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2008年1月

エリザベート

 2f016wien0 1998年4月25日、アン・デア・ウィーン劇場において、丸5年以上にわたってロングランを続けてきたドイツ語のミュージカル「エリザベート」が大好評のうちに千秋楽を迎えました。

 「エリザベート」は、シッシィ(Sisi)の愛称で親しまれた、美貌のオーストリア皇妃の悲劇的な半生を描いたミュージカルです。彼女のお姉さんとその従兄弟、若きオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフとのお見合いの場に居合わせた彼女が、皇帝に見初められ、お姉さんに代わって皇妃に選ばれたことから、その数奇な運命が始まります。

 Cb3a3b68 その時、彼女はわずかに16才と3ヶ月。しかし、おとぎ話のように甘いはずのロマンスもじきに辛いものに変わってしまいます。自由奔放に育ったシッシィにとって、ウィーン宮廷の厳格な礼儀作法・しきたりには、うんざり。叔母さんである姑のゾフィー皇太后や宮廷員達との仲も最悪です。きらびやかな籠の中にあって窒息しそうになり、宮廷の務めや夫から逃れる方便として急病になるコツを直に修得。これらに時間を費やす代わりに、自分のスリムな容姿や美しく長い髪の手入れ、詩作、乗馬などに費やしましたが、それでも彼女の心に安らぎは、もたらされませんでした。

 060922002 いつも大きなメランコリーを感じていたシッシィは、ヨーロッパを端から端まで常に旅し続けることによって、これを紛らわそうとしました。そして1898年、そうした旅の途上、レマン湖畔で、イタリア人無政府主義者、ルケーニによって暗殺されてしまうのです(右:暗殺場所の記念碑)。

 Lucheni1nj3 ミュージカル「エリザベート」は、過去100年間にわたって煉獄で続けられているルケーニ(写真:右)の審問で始まります。「なぜ彼女を殺したのか」との尋問に対して彼は、「彼女は、『死』(トート)と恋仲にあり、彼女自身が死を望んでいた。」と主張し、「『死』が彼にナイフを手渡したからだ。」と自分の行為を正当化します。そして、彼が狂言回し役となってミュージカルが展開。色々なエピソードを交えながら、真に自立を目指した女性としてのシッシィ像が描かれて行きます。Erzsebet1867

 M・クンツェの詞とS・レバイの曲による音楽は、「キャッツ」などを手がけたA・ロイド=ウェーバー風の名曲揃い。特に、シッシィが歌う主題曲、"Ich gehoer nur mir"(私は、私だけのもの) は、『死』と彼女が舞う場面での曲、"Der letzteTanz"(最後のダンス)と並ぶ珠玉の名曲です。また、ジャッキによってそれぞれが上下に独立して動く8分割の舞台全体が回転するようになっていて、場面展開に応じて複雑に動き、圧倒させられます。さらに、舞台構成や演出の面でも色々なアイデアが盛り込まれており、見ていて大いに楽しめます。

 観客は、断然若者が多く、特に、千秋楽のこの日には、舞台と観客が一体となっていました。開演前、客席にオリジナル・キャストが現れると熱狂的な歓声と拍手。舞台に主役が現れても同様です。一曲歌い終わるごとにキャー・キャー、ワー・ワーと大騒ぎ。これがマナーにうるさいウィーンの劇場なのかといぶかしくなるほどでした。

 実は、このミュージカルは、日本とハンガリーでもそれぞれの国の言葉とキャストにより公演されました。Elisabeth_2 日本では、宝塚歌劇が2度ほど行いましたが、全く宝塚風にアレンジされ、オリジナルとは似て非なるもの。何しろフィナーレには、主役がそれぞれカーニバル風の羽根飾りを背中に背負って、電飾階段に登場。最後は、タイツ姿で黄色い声を上げての宝塚恒例のラインダンスでした。 ウィーンの千秋楽の舞台では、メインの公演が終わった後、間髪を置かずに余興として、オーストリア、日本、ハンガリーそれぞれのエリザベート役3人とオーストリア、日本の『死』(トート)役2人がそれぞれの言葉で競演。 日本版トート役は、元宝塚雪組トップの一路真輝でしたが、宝塚風の衣装と振り付けで「最後のダンス」を唄い終わると、客席は、万雷の拍手に沸いていました。

 この年の9月10日は、エリザベートがジュネーブ湖畔で暗殺されてから丁度100年目。これを記念してウィーンでは、エリザベートにゆかりの3ヶ所の宮殿において展示会が行われました。

甲斐 晶(エッセイスト)

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スロバキア出張

 10年ほど前になりますが、3月末にIAEAとスロバキア原子力規制庁(UJD)との共催による中・東欧諸国の規制当局とメディアを対象にした原子力安全と広報に関するセミナーがスロバキアの首都ブラチスラバで開催され、私もこれに参加しました。Dsc11391

 Bratislava1 ブラチスラバは、ウィーンの西方、約60kmにあり、オーストリア・ハンガリー二重帝国時代の前にはハンガリー王国の首都だったこともあります。その地理的・歴史的な関係から、チェコ共和国のプラハと同様に、どことなくハプスブルグ朝の影響を感じさせる佇まいがあります。Sk_3

  スロバキア(国旗:右上)という国は、日本人には、あまり馴染みがなく、 スロベニア(国旗:右中)Si_2 と区別が付かない方も多いことでしょう。1991年に中・東欧を吹き荒れた民主化の嵐の中で、いわゆるビロード革命によってチェコ・スロバキア共和国として旧ソ連の支配下から独立。Cz_2 その後、民族的自立を求める民意によって、1993年にチェコ(国旗:右下)から分離独立しました。

 ところで、スロバキアには、運転中及び建設中の原子力発電所がそれぞれ1つづつあり、電力需要の半分以上を担っています。ところが、独立前にこれらの建設、運転、安全規制に当たっていたのは、そのほとんどがチェコ人。(基本的には、チェコが工業国、スロバキアが農業国の役割を担っていました。)独立したのは良いのですが、原発技術者の養成、安全規制体制の確立を急遽ゼロから始めざるを得ませんでした。しかもその炉型は安全性に問題のある旧ソ連型でしたから、これらの責務に加えて安全性の向上作業も行わなくてはならず、このため日本を含む西側諸国の強力な支援が行われました。

 Img33273838 ブラチスラバを訪れたのは、実に8年ぶり。当時は、共産圏時代で出入国のチェックが厳しく、あちらで安く求めたボヘミアグラスを国境で咎められないかと冷や冷やものでした。共産圏時代には、町を行く人々もどことなく暗くて陰鬱な雰囲気。また、建物や交通機関のメンテナンスは余りなされておらず、どことなく薄汚れた風情。今回、それがすっかり綺麗になっていたのには、驚きでした。西側の企業の進出も目覚ましく、情報・通信、自動車などのメーカーのオフィスや広告をあちこちに見かけました。マクドナルドも旧市内にあって、結構、流行っているようでした。P5042086

 しかし、あれ程安かった物価も民主化・独立後に急騰。5倍ぐらいになっているのでしょうか。しかし給料はそんなに上がっていないので大変だ、というのがUJD職員の率直な感想。それでも、市電の料金が約30円、ホテルの朝食代が400円ですからまだまだ安い感じがします。会議参加者と中華料理屋(世界中どこに行ってもあるのです)で夕食を摂ったのですが、たっぷり飲み食いしても一人当たりわずか1600円でした。P5040086

  民主化によって人々の思考パターンが一朝一夕に変化したわけではなく、原子力広報担当者にもそれなりの苦労があるようです。彼らが強調していたのは、市民に対し、まず、「自分なりの意見を持っても良い」ことを認識させること、次に、「公的な機関が市民に何か進んで知らせるということは、必ずその裏があって、何か隠しているか、発表内容は真実ではない。」との共産圏時代に醸成された誤った認識を打破することでした。410_323_bohunice02

  セミナーの一環として、ボフニチェ原発を視察しました。4基の旧ソ連型軽水炉WWER440があり、そのうちの新しいもの(413 V2)のタービンホール、制御室、原子炉室を案内されました。V2は、インフォメンションセンターから5kmも先にあるほどで、広大な敷地に、巨大な冷却塔が並んでそびえ立っているのが印象的でした。まだ花は咲いていませんでしたが、建物の周りにはチューリップが植えられており、建物内部のハウスキーピングや放射線管理も良好に見えました。

 ただ、中央制御室で、運転員の緊張を和らげるためなのでしょう。ポップ調のBGMが常に流れていたり、プラント・パラメータの表示用CRT上に、ビキニ姿の女性の画像が出ていたのには、びっくりしました。運転員の注意力を散漫にするようなことは、日本では到底許されないことです。

          甲斐 晶(エッセイスト)

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続ネット・サーフィング

 今回も前回(ネット・サーフィング)に引き続き、オーストリアへのインターネットの旅を続けてみましょう。Logo

 まずメディア関係では大衆紙Kurierのホームページ(HP,)が充実しています。内容を理解するにはある程度のドイツ語力が要求されますが、眺めているだけでも結構楽しいものです。ニュース記事に加えて、TV番組の紹介からコンサートや展覧会、スポーツ試合の案内に至るまで、オーストリアやウィーンの生活情報が盛り沢山。例えば、"その他の天気(mehr Wetter)"をクリックすれば、ウィーン、オーストリア各州のみならず、世界各地の詳細な気象データ、天気予報が得られます。花粉情報や大気汚染情報に加え、山岳気象やスキー気象、農業気象のページがあるのもオーストリアらしいところでしょうか。また、Kurier紙のHPTV番組表や映画館情報も大変詳しいものが出ており、とても便利です。Oe1_logo

 オーストリア国営放送第1の番組をネット放送によって24時間聴取することが出来ます。放送内容は、ニュース、芸術・文化、音楽、教育、科学技術、宗教と多彩ですが、何と言っても良質のクラシック音楽を延べ16時間以上も楽しめるのが魅力です。演目の詳細は、番組表でチェック可能です。

 また、Report from Austriaというニュース番組(週末はThe Week in Review及びInsight Central Europeという番組となる)をiPodで楽しむこともできます。

 オーストリアやウィーンに関するホットな情報を得るには、以上に加え、高級紙Die PresseHPも参照すれば完璧でしょう。ここでは、数独パズルも楽しめます

 オーストリア観光に関する一般的な情報を得るためのサイトについては前回紹介しましたので、今回はちょっと変わったサイトをご披露しましょう。

 Damen_snowboard_382x138 オーストリアと言えばスキーなどウィンタースポーツが盛ん。スノー・シーズン中のTV放送では、各地のスキー場のゲレンデに設置されたTVカメラからの映像を早朝から延々と流すようなお国柄です。各スキー場の積雪状況、コース状況、雪崩注意報などの情報のサイトがあり、スキー場の様子をウェブ・カメラで生で見ることも出来ます

 Gc_bludenzbraz_2 オーストリアでもゴルフ人口が増えつつあり、お城に設けられた優雅なコースもあります。オーストリアゴルフ協会のサイトで、schlossと入力して検索すれば、そんなオーストリアのゴルフ・クラブのリストが得られます。

 Haus_im_winter_1_200x175_2 オーストリア国内の観光には、安くて清潔な民宿(Zimmer Frei)を利用した方が、人々との触れ合いを重ねながら人情味の溢れる旅ができますし、断然、経済的です。こうした民宿の検索サイトでは、希望の州をクリックすると宿泊施設の種類、設備等の情報とともに施設のリストが得られ、宿の写真や住所、電話、E-mailアドレスも載っていて、一部はオンラインで予約が可能です。

 Dorotheum_logo_seit1707 骨董品などのオークションにご関心があれば、オーストリア公営の競売施設であるドロテウムのHPがお勧め。サザビーやクリスティーに並ぶオークション・ハウスで、300年の歴史を有するドロテウムの沿革などの紹介に始まり、売買手続き、オークションの日程、商品目録などの情報が満載。オン・ラインでのオークションに参加もできます。Kaffelatte

  Logo5 さて、何と言ってもウィーンはコーヒー。伝説ではその起源はトルコ軍のウィーン襲撃に由来するとされていますが、コーヒーの老舗、ユリウス・マインルのHPも興味深いものがあります。コーヒー豆の焙煎・販売で商売が始められたのですが、今ではウィーンのグラーベン通りにある総合高級食料品店として有名です(「ユリウス・マインル」参照)。トルコ帽を被った黒人の坊やのロゴの由来、事業の沿革、系列事業といった事業案内ばかりでなく、コーヒーの栽培、収穫、焙煎、メランジェなどウィーンならではのコーヒーの名称16種の解説がなされていて、興味深いものがあります。オン・ラインで注文も出来ます。

              甲斐 晶(エッセイスト)

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ネット・サーフィング

 今回はインターネットを通じて得られるオーストリアやウィーンに関する色々な情報についてご披露しましょう。Austriainfo

 まずは総合的な情報源から。オーストリアについて何か知りたい場合には、オーストリア観光局のホームページ(HP)がお勧めです。オーストリアに関する一般情報、トラベルガイド、イベント、文化・芸術、有名人、メディアなどのジャンル別に整理され、単語による検索機能付きです。

 例えば、国立歌劇場でどんなオペラの出し物をやっているのか知りたい場合、6150146 「旅のテーマ」、「都市案内&文化」、「音楽・舞台芸術」と順次クリックします。そうするといくつかの項目が現れますが、その中から「オペラ、オペラッタ、コンサート」をクリックし、さらに、「ウィーン国立オペラ座を選ぶと、年間のシーズン・プログラムが現れ、日付、演目、作曲者、配役などの詳細な情報が得られます。このサイトが素晴らしいのは、単に月別のプログラムが出てくるばかりでなく、特定の演目を指定して検索すると、その演目の年間の全公演のリストやあらすじが表示されることです。また、演目のさわりを動画で見たり、チケット予約をネットですることもできます。0801

 風光明媚なオーストリア各地の景色などを眺めたければ、Austria Photo ArchivePictures from Austria: Vienna(Wien), Salzburg, Grazが秀逸です。芸術性の高い美しい写真が多数収録されています。

 一方、Austria Video  Archive - Austria from Aboveでは、オーストリア各地のお城などを空中撮影したビデオを見ることが出来ます。オーストリアの風物詩をビデオで楽しむなら、オーストリアの興味深い事物を紹介する英語のTV番組「ハロー・オーストリア、ハロー・ウィーン (毎週放映)を収録したサイトがお勧めです

ウィーン観光については、ウィーン市観光局のHPが便利です。Logowienat_en 演奏会・展覧会などの各種イベントの紹介はもとより、美術館・博物館・名所旧跡の観光案内からスペイン乗馬学校・ウィーン少年合唱団の案内、ペンション・ホテル・ユースホステルのガイド、地下鉄路線案内などが網羅されています。ウィーンに関するショート・フィルムのコレクションウィーンの森の散策コースの案内もありますLogo_neu_2

 ザルツブルグ観光についての同様なHPは、「ザルツブルグ情報で、特に名所旧跡案内は極めて詳細でとても参考になります。

 米国務省が作っているオーストリアに関するHPも一見の価値があります。観光案内こそありませんが、地理、民族、歴史、政府、政治情勢、経済、外交など、オーストリアについての基礎情報を得られます。

このほか、「オーストリア各地のビールというサイトも興味深いです。Submotiv_weinglas_2 実はオーストリアと言えばビールよりもワインで、Wines from Austria-A Taste of Cultureと題するサイトは、オーストリア・ワインの歴史、種類、産地などをカラフルに紹介。とても蘊蓄に富んでいます。

  世界最古と言われるオーストリアの動物園のHPも面白いものです。Nonja シェーンブルン動物園生まれの32歳になる雌のオランウータンNonjaは絵を描くのが得意で、その作品を売り出したところ即日完売に近く、€11000 (約170万円)の売り上げをもたらしたとか。Mai_2 インターネット上でその作品を鑑賞できますが、人間顔負けの芸術性に舌を巻くほどです。是非ご覧下さい

  この他にもオーストリアへのインターネットの旅を楽しくするHPは沢山ありますが、残念ながら紙数が尽きました。また別の機会としましょう。

                       甲斐 晶(エッセイスト)

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お手軽バード・ウォッチング

 最近バード・ウォッチングをする人が増えましたが、わざわざ野山に出かけて行かなくても、良く気を付けていれば、都心でも身近に色々な種類の野鳥を見ることが出来ます。

 郊外のお宅なら庭先に餌台を作って気長に待っていると、やがて鳥たちが見つけてやってきます。餌が確実にあって、危険ではないと分かって貰えるまでには少し時間がかかりますが、辛抱して待つことです。我が家の場合、以前住んでいたマンションのベランダですが、木製の屋根付きの餌台を買ってきて手すりに置いていたところ、一年余り経った冬にようやく野鳥が餌を食べに来るようになりました。自然界に餌が少なくなる冬場は、ベランダや庭先に野鳥を呼び寄せる格好の機会のようです。Shijukara_wb_3_001

 当然のことながら餌の種類によってやって来る鳥が違います。初めにむきアワとヒマワリの種を混ぜた市販の餌を置いたところ、まずやって来たのはシジュウカラとスズメでした。Suzume1612270 シジュウカラはヒマワリの種をくわえると近くの木の枝に飛んで行って、種を脚の指と杖の間に上手に挟み込み、嘴でつついて種を割って食べています。

 スズメのほうはもう少し神経が図太く、団体さんで来訪。しっかり餌台を占領して、嘴を左右に振ってアワだけを選んで食べるものですからヒマワリの種は跳ね飛ばされ、ベランダに散らかり放題で始末が悪くて困ります。スズメ君ご一行様にはお気の毒でしたがアワは止めにしてヒマワリの種だけとさせて戴きました。

 次にリンゴとミカンを置いたところ、シジュウカラよりやや大形の鳥が、つがいなのでしょうか、二羽で現われ、やや太くて長い嘴をストローのようにミカンの実にしっかり差し込んで果汁を吸っています。その名前が知りたくて日本野鳥の合の「フィールドガイド日本の野鳥」を求めました。Hiyo_dori1612280

 こちらに気付かれないようにカーテン越しに観察するのですが、なかなかその細部の特徴が掴めません。全体が黒っぽくて胸の辺りがまだらなのはクロツグミに似ていますが、嘴が黄色ではなくて黒くてやや太めなので違います。何度かその姿          を観察し、ようやく頭部が灰色ぽい水色で、その羽毛を逆立てるのがわかりヒヨドリと判明しました。

 ベランダでのウォッチングを重ねているうちに鳥の習性があれこれ分かってきます。同じ種類の烏でも個性の違いがあります。例えばシジュウカラは殆どが餌台でヒマワリの餌をくわえると安全のため近くの枝に飛んでいって食べます。これを一度に三回ほど繰り返すのが普通なのですが、中には大胆なのか、あるいは横着なのか、じっくり餌台の屋根の上で食べるものもいます。

 鳥も一日三食のようで、朝、昼、夕方の特定の時間帯には給餌に来る鳥のラッシュがあって、餌台の傍で順番待ちをしているのも見かけます。Karugamo95

 さて当事の我が家の近くの小川には渡りを忘れたのでしょうか一年中マガモがアヒルに混じって仲良く泳ぎ、冬になるとこれにお馴染みのカルガモや、ぴんとした長い尾のオナガガモが加わって河面は賑やかになります。Onagagamo_450_img_14

 朝晩の通勤途上これらの水鳥を眺めていて、ある日アヒルに似た奇妙な格好の鳥を見かけました。羽の色が白一色のものと見栄えのしない白と黒のまだら模様のものの2種類あり、目の周りの顔面が七面鳥のように一部露出していて赤いのが特徴です。その姿はお世辞にもかわいいとは言えず、むしろグロテスク。さすがに「日本の野鳥」には、記載がありません。百科辞典で調べた結果は、バリケン(一名台湾アヒル)でした。Bariken_1170002746

 ペルー原産の野生種が家禽化され、新大陸発見とともにヨーロッパに入り(その名前はオランダ語bergeendに由来)、その後台湾に伝来。丈夫で飼い易く、暑さに強く、藻や草を食べるのでこの川の浄化のため数年前にアヒルと一緒に放されたとか。ところがこの鳥が増え過ぎて、その強い飛翔力で川沿いのマンションの3階のベランダまで出かけてのフン公害。爪が鋭いので駐車中の車に乗って車体を傷つけたり、車道を我が物顔で横行するので今やすっかり厄介者扱いです。ものごとすべて中々思うようには行かないもののようです。

甲斐 晶(エッセイスト)                                     

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ラテン気質

 前回(イグアスの滝)は、イグアスへの旅で気付いたラテン気質の幾つかに触れましたが、今回もその続きです。 まずは、アルゼンチンでの話。Middle_1104147635 カルピンチョと言う小動物の革で作った手袋がとても柔らかくて暖かく、しかも汚れればそのまま水洗いが出来るというので、お土産に求めました。出国の際の免税手続きを尋ねると、私の場合、アルゼンチンからブラジルへ通過するのがイグアスからの陸路なので、ちょっと複雑。免税分の払い戻しは、空港の指定銀行でしか出来ないので、国内フライトなのにブエノスアイレスからイグアスへの搭乗手続きの際に税関でやってくれるとの話でした。

 ところが世話役のアルゼンチン人に空港に確認して貰うと、国内線では出来ないはずとのこと。あることを尋ねると十人十色の答えが(しかも何れも自信たっぷりで)返って来るあたりがラテン的いい加減さなのですが、そんな時は、「駄目元(駄目で元々)」精神に限ります。空港で実際に事情を話すとすんなりとOK。国際線の搭乗券を持っていないのに通関し、国際線内の搭乗エリアの銀行で免税分の払い戻しを無事受けました。Mapbrazil

 さて、イグアスでの会合が終わって、陸路ブラジル側に移動。そこの空港からリオデジャネイロへ飛ぶ日となりました。担当者は、通関手続きの時間も見込んで十分余裕を見てホテルを出たはずなのに、バスに乗って初めて、その日からブラジルではサマータイムなったことを知ります。フライトの出発時刻が1時間も早まるのですから、万事休す。隣国のブラジルのことなのに、アルゼンチン人が知らない(あるいは、担当者が確認もしていない)あたりが実に大らかでラテン的です。

 結局、ブラジル側の空港の搭乗カウンターに着いたのは、出発時刻の20分前。既にオーバーブッキングで予定のフライトには、乗れません。たまたま1時間後にチャーター便の戻りの便があり、航空会社の計らいで、これに乗せて貰うことになりました。お陰で、広いエアバス機内に乗客はほとんど我々のグループのみの状態。しかし、このフライト変更が後であだとなりました。

 先方の指示でフライトを変更したのにも拘わらず、係員がこれをコンピューターに入力するのを怠ったのです。このため、コンピューター上は、予定のフライトに乗客が現れなかった(ノーショウアップ)との扱いになり、後続のフライトの予約が全て自動的にキャンセル。折角予約してあった帰国のフライトに支障を来したメンバーが少なくなく、帰国直前までフライトが確定せずにやきもきしていました。このあたり、「ラテン気質のいい加減さが好き」などと呑気なことは言ってはいられない実例です。

 リオデジャネイロの交通マナーには、度肝を抜かれました。ラテン気質の最たるもの。無秩序の秩序とでも言うのでしょうか。通行人は、信号が赤であろうとお構いなし。動いている車の前後を流れの合間を縫って器用に横断。信号待ちの車の間に物売りが現れたりもします。したがって、車に乗っていると、急に人が飛び出してくるので、実に冷や冷やもの。しかし、良くしたもので、しばらくすると「郷に入りては郷に従え」で、同じようにやっている自分に気付いてハッとさせられました。All_2

 リオで両替したところ、渡されたのは、よれよれのお金。新札に替えてくれるよう頼んだところ、「よれよれの方が流通過程をちゃんと経て来ている証しであり、偽札でないことが証明済みなので却って有り難いのだ」との返事。そう言われれば確かにそうで、反論できません。このあたり、我々の感覚とは、ちょっと異なるところです。Rio

 リオでは、元IAEAの同僚でしたが後に国に帰って原子力委員まで務めたP氏に再会。空港までお出迎えで、例のイグアスからの1時間遅れのフライトを待っていて呉れ、リオのシンボルであるシュガーローフまで案内して呉れたり、自宅に招いて本格的ブラジルコーヒーを入れて呉れたりしました。もう、引退しているというのに、お抱え運転手付き。人件費が安いからとの説明でしたが、ブラジル上流階級の気質に触れた気がしました。

          甲斐 晶(エッセイスト)

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イグアスの滝

 今から10年ほど前になりますが、1年の間に2度もアルゼンチンの首都ブエノスアイレスに出かけたことがあります(初訪問は「地球の裏側」参照)。2度目は、たまたま会議の後半がブラジルの首都リオ・デ・ジャネイロでも開催されるので、両首都の中間地点、あの大瀑布で有名なイグアスで、会議の前半が行われました。International_hotel_iguazu

 会場は、アルゼンチン側の自然公園内のホテル・インタナショナル・イグアス(現在は、シェラトン系列になったようです)ジャングルのまっただ中にあるので、他にどこへも出かけられません。ほぼ1週間、朝から深夜までホテルに缶詰状態での会議。滝のそばまで来ているのにその見物をする暇もありませんでした。

 そうなると、唯一の楽しみは、3度の食事。滞在中、計8回の夕食のメニューが毎晩違っており、分量、味、栄養バランス、どれを取っても申し分ありませんでした。アルゼンチンは、分厚くて良質のステーキで有名なのですが、牛肉ばかりでなく、豚、鶏、七面鳥、川魚、鮭とバラエティ豊か。しかも、温野菜がたっぷりなのが野菜好きの私にとっては有り難い限りでした。お世話役のアルゼンチン人スタッフの話によれば、肉と一緒に野菜をどっさり食べるのは、何もこのホテルに限ったことではなく、アルゼンチンでは一般的とのこと。お陰で、アルゼンチン成人のコレステロール量は、少ないとか。とても健康に良さそうな食事です。

 さて、ホテルの周辺には、滝までの遊歩道やジャングル内を散策するための小径が設けられていました。ただ、最近、公園を管理するレインジャーの1歳半になる息子がジャガーによって噛み殺されたばかり。 「トレッキングは、午前9時から午後4時30分までに願います。」との掲示がホテル内のロビーになされていましたが、なぜ、午後4:30と言う中途半端な数字なのか。きっと、それがジャガーの出勤時刻なのでしょう。Iguazu3

 さすがに自然公園内にあるホテルです。日本では見かけない珍しい動物が現れ、間近で観察できました。 カラス大でカラフルな羽根と巨大な黄色いくちばしが特徴のひょうきんな鳥、オオハシ。アライグマに似ていますが、Adoバクのように鼻のちょっと突き出ているのが愛くるしいクアティなど。大きなトカゲ、イグアナの類も見かけました。

 ようやく週末に観光の時間が設けられ、会議参加者全員がアルゼンチン側の滝見物に出かけました。滝までの遊歩道が上下2本設けられています。下の道は、滝壺近くまで接近でき、滝を見上げる感じとなります。日本とは地球の反対側にあるアルゼンチンでは、これからが春で雨期の始まり。滔々と流れる滝の水の色は、まっ茶色。お世辞にも綺麗とは言えませんが、その水量と滝の雄大さには圧倒させられます。Cataratas_del_iguazu

 世界一幅の広い滝だそうで、100m程の落差の滝が275本、約4kmにわたって連続しています。水量は、ナイアガラの滝の1.5倍。米国ルーズベルト大統領がイグアスの滝を見て、「可哀想なナイアガラ」と言ったとか。那智の滝や華厳の滝を400本も並べた感じで、とても一枚の写真には収まりません。パノラマを眺めるなら、ブラジル側からがお勧めですし、ヘリコプターからの眺めも圧巻です。Nanbeiryokouiguas1008  

実は、滝の上にも遊歩道の橋が設けられているのですが、足下を濁流逆巻く上を歩くのは、勇気が要ります。何しろ一歩踏み外せばその先は、滝壺へ真っ逆さま。しかも大人がやっとすれ違える幅の遊歩道橋は、見るからに華奢。事実、有名な「悪魔の喉笛」まで延びていた橋は数年前の洪水で流失し、現在は途中までしか行けません。とても日本人なら造りそうもない遊歩道です。ラテン気質の現れでしょうか。Iguazu2 Nanbeiryokouiguas1019

 この他、滝見物には、エンジン付きのラバーボートで「悪魔の喉笛」近くまで出かけるものがありますが、こちらは、濁流と滝のしぶきに弄ばれる覚悟が要り、ずぶ濡れになること必定です。ラバーボートの旅は、滝の上流を行くのもあるのですが、エンジンが故障すればそのまま滝壺へ直行。予備のエンジンを積んでいるとも思えません。このあたり、やはりラテン気質なのでしょうか。

甲斐 晶(エッセイスト)

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観客気質

 欧米の国に出張した際には、できるだけその地のオペラやミュージカルを見るように心がけています。前回は、オペラ談義に話の花を咲かせましたので、今回は、国による観客気質・鑑賞マナーの違いに触れてみましょう。6150146

 まずは、ウィーンから。とてもマナーのうるさい地です。演奏中に音を出すのは、御法度。アメリカのように、ヒーローやヒロインが舞台に出てきただけで拍手などしようものなら、すぐさまこちらの方を睨まれたり、シーッと言われたりします。拍手は、演奏が終わって一呼吸置いてするのが常識。オペラのアリアが終わらないうちに、感激した観客が拍手をすると言うことはまずありません。51d8ixbmpl_ss500__2

 ところが、演奏が終わったからと言って安心して拍手をすると、これまた顰蹙を買う場合があります。それは、ワーグナーの祝祭劇「パルジファルの第1幕の後のこと。これは、厳粛な宗教的楽劇であり、礼拝的要素があるので拍手は自粛するようにとの原作者ワーグナーからの指示がなされているからです。

 日本の場合のように、開演前、切符の表示を見ながら勝手に自分の座席に行ってはいけません。必ず係員に座席まで案内して貰い、その人からプログラムを買って、端数の小銭をチップとして差し上げるのが習わし。また、会場での録音、写真撮影も御法度で、プログラムに日本語でそう注意書きがしてあるのには、同胞としてちょっと肩身が狭い思いがします(もっとも、最近では、幕間での撮影は許されているようです)。

 服装の方は、国立オペラ座の場合には、天井桟敷や立ち見席でもない限り、ジーンズ姿は見かけず、割としっかりしています。しかし、平土間などの上席以外では、夜会服など着た人はいません。時折、大した席でもないのに、きっとガイドブックの記述のせいでしょう。場違いにフォーマルな服装の日本人観光客を見かけたりします。An_der_wien_2

 左様までに、ちょっと堅苦しい雰囲気のあるウィーンなのですが、これは、もっぱら国立オペラ座の話であって、フォルクスオペラやミュージカルの場合には、もっと砕けています。アン・デア・ウィーン劇場に最近評判になっているミュージカル「エリザーベート」 を見に行ったところ、人気歌手が出て来ただけで、若者達が熱狂的な拍手をしていました。劇場の違いや客層の違いのためもあるのでしょうが、これもウィーンの姿なのかと驚かされました。2f016wien0

 これがロンドンやニューヨークともなるとそんなのは、当たり前。日本の宝塚歌劇のファンのように、打てば響くような観客ばかり。舞台と聴衆が一体となって盛り上がります。この点日本の観客は、一般に慎み深く、おとなし過ぎるようです。外国から来たエンタテナーが手拍子をするよう日本の観客に求めても、なかなか乗って来ないので苦労するそうです。

 これは、ニューヨークでミュージカル「美女と野獣」134533 を見たときのこと。私の後ろに座っていたラテン系の女性客達なのですが、興が乗ってくると歌手の歌に合わせて鼻歌を歌い出すのには、参りました。まるで自宅の居間でテレビの歌謡ショウを見ている風情。彼女達のラテン気質がなせる技かとも思ったのですが、このリラックスムードは彼らだけではありません。他の観衆もオーケストラの演奏が始まり幕が上がっているのに、ざわざわと私語をし続けたまま。とてもウィーンでは考えられない光景でした。もっとも、ロンドンで見たミュージカル"Me and My Girl"でも同様でしたから、ウィーンがちょっと堅苦しすぎるのかもしれません。Memygirl

 オペラやコンサートのように音楽を芸術としてじっくり味わうには、ウィーン式の鑑賞態度が良いのでしょう。しかし、オペレッタやミュージカルのように気軽にエンタテーメントとして楽しむには、舞台と観客が一体となって盛り上がる方がベターです。

 上に述べた観客気質の違いも、実は、お国柄による相違と言うよりも、案外、オペラとミュージカルの相違によるところが大なのかも知れません。

甲斐 晶(エッセイスト)

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オペラ談義

 30年以上も待ち続けていた新国立劇場が落成し、Zpfile000_2 そのこけら落としに團伊玖磨氏作の「健・TAKERU」の公演が行われのは、もう10年以上も前の平成19年の秋でした。ようやく国立のオペラ専用の劇場が出来、これで日本も本格的なオペラ時代が到来するのではとの高い期待がありました。    

  オペラの楽しさは、演劇と音楽が総合された芸術であるところにあります。したがって、初めのうちは、単に有名なアリアを聴くだけで大満足なのですが、次第に、演出家による演出の違いや、同じアリアでも歌手によってどう唄いこなされるのかを堪能したくて、同じ演目なのに何度でも見に(かつ聴きに)出かけるようになるのです。

 かく申す私も当初は、食わず嫌い。「あんな黄色い声を張り上げるものが何で面白いのか」と思っていたうちの一人でした。ところが30代半ばでウィーンに赴任。初めて本物に接し、その魅力に取り付かれて病膏肓になりました。これまで内外で鑑賞したオペラやオペレッタの演目は、全部で100種類以上にもなります。41baevqn7l_ss500_

  これらの中で、見る度に感激するのは、プッチーニのラ・ボエームです。お針子のミミと詩人ロドルフォの恋を縦糸に、彼の仲間の貧乏芸術家達の友情を横糸にして織りなされる人間模様。重病となって死期の間近なミミのために、仲間達がわずかばかりの持ち物をそれぞれ売り払って、薬などを用立てる場面は、涙無しには見られません。

  パリのオペラ座(バスチーユ)で見たときのこと。フランス語訳が舞台上方の字幕に出ていて、つたない私のフランス語力でも訳語を目で追ううちに登場人物の心の綾がひしひしと伝わります。「古い外套よ」と売り払う外套に別れを告げるコルリーネのアリアのところで、遂に涙が目から溢れ、これを隠すのに一苦労。幸い字幕が上の方にあったので助かりました。感涙を落とすのは、私だけではないようで、ブエノスアイレスのコンロン劇場で隣り合わせた老婦人とのオペラ談義でも、彼女はラ・ボエームで涙すると言っていました。51veskmtk9l_ss500_

   同じプッチーニの蝶々夫人も、彼女のけなげで一途な愛に心を打たれます。特に、待ち焦がれていたピンカートンの艦船が夜が明けると長崎港に戻って来るのを心待ちにする時に流れる間奏曲は、感動的です。ところがそんな彼女の純真な愛を踏みにじってアメリカ女性と結婚し、子供だけを引き取りに来るピンカートンの身勝手さは、ただただ腹立たしい限り。加えて、外国で見るこのオペラの登場人物の着物は、袖の大きさや帯の締め方など和服とは似て非なるもの。時には、主人公の着物が左前だったり、お辞儀をしながら合掌したり、畳の上を靴でずかずか上がったりと、日本人が見ると噴飯もので、見終わって憤りが残ります。51afbu0u6dl_ss500_

  ヴェルディの椿姫では、パリで高級娼婦にうつつを抜かしている息子のアルフレードにプロバンスの故郷に戻ろうと切々と諭すお父さんジェルモンのバリトンでのアリアが胸を打ちます。

  ところで、見ていて哀れなのは、同じヴェルディのリゴレット513i612ob0l_ss500_ 愛する一人娘が主君に拐かされた上、自分の差し向けた刺客によって殺されてしまうのです。この時の彼のアリアは、悲痛です。

  51qi9wmzusl_ss500_ 一方、ユーモラスなのは、モーツワルトの魔笛あまりに人間的なパパゲーノの生き方が火や水、無言の行を経て神殿入りを許されるタミーノとパミーナのカップルとは好対照で観客の笑いを誘います。51xzgoixnll_ss500_ 

  年末ウィーンで恒例の「こうもりも全編これ楽しい出し物。特に、監獄の場で黙役で出る看守のフロシュ役はコメディアンが務めるのが常で、そのコミカルな語りと演技にお腹を抱えます。 41z71kx8r8l_ss500_

  遺産が目当ての遺族から頼まれて、死んだ金持ちにまんまと成りすまし、偽の遺言状を書く羽目になるプッチーニのジャンニスキッキも人間の欲とそれに振り回される人々をコミカルに描き出していて実に愉快です。そうした泥臭い人間劇の合間に、娘ラウレッタのアリア「私のお父さん」などの珠玉の名曲がちりばめられているのです。

  かくしてオペラは、人間の喜怒哀楽をオーケストラ演奏と最高の楽器である声楽で描き出す素敵な世界。やっぱりオペラって止められませんね。

甲斐 晶(エッセイスト)

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ローカル路線の旅

 前回(日本の味覚)は、海外出張のおみやげのアイデアを列挙してみましたが、その中で海外では余り戴かないものの例としてワサビ漬けを挙げました。Img854_3

 ワサビ漬けは、新幹線の中の車内販売でも売りに来る静岡の田丸屋のものが有名ですが、その社長が実は某原子力関係法人の理事を務めた方だというのは余り知られていないところです。

 ところで、このワサビ漬け、地元の静岡では、田丸屋よりももっと有名なお店があるというのを地元出身の友人から聞いていたので、東京から浜松へのドライブの途中に寄ってみました。

 何しろ全て手作りですから、とかく品不足。午前中には売り切れてしまい、早々と店を閉めてしまうので、予約する必要があるというのです。東名高速に入る前に携帯電話で予約を入れ、途中のサービスエリアで静岡市近辺のガイドブックを購入して、目指す田尻屋への道順を確認します。 幸いにも、途中、大した混雑もなく、お昼前に無事田尻屋に到着しました。

 Tajiriya お店の構えは、それ程大きくありません。中央にシンボル的な大きな漬け樽がどーんと置かれている以外、飾り気のない店内。その傍らで中年の女性と男性が黙々と所定量のワサビ漬けを秤で取り分けては、次々に容器に詰めています。品物を注文すると、代金と引き替えに淡々と品物を渡してくれるだけ。愛想も素っ気もありません。これで良く商売が成り立つものです。

 Sz002501 ところで、旅を終えて自宅に戻ってから、その味を試してみてびっくり。ちょっと口に含んだだけで、良質のワサビの香りと刺激が鼻から額に直撃。半端な刺激ではありません。知人にもおみやげに差し上げたのですが、これまた好評でした。

  商品に添えられていたしおり、「元祖わさび漬由来記」を読んでみると、この田尻屋こそ今から240余年前の宝暦年間に、その初代の田尻屋利助が静岡名産のワサビ漬けを創意工夫して最初に造り始めたとのこと。お店の片隅で黙々と商品を詰めていたのは、初代から数えて八代目の店主夫婦だったのです。きっと昔気質なのでしょう。お店を立派にしたり、大量販売のために生産規模を拡大して支店を設け、新幹線で販売するといった路線を取らずに、昔ながらの創業地で操業。家内工業ベースで造った量が売り切れたら店じまい。商業主義に陥ることなく、頑固なまでに伝統の手作りの味を守り続けているのです。A2300200a Sekibeya  

 田尻屋で道を聞いて、東海道をさらに西に車を進めると、安倍川に掛かる橋のたもとに、もう一つの静岡名物である「あべ川もち」の老舗、石部屋を見つけました。ここのは、もち米100%で、つきたて。とても柔らかいのに歯ごたえがあり、新幹線で売られているものとは大違い。ここも、商品が売り切れたら、それで店じまい。やはり無愛想ながら、味はしっかりしています。今回は、試して見ませんでしたが、わさび醤油の「からみもち」も名物とか。次の機会にはと思っています。Asobiba073_mariko

 さらに、東海道を西へ進むと、両側から山が迫って来て、あたかも広重の描いた東海道53次の版画のような風情。丸子の宿で丁度お昼時となったので、名物「とろろめし」の丁字屋へ。芭蕉の句にも詠まれた、古くからのとろろ汁のお店で、味噌仕立てなのが特色。さすがに、名にし負う味でした。「名物に旨いものあり」です。050205144150

 浜松からの帰路、今度は焼津インターで高速道路を降り、漁業の町、焼津に向かいました。本来は、友人から教わっていた、鮮魚を安く買える焼津さかなセンターを目指したのですが、生憎と夕方5時を回っていて閉店。代わりに、ガイドブックで見た港の近くの寿司屋へ。近海ものの新鮮なネタを使った、お任せにぎりがわずか3000円。どれも美味で、大いに満喫しました。

 最近のモータリゼーションの進展で、全国に高速自動車網が四通八達。大変便利にはなりましたが、その反面、どこのサービスエリアも画一的で個性がありません。高速道路をちょっと離れてローカルな道を行ってみると、思いがけない良さが発見できることを今回体験しました。便利さと引き替えに、良いものを失ってしまったようです。

                                                            甲斐 晶(エッセイスト)

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日本の味覚

 どんなに外国暮らしが長かったとしても、年齢とともに日本の味がどうも恋しくなるもののようです。特に、疲れたり体の具合が悪い時には、日本食でないと胃が落ち着きません。110696_3

 病気で食欲のない時などは、日本人ならお粥やおもゆでしょうが、欧米の人たちは、何を食べると思いますか。 正解は、チキン・コンソメスープにクラッカーだそうです。なるほどと思うのですが、それでもちょっと元気になればハンバーグというのですから、日本人には理解できません。

 そこで、外国に暮らしていると、日本からの来客がお持ち下さる日本の味覚がとても有り難いのです。何を頂戴しても、それはそれで貴重なのですが、どうしてもかさばらずに日持ちするものをと考えてお持ちになるので、どなたからも同じものが到来するということになりかねません。

 定番はお茶と海苔です。我が家のように、これらの消費量が多い家はそうでもないのですが、御家庭によっては、またかと言うところも少なくないようです。日本人会などのバザーで決まって出品されるのがこの二つです。90004532_l

 紀文がレトルトパックの蒲焼きを海外へのおみやげ用に成田空港で売り始めた頃です。来られる方が次から次に蒲焼きパックのおみやげということがありました。お持ちになる方は、きっと高価で珍しいからとのお気持ちなのでしょうが、そうそう毎日蒲焼きというわけには参りません。結局、狭い冷凍庫の奥に山積みとなり、ついには、アナゴの代わりに茶碗蒸しに入られる運命に。そんな変わり果てた蒲焼きウナギを箸で口に運ぶ度に、「お前も落ちぶれたね。」と語りかけたものです。E109_1899_18542932

 虎屋の羊羹も良く戴きました。当方を甘党と見込んだうえで、きっと重いから他の方はしないだろうとの判断でお持ち下さるのでしょうが、お生憎様。お好きな方は別でしょうが、3本も一度に戴いた日には、これまた、押入れ(あちらでは、クローゼット)の肥やしの運命です。「虎屋の羊羹をあちらでは良く戴いたけれど、日本に帰って値段を知って初めて、とても高価なもだと気が付いた。」とは、良く耳にする言葉です。Img1014834590

 それぞれ、好みはおありでしょうが、向こうで生活した身として、滅多に戴かなかったり、頂戴して有り難かったものを挙げてみましょう。まず海産物では、ウニの瓶詰めや明太子。06092702l 明太子は冷凍になっているので、機内で解凍しても旅先のホテルに備え付けの冷蔵庫に入れておけば、悪くなることはありません。タタミイワシやチリメンジャコも貰って嬉しいもの。(海産物の生ものは、やはりちょっと心配です。いつか、アジの干物をお持ちになった方がいらっしゃいましたが、日にちが経っていたのでしょう。すっかり変質していたことがあり、折角のご好意だったのに惜しいことをしました。ゴミ箱に直行でした。)

 甘味では、最中などは余り戴かないものの部類です。Jurakutop 普通、10個か20個の箱入りなので、とても一度には食べ切れませんが、身近の日本人にお裾分けしたり、冷凍にして少しずつ食べるという手があります。三温糖の干菓子なども抹茶のお茶請けには恰好です。余りかさばらないのも利点です。Img854_2

 ワサビ漬けも誰もお持ちにならないものの一つ。開封すると余り日持ちせず、また好き好きもあって難しいのですが、お好きな方には必ず喜んでいただけるものです。

 お子さまのいるお家なら、生ラーメンもお勧め。今や海外の大都市では日本風のラーメン屋のあるところが増えましたが、それでも1杯1500円もする高級品。気軽に家族全員でというわけには行きません。また、日本ソバや稲庭うどんなどの乾麺、半生製品も戴いて重宝しました。おもてなしの最後にお出ししてお客様から喜ばれたり、休日に一腹膨らますのに役立ったりしました。

 色々と書き連ねてきましたが、斯く申す私も海外出張の度に、出張先の日本人向けのおみやげに頭を悩ますものの一人です。こうして用意したおみやげをあちらに着いて先方にお渡ししてほっとするのも束の間。今度は日本へのおみやげに頭を抱えます。海外出張って一体何なのでしょうか。

甲斐 晶(エッセイスト)

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Machinery Hall

  旅先、しかも海外で骨董品を探すのは楽しいものです。今から10年ほど前になりますが、ロンドンに行ったときのこと。アンティーク・ショップが軒を並べていることで有名なポートベロー・マーケットに出かけてみました。「ロンドン最大のアンティーク・マーケット」というだけあって、通りの両側は、その手のお店で一杯。脇道に入ると、まるで中東のバザールのよう。銀製のブローチ専門の店があったかと思うとその隣はライターだけのお店といった具合。どんなコレクターのニーズにも対応できそうです。Machineryhall

 私も早速Souvenir Spoonの物色にかかると、ありました、ありました。純銀製で、柄のところは、鷲が羽を広げたレリーフと七宝製の星条旗のモティーフ付き。匙の部分は、直径3cmほどの円形で、水辺にヨーロッパ風の建物が並ぶ風景が七宝で描き出された美麗品。下端には何やら文字が刻まれていて、店の親父さんに拡大鏡で読んで貰うと、"Machinery Hall"とありました。Machinery_hall_2

 「これは、米国製なんだろうが、どこの町のものか全然分からないので、売れないんじゃない」と、ケチをつけにかかる私。ところが相手もさるもの。「いや、『これは私の町のものだ』というお客が現れるもの」と、一歩も引きません。あれこれやり取りの末、27ポンドの言い値を23ポンドまで負けさせて商談が成立しました。

 さて、帰国してからが大変。"Machinery Hall"が一体どこにあるのか、気になってしかたがありません。Souvenir Spoonのモチーフになるくらいですから、きっと有名なものに違いありません。取り敢えず、インターネットで調べてみました。

 Yahoo!での検索結果は、1件。しかし、全く的外れなものです。そこで、Alta Vistaに変更。ところが、今度は、33万件もの検索結果となり、これまた役立ちません。検索条件を"exact match"として再度トライ。ようやく191件に絞り込めました。 この検索結果を逐一クリックしていくと、まず出てきたのは、ボストンにある3人組のロックグループの名称。次は、米国東部の大学のキャンパスにある歴史的建造物の名称なのですが、その写真はスプーンの七宝の絵柄とは、とても似ても似つかぬもの。これまた違います。そして、最後に行き当たったのが、1893年にシカゴで行われた万博、"World's Columbian Exposition"に関する3つのホームページ、Machineryhall003wf106 (http://users.vnet.net/schulman/Columbian/columbian.html)(http://xroads.virginia.edu/~ma96/WCE/title.html)(http://www.bc.edu/bc_org/avp/cas/fnart/fa267/1893fair.html)です。この万博の数あるパビリオンの一つに"Machinery Hall"というのがあり、そのイラストたるやスプーンの絵柄と寸部と違わないではありませんか。100年以上も前の代物だったのです。71932618

 この万博は、コロンブスの新大陸発見400年を記念するもので、19世紀に開催された万博としては最大規模のもの。半年の開催期間中の総入場者数は、2700万人を超え、当時の米国人の4人に1人がこの万博を見た勘定になるとか。欧州に優るとも劣らないだけの力を備えてきたことを米国が世界に示すとともに、その後の米国社会を特徴づけた工業・消費文化を示す絶好の機会でありました。 特に、電灯によるイルミネーション、電車による観客輸送、ムービーの前身の展示など、当時まだ目新しかった電気の実用化のデモンストレーションを大々的に実施。開会式ではクリーブランド大統領がスイッチを押し、"Machinery Hall"に設置された発電機とポンプを始動させて、所要の電力と水の会場への供給を開始させるという趣向でした。 "Machinery Hall" には、この他、紡織機や製紙機械、印刷機械などが置かれ、工場そのものが展示物となっていたのです。

 残念ながら"Machinery Hall"は、万博翌年の火事で焼失。スペイン・ルネッサンス様式のその優美な姿は、今やスプーンに留めるのみなのです。Starsstripes

 100年以上も前のスプーンと分かって一つ謎が解けたのですが、新たな謎も生まれました。シカゴ万博当時の州の数は44なのに、柄に描かれた星条旗の星の数は42しかありません。どなたかこの謎解きをお願いできませんでしょうか。

甲斐 晶(エッセイスト)

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津軽塗り

 前回(伊奈かっぺい)は津軽弁のコメディアン「伊奈かっぺい」のことを書きましたので、今回もついでに津軽にちなんだお話をしましょう。Cimg1361_2

 津軽の名産品には色々ありますが、工芸品で有名なのが津軽塗りです。縄文時代の人々の生活に関する従来の常識を次々と覆すことになった青森市郊外の三内丸山遺跡の泥炭層中からも極めて良好な保存状態で漆器が出土するなど、この地域と漆器との関係には大変深いものがあるようです。Wan11

しかし、現在の津軽塗りの歴史は、元禄時代に遡ります。今から300年ほど前の津軽4代の名君、信政公が漆工芸の隆興を図り、漆樹の植林育成により漆の自給自足を図るとともに、若狭の漆匠、池田源兵衛を召し抱え、技法の研究を命じたのが始まりで、その子源太郎により考案されたと伝えられています。

 その特徴は、数種の色漆を不均等に何回も塗り重ねて、研いでは塗り、塗っては研ぐを繰り返し、微妙で複雑な色紋様を研ぎ出す「唐塗り」にあります。Kara_pic_01 仕上げまでに40数回の工程と2ヶ月余りの日数を費やす製法の馬鹿丁寧さと製品の馬鹿丈夫さが「津軽の馬鹿塗り」とも呼ばれる所以です。0129c

  昔は、唐塗りの他にも様々な紋様を生み出す多くの手法が行われていましたが、今では、七々子(ななこ)塗りや錦塗りなどが残るだけ。Nanako_pic_02 七々子塗りは、下地の上に菜種の種子を蒔き付けて研ぎ出し、沢山の小さな丸い輪型の紋様を一面に散らす手法で、色遣いこそ単純なものの、細かい輪型の複雑なパターンには味わい深いものがあります。Nisiki

 私と津軽塗りとの出会いは、今から36年前のこと。初めての青森への出張で、朝虫温泉に投宿。温泉街のそぞろ歩きの途中で津軽塗りの専門店を見つけました。丁度、婚約中でしたので、結婚してからの普段使いにと、唐塗りの箸箱と、唐塗りの夫婦箸を求めたのですが、手間の多い製法を反映してとても値段が高く、清水の舞台から飛び降りる気持ちで大枚をはたいた記憶があります。

  爾来、「馬鹿塗り」の名に恥じずに、ほぼ毎朝、毎晩の酷使に耐えてきたのですが、さすがに25年余りも経つと、あちこち摩耗が目立つようになってきました。我々の結婚生活同様良くこれまで保ったものだと感謝しつつも、銀婚式を機に2代目を求めようと言うことになり、10年前にたまたまむつ市に出張の機会があったので物色してみました。ホテルから折角タクシーを飛ばして閉店間際の物産館や土産物屋に出かけたのですが、あるのは安物ばかり。やはり津軽塗りは下北ではなくて、津軽まで足を延ばす必要があるようです。

  ところがその数日後、同僚が都内某デパートの物産展で津軽塗りの箸の高級品を見かけたと教えてくれました。早速、出かけてみると、弘前市にある「游工房ギャラリー」の作品で、伝統的な津軽塗りの技法に現代的な味わいのデザインを施した魅力的なものばかり。一目で気に入りました。しかし、一膳4800円と値段が高いのが玉に瑕です。Kanban

  電話番号を調べて游工房に直接コンタクトしてみてびっくり。何と、工房で買えば3600円とか。デパートが3分の1もの中間マージンを取っているのです。夫婦箸は注文生産とのことなので、夏休みに旅行がてら弘前まで出かけ、見本を見せて貰ってから注文しようということになりました。

 いよいよ夏休みとなり、夫婦連れで青森へ飛び、レンタカーで弘前まで出かけました。事前に送ってもらっていた工房への手書きの順路図に従って、弘前市内から、L02012 岩木山の山麓に広がるリンゴ畑の中を行くアップルロードをドライブ。「海の日」で休日だったのにも拘わらず、主宰者の久保猶司さんが工房を開けて待っていてくれました。ニューヨークでの作品展の準備中ということでしたが、気持ちよく応対してくれました。ギャラリーには屏風やタンスなど現代感覚の洒落た漆工芸作品が沢山。お金が有れば買いたくなるものばかりです。

 Hashi 注文して待つこと3ヶ月半。11月上旬に素敵な仕上がりの夫婦箸が到着しました。これを青森の漆工芸店で買った七々子塗りの箸箱に入れて、毎日、毎日、大事に使っています。次に3代目を求めることになるのは、きっと金婚式の時でしょう。

甲斐 晶(エッセイスト)

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伊奈かっぺい

ある時、青森県青森市に出張しました。仕事を終えて帰京する段になり、おみやげをと地元のデパートに出かけ、あれこれ物色。名物のイカの加工品や生ウニに加え、青森県が生んだコメディアン「伊奈かっぺい」のCDなどを求めたのですが、そう広くもないレコード売場には彼のCDとカセット・テープが所狭しと並んでいて選ぶのに迷うほど。東京では取り寄せとなることが多いだけに、さすがは地元だなあと思わされました。P_ina_02

 ご存じでしょうか。伊奈かっぺいとは青森放送のディレクターで、サラリーマン生活のかたわら、ユーモア溢れるトーク・ショウを続けて来た人物です。もう十数年前になりますが、和田アキ子とのレギュラー番組が全国ネットで流されていましたので、ご記憶の方もいらっしゃることでしょう。ちゃんと標準語も話すのですが、やはり味があるのは独特の津軽弁をベースにした自作の詩の朗読とその合間の彼のお喋りです。そのライブはとても変わっていて、毎回「13日の金曜日」に公演するのが常。従って、1年以上も間が空くこともあれば、2ヶ月おきに立て続けに開くようなことになったりして、結構大変なようです。

 彼の存在を知ったのは、二十数年以上も前、職場の友人達と出かけた蔵王からの帰りのスキー・バスの中でのこと。運転手が何気なくかけてくれた彼のテープを聞いていて、津軽弁の語りや話の中身の余りの面白さに、すっかり気に入ってしまいました。東京に戻り、早速レコード店でそのテープを求めたのですが、生憎と在庫がなくて取り寄せ。バスの中で既に聞いた内容なのに、再び聞いても少しも飽きません。その一端をご紹介しましょう。戦争に行った父親のことを書いた詩です。41n50f3dq6l_ss500_

      <戦争(わぁ~)> 

 戦争前から 切手 集めであったんだど。

時々(とぎどぎ) 弘前(くに)の妻(かっちゃ)から 手紙くれば、大事にしまっておいだ切手がどんどど 貼らさて来るんだど。

 妻(かっちゃ)にしてみれば 良(い)い切手も 珍し切手も区別つぐわげでねし、切手は封筒(ふうと)さ貼(は)てポストさ入れるモノ位にしか考えでねもだどごで・・・。

 せっかぐ 長年 収集(あつめ)だ切手。 

せっかぐ 長年 収集(あつめ)でおいだ切手・・・。 

 途中で鑑(ふね)ぁ 沈められで届がね切手もあるべし―――。 

こうなれば 妻(かっちゃ)の手紙どんでも 切手もったいねくて――― 

『早ぐ戦争(いくさ)終われば良(い)ッ』       ど思ったんだど。

 戦争終わって 弘前(いえ)さ戻(もど)て来て『ただいま』って喋る前に

『切手 何枚(なんぼ)残(のご)てらば』って聞いだんだど。           わぁ~!  

     (「夜汽車で翔んだ落書き」より)  

青森からの帰路の車中、待ちきれずに「十三日の金曜日 青森でござい!」412qn6a5e3l_ss500_ というCDをイヤフォーンで聞きました。その中で彼が語る、ライブを続けることの苦労話のうち、このエッセイの連載を書いている私も同感だと思ったのが次の2点。

① 玄人と違って、素人なので同じネタを繰り返す訳にはいかない。しかも創作能力がないので、全てが実話である。

② 毎回、全力投球で、有るもの全てを出し切ってしまい、ネタを全部使い果たすので、終わると虚脱状態。次回までの充電が大変である。

 私があるところに連載エッセイを書き始めてから早いものでもう13年近くになりますが、毎回、産みの苦しみの連続。それでも、アイデアが浮かべば2、3ヶ月分まとめて書けるのですが、意欲が湧かないときは机に向かっても何も出てきません。

青森からの帰りの車内で彼のCDをイヤフォーンで聴きながら、そのおかしさに思わず声を出して大笑い。事情の分からぬ車内の人達は、きっと変人だと思ったに違いありません。彼のテープを聴くときには、くれぐれもご自宅でどうぞ。

甲斐 晶(エッセイスト)

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