オーストリア千年祭
今から11年前の1996年は「オーストリア(ドイツ語では、Österreich:エスタライヒ)」という国名が古文書に初めて登場してから丁度千年目を迎えた年でした。
すなわち、996年11月1日付の証文において、時の皇帝オットーIII世がフライシングのゴットシャルク司教に、現在の下オーストリア州イッブス河畔のノイホーフェン近傍の“Ostarrichi”(オスタリッヒ:東の国)と一般に呼ばれていた領地、約1,000ヘクタールを与えたと記されているのです。(当時、帝国内の森林地帯の開拓は主としてババリアの修道院に委ねられるのが常でした。)
かくて、オーストリア命名千年記念の年に、オーストリアの人たちはこの「東の国」が過去十世紀にわたって経験し、領土的な変遷によっても変わることのなかった歴史的なアイデンティティに思いを至らせました。
996年当時、このバーベンベルグ辺境伯領はエンス川とトライセン川に挟まれた大変危険なところに位置する領地でした。その後1246年にオーストリアの領主としてバーベンベルグ家の後継者となったハープスブルグ家は、数世紀の間に征服と婚姻によって中部ヨーロッパの大帝国となりました。すなわちオーストリアは1804年からオーストリア帝国として、1867年以降はオーストリア・ハンガリー二重帝国として、ヨーロッパ大陸の列強のひとつとなりました。第1次世界大戦の終焉とともにこの二重帝国は崩壊。オーストリアは元の領土にまで縮小した国となり、今日に至っています。
オーストリア命名千年を祝して、1996年にはさまざまな行事がオーストリア内外で行われました。まず”ostarrichi”ゆかりの地ノイホーフェンとその所在州(下オーストリア州)の州都ザンクト・ベルテンでは「Ostarrichi-Österreich 996-1996:人、伝説、里程標」という展覧会を5月から半年の間、開催。また、ウィーンでも「ドナウ川:オーストリアの千年-ひとつの旅」と題し、ドナウ川をその源流の黒い森から河口の黒海までをカバーする展覧会が5月下旬から約4ケ月間開かれました。
さらに音楽の都ウィーンらしいものが「音楽のメッセージ:オーストリアの音楽千年」という展覧会で、歴史的な楽器やハイドンからモーツァルト、ベートーベン、シューベルト、ヨハン・シュトラウスなどに至るまでウィーンゆかりの作曲家の肖像画・楽譜のコレクションを駆使した他の都市では決して類を見ないものが年末にかけて(10月27日から翌年2月まで)行われました。
日本でもオーストリア千年祭にちなんだ催し物が年の始めから行われました。美術関係では、ハブスブルグ家のコレクションから発展した、世界有数を誇るウィーン美術史美術館の名品展が1月初旬から約2ケ月間東京で開催。また、現代美術工芸に多大の影響を与えたヨーゼフ・ホフマンとウィーン工房の展覧会が3月から夏にかけ、豊田市を皮切りに佐倉市、徳島市で開かれました。
音楽関係では、皇帝フランツ・ヨーゼフの美貌の皇妃の生涯を描いたウィーンのヒットミュージカル「エリザベート」が宝塚歌劇団の雪組によってまず春に宝塚で、初夏には東京で上演され大好評でした。このほか、ウィーン少年合唱団、アルバン・ベルク四重奏団、ウィーン・フィルなどの日本公がも年末まで目白押しでした。
さらに、千年祭を祝うオーストリアに千本の桜を贈ろうという計画が在オーストリアの日本人会などによって進められました。これにはウィーンの各区と姉妹都市にある世田谷区、台東区、府中市、岐阜市、羽曳野市、宝塚市等も協力。募金規模は1,000万円で、4月初旬に八重桜、ソメイヨシノの成木130本をドナウ河畔の公園、中州などに植え、その後、870本をウィーンで育て、ドナウ河畔などに順次植樹されました。その年の「みどりの日」にはクレステイル大統領、ホイプル・ウィーン市長が出席して植樹式が行われ、日本からは世田谷区長らも出席。美しく青きドナウの河畔を日本の桜の花で飾りたいとの関係者の願いと努力が実って、ドナウ河畔がワシントンのポトマック河畔と並ぶ桜の名所になったら、きっと素晴らしいことでしょう。 甲斐 晶(エッセイスト)
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