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エッツィの謎

  今から16年ほど前の1991919日のことです。オーストリアとイタリア国境のオーストリア・アルプスをトレッキングしていたドイツ人力ップルが氷河から頭と肩を突き出している遺体を発見。地元の山岳救助隊が出動するなど当初は遭難者と思われていたのですが、調査が進むにつれてこれが人類史上最古、約5000年前(日Oetzi 本では縄文時代)のミイラであることが判明しました。

 ミイラと同時に後で詳しく述べるような遺品も多数見つかって、結局は考古学上20世紀最大の発見となりました。身長が160cm、体重が50kg40才代の男性と推定されているこのミイラは発見場所が氷河であったことから一般に「アイスマン」と呼ばれていますが、発見地点がチロル地方のエッツ・タールに近かったことにちなんで「エッツィ」の愛称でも呼ばれています。

 何らかの原因でこのチロルの山中で死んだ中年男性の遺体が長い年月の風雪を経てミイラ化。やがて氷河に埋もれてしまっていたのが近年の地球温暖化による異常気象で氷河が融け出し、5000年もの長い眠りからようやく覚めて、我々の前にその姿を表したのです。

 そのいでたちは革製の下着に毛皮のコート、ブーツ、毛皮の帽子を着用。コートは断熱のため藁のライナーが施され防寒の準備は万全。いくつかの武器と道具を携行していて、肩には14本の矢の入った矢筒を担っていました。このほか短剣を帯び、大理石のペンダント付きの首飾りをし、斧を持っていましたが、この斧は刃が銅製で人類最古のものにあたるとか。西洋スモモの実やアルプス山羊(Steinbock)の骨も出てきましたが、これらは携行食糧の一部だったのではないかと思われています。Oetzi_rekonstr2

 一緒に出てきた植物から推定すると彼の死んだのは 8月ないし10月ということになりますが、武装度が低く、生活者としての遺品が多いことから戦闘で死んだのではないこと、遺体の状況を法医学的見地から判断すると格闘ではなく不意討ちか転倒で死亡したのではないかと想像されています。

 すなわち遺体の所見は頭蓋骨と肋骨3本が骨折。頭は斧の傷と推定されることから犯罪の可能性も否定できないのですが、左の肋骨の骨折は治癒しており、右側のは新しい骨折ですが、全体として比較的きれいな体であることから格闘ではなかったのではとされています。

 また頭部に丸い傷がみられるのですが、生前のものであれば起こるはずの生活反応がみられないことから、死後のものと推定されています。気象考古学によると2000年前のローマ時代に温暖期があったそうで、そのときに氷河が融け、ミイラの頭部だけが露出して破損したと考えられています。

 されに興味深いのはその体に13箇所もの入れ墨が見られることで、人類は5000年も前から入れ墨の風習を有していたことになります。しかしよく観察すると、入れ墨の下には必ず関節炎の症状が見られることから、この人れ墓は関節炎の治蝶の痕ではないかと思われています。

 それでは一体彼はこのアルプスの山の中で何をしていて死に至ったのでしょうか。想像力を駆り立てられる問題ですが、生活者としての遺品が多いことから、この地方に多く見られる羊飼いではなかったかという説が有力視されています。

 ミイラが発見された地点からイタリア側に下ってすぐの南チロル地方にあるフエルナクト村の羊飼いの話では、発見地点は昔の羊飼いが羊を夏季に山に連れていくルートに当たっているそうです。彼の体験談によれば、ある年、秋になって、山から村に下山途中で突然の吹雪に遭遇。雪崩のため500頭いた羊のうち75頭を失ったとのこと。エッツィもこうした天候急変による雪崩にあって不慮の死を遂げたのかも知れません。800pxhauslabjoch_2

 ところで第一発見者がドイツ人、通報を受けて処置したのがオーストリアの救助隊、発見場所がイタリアとの国境だったことから、エッツィの所有権をめぐって三国の間でひと悶着。結局、発見場所はイタリア側に90mほど入った場所と認定され(写真の赤丸の地点)、 現在、エッツィはイタリアのボルツアーノにある南チロル考古学博物館に展示されていますが、この騒動を当のエッツィはどう思っていることでしょうか。

甲斐 晶(エッセイスト)

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