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ユリウス・マインル

 551081g_2 ウィーンに出かけると必ず立ち寄るお店が2つあります。ひとつは、シュテファン寺院の裏にある紅茶の専門店(勿論、緑茶や中国茶も扱っています)、「ハース・ウント・ハース」です。 ここのフレーバー・ティー「サニー・アイランド」は日本人好みの味で、おみやげとして喜ばれます。

もう一つは、ウィーンの目抜き通りの1つ、グラーベン通りとコールマルクト通りの角にあるユリウス・マインルのグラーベン店です。大変お洒落な高級食料品の専門店で、日本で言えば、紀ノ国屋でしょうか。Pan_willkommen_83803こだわりの品揃えで、オーストリア国内はもとより世界中のデリカテッセンを豊富に取り揃えています。後で述べるように、元来が焙煎コーヒーで名をなしたチェーン店です。日本では高価なパッケージ入りコーヒーが手頃な値段で手に入るので、いつも沢山仕入れて帰ります。Top_1_aそのトレードマークは黄色の地に細長い赤のトルコ帽(フェズ)を被った黒人の坊やの横顔を描いた、「Meinl Mohr」(マインルのムーア人)です。

初めてウィーンに住んだ1980年代には、ウィーンの街のどこにでも見かけた、国内資本の食料品チェーン・ストアだったのですが、残念ながらその後外資との競争に負け、現在ではこの「マインル・グラーベン店」だけとなってしまいました。

ユリウス・マインルの創業は1862年、ユリウス・マインルI世が1区フライシュマルクトに開いたお店が始まりです。当初は、緑の生豆のみを扱っていたのですが、後に、焙煎したてのコーヒー豆を売るようになり、これが当たって商売は繁盛。大資本となり、1939年、ユリウス・マインルⅡ世の時には、ヨーロッパ全土で1000店を超える店舗を有し、様々な高級食料品を扱うまでになりました。このため、ナチスのオーストリア併合に際しては、ユダヤ系の大財閥ロスチルドに対抗しナチスに協力せよとの要請を受けましたが、きっぱりこれを拒否したという逸話が残っています。

しかしながら、第二次大戦を経てオーストリアの店舗と焙煎工場だけが残されたのですが、1960年代末には、280店舗を所有するまでになりました。系列には、もっと廉価なコーヒー分野の食料品を扱う「Brüder Kunz」の店舗78店や大規模スーパー・チェーン「Pam Pam」もありました。

ところが、2000年、オーストリアにおける食料品小売業の財政危機のため、撤退を余儀なくされ、グラーベンの専門店以外の全店舗を売却せざるを得ませんでした。これらは全て、REWE及びSPARによって買収され、元のユリウス・マインルのお店は、ドイツ系の「Billa」や「SPAR」に変わってしまいました。

今日、ユリウス・マインル社は、再び元来のコーヒー業に集中し直し、オッタークリングに焙煎工場を操業しています。また、有名なグラーベンのお店は、2000年に大幅な改装が行なわれ、2フロアーとなって売り場面積も広くなり、デリカテッセン「マインル・グラーベン店」として、再スタート。従来以上に繁盛しています。Pan_restaurant_32743ここに入っているレストランが、2004年、“Gault-Millau(オーストリア版ミシュラン)の三つ帽子(三つ星に相当)に認定され、根強い人気があります。

一方、東欧圏にあった支店網も次第に買収され、1999年にはハンガリーのものが、2005年にはチェコのものが買収され、唯一、ポーランドの支店だけが営業中です。ただし、「マインル・グラーベン店」の成功から、モスクワの赤の広場に、同様のデリカテッセンを開店する構想があるようです。

133242 ところで、「コーヒー王」ユリウス・マインルⅡ世の奥様は、日本人声楽家の田中路子女史でした。彼女は明治生まれの大和撫子でしたが、同様に国際結婚したクーデンホーフ・カレルギー光子とは全く対照的に決して貞淑な妻ではなく、夫も公認の恋多き妻でした。今や、ユリウス・マインルⅡ世も田中路子(「ミチコ・タナカ」参照)も故人となってしまいましたが、現在でも、「マインル・グラーベン店」の2階にある紅茶のコーナーでは、彼女の名前を冠した「Michiko」というシリーズが売られています。親子ほどの年齢差があったユリウス・マインルⅡ世の妻路子に対する変わらぬ愛情が窺い知れます。

甲斐 晶(エッセイスト)

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