り主の名前の多彩さを見るにつけても、先生がご専門の原子炉燃料や材料ばかりでなく、野球、切手、猫の会など、幅広いご趣味をお持ちであり、何れの面でも第一人者であられたことを伺い知ることができました。

 先生は座談の名手であられ、酒脱な語り口は先生の講義でも同様。東大原子力工学科三大名講義のひとつとして、学生に大いに人気がありました。 私もIAEA在勤中に、会議などでお見えになった三島先生をウィーンの我が家にお招きする機会が何度かありました。夜の更けるにつれ、先生のお話はますます楽しく、本職の核燃料の分野に留まらず、草野球、切手、印刷と広範多岐。いずれも大変蘊蓄に富んでいて、開く者を飽きさせず、ふと気がつくと深夜であることもしばしばでした。

 Img_01311 先生は並外れて几帳面です。これが遺憾なく発揮されたエピソードがフランクフルト空港での置き引き事件。カウンターでの搭乗手続き中、ふと足下に置いた鞄が盗まれてしまったのです。

 この鞄の中には知人に頼んで入手したナチ時代の珍しいオーストリア切手や貴重な日記などが入っていたそうです。切手はまた買えば済むものの、日記の方はその日の天気や出したり受け取ったりした手紙の内容などを克明にメモしたものだそうで(そこまで記録するところが、先生のまめなところです)、諦めるに諦め切れません。

 その日の天気の方はご令息の日記と照合するなどし、その他はご自身の記憶を辿って、ようやく日記を再構築したところ、盗まれていた鞄が出てきたとの朗報。価値ある切手は残念ながら盗られていましたが、泥棒にとって無価値の日記の方は幸いにも鞄に残されていたそうです。早速、書き直した日記と戻ってきたオリジナルとを比べて見たところ、その内容はほとんど違っていなかった由。それ程の記憶力なら日記など付ける必要はないわけで、何とも凄い先生です。

 先生はまた印刷物の蒐集家でもあられました。その昔、原子力発電所の安全審査の現地調査でお供をした新幹線の車中。食べた駅弁の箸袋と外側の包装紙をしっかり集めておられたのが記憶に残っております。お話によれば、旅の記念に切符や入場券などはもとより、機内食に出るチーズやジャムのラベルも蒐集されておられたとか。Pen これに、愛用のオリンパス・ペンで撮った、おびただしい数の旅の写真が加わります。その整理だけでも大変だと思うのですが、これまたまめになさり、我々のごとき者までにも、スナップ写真やお書きになった随筆の写しなどを、時機を失せずに送って下さり、恐縮することもしばしばでした。

 こうした資料の保管のために、ご自宅には荷重計算はもとより、耐震設計、浸水対策を施した本格的な書庫を設けておられたほどです。Yasudakodoそして、卒業25周年の教え子の集まりなどに呼ばれると、大学紛争の当時に配られた「卒業式粉砕!」の全共闘のアジビラなどを書庫から持ち出して披露。集まりの場の雰囲気を盛り上げておられました。

 ご専門の金属学の分野で、さすがと思わされたのは、三島家代々のお墓の納骨室の扉の件です。先生がまだ現役時代のこと。御尊父だったでしょうか、どなたかがお亡くなりになって、いざ納骨という段になり、久しぶりに納骨室の扉を開けてみたところ、すっかり腐り果てていたとか。Ingotこれでは「紺屋の白袴」で金属屋の名折れだとばかり、当時はまだ珍しく、高価で生産量も少なかったチタンに着目され、納骨室への扉とその支持枠を総てチタン製にされたそうです。

 「これでもう納骨室の扉は未来永劫もの。納骨室にはまだ余裕があるが、次にそこに入るのは、年から言って自分かな。」などと当時冗談を仰っておられた先生でした。今や、ご自分の設計された、朽ちることのない納骨堂の扉にしっかり守られて、安らかに眠っておられることでしょう。

             甲斐 晶(エッセイスト)

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熱中モーツァルト

Ipod4547597520239 還暦を祝って家内と子ども達から容量60Gのアイポッドを贈られました。シルバーのボディーに名前と「祝還暦」の文字が刻まれたもので、早速、図書館からCDを借りて来ては、大好きなモーツァルトの曲などをせっせと取り込みました。

彼の作品の研究家ケッヘルによって、ほぼ作曲年代順に全作品にケッヘル番号が割り振られていますが、最後が未完成のレクイエム、K.626です。オペラのように多数のアリアで構成される作品でも1つの番号ですから、正確な曲数は626を大いに上回ります。努力の甲斐あって、彼の曲目の殆どをアイポッドに取り込むことが出来ました。Popup_ae_large_01毎月のモーツァルト協会例会で演奏される予定の曲をプレイリストに入れては通勤時の車内で楽しんだりしています。

かなりの圧縮度にも拘わらず音質は極めて良好で、 これにボーズ社製の高性能ヘッドフォンを接続すれば、海外出張時の機内での無聊もモーツァルトの名曲で大いに慰められます。ただ、彼の曲の持つ「f分の1ゆらぎ」による癒し効果のせいか、聴き始めると間もなく睡魔に襲われてしまうのが「玉に瑕」です。

 Koshibaq ところで、モーツァルト愛好家の集まり、日本モーツァルト協会では、正会員一人一人に独自のケッヘル番号が割り当てられており、正会員数はケッヘル番号の数、626名に抑えられています。この数を超えると、正会員として入会が認められるまで待機会員とされます。(私の場合には、数年間、待機会員の身分を余儀なくされました。)しかし、ケッヘル番号の有無の違いだけで、正会員と待機会員に権利の差はなく、年10回開催される月例演奏会を楽しめます。例会には、ノーベル賞物理学者の小柴昌俊先生も見えたりします。 同好の友人や知人にも声を掛けた結果、これまでに孫会員も含め7名が正会員となっていて、Mozvonlange1_gh会員獲得に少なからぬ貢献をしたと自負しています。

2006年の生誕250周年を巡るモーツァルトブームも去り、一時期増加した会員数が大幅に減少し、待機会員の数も激減。今入会すれば、すぐ正会員になれる絶好のチャンスです。あなたも如何でしょうか。

甲斐 晶(エッセイスト)

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モーツァルト協会

 Mozart 1998年の7月4日、東京のイイノホール(残念ながら昨年末に閉館してしまいました)において日本モーツァルト協会の例会(コンサート)が行われました。通算第400回を記念するもので、海老澤敏会長(第3代)の挨拶に加え、関係者への感謝の品の贈呈などが行われたところで、モーツァルトの2つの管楽合奏作品の演奏に移行。N響首席奏者3名を含むN響団員を中心にしたメンバー構成で、さすがに素晴らしい演奏でした。

 日本モーツァルト協会は、Horiuthi11020勿論、モーツァルト(17561791)の音楽をこよなく愛する人々の親睦団体で、1955年に発足。特定音楽家の愛好団体として我が国では、草分け的存在です。発足の翌年、1956年には、モーツァルト生誕200年の記念行事を行っていますが、この準備のためにその前年に発足したという事情もあったようです。初代会長は音楽評論家の 堀内敬三氏で、2代目が属(さっか)啓成氏。1994年の属氏の逝去に伴って、現会長の海老澤敏氏に交代しています。Ebisawa002

 さて、皆さんご存じのように、モーツァルトの全作品には、年代順に整理番号(ケッヒェル番号:K)が付されています。協会員になるとこのケッヒェル番号が会員番号として与えられるのですが、ケッヒェル番号は無限ではなく、626番までですから、日本モーツァルト協会の会員数は、626人に限定。欠員が生じない限り会員は補充されず、会員になるのは至難の業です。しかも会員2名による推薦が必要とも聞いていましたので、とても無理だと初めから諦めていました。

 ところで、私の職場がたまたま例会の会場、イイノホールに近く、また、奥様が会員である職場の同僚が「残念ながら、今日は都合がつかないから」と入場券を融通してくれたことから例会に出向いたのが、私の日本モーツァルト協会との初めての出逢いでした。そこで初めて、会員でなくても当日入場料(臨時会員券)を払えば例会に参加できることを知り、以後、イイノホールの前に立てられる看板の案内を見ては、時折、例会に出たりしていました。Iinohall_top_1

 そうこうする内に、正(K)会員626名に加えて、準(T)会員という制度があることを知り、早速申し込みました。年会費は4万円で、これを一度に支払うのはなかなか大変なものがあります。しかし、年間に10回開かれる例会の入場料が毎回4,500円で、正及び準会員は無料で入場できることを考えれば、割安と見なすこともできます。

 例会では、当然のことながらモーツァルトの作品が中心。これに、彼とゆかりのある音楽家の作品が加わります。管弦楽あり、声楽あり、独奏曲あり、協奏曲ありとバラエティに富んでおり、また、時には、カウンター・テナーの米良美一氏Mera のような有名人が出演することもあって、とても充実した演奏会です。また、音楽もさながら、会場で配られる演奏プログラムを兼ねた会報に載る曲目解説(海老澤敏会長の手になることが多い)も、毎回読み応えがあります。さすがに名高いモーツァルト研究家の海老澤敏会長ならでは。大変に格調が高く、また蘊蓄に富んだ曲目解説で、毎回、読むのが楽しみです。

 ところで、例会の会場には残念ながら若者が少なく、年輩者の姿を多く見かけます。大概は、既に第一線からリタイアしているとおぼしき初老の男性が一人だけで来ていますが、白髪混じりの老夫婦も時たま見かけたりします。

 会員の高齢化が進んでいるとの嘆きが会報の記事にも散見するので、このままで行けば、準会員から正会員に昇格してケッヒェル番号を貰えるようになるのもそう遠くはないと、密かにほくそ笑んでいる私ですが、同じようにそう思って待っている準会員の数は、230人以上。しかも私は、そのウエイティング・リストの下の方なのです。

 私と同じ頃に準会員となった、某病院長の見立てでは、まだまだとても皆さんお亡くなりになりそうにはないとのこと。この分では、2006年のモーツァルト生誕250年記念の年までには正会員になれそうにもなく、こちらがリタイアメントを迎えてしまいます。そうなると4万円の年会費は応えるなあと、憂えていた私なのです。

  甲斐 晶(エッセイスト)

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モーツァルトの住家

 Salzburg1q ザルツブルグは、私の好きな町の一つです。イスタンブール、ナポリと並んで世界で最も美しい都市三つの中に挙げる人もいます。 Geburtshaus_vorderansicht_2

 学生時代、今から30年以上も前に、英国留学の帰路に立ち寄ったのが初めて。 定番のモーツァルトの生家を訪れ、その余りの質素さに驚いたり、0962kuecheimghゲトライド・ガッセの趣向を凝らした判じ物のような看板に興味をそそられたりしました。 Salzburg_4また、ミラベル宮殿の端正な庭園越しに遠くそびえ立つ城塞、ホーエンザルツブルグ城の姿に惹かれ、ケーブルカーで登った城塞の上から眼下に広がる眺望を堪能。大聖堂を中心とする旧市内の瀟洒な町並み、不思議にSalzburgmirabellgartenaltstadtfestu緑白色のザルツアッハ川の流れ、アルプスを彷彿させるような急峻な近くの峰々の姿が今でも印象深く心に残っています。

 その後、2度にわたるウィーン赴任中にも、春夏秋冬の折に触れ何度もザルツブルグを訪れたり、知人や友人たちを案内したりしましたが、その度に新たな発見をし、自然と歴史と芸術が融合したザルツブルグの美しさに魅了されました。

 Pd751204 特に好きなのは、現在美術館となってしまったカフェー・ヴィンクラーからの眺めです。旧市内の半分を包むようにそそり立つメンヒスベルクの岩盤をくり貫いて造られたエレベーターで昇ると、そこがカフェー・ヴィンクラー。そのテラスから、ホーエンザルツブルグ城をバックに、大聖堂を始めとする旧市内の種々の教会の塔や屋根が競い合うように並ぶ姿はとても美しく、いつまで眺めていても飽きませんでした。モーツァルト没後200年記念レクイエム公演を聴きに訪れた際にそこから撮った、雪降る中に幻想的に浮かぶ旧市内の写真。時折、部屋に飾って見る度に、ザルツブルグの素敵な思い出が新たになります。

  Mozart_wohnhaus さて、旧市内にあるモーツァルトの生家ほどの人気はありませんが、生家が手狭になったために一家が転居し、その後7年間にわたって住んだ住居、「モーツァルトの住家」がザルツアッハ川右岸、旧市街の外のマカルト広場にあります。

 第2次世界大戦中の空襲で破壊され、その後、一部修復されてはいましたが、だだっ広い部屋にピアノがぽつんと置いてある程度の展示物。訪れてもあまり感激が少ない、みすぼらしいものでしたが、住家の所有者、国際モーツァルテウム財団1989年以来、復元事業を開始し、世界各国の篤志家からの寄付を得ました。モーツァルトの時代の姿にようやく甦って、彼の240回目の誕生日、1996年1月27日に一般公開。丁度この年の4月に、チェルノブイリ事故後10周年記念の専門家会合がウィーンで開かれ、これに出席したついでに、週末を利用して修復なった住家を訪れて見ました。

 入り口を入ると、以前に比べとても明るい感じに仕上がっています。玄関ホールの壁には、復元事業に多大の貢献をした第一生命の単独の銘板や寄付をした個人・企業・各国のモーツァルト協会などの名前を刻んだ2枚の大理石の銘板が取り付けられています。総額380万円を寄付した日本モーツァルト協会の名前もちゃんとあります。

  0291familienbild_wh_2 展示品も以前より充実。指定のポイントに立つと英語の解説がFMで聞ける装置を貸してくれるのでとても便利です。室内の装飾も天井、壁、床、シャンデリアまで往時のままに再現。あの有名な「モーツァルト一家の肖像」 も壁に掛けられています。モーツァルトとお姉さんのナンネルがピアノを連弾。その横にバイオリンを持つ父レオポルトが座り、壁には、既にこの世を去った母マリア・アンナの肖像が掲げられている構図のものです。

  旅を続けたモーツァルト親子の欧州各国の足跡などハイテクを駆使したディスプレイやSONYの高級機種を用いたオーディオルームなど愛好家から見てもとても興味深い展示となっていました。

  ただ一つ難を言えば、くだんのFMによる解説装置。ドイツメーカーS社のものでしたが、指定のポイントに立ってもいつも解説の途中で、初めに戻るまで待たなくてはなりません。また、指向性のせいなのでしょう、展示物をよく見ようと体を動かすと次のポイントからの音波と混信。フラストレーションが高まります。これを日本の技術で改善すれば大いに喜ばれると思うのですが・・・。 

     甲斐 晶(エッセイスト)            

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