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2007年12月

地球の裏側

 11年前に初めてアルゼンチンを訪れました。10017189061地球の裏側だけあって、我が家を出てからブエノスアイレスのホテルにチェックインするまで、ニューヨーク経由で、実に40時間の長旅でした。

 ブエノスアイレスにはアルゼンチンの総人口の約4割弱、1200万人が住むほどの首都集中。目抜きの7月9日大道りは24車線で幅が140mもあって、世界一幅の広い通りなのに車が一杯。その排気ガスのお陰で、ブエノスアイレスは「きれいな空気」という名にはほど遠い大気汚染状態でした。M03826_x

 街にはプジョーのタクシーが多く、極めて安くて、夜遅くまで流していてとても便利。料金をごまかされることもなく安心して乗れます。ただし、人も車も信号などお構いなしなのは極めてラテン的です。しかし、タクシーでさえ信号が青から黄色に変わるとちゃんと停止。東京とは大違いと感心したのですが、実は、黄色に変わるとすぐ横から車が見込み発進してくるからで、東京と同じように黄色で交差点に突っ込めば大事故は必至。実に「ところ変われば・・・」と言った感じでした。

 南米だからインディオや黒人が多く、治安も悪いのではとの先入観があったのですが、実際にアルゼンチンを訪れてみると違っていました。基本的には白人社会で、イタリア、スペイン、イギリス、フランス、ドイツ系が人口の97%。治安も極めて良く、真夜中過ぎに劇場がはねてから、女性が一人歩きでホテルに戻る姿を見かけたほどです。 ヨーロッパの古き良き伝統が残っている感じです。軽い昼を食べに、とある喫茶店に入った時のこと、そんなところでもお客がちゃんと背広にネクタイ姿なのには驚きでした。また、夕食が始まるのは夜の9時過ぎからで、食べ終わると真夜中を回ってしまいます。かと言って、翌朝はちゃんと9時から仕事が始まり、スペインのようにシエスタの習慣はなさそうです。これでは慢性の寝不足。これに時差も重なって、あちらにいる間は、連日4時間ほどの睡眠しか出来ず、閉口しました。

 アルゼンチン人はとても陽気で親切との印象を受けました。仕事で一緒だった英国人が、アルゼンチン人について、「英国人のように考え、スペイン語を話す、イタリア人なのだ」と評していましたが、けだし名言です。

 しかし、優雅に見える彼らの生活も、当時の不景気、15%にものぼる失業率のお陰で現実には厳しいものがあり、過去の栄光に生きている面もあるようです。実際、そんなコメントをかの有名なコロン劇場でたまたま隣り合わせになった老婦人の口から聞きました。 

 Teatro_colon コロン劇場はミラノ・スカラ座に次ぐ世界で2番目に大きな劇場で、これにパリ・オペラ座を加えたのが世界3大歌劇場。1908年にイタリア・ルネッサンス様式で建てられた劇場内は、馬蹄形のフロア席と側面に6層の観覧席があり、4500人もの収容力を有します。黄金の渋い光を放つ観覧席側面の装飾と深紅のビロードの椅子がバロックの雰囲気を醸し出しています。バルコニー席に設けられた照明の電球は花の形のカバーに収められていて、華麗な花が咲き乱れた感じ。天井にはアントーニオ・ベルーニ作の瀟洒なフレスコ画が描かれ、その周りにはベルディやドニゼッティなど16人の有名な作曲家の名前が記されていました。41pxbdqn8al

 当日の出し物は、ロシア・ザンクトペテルブルグからやってきたキーロフ・バレーの白鳥の湖。ソ連時代、まだレニングラードと呼ばれていた頃に彼の地を訪れ、その優雅な「クルミ割り人形」を見て、感激したことがあります。今回、彼らは南米での初公演。たまたま私も地球の裏側のブエノスアイレスに居合わせ、その公演を再び堪能することが出来ましたが、遠い地の果てで知己に巡り会ったような感じがしました。

 ところで東京とブエノスアイレスとの時差は丁度12時間で昼夜が全く逆転。こうなると東回りでも西回りでも時差の影響は全く同じはずなのに、東回り(アルゼンチンに行った時)の方が、西回り(日本に帰ってきた時)よりも深刻でした。どうも時差が抜けないまま帰国してしまったようで、適応力の無くなった自分に齢を感じています。

                  甲斐 晶(エッセイスト)

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一期一会

 人間、齢を重ねるにつけ、己れ自身が古くさくなるためでしょうか、次第に骨董品に関心が湧いてくるもののようです。

 我が家の近くのK市では、降っても照っても、毎月28日に青空骨董市が日の出から日没まで開かれます。たまたま、土日や休祭日にあたったときに出かけてみるのですが、結構な賑わいです。しかし、来ているお客は、年輩者ばかり。若者は余り見かけません。

 そんな中で、意外なのは外人客を多く見かけることです。どんなものを買っているのかを観察してみると、とても興味をそそられます。

 まずは古着。地味で粋なものよりも、キンキラキンの柄物を好んで買っていくところが外人らしいところです。とても丈が合わないと思うのですがお構いなし。仕立て直して、イブニングドレスにするのです。ウィーンでパーティに招かれたお宅の家で、そんなドレス姿のアメリカ人客と一緒になり、なるほど良いアイデアだと思ったことがあります。このほか、豪華な柄の打ち掛けなどをタペストリー代わりに壁に掛けたり、和服の端ぎれを縫い合わせてキルトに仕上げたりと、古着もインテリアとして立派に役立つのです。Qqqlampcimg0130

 その昔、量り売り用に使った酒徳利も人気の的。友人のスイス人の場合、表参道のお店で見つけた酒徳利の口の部分に電球、その上に笠を取り付けて、素敵な電気スタンドに変身させました。徳利の表面に書かれた草書風の判読困難な屋号や電話番号もなかなか味があります。

 このほか、日本人ならとても買う気にはならない、昔の民家にあった陶器の便器なども外人の目には、素敵なインテリアに写るようです。男性用の円筒型の小便器は何と傘立てに、大便用のものは花生けとして使うのです。固定観念にとらわれない、外人らしい自由な発想です。便器に描かれた絵柄が彼らにはとてもクールなのでしょう。

 Qspoon外国の旅先で、骨董品を探すのも面白いものです。

 民主化運動のうねりが高まるさなかにウィーンからハンガリーへ車で出かけたときのことです。丁度、ガソリンの値上げを政府が決定したことからタクシーやトラックの運転手達が全国でスト。彼らが主要都市の入り口をトラックなどで封鎖したため、どこの道路へ行っても大渋滞。とても目的地のブダペストまで行けそうにありません。とうとう途中の町で断念せざるを得ませんでした。

 食事をすませてから、とあるアンティークのお店を物色。共産党政権時代のこと、余り大したものはありません。当時からスーベニア・スプーンを集めていたものですから、ウィーンのステファン寺院を七宝で描いた絵の付いたものが目に留まりました。ハンガリーの地方都市のおみやげにウィーンのスーベニア・スプーンというのも変でしたが、銀製のとても手の込んだ細工の美麗品です。邦貨にして約1万2千円という言い値を8千円まで負けさせ、良い買い物をしたと大いなる満足感に浸りながら帰宅。

 Qspoonhead銀がやや黒ずんでいたので、磨いてみてびっくり。「27 Sept 1895」と刻んだ文字が浮き出てきました。何と百年も前の代物だったのです。当時はオーストリア・ハンガリー二重帝国時代。よく見ると柄には双頭の鷲が描かれています。ウィーン観光の土産にハンガリーの人が買って記念に彫らせたのでしょうか。

 良い思い出ばかりとは限りません。これは日本への一時帰国を終え、ウィーンへの帰途上、英国内を家族でドライブ中のことです。休憩で寄った片田舎のコーヒーショップの隣が骨董品店でした。家内と娘が古い黒塗りの電話器を発見。金色の唐草模様で縁取りされた素敵な逸品です。とても気に入ったのですが、何せ旅行中のこと。このまま車でウィーンに戻るのならまだしも、ロンドンからウィーンへは飛行機ですし、一時帰国で買った日本からの手荷物が一杯。これ以上荷物は増やせません。泣く泣く諦めたのですが、今だに二人は買っておけば良かったと悔やむことしきり。「骨董品は一期一会」とは作家、林望の言葉。逃がした魚は大きく、気に入ったときが買い時なのです。

甲斐 晶(エッセイスト)

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雲助タクシー

前回(海外ではご用心)は海外の旅先でのトラブルの実例を紹介してみましたが、今回はタクシーを巡るものに絞ってお話ししてみましょう。In

 出張でインドに行ったときのことです。空港でタクシーを呼びましたが、その運転手ときたら、こちらの言うことをなかなか素直には聞いてくれません。Aホテルまでやってくれと頼むのですが、「いやそれよりもずっと良いホテルを知っている。Bホテルの方が飛行場にも近くて断然便利だ。」などと言って少しも譲りません。何度も押し問答の末、「予約してるから駄目なものは駄目。」と語気を強め、やっと相手が承服。きっとBホテルにお客を紹介するとリベートが貰えるのでしょう。かくしてAホテルにやっと着いたのですが、今度は料金で一悶着です。料金メーターを倒さずに走ったので変だとは思ったのですが、結局、ガイドブックに書かれた標準料金の2倍以上の請求。口論の末、ホテルのドア・マンに空港からの妥当な料金を確認してそれだけを支払い、一件落着でした。

 不当な額の料金を請求する手口は様々。上のように料金メーターを倒さないのが一般的ですが、メーターを倒しても、メーターが壊れているとか、古い料金メーターで数字が正しくないとか、帰りにお客を拾えないから2倍の額を貰うのが決まりだなどといった口実で法外な額を言ってきます。

 白タクにも要注意です。Us ニューヨークのJFK空港は悪名高いのですが、私の友人の場合、アメリカ人の旅客と白タクを初めて利用した際に、たまたま運ちゃんが良心的だったので、次の機会にも気軽に白タクに乗ってしまったのが運の尽き。いくら値切っても100ドル以下になりません。そんなお金はないと抵抗しますが、相手は彼が銀行で100ドル札に替えていたのをしっかり見ていて、いや持っているはずだと少しも譲らず。結局、相手の要求どおり支払う羽目になったそうです。

 私も英国留学の際に、それとは知らずに白タクに乗ってしまい、ひどい目に遭いました。Uk 40年も前のことで、飛行機は南回り。一昼夜以上かかって、ようやくロンドン空港に到着。ブリティッシュ・カウンシルの担当者が“Air Terminal”で待っているというので、一生懸命それらしき人を探すのですが駄目。というのも私がいたのは空港(Air Port)で、市内の“Air Terminal”ではなかったのです。今では東京でも箱崎にシティ・エアターミナルがあり、成田の空港とは別ですが、当時はそうではなくて、こんな間違いが起きたのです。

 近くにいた旅行者に状況を説明し、間違いに気づきました。彼がタクシーを呼び、私を誘ったので疑いもせず一緒に乗ってしまいましたが、実はこれが乗り合いの白タク。金銭面での実害はなかったものの、市内までお客をあちこち降ろしながら行くので、とてもスローモー。その上、運転手が道路事情に疎く、道を尋ねながらの運転。目指すエア・ターミナルに到着したのは深夜で、体内時計では完全徹夜をしたのと同じ。疲れました。

 しかし世の中悪い人ばかりではありません。米国留学の際、ロスアンゼルスでの約1ケ月の研修中に、仲間とサンディエゴの動物園まで、当時日本にはいなかったコアラPkoalaface を見に出かけました。20070221_157928 途中、ウオーター・ゲート事件で話題のニクソン大統領の別邸がサクラメントにあるので、そこでグレイハウンド・バスからタクシーに乗り換え。相乗りでハイウェーを飛ばして貰い、別邸の見えるところまで来たので、日本人観光客よろしく、車内からカメラを構えます。運転手は親切にも車を路肩に止め、外に出てシャッターを切るように勧めてくれます。しかし、どこからともなくハイウェー・パトロールが出現。むやみにハイウェーで停車したかどで、運転手は我々の払う運賃を遥かに上回る高額の罰金を取られてしまいました。

 善意の運転手が我々のために罰金を課せられたのは気の毒で、この罰金を仲間で割り勘としました。感激した運転手は、自宅に我々を招いてくれ、お茶をご馳走してくれたうえに、自分はカナダ人の小説家で、副業にタクシー運転手をしているのだなどと身の上話を始める始末。実に旅は道連れ、世は情けなのです。

甲斐 晶(エッセイスト)

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海外ではご用心

異国の旅先で日本では考えられないようなトラブルに巻き込まれることがあります。Vol01_01

 これは日本人の海外旅行など未だ夢のまた夢であった頃の話です。其核燃料加工メーカーの役員だったⅩ氏が約40年前に青雲の志を抱いてフランスに原子力留学。花の都パリに到着早々、自分宛に送金されて来た一年分の留学資金を受け取って銀行から出て来るや否や、品骨卑しからぬ中年の紳士がアプローチ。その横にはフランス人とおぼしき老人がいます。

 事情を聞いてみるとくだんの紳士は米国人で、「自分は航空会社に勤務している。午後の遅い便で帰国するのだが、手元不如意なので銀行でお金を用立てたい。通りすがりのフランス人のお爺さんにいくら説明しても言葉が通じなくて困っている。ついては通訳の労を執ってくれないか。」とのこと。お安いご用とばかり、その紳士の車で3人連れだって別の銀行へ出かけますが、生憎と閉店間際で所期の目的を果たせません。

 この間、そのアメリカ人は「君は実に親切で良い人だ。こうしたことが真に国際親善に役立つんだ。」と言って、しきりにⅩ氏をおだて上げます。彼が満更でも無くなった頃を見計らって、今度は「実は自分はダイヤの原石を持っているので、是非とも換金したい。適当な宝石店があるかどうか、その老人に聞いてくれ。」と頼んできます。

 ところがここで事態は急展開。話を聞いたフランス人の老人は、「自分は若い頃宝石を扱っていたので目は利くんだ。」と言いながら、アメリカ人からダイアを受け取って鑑足します。その結果、「これは超一級の品で、いつでも換金できるから私が買い取りたい。しかし自宅に行かないと現金がない。取り合えず君が立て替えてくれないか。そうしたら我が家に一緒に行って、君の立て替えた分を支払うから。」とⅩ氏に持ちかけます。

 懐には入ったばかりの大枚の留学資金が有りますし、こんなことで人助けが出来て、国際親善にも役立つのならと、Ⅹ氏はお金を差し出します。当のアメリカ人の喜び様ったらありません。彼と別れて、くだんのフランス人の老人とその家に向かうべく地下鉄の駅まで行ったところで、雑踏にその老人の姿が消えてしまいます。慌てたⅩ氏は騙されたことに気づいて警察に届けますが、既に後の祭り。そこで彼は最近パリで被害が続出の二人組によるダイヤ詐欺事件を耳にするのです。

 お次は日本人がお金持ちであることが定評となってきた最近のことです。Vol61_01パリに出張した某研究所のY室長が航空会社と提携している一流ホテルに宿泊。エレベーターから降りて、部屋に入ろうとしたところで数人組の暴漢が押し込んで来て、ピストルで彼の頭部を殴打。クレジットカードを奪ったうえ、暗証番号を教えるよう強要。仲間がそのクレジットカートでちゃんとお金を引き出せたのを確認するまで、ピストルを突きつけられていた由。一流ホテルでも油断は大敵なのです。

 私も20数年前、ロンドンの一流ホテルのスイートルームに家族で逗留中に危ない目に遭いました。家族は部屋続きの別室にいて、私は入浴中。鍵の掛かった私の部屋での何やら怪しい物音に、慌ててバスルームから出てみると、見ず知らずのアラブ系の男が丁度部屋から出て行くところ。廊下で追いついて問いただすと、“Don’t mind.”などと言いながら平然と立ち去ります。実害はなさそうなのでそれ以上深追いはしませんでしたが、一応フロントに話をすると、程なく刑事が来訪。一部始終を話すと、近頃ホテル荒らしが横行中で、その人相は先の男とぴったりとのこと。良くも何も起こらずに済んだものと、足が震える思いでした。Vol02_01

 この他にも、ウィーンの我が家に尋ねてきた縁戚筋の日系アメリカ人のZ嬢がブタペストの余り混雑していない地下鉄の車内で、アベックが無理やり体を押しつけてきて気が付くとバッグの中のクレジットカードが盗まれていたり、インドの一流ホテル内の宝石店でルビーの偽物を掴まされた知り合いの大学助教授の話など、異国の旅先でのトラブルの例には枚挙の暇がありません。皆さんもくれぐれもご用心のほどを。

甲斐 晶(エッセイスト)

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プラスチック・マネー

北朝鮮製とされる「スーパーK」に代表される精巧な偽札の前に米国が屈し、米国が約70年ぶりに新しい100ドル札を発行して、早10年以上が経ちます。「新札は旧札に比べ、見た目は少し変わりましたが、価値は少しも変わりません。」とのコピーの全面広告を新聞に出して、新札のPRに懸命だったのが、思い出されます。Us_100_070120_230653

 新100ドル札は、フランクリンの肖像を一回り以上も大きくして見やすくしたほか、これをお札の中心から左にずらして配置して対称性を排するとともに(財布に折って入れても肖像を傷っけないため)、こうしてお札の右側に生まれた空間に透かしを設けています。この他にも紫外線対応インク、お札に漉き込んだ金属フィラメント、マイクロ文字の採用など最近の精緻なカラーコピー機による偽造に対抗し得るような措置が講じられています。

 世界のお札を調べてみると、偽札の製造防止のための対策には色々なものがあります。古典的なのは透かしと万線と呼ばれる極く細い線で肖像などを描く手法でしょう。いずれも日本のものは名人芸だとして有名です。Englands

 透かしに次いで特殊技術を要するのが先に述べた極細の金属フィラメントをお札に漉き込む方法で、英国のポンド札、欧州共通通貨のユーロ札、韓国のウォン札などに共通の技術です。ある時、イギリス人の友人から、英国のお金には針金が入っているんだと言われてびっくりしたことがありました。ポンド札を調べてみると、確かにその左端から3分の1あたりに、上下に細長い箔状の金属が漉き込んであるのが分かります。

 現在流通している福沢諭吉の1万円札は、2004年に導入された新しいシリーズのものですが、それ以前のものには通し番号が黒いものと茶色のものがありました。前者の方が古いシリーズで、後者ではお札の裏面の下部にあるレース模様の線が“NIPPONGINKO”というマイクロ文字の羅列で構成されており、偽造防止のための最新印刷技術が採用されていました。虫眼鏡で見ないと分からないほどですから、カラーコピーした場合には消えてしまい偽札と判定できるというわけです。

この他、磁気や紫外線対応の特殊インクを採用したり(日本、スウェーデンなど)、従前のオーストリアの5000シリング札のように、ホログラムでモーツァルトの肖像が浮き出てくるものまであります。 Asch5000fしかし、こうした最新の印刷技術、偽造防止技術をいかに駆使したところで、技術革新の目覚ましい現代のこと、いずれ時間がたてば陳腐化してしまい、偽札造りの技術がこれに追いつき、結局、いたちごっこになってしまうでしょう。

 アメリカはクレジット・カードの発達した社会。カードは仮に本物でなくても、保険が掛かっていますから、顧客に実質的な損害はありません。これに対して、偽札の場合にはそうした救済措置がありませんので、現金は信用されないのです。特に高額紙幣(100ドル札)は敬遠されて受け取って貰えません。現金の有り難がられる日本とは大違いです。

 米国のモーテルでチェックインした際のことです。カードでなく現金で支払うと言ったら、3泊分の前払いを要求されたことがありました。カードを利用できない現金客は銀行から信用されない破産者か、身分をトレースされるのを嫌う不審な奴ということになるのでしょう。(ここで100ドル札でも出そうものなら、何度も裏返しては偽札ではないことを確かめ、そのあげくには店の責任者まで呼んできて、その判断を仰ぎます。まるで犯罪者並みの扱いなのです。)

 モーテルのフロントでの一件を見ていた私の友人のドイツ人が私に向かって、「アメリカは現生よりも、プラスチックを有り難がる国なんだよ。」と、片目をつぶりながら言っていたのが何とも印象的でした。Aul_060217_06

 ところがオーストラリアでは10年ほど前から5種類の「紙幣」全てがプラスチック製です。プラスチックへの精密な印刷は難しい上、この「紙幣」に織り込まれた透明なプラスチック製のシールが透かしの代わりになっています。ますますプラスチックは紙より尊しですね。

甲斐 晶(エッセイスト)

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天使の歌声

オーストリア命名千年が祝われた年、1996年にウィーン少年合唱団の15回目の来日公演が3月末から6月末にかけて全国53の都市で行われました。私もゴールデン・ウィークに高崎市で行われた公演に出かけてみました。Wsk

 彼らの「天使の歌声」を初めて聴いたのは、今から50年ほど前の初来日公演。小学校の担任の先生に引率されて、両国の旧国技館まで出かけました。同年代の少年たちの美しいボーイ・ソプラノの歌声に大いに魅了されたことを覚えています。

 二度目は、ウィーンの旧市内、王宮の一角にある宮廷礼拝堂で毎日曜日に行われているミサでした。聖歌隊である彼らの歌声を入場券を求めて観光客と一緒に聴きました。バルコニーの一角に特別にしつらえられた座席から彼らの声は良く聞こえるのですが、その姿は見えません。しかし、これがかえってその華麗な歌声を一層「天使の歌声」として聞こえさせる仕掛けにもなっています。このミサの途中で観光客席にもちゃんと献金の袋が回ってくるので、戸惑う観光客もいました。

 宮廷礼拝堂でのこの聖歌隊としてのお勤めこそウィーン少年合唱団のそもそもの始まりで、今から約500年前の14987月、皇帝マクシミリアンI世が勅令で「宮廷音楽隊(Hofmusikkapelle)」の組織、運営を定めたことに遡ります。宮廷音楽隊はウィーン・フィルハーモニイ管弦楽団、国立歌劇場合唱団、そしてウィーン少年合唱団で構成され、ミサや式典での演奏を担当していました。

 こうしてハブスブルグ家代々の皇帝の庇護を受けたウィーン少年合唱団でしたが、1918年、第一次世界大戦に敗れてハブスブルグ家が滅亡。ウィーン少年合唱団も解散の憂き目に遭うのですが、この時に私財をなげうってまでその再興を図ったのが宮廷音楽隊の楽長だったシュニット神父で、1924年に新たなウィーン少年合唱団が誕生します。それまでの士官候補生の制服を現在のセーラー服に変えたり、寄宿制にして音楽ばかりでなく他の勉学にも専念できるようにしたのも彼の発案です。

現在、ウィーン少年合唱団には125名ずつ4組の本科クラスと年少組の予備クラスの合わせて約110名の少年たちがいます。半数の2組はいつも国内外で3カ月ずつの演奏旅行中にあり、残りが1947年以来その本拠地となっているアウガルテン宮殿(有名な磁器工場もその一角にあります)で寄宿舎生活を送っています。Augarten_01その1日は毎朝6時半には起床。8時から12時半までが一般科目の勉強で、昼食後2時までは自由時間。2時から4時までが合唱の練習で、その後7時までがおやつと休憩の時間をはさんで楽器の練習です(少年たちは歌の他に1つか2つの楽器をマスターすることが求められています)。夕食の後は9時の消灯まで自由時間。演奏に差し支えるので十分な睡眠と大声を出さないことに心がけているそうです。

 長い歴史を持つウィーン少年合唱団です。あのハイドンやシューベルトといった大音楽家も少年時代にはこの合唱団の一員でした。音楽関係以外に政財界で活躍するOBもいます。私が日本人であることを知ったウィーンの国際機関、IAEAの音響担当の若いテクニシャンから「自分も団員として日本に公演に行ったことがある」と話しかけられ、意外と身近に団員経験者がいるのを知ったこともありました。

 さて冒頭の高崎での彼らの公演に話を戻しましょう。演奏会での彼らの様子は実にあどけなく、子供そのものでした。勿論その歌唱力は「天使の歌声」と呼ばれるのに相応しいものでしたが、時差のせいか演奏中にあくびが出たり、長時間じっとしていられない子供もいたりしました。例えば、痒いのか頭や頬にしきりに手をやったり、指揮をする先生の目を盗んでは後ろから前の子供をつついて悪戯している子供がいたりと、実に良い意味での子供らしさを感じさせられました。

 それにしても50年前、小学校5年生の時の初来日公演で感じたあの感激はどこに行ってしまったのでしょうか。高崎での演奏に決して非の打ち所はないのですが、今一つ感動がありません。年齢とともに感受性が衰え、何を聴き、何を見、何を食べても余り驚かなくなったのは困りものです。

甲斐 晶(エッセイスト)

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ユーロにまつわるトリビア

 欧州の単一通貨、ユーロの紙幣と硬貨が市中に登場して丸5年となった2007年1月1日から、スロベニアでもユーロを使用し始めたので、EU域内のユーロ圏は13ヶ国となりました(*注)。ヨーロッパを旅する者にとって、ユーロ圏内なら行く先々で両替をする手間が省け、とても便利です。以下、ユーロに関するトリビアをご紹介しましょう。140pxeuro_symbolsvg

 2007年1月1日現在、EU加盟27国のうち、ユーロ圏に属するのは、オーストリア、ベルギー、フィンランド、フランス、ドイツ、ギリシャ、アイルランド、イタリア、ルクセンブルグ、オランダ、ポルトガル、スロベニア、スペインの13ヶ国です(*注)。ユーロ発足当時のEU加盟15ヶ国のうち、イギリス、スウェーデン、デンマークは依然としてユーロ圏には加わっていません。また、ユーロ発足後にEUに新規加盟が認められた12ヶ国のうち、ユーロを導入しているのはスロベニアだけです(*注)。一方、EU加盟国ではないモナコ、サンマリノ、バチカンもユーロを通貨にしています。

 EURO英語ではユーロ、フランス語オランダ語ではウロ、イタリア語スペイン語ポルトガル語フィンランド語ではエウロ、ドイツ語ではオイロ、ギリシア語ロシア語ではエヴロと発音します。日本では英語式の発音ですね。

 1ユーロは100セントで、それぞれを表す記号として  ¢ があるのですが、¢ はあまり使われず、12¢ ではなく 0.12と表記されます。626pxeuro_coins_version_ii

 ユーロ硬貨には、1、2、5、1020及び50セントと1及び2ユーロの8種類があり、表面のデザインはユーロ加盟国の全てで共通ですが、裏面のデザインは国ごとに異なります。例えば、オーストリアで鋳造された硬貨では、1euro_oeモーツァルトやエーデルワイスなどオーストリアにちなんだモチーフとなっています(「ユーロ登場」参照)。

ユーロ紙幣には、5、102050100200及び500ユーロの7種類があり、そのデザインは後に述べる点を除き、基本的には各国共通です。Euro20040727042030_2オーストリア人カリーナ氏のデザインが採用されており、欧州史における建築様式の発展を、人と人をつなぐ「窓」、「門」(表)と「橋」(裏)という図柄によって表現しています。額面の小さい方から順に、古典、ロマネスク、ゴシック、ルネッサンス、バロック・ロココ、鉄・ガラス時代、そして20世紀-現代を示す図柄となっていますが、いずれも特定の国を優遇することの無いよう、架空の建築物ばかりです。また、表側にはEU旗、裏側にはヨーロッパの地図があしらわれています。

お札には、「ユーロ」がEU域内の2つの表記文字(ラテン文字及びギリシャ文字)でEURO及びEYPΩと表記されています。将来、ブルガリアがユーロ圏に加わればキリル文字の表示(EBPO)が追加されるかも知れません。また、表側には、ユーロ発足時のEU公式言語11による欧州中央銀行の略号表記5つ(BCEECBEZBEKT及びEKP)と同銀行総裁のサインも併せて表示されています。サインには、発行時点により初代総裁のものとその後任者のものの2種類があります。

 このように、各国共通の図柄が採用されたユーロ紙幣ですが、その印刷を1箇所だけで行うのは、その流通量からして実際的ではありません。従って、ユーロ発足当時には、全部で15の印刷工場が印刷に加わりました。すなわち、ルクセンブルグ以外のユーロ加盟国11ヶ国にある14工場(原則1国1工場ですが、フランスとドイツは、それぞれ2及び3工場でした)と、ユーロ圏外の英国の1工場で印刷されたのです。

 ところで、お札の印刷された国を識別する鍵がアルファベット1文字と11桁の通し番号からなる発券番号に隠されています。冒頭のアルファベット及び11桁の数字の各桁の数字の和(2桁になれば、さらに1桁になるまで和を求める)が、お札の国籍を示しており、例えば、オーストリアではそれぞれがNと3になっています。その他の国の場合についてもお知りになりたい方は、是非、WikipediaのEuro Banknotesをご覧下さい。もしも、お手元にユーロ紙幣があれば、その出身国をこれで調べてみるのも面白いでしょう。

*注:その後、キプロスとマルタが加わり15ヶ国となっています。

甲斐 晶(エッセイスト)

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オーストリア千年祭

 今から11年前の1996年は「オーストリア(ドイツ語では、Österreich:エスタライヒ)」という国名が古文書に初めて登場してから丁度千年目を迎えた年でした。

 すなわち、996111日付の証文において、時の皇帝オットーIII世がフライシングのゴットシャルク司教に、現在の下オーストリア州イッブス河畔のノイホーフェン近傍の“Ostarrichi”(オスタリッヒ:東の国)と一般に呼ばれていた領地、約1000ヘクタールを与えたと記されているのです。(当時、帝国内の森林地帯の開拓は主としてババリアの修道院に委ねられるのが常でした。)

 かくて、オーストリア命名千年記念の年に、オーストリアの人たちはこの「東の国」が過去十世紀にわたって経験し、領土的な変遷によっても変わることのなかった歴史的なアイデンティティに思いを至らせました。

 996年当時、このバーベンベルグ辺境伯領はエンス川とトライセン川に挟まれた大変危険なところに位置する領地でした。その後1246年にオーストリアの領主としてバーベンベルグ家の後継者となったハープスブルグ家は、数世紀の間に征服と婚姻によって中部ヨーロッパの大帝国となりました。すなわちオーストリアは1804年からオーストリア帝国として、1867年以降はオーストリア・ハンガリー二重帝国として、ヨーロッパ大陸の列強のひとつとなりました。第1次世界大戦の終焉とともにこの二重帝国は崩壊。オーストリアは元の領土にまで縮小した国となり、今日に至っています。

 オーストリア命名千年を祝して、1996年にはさまざまな行事がオーストリア内外で行われました。まず”ostarrichi”ゆかりの地ノイホーフェンとその所在州(下オーストリア州)の州都ザンクト・ベルテンでは「OstarrichiÖsterreich 9961996:人、伝説、里程標」という展覧会を5月から半年の間、開催。また、ウィーンでも「ドナウ川:オーストリアの千年-ひとつの旅」と題し、ドナウ川をその源流の黒い森から河口の黒海までをカバーする展覧会が5月下旬から約4ケ月間開かれました。

さらに音楽の都ウィーンらしいものが「音楽のメッセージ:オーストリアの音楽千年」という展覧会で、歴史的な楽器やハイドンからモーツァルト、ベートーベン、シューベルト、ヨハン・シュトラウスなどに至るまでウィーンゆかりの作曲家の肖像画・楽譜のコレクションを駆使した他の都市では決して類を見ないものが年末にかけて(1027日から翌年2月まで)行われました。

 日本でもオーストリア千年祭にちなんだ催し物が年の始めから行われました。美術関係では、ハブスブルグ家のコレクションから発展した、世界有数を誇るウィーン美術史美術館の名品展が1月初旬から約2ケ月間東京で開催。また、現代美術工芸に多大の影響を与えたヨーゼフ・ホフマンとウィーン工房の展覧会が3月から夏にかけ、豊田市を皮切りに佐倉市、徳島市で開かれました。

 音楽関係では、皇帝フランツ・ヨーゼフの美貌の皇妃の生涯を描いたウィーンのヒットミュージカル「エリザベート」が宝塚歌劇団の雪組によってまず春に宝塚で、初夏には東京で上演され大好評でした。このほか、ウィーン少年合唱団、アルバン・ベルク四重奏団、ウィーン・フィルなどの日本公がも年末まで目白押しでした。Kh2007

 さらに、千年祭を祝うオーストリアに千本の桜を贈ろうという計画が在オーストリアの日本人会などによって進められました。これにはウィーンの各区と姉妹都市にある世田谷区、台東区、府中市、岐阜市、羽曳野市、宝塚市等も協力。募金規模は1000万円で、4月初旬に八重桜、ソメイヨシノの成木130本をドナウ河畔の公園、中州などに植え、その後、870本をウィーンで育て、ドナウ河畔などに順次植樹されました。その年の「みどりの日」にはクレステイル大統領、ホイプル・ウィーン市長が出席して植樹式が行われ、日本からは世田谷区長らも出席。美しく青きドナウの河畔を日本の桜の花で飾りたいとの関係者の願いと努力が実って、ドナウ河畔がワシントンのポトマック河畔と並ぶ桜の名所になったら、きっと素晴らしいことでしょう。   甲斐 晶(エッセイスト)

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アフリカ・ツメガエル後日談

 Tfrogkermit_2は虫類や両生類の中でカエルほど親しみ深いものはありません。現に、ある製薬会社のマスコットにまでなっていて、薬屋の店先に置かれた大きなカエルの人形を通りすがりの小学生が撫でて行くのを見かけたりします。これがヘビの人形だったりしたら、きっとこうはいかないことでしょう。

  さすがにヒキガエルはグロテスク過ぎて、人気は今一つですが、ひょうきんな顔つきのアマガエルの方は愛橋があって、子供番組、セサミストリートでもカーミット・ザ・フロッグが人気キャラクターになっています。

 世界中にカエルの愛好家が多いからでしょう、インターネット上にカエルのホームページ(http://netro.ajou.ac.kr/~lastfrog/frog/froggy.html )を作った研究者がいます。Frog カエル好きが昂じて付いたあだ名が“Froggy”とか。世界中の様々な種類のカエルの写真を始め、学術情報やカエルにまつわる話題、イラストなどを満載。指定の箇所をクリックすると、「ケロケロ」とカエルの鳴き声が聞こえてくるほどの懲りようです。ケロちゃんのお食事用に世界の昆虫食のレセピーまで用意されていて、愛蛙家(?)にとっては必見ものです。

 さて、わが家で飼い始めたアフリカ・ツメガエルの「ぶち」については前回(アフリカ・ツメガエル)ご紹介しましたが、今回はその後日談です。

 「ぶち」を飼い始めたのは残暑がまだ厳しかった8月下旬のこと。他に2匹が一緒だったのですが、アフリカ原産なのに暑さが苦手な性質のため、相次いで他界。「ぶち」1匹だけが生き残りました。餌の乾燥糸ミミズを良く食べ、みるみるうちに当初の4倍以上に大きくなって、筋骨隆々の体型に。のし泳ぎや「水中クンバカ」(何しろ息が長くて、10数分間も潜水したままなのです)を披露してくれ、見ていて飽きませんでした。Laevis2

 ところが飼い始めて3ヶ月後の11月頃から異変が始まりました。時折、手脚を真っ直ぐ伸ばした状態で痙攣を起こすのです。水槽の底で発作が起きると、脚が硬直したままですから、水面まで息継ぎに上がれません。そのまま窒息してしまうのではと見ていてハラバラ。冬場になり水温が低下したためではないかと判断し、熱帯魚用のヒーターを水槽に取り付けたところ、この発作は起こらなくなりました。

 次なる異変は、視力が落ちて失明したのではと思わされるような行動パターンです。給餌の度に水槽の端を筈で叩いていたところ、これが条件反射となって、箸で叩く と餌を求めて水面まで上がって来るようになりました。Img13557600しかし、水面に浮かんだ餌の乾燥糸ミミズが良く見えないのか、そのすぐそばでしきりに飛びつくのに、一向に口の中には収まりません。食べ終わるまでに随分体力を消耗するようになりました。

 しかも折角このように苦労しながら餌を食べても、今度はしばしばこれを吐くようになったのです。そうなると、口から白っぽい粘液の雲をたなびかせながら泳ぐ始末。粘液で包まれた餌を引き上げてみると、中は未消化のまま。拒食症の蛙なんて聞いたことがありません。

 どうもこれは不眠症が原因ではないかと思われるのです。都会の街路樹は夜でも昼間並みの照明のため不眠症の症状を呈していると言われています。わが家の「ぶち」の場合、体調を崩し始めた時期と息子が大学受験で猛スパートを掛け始めた時期とがほぼ一致します。受験生のこととて、夜と昼とを取り違えた生活。夜中でも煌々と明かりを点けた部屋に「ぶち」の水槽があったのです。

 Medakayoukihi 「ぶち」は次第に痩せ衰え、肌は艶を失い、あれほど逞しかった脚も見る影もなく、お腹は皺だらけ。刺激に対する反応も段々少なくなり、辛いのか、ただ水面に浮かぶばかり。ペットショップに相談すると、拒食症になると手遅れとの話。生き餌をやってみたらとのアドバイスで緋メダカを10匹水槽に放しました。2匹が瀕死状態で見つかり、4匹が行方不明。「ぶち」のお腹も久しぶりに膨らんでいたので、どうも食べたようです。

 しかし結局は「薬石効無く」半年後に他界。水槽は排メダカの天下となってしまいました。                         甲斐 晶(エッセイスト)

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アフリカ・ツメガエル

 子供の小さいときにはペットを飼ってくれと子供からせがまれても、世話が焼けるからだめと拒んでいたのに、子供が大きくなって逆に手がかからなくなると、かえってペットにのめり込む人が多いようです。我が家でもご他聞に漏れず、ある時の夏からアフリカ・ツメガエルを飼い始めました。Afurikatumegaeruarubino

 このカエルはとても変わっています。アフリカ産で、後ろ足の水掻きのある指先に黒いトゲのようなツメが付いていることからこの名がありますが、両棲類のクセに陸上に出ることはなく、専ら水中に生息します。しかし成体は肺呼吸ですから、いつもは水槽の底にじっと潜んで居ても、10分置きぐらいに息継ぎのためりこ水面にちょこんと鼻先を出しては、すぐにまた水底に潜ってしまいます。

 息子が高校生時代にクラスでこれを飼っていたことからその存在を知り、夏のまだ暑い盛りのこと、ペット・ショップで元気の良さそうな体長5cmばかりの小さいものを3匹買い求め、中型の水槽で飼い始めました。

 3匹のうちの1匹はいわゆるアルビーノで、目が真っ赤なほかは全身が薄いピンク色。他の1匹は体色がオーソドックスな黒い縞模様であるのに対して、残りは黒のまだら模様。初めはプッチーニの歌劇「トーウランドット」に出てくる中国の宮廷の3人の大臣の名前にちなんで、ピン、ポン、パンと名付けたのですが、これではどれがどれやら区別が付きません。そこでそれぞれの体の特徴から白、黒、ぶちと命名しました。

 542948_l2ところがアフリカ産に似合わず、高温が大の苦手。その年の夏の記録的な猛暑で水槽の水温が30℃以上に上昇したためでしょうか。アイス・ノンで懸命に水温を下げたのにもかかわらず、白と黒が相次いで他界。「ぶち」だけが生き残って、そう大きくもない水槽を我が物顔に睥睨していました。

 体長は手足を含めて20cmほど。脚はたくましく太くなり、体型も背中がこんもり盛り上がって、横から見ると見事な流線型で泳ぐのに相応しい格好となり、立派に成長しました。

 ところがその手(前足)たるや、立派な脚(後足)に比べると極めて小さくて細く、ほんのお印し程度のもの。そのせいかどうかは分かりませんが、アフリカ・ツメガエルの泳ぎ方は、全くカエルらしくないのです。

 平泳ぎのことを「カエル泳ぎ」とも言うように、カエルの泳ぎ方は本来、平泳ぎのはずです。しかし、ぶちの泳ぎ方を観察していて気がついたのは、確かに脚は「蛙脚」で泳いでいるのですが、手の方は「蛙掻き」(ブレスト・ストローク)ではなくて、「のし泳ぎ」のスタイルな。のです。どうですか。のし泳ぎの蛙なんて何とも珍妙でしょう?この珍妙な泳ぎ方といい、魚のようにいつも水中にいる点といい、アフリカ・ツメガエルは実にカエルらしくないカエルなのです。

 4971618331021 エサは乾燥した糸ミミズで、サイコロ状になったものを一口大に千切って与えます。乾燥ミミズが水を吸ってふやけてくると、あたかも相手が生きものであるかのように、水中からこのエサめがけて勢い良く飛び付いて一気に頬張るのですが、この時ばかりは野生を感じさせられます。イヌやネコのような高等な動物ではないので、飼い主に懐くということはありませんが、エサをやる度に水槽を箸で叩いていたら、これが条件反射となって、水槽を箸で叩くとエサを求めて激しく水面に鼻先を出すようになりました。かわいいものです。

 給餌の時以外は水中でじっとしており、ほとんど動きません。ユーモラスに大の字になったまま水中浮遊していることがあり、ひょっとして死んでしまったのではないかと慌てさせられることもあります。

 アフリカ・ツメガエルを観察していて疑問に思うのは、前にも述べたようにほぼ10分に1度は呼吸のために水面に出てこなければいけないわけで一体何時眠るのだろうかということです。回遊魚などについての最近の研究結果によれば、これらの魚の睡眠は常にうとうと状態か、脳の半分ずつが交代で睡眠状態にあるそうですから、アフリカ・ツメガエルも案外そうなのかもしれません。

甲斐 晶(エッセイスト)

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亭主のへそくり

 パーティーなどでの欧米人との会話で「日本人の奥様方は貞淑で、亭主を良く立てるそうで大変に羨ましい」という話になることがあります。そんな時には、「日本人のご亭主はその多くが給料袋を貰うとそっくりそのまま奥方に渡してしまい、家計は奥様方が切り盛りするのが普通だ」と教えてあげるとみんなびっくりします。

 欧米ではロシア人だけが日本人と同じシステムでご主人が奥様に給料袋をそっくり渡すのですが、そのほかは皆ご亭主が家計を握っているのです。

このように女性に実権が無いからこそ、欧米でレディー・ファーストがやかましく言われ、ウィメンズ・リブ運動が盛んなのでしょう。

 ところで我が日本ではご亭主がお小遣いを奥様から分けて戴くという力関係から、世のご亭主の涙ぐましいまでの「へそくり捻出大作戦」が展開されるのです。Img10582861422

 これはある先輩のことです。当時は結婚したてでまだ世間知らずの奥様であることを良いことに、国内出張の度に「金が必要だ」と言って、まんまと旅費をせしめていたつわものがいました。きっと出張旅費は自前なんだなどと言って新妻をたぶらかしていたのでしょう。その後、真相が判ったときの顛末がどうだったかは残念ながら聞き漏らしてしまいました。

 さて次は公務員や独立行政法人などの職員の場合です。人事院勧告がなされ、その年度の4月に遡ってベース・アップが行われると、現行給与との差額が数ヶ月分まとめて、ボーナス日に相前後して支給されます。これを奥方に内緒にするというわけなのですが、生憎と公務員住宅や職員住宅に住んでいるとこの目論見も水泡に帰す場合が多いようです。というのも奥方同士で「どうも差額が出たらしいわよ」と情報交換が行われ、奥様族の知るところとなるからです。しかも最近は給与の銀行振込が普及しましたので、差額も直接銀行口座に振り込まれるようになってしまい、残念ながらこの手ももはや効かなくなりました。

 同僚によれば、次なる手はカードの使用です。Cardimg_8_1172561344 手元不如意になるとカードで買い物をし、12ケ月後に給与の振込先の銀行口座からの引き落としを狙うしのだそうで、奥様がこれに気が付かなければしめしめというわけです。これには同僚と割勘で一緒に食事に出かけた様な場合に、レジで取り合えずカードでまとめて払っておき、同僚からは別途それぞれの割当額を徴収して、その分を臨時収入とするという奥の手もあるようです。

 マージャンやパチンコTc037_3_2 などの特殊技能をお持ちの方はこれで稼ぐという方法もあるようですが、時には給料分そっくり負け込んで禁治産者(これは、今や死語で「被成人後見人」と言うそうです)となる場合もあるようで、そうそう物事巧くは行かない様ですのでお気を付けのほどを。

 まあ一番無難と思われるのは出張旅費を浮かす方法でしょう。特に外国出張の場合には実際の経費と支給される日当・宿泊費との差額が大きい場合があります。しかしこれとても、お偉方に随行をする出張の場合には超高級ホテルに一緒に宿泊せざるを得ず、持ち出しになることもありますし、我が家のように行く先々での家族からのお土産の要求が激しい場合には常に収支トントンか、むしろ赤字の場合が多いようです。

 この出張旅費を浮かすという方法は何も日本のご亭主族の専売特許ではありません。日本に研修などでやってくる開発途上国の人々の場合には深刻です。物価が故国と日、本では1桁以上も違うだけに、とてももったいなくて日本人のように日当をそのまま使うわけには行きません。弁当の代わりにゆで卵やパンを買って済ますなど、食事もそこそこに節約を重ねていて痛ましいほどです。こうして日本滞在中に貯めた日当の額は故国では1年分の給与に相当することも珍しくはないのです。

 まあ、へそくりの財源として一番オーソドックスなのは、原稿料や講演料でしょうが、これとてもご本人に余程の文才や、専門知識や学識が無ければ叶わないわけで、そう簡単ではありません。 ともかく世の亭主族のへそくり作戦の努力には実に涙ぐましいものがありますね。

甲斐 晶(エッセイスト)

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薬草

 漢方薬のひとつに葛根湯(かっこんとう)という煎じ薬があります。一般に風邪の時の解熱のほか万病に効能があると信じられているところから、落語にこんな小話があります。

 横丁の薮医院での診療風景です。熊さんが奥歯の痛みを感じて先生に診てもらうと、「うん、これは歯痛(しつう)だな。葛根湯でも飲んで寝てなさい。」との診断。次ぎに八っつあんが「頭が痛いんで」と訴えると、「うん、これは頭痛(ずつう)だな。葛根湯でも飲んで寝てなさい。」と快刀乱麻の診断です。

 次いで薮先生が八っつあんの脇の若者に「あんたはどうしたんだね。」と尋ねると、「なあに、あっしはこいつの付き添いでさあ。」との返事。薮先生がすかさず、「それはタイクツウ(退屈)だな。葛根湯でも飲んで寝てなさい。」と言ってオチとなります。

 しかし、この葛根湯にも現代医学の光が当てられて、意外な効能があることが分かり、西洋医学の病院でも生薬として処方する場合も出てきました。また葛根に川弓と辛夷を加えた「葛根湯加川弓辛夷」(かっこんとうかせんきゅうしんい)は花粉症に良く効くとの評判があります。

 さて欧米でも民間療法で薬草(ハーブ)を煎じて飲むことが行われています。例えばプッチーニの有名なオペラ「三部作」のうちの二作目「修道女アンジェリカ」でも主人公のアンジェリカが薬草に詳しいという設定になっています。4_29そして蜂に刺された仲間の修道女キアラのために薬草を集めて薬を処方する場面があったり、修道生活に入る前に私生児として密かに産んだ我が子の死を知ったアンジェリカが薬草で作った毒をあおって息を引き取る場面がラスト・シーンだったりします。

 西欧の薬草のうち葛根にあたるのはカモミール(別名カミッレ、仏語:カミーユ、独語:カミレ)でしょう。Kamo1_2 キク科の多年草で、初夏に白い小菊のような可憐な花が咲き、これを摘んでそのまま、あるいは乾燥させてハーブ・ティーにします。普通は胃の調子の悪い時や、気分を静めたい時に用いるのですが、好きな人ともなると風邪を引いた時や、気分がすぐれず元気が出ない時の強壮など何にでも用い、まるで葛根湯並みです。柚子湯や菖蒲湯のように入浴に用いたりもします。

 ハーブはまたお菓子やケーキなどに入れて香味料ともします。バツカやニッキ、生妾などと同様の使い方です。(ハッカ飴やニッキ飴、生姜煎餅、 ヨモギ餅などを思い出してください。)

 ハツカやニッキの味が苦手な人がいるように、欧米のハーブ味のお菓子のなかにはとてもいただ けないというものがあります。その典型がアニスでしょう。Anise

 欧米で売っている色とりどりのキャンディやジェリー・ビーンズの中には不思議にも真黒なものがあります。何だろうなと思って一口味わってみるとこれが運の尽き。そのまま吐き出してしまいたくなるような、とてつもなく不味いアニスの昧なのです。

 アニスは東部地中海沿岸地方を原産とし、丈が60cmほどにまで伸びる日光を良く好む一年草です。黄色がかった白い花が咲き、これが終わると楕円形の小さい種がつきます。この種を香辛料や薬用に用いるのですが、消化不良や咳き止めに効くと言われています。

 アニスはお菓子やキヤンディの香辛料としても用いられるのですが、これが日本人にはとても耐えられない奇妙な味なのは先に述べたとおりです。Anisehl

 ところが欧米には長い靴紐状のグミもどきの変な駄菓子があり、これがアニスの味で彼らの大好物。外人はどうしてアニスの味が好きなのか長らく疑問でしたが、ウィーンで知人が出産を経験し、その体験談からこの疑問が氷解しました。

 あちらでは赤ちゃんがむずかると、おなかが張っているからだろうと、整腸の効能があるウイキョウ(茴香:英語ではFennel)のお茶を与えるのだそうです。ところがこれがアニスと同じ味。生まれた途端にこの味で育つのですから、この味に馴染んでいるのも不思議はありません。「三つ子の魂百までも」というのは味覚の世界でも成り立つようです。  甲斐 晶(エッセイスト)

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