天使の歌声
オーストリア命名千年が祝われた年、1996年にウィーン少年合唱団の15回目の来日公演が3月末から6月末にかけて全国53の都市で行われました。私もゴールデン・ウィークに高崎市で行われた公演に出かけてみました。
彼らの「天使の歌声」を初めて聴いたのは、今から50年ほど前の初来日公演。小学校の担任の先生に引率されて、両国の旧国技館まで出かけました。同年代の少年たちの美しいボーイ・ソプラノの歌声に大いに魅了されたことを覚えています。
二度目は、ウィーンの旧市内、王宮の一角にある宮廷礼拝堂で毎日曜日に行われているミサでした。聖歌隊である彼らの歌声を入場券を求めて観光客と一緒に聴きました。バルコニーの一角に特別にしつらえられた座席から彼らの声は良く聞こえるのですが、その姿は見えません。しかし、これがかえってその華麗な歌声を一層「天使の歌声」として聞こえさせる仕掛けにもなっています。このミサの途中で観光客席にもちゃんと献金の袋が回ってくるので、戸惑う観光客もいました。
宮廷礼拝堂でのこの聖歌隊としてのお勤めこそウィーン少年合唱団のそもそもの始まりで、今から約500年前の1498年7月、皇帝マクシミリアンI世が勅令で「宮廷音楽隊(Hofmusikkapelle)」の組織、運営を定めたことに遡ります。宮廷音楽隊はウィーン・フィルハーモニイ管弦楽団、国立歌劇場合唱団、そしてウィーン少年合唱団で構成され、ミサや式典での演奏を担当していました。
こうしてハブスブルグ家代々の皇帝の庇護を受けたウィーン少年合唱団でしたが、1918年、第一次世界大戦に敗れてハブスブルグ家が滅亡。ウィーン少年合唱団も解散の憂き目に遭うのですが、この時に私財をなげうってまでその再興を図ったのが宮廷音楽隊の楽長だったシュニット神父で、1924年に新たなウィーン少年合唱団が誕生します。それまでの士官候補生の制服を現在のセーラー服に変えたり、寄宿制にして音楽ばかりでなく他の勉学にも専念できるようにしたのも彼の発案です。
現在、ウィーン少年合唱団には1組25名ずつ4組の本科クラスと年少組の予備クラスの合わせて約110名の少年たちがいます。半数の2組はいつも国内外で3カ月ずつの演奏旅行中にあり、残りが1947年以来その本拠地となっているアウガルテン宮殿(有名な磁器工場もその一角にあります)で寄宿舎生活を送っています。その1日は毎朝6時半には起床。8時から12時半までが一般科目の勉強で、昼食後2時までは自由時間。2時から4時までが合唱の練習で、その後7時までがおやつと休憩の時間をはさんで楽器の練習です(少年たちは歌の他に1つか2つの楽器をマスターすることが求められています)。夕食の後は9時の消灯まで自由時間。演奏に差し支えるので十分な睡眠と大声を出さないことに心がけているそうです。
長い歴史を持つウィーン少年合唱団です。あのハイドンやシューベルトといった大音楽家も少年時代にはこの合唱団の一員でした。音楽関係以外に政財界で活躍するOBもいます。私が日本人であることを知ったウィーンの国際機関、IAEAの音響担当の若いテクニシャンから「自分も団員として日本に公演に行ったことがある」と話しかけられ、意外と身近に団員経験者がいるのを知ったこともありました。
さて冒頭の高崎での彼らの公演に話を戻しましょう。演奏会での彼らの様子は実にあどけなく、子供そのものでした。勿論その歌唱力は「天使の歌声」と呼ばれるのに相応しいものでしたが、時差のせいか演奏中にあくびが出たり、長時間じっとしていられない子供もいたりしました。例えば、痒いのか頭や頬にしきりに手をやったり、指揮をする先生の目を盗んでは後ろから前の子供をつついて悪戯している子供がいたりと、実に良い意味での子供らしさを感じさせられました。
それにしても50年前、小学校5年生の時の初来日公演で感じたあの感激はどこに行ってしまったのでしょうか。高崎での演奏に決して非の打ち所はないのですが、今一つ感動がありません。年齢とともに感受性が衰え、何を聴き、何を見、何を食べても余り驚かなくなったのは困りものです。
甲斐 晶(エッセイスト)
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