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2007年11月

消費者心理

 他人より少しでも得をしたいというのは消費者誰しもの思いでしょう。そうした心理を狙って、売る側はあの手この手で消費者に迫ってきます。

 一昔前、ガソリンスタンドが固定客を獲得するためにやるのが会員優待制度。会員には特別割引料金が適用されガソリン代が割安になるほか、ダイレクト・メールを持参すると給油量に応じてティッシュ・ペーパーなどの景品が貰えたりしました。

 我が家ではあちこちのスタンドの会員となって、今週はこちら、来週はあちらとダイレクト・メールの葉書片手に回るものですから、一頃はティッシュ・ペーパーを買わずにすんでいました。しかし、ティッシュ・ペーパーばかりが家の中にゴロゴロし始めると、次はトイレット・ペーパーが欲しくなりますが、有難いことに、次第にどちらかを選択できるようになり、大いに助かったものです。このほかにも隔週で「男性優待の目」、「女性優待の日」が決まっているスタンドが有り、今週はご主人が、来週は奥さんが、車を運転して割引券の入手に精を出していたご夫婦もあったようです。しかし、最近の石油高騰のあおりで、こうしたサービスも余り見られなくなってしまいました。

 Rain_check さてディスカウント・ストアなどの場合に良くあるのは客寄せのための目玉商品です。しかし数が限定されている場合が多いので、開店前からの長蛇の列を覚悟するか、さもなければせっかく出かけて行ったのに売り切れというのが関の山でしょう。こんな場合にアメリカではレイン・チェック(rain check)という制度があってとても便利です。Pilotsticketorange そもそも“rain check”というのは、屋外競技が雨のため中止となった場合に、その試合の観客に対して交付される順延された試合への入場券のこと。それが目玉商品が品切れとなった場合でも後日その商品が入荷した際にはセール価格での販売を確約する証書の意味にも使われているのです。

 この制度のお陰で、目玉商品を目当てに開店前から長蛇の列を作るという必要はありません。セール期間中に申し込みさえすれば、割引価格での購入が保証されるからです。この制度があれば、いわゆる「おとり販売」も避けることができます。

Coupons アメリカで盛んな制度でもうひとつ興味深いのはクーポン(割引券)方式です。日本でも「本券ご持参の方に限り1000円で生ビール飲み放題」などという優待券を街頭で配布したりしていますが、アメリカのは雑誌や新開の折り込み広告などに印刷されている特定商品の割引券です。これにはメーカーがプロモーションのために発行するどの店でも通用するものと、スーパーなどが客寄せのために発行するその店だけで有効なものの2種類があり、これを持参してレジで差し出すとクーポンに表示された額だけ値引きしてくれ、るのです。そこでアメリカの消費者は日頃からこのクーポン集めに一生懸命になります。(ちなみにアメリカでは“coupon”という単語は「キューパン」と発音することが多いようです。)

 もう20年ほど前のことになりますが当時アメリカで生活していて感じたのは消費者保護の思想の強さです。スーパーで買ったものが不良品であった場合は勿論のこと、単に商品が気に入らなかった場合でさえも、買った時のレシートさえあればこちらの言い分を信用してくれて、すぐに別の品との交換や代金の返却をしてくれます。Jmo1140l_2 さらにこうしたお客の苦情処理のために専用の顧客カウンターまで設けられているのが大変印象的でした。

 さて米国留学中のことでさらに思い出すのは、当時は貧乏学生のこと、新聞の折り込み広告を見てはセールとなった商品のうち日頃から欲しいと思っていたものにマジックで大きく丸印を付けて週末まで待っていたことです。そしていよいよ週に一度の買い物の日になると、この商品はこちらのスーパーで、あの商品はあちらのスーパーでと、広大なアメリカのこと、距離も厭わずにスーパーのはしごを車でやってのけたものです。

 それから30年余り経った今、ディスカウントを求めて、あちこちのお店を渡り歩いている我が姿に、何時になったらこうした生活から脱却できるのかと思うこの頃です。

甲斐 晶(エッセイスト)

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語学力

 海外赴任を前にした知人や友人から、学齢期の子供を現地校に入れようか、日本人学校にしようか、それともインターナショナル・スクール(英語)にしようか迷っているけれど、どうしたら良いだろうかと相談を受けることがままあります。

 そんなときに申し上げるのは、子供の年齢が帰国後に10歳(小学校4年生)以下であればせっかく外国語を覚えても、日本に帰ってくるとすっかり忘れてしまうので余り期待しない方が良いということです。これは海外勤務を経験した大方の人の意見のようです。

 我が家の経験でも、米国留学当時に1歳半だった娘が2年間の米国生活で英語をベラベラ喋るようになっていたのに、帰国の際にロスアンゼルスからJALに乗ったとたん、乗客が日本人ばかりで、周りが日本語なものですから、以来英語を少しも喋らなくなったということがありました。

 Vislogo ウィーンでインターナショナル・スクールの幼稚園に通っていた息子の場合には、日本に帰国後もその英語の力を維持させようと、帰国子女対象で遊びが主体の英語に親しむクラスに暫く通わせましたが、結局は徒労に終わってしまいました。

 2人とも理屈ではなく生活を通して肌で英語を覚えたわけですが、覚えるのが早かっただけ、忘れるもの早かったようです。しかし子供の年齢が10歳前後ともなると、既に日本語がある程度出来上がっているので、それだけしっかり身に付くということなのでしょう。

 ただ言葉はすっかり忘れてしまったのですが、発音の方はちゃんと搾るようで、2人とも今でもRLの区別はしっかり出来ます。

 語学が出来るかどうかは多分にその人の察しの良し要し、音感の良し悪しにかかっているように思えます。語学力と音楽力や数学力との相関が云々される由縁です。

 我が子の経験を見ても、子供ながらに状況を察しつつ言葉を覚えているようです。息子が英語の幼稚園に行き始めたころ、「英語を覚えた?」と知人が訪ねると、「うん、スリープっておしりをペンペンすることだよ」と答えたことがあります。変だなと思い「どうして」と尋ねると、「だってお昼寝の時に目を開けていると、『スリープ』と言いながら、先生がおしりペンペンするんだもん」との答え。子供ながら自分の置かれた状況から、相手の発した言葉がどういう意味かを頭をフルに回転させながら察しているようです。

 音感について言えば、こんなことがありました。やはり彼が英語の幼稚園に行き始めたころです。毎日のようにマザー・グースを遊び歌にしたものを新たに覚えて来ては披露してくれます。ある日「バー・バー、タクシー、ヘリヘリ・オー」と得意げに新しく覚えた歌を教えてくれるのですが、意味が良く分かりません。そこで家内が父母会の折に、幼稚園で『タクシーの歌』を教えているのかを尋ねると、先生は口をポカン。家内が息子の歌う節回しで「バー・バー‥・」と歌い始めると、先生はおなかを抱えて大笑い。本当の歌詞はBaaBaaBlack SheepHave you any wool?”というものだったのです。55064149 これがきっかけでマザー・グースの英語版を買い求め、息子が覚えて来る歌の解読に当たるようになりました。

 英語の句をそれに似た発音の日本語の句に置き換えていたわけで、これは大人でも良くやる手です。戦後の占領時代に、“General MacArthur”を「蛇の目傘」と覚えたり、ロンドン在住の日本人が“West Kensington”を「上杉謙信」と覚えたりするのがその例です。アメリカ人も「行って参ります」を‘‘Itchy Mighty Mouse’’と覚えたりするそうです。

 しかし音感が悪いととんだ失敗をするようで、日本人が米国旅行に出かけ、機内でアメリカ人のスチュワーデスに“One Beer”と何度頼んでもミルクが出てきたり、コーラを頼んだのに珈琲が出てきたという失敗談は枚挙に暇がありません。

 どうも語学上達のためには口や耳が固まらない若い内にやるのが一番というのが結論のようです。            甲斐 晶(エッセイスト)

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夫婦の絆

最近の地方自治体の芸術・文化志向には目覚ましいものがあって、ちょっとした地方都市には立派な美術館や音楽ホールが見られるようになりました。

 我家の近く、東京近郊のT市にもウィーンの楽友協会ホールを模したというシュー、・ボックス型の豪華なコンサート・ホールが建てられています。ここの目玉はお手本にした楽友協会ホール並みの優れた音響効果とドイツからわざわざ取り寄せたという立派なパイプ・オルガンで、色々な企画が精力的になされています。A7

 オープンしたての最初の年の年間プログラムにはバッハ研究家として名高い音楽評論家を招いてのバッハの作品を中心にした解説付きのオルガン・コンサートのシリーズがありました。T市の補助があるのでしょう、入場料が格安なのが有り難いところで、早速、家内と一緒に出かけてみました。

都内の有名なホールは何れも繁華な都心にあるため、せっかく素敵な演奏やオペラを満喫しても、公演が終わって一歩外に出てみると都会の喧噪や雑踏で今までの良い気分も台無し。演奏会の余韻を楽しめる都市構造となっていないところが興ざめでした。しかしこのT市のコンサート・ホールの場合には最寄りの駅から会場までが素敵なプロムナードになっており、その辺の配慮が行き届いていて一遍に気に入りました。

 ところが来ているお客にはちょっとばかり失望させられました。たまたま我々の後ろの席にテニス仲間とおぼしき56人のおばさんの一団が座っていたのですが、そのお喋りの凄まじいこと。開演前はまあ良いとして、オルガン演奏の合間になされる解説者のお話の間中ペチヤ・クチャが止まりません。余程怒鳴ってやりたい気分でしたが、ぐづと我慢。演奏会が終わってしげしげとおばさん連中の顔を見るに、それほど無教養でもなさそうですし、身なりもちゃんとしています。ただただ演奏会のマナーを心得ていないのです。

おばさん連れが目立つのは何もこの時ばかりではなく、他の演奏会やオペラでも同様で、これは欧米の常識からは考えられない、日本だけの特色でしょう。欧米では夫婦連れや恋人同士などの男女のカップルが基本で、同性ばかりが数人というのは異例です。欧米のオペラハウスで出張者とおぼしき日本人男性の一団がずらっと良い席を占めているのをよく見かけますが、これは欧米人にとってはとても異様な光景なのです。

 もちろん日本でも恋人同士とおぼしきカップルを見かけますが、夫婦連れは少数です。世の男性たちが結婚前には恋人をオペラやコンサートなどにせっせと連れ出すのに、結婚してしまうとこれらに全く興味を示さなくなってしまうのは「釣り上げた魚に餌は不要」という考え方からなのでしょうか。クラシックが駄目でカラオケ好きの男性ばかりだとも思えません。現に連れのいない中年男性独りだけの観客も日本ではよく目にします。これとて実に日本的な光景で、欧米ではそんな場合には必ず誰か女性を誘って出かけるところでしょう。

 それではなぜ日本では夫婦一緒に出かけないのでしょうか。家内によれば「亭主となんか出かけたくない」というおばさん連中の気持ちは良く分かるそうです。趣味が合わないということもあるでしょうが、むしろ、「女房が亭主を世話する」という家庭の日常性から解放され、気楽に振る舞いたいからのようです。亭主関白を決め込んで良い気でいるといつかとんだしっぺ返しに遭うのです。C02086 Ichidahiromi

 かつて、こんなサントリーの緑茶のコマーシャル・フイルムがありました。「ダイヤモンドに訪問着。おいしい弁当にお茶買うて、亭主のへソクリ使っこたった。ああおいしい。」と友達連れの旅先で陽気に歌う奥方と、本の間に隠しておいたへソクリを一生懸命探している哀れなご亭主の姿が印象的でした。

 世のご主人方、長年連れ添った奥様から見放されないためにも奥様との日頃のコミュニケーションと家庭サービスが肝要のようですね。

甲斐 晶(エッセイスト)

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電話考

 電話は1876年に、G.ベルが発明して以来、技術革新の恩恵を受けて目覚ましい進歩を遂げてきており、より高機能に、より便利になり、今や現代人の生活に欠かせない存在になっています。

 我々の時代に限っても、昔は交換手経由であり、特に国際電話の場合には時間が掛かり、雑音が多くて聞き取り難い代物でした。それが自動交換機の登場や衛星通信の恩恵によって、海外への電話も国内電話のように鮮明な音声で気軽に出来るようになりました。ローミングが可能な携帯電話なら、世界中のどこにいてもコンタクト可能です。

 しかし、これほどまでに便利で故障の少ない日本の電話システムに慣れてしまうと、外国の電話システムに苛立たされることもしばしばです。それはなにも後進国に限った話ではなく、オーストリア、ウィーンのような先進国の場合でもそうでした。

 例えば公衆電話ですが、故障中のものが多くて悲喜こもごもの体験をしたものです。相手に繋がらないのに、受話器を切ってもコインが戻らず、料金をタダ取りされて不愉快な場合もあれば、逆に通話が終わって受話器を切ると入れたコイン以上のお金が戻ってきて「ラッキー!」という場合もありました。日本では相手が不在で電話に出なければ料金は掛かりませんが、オーストリアの場合には呼び出し音を3回鳴らすとしっかり料金を徴収されるので、要注意です。Telwien1

 技術革新の波もひしひしと寄せてはいますが、そのテンポはいまひとつ。テレフォンカードのシステムが導入されつつあるのですが、一般にはあまり普及していません。これはカード自体が日本のように締麗なデザインの付加価値の高いものではなく、無骨で分厚いICカードで携帯に不便なうえ、使える電話器もまだ少ないためでしょう。

 最近ではあまり見かけなくなりましたが、旧式の公衆電話システムには閉口しました。Austcointel300 これはコインを投入しダイアルするところまでは日本と同じですが、コールサインで相手が出たらすかさず黒ボタンを押さないと、相手に繋がりません。相手の声はこちらに聞こえてもこちらの声が相手側に聞こえないので相手は変だなあと思いながら電話を切ってしまうからです。コールサインで相手が出ない場合には赤ボタンを押すと料金は戻ってきます。同じようなシステムは英国にも昔あって、旅行者が大いに戸惑ったものです。

 米国では日本よりも数段階進んでいて、小銭や電話用プリペイド・カードがない場合にはクレジットカードで電話が掛けられます。また加入電話の場合電話料金の請求書は明細付きで、日時と相手先の電話番号、料金が明示されています。掛けた覚えのないものがあれば、クレームをつけるとこちらの言い分を信用して清算してくれます。年頃の子供がやたらと電話するのを防ぐために電話器に鍵が掛かるものもあります。Yun_1660

 何かと便利さの多い電話ですが、こちらの都合にはお構いなく掛かってきたり、間違い電話があるのには閉口です。間違い電話の場合、ただ間違っていますと言うだけでは相手はダイヤルし間違えたのだと思い必ずもう一度同じ番号で掛け直してきます。何番をおかけですかと必ず聞き、当方の番号と合っていれば持ち主が変わったことを告げて、相手にちゃんと認識させれば、二度と同じ番号に掛けてはきません。

 かなり前のことですが、我が家の留守番電話に間違い電話が掛かったことがありました。しかも一度ならずに三度もです。どうも声の感じからおばあさんが友達に掛けているらしいのです。「野方の00ですけれど新井さんのお宅ですか。お留守のようですね。もしもし(留守番電話にこう呼びかけるところがどうにもおかしい)、お元気かなと思ってお電話しました。またご連絡いたします。」

 先方の電話番号を残してくれていないので、こちらから電話するわけにも行かず、相手の思い違いを訂正できずにいました。ある時は息子のいるときに掛かってきて、「おばあちゃん、間違い電話ですよ」と教えたにもかかわらず、しばらくするとまた留守録にくだんのおばあちゃんの声。どうも若干ボケの始まり掛けた老婦人のようでした。暫くは、このおばあさんとお付き合いさせられましたが、その後ぱったりと途絶えてしましました。お元気なのか、気になります。

甲斐 晶(エッセイスト)

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国歌あれこれ

Jp 村山政権の発足後、社会党は「日の丸」や「君が代」が国民の間に定着したとしてこれまでの姿勢を見直しました。しかし最近の若い世代には、「君が代」は大相撲千秋楽の表彰式の歌としか思っていないむきもあります。

 Br 君が代」は僅か13小節と短いので、覚えるのに大して苦労はありませんが、ブラジルの国歌は第Ⅰ部だけでも39小節の長編。さらにこれに第Ⅱ部が加わり、余りにも長すぎて誰も覚えていないということです。

 誰でも知っている外国国歌と言えば、まず英国のGod Save the QueenKing)”(神よ女王(王)を守り給え)でしょう。Uk これも14小節と短めです。本来は3番まであるのですが、現在もっぱら歌われるのは1番だけです。歌詞の“save”は本来「救う、救済する」という意味ですが、チャールズ皇太子を始め、息子達のスキャンダルに悩むエリザベス女王にとっては今や相応しい歌詞のようです。

 世界の国歌の中でも最古と言われる英国国歌だけあって、その作詞、作曲者は残念ながら不明ですが、多くの国の国歌などに影響を与えました。スウェーデン、プロシヤ、ワイマール、ロシアなどではかつてこの曲が国歌として使用されたほか、独立前のアメリカの植民地で歌われ、アメリカ合衆国が成立し、後述の「星条旗」が国歌として使われるようになった後でも別の歌詞が付けられ、現在では“America”として引き続き歌われています。

 またハイドンは英国滞在中にこの国歌に接し、祖国オーストリアにも国歌があればと考え(当時オーストリアはナポレオンの脅威下にあり、祖国の士気高揚のために国歌が必要と判断したようです)、帰国後の17971月「皇帝賛歌」(神よ皇帝を守りたまえ:Gott, erhalte Franz den Kaiser!)を作曲。At この名曲は長らくオーストリアの国歌として親しまれましたが、第二次大戦後第二共和国の誕生にあたって新しい国歌を選定することになり、公募の結果、今度はモーツァルト作曲の曲に、やはり公募の歌詞を付けたものが採用されて今日に至っています。毎夜公営TV放送の番組終了時に、風になびく国旗の映像と共にこの国歌が流されます。

1922年にはドイツもハイドンの「皇帝賛歌」を国歌として採用。De 当初の歌詞はフォン・ファレスレーベンの詩(1841年)の第一節、“Deutschland ueber Alles”(これは本来、ドイツ統一達成の標語、「総てに優先してドイツ(統一)を」なのに、あえて「世界に冠たるドイツよ」の意味を持たされた)でした。第二次大戦後の1950年に歌詞はその第三節だけに変更されましたが、曲の方は東西統一後もそのままです。

 Us さて米国はどうでしょう。米国水泳陣が世界を席捲していた頃、その国歌「星条旗」はオリンピックの表彰式の歌だと思っていた人もいた程ですから、これまた馴染み深いはずです。ただその歌詞がフランス国歌のラ・マルセイエーズ同様、戦闘をモチーフにしているのを知っている方は少ないでしょう。

1814年の米英戦争の時のことです。913日、英国艦隊がボルチモアのマックヘンリー要塞を砲撃。英国軍によって船上に身柄を拘束されていた弁護士キーら3人のアメリカ人達は、この要塞はとても英国軍の攻撃には耐え得ないと覚悟しつつ、昼夜に渡る激しい戦闘を海上からつぶさに目撃。翌朝、朝霧(あさもや)の切れ目の中に、Starbanner依然として要塞の上に勇荘に翻る星条旗の姿を見て感動したキーがその感激を書き留めて詩にします。これを当時流行っていた乾杯の歌、「天国のアナクレオン」の曲で歌ったのが国歌「星条旗」の由来です(当時の星条旗の星の数は15でした:上図参照)。

 この原曲は実は英国人J・スミスの手になるものなのですが、このメロディーはオペラ「蝶々夫人」の中で、プッチーニが米国士官ピンカートンの心情を描くのにも使っています。それに対して蝶々夫人を描くのには官軍の行軍歌「宮さん、宮さん」(midiファイル)が使われているのは興味深いところです。当時「君が代」は国外には知られていなかったのでしょうか。

      甲斐 晶(エッセイスト)

                                       

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世界の常識・日本の非常識

 今回は前回(日本の常識・世界の非常識)とは逆に欧米人には極く当たり前の行動パターンや習慣が日本人の常識からは抵抗感があって受入難い例を挙げてみましょう。

 Sunbathing まずは陽気がよくなるとすぐ裸になりたがることでしょう。高緯度のため冬が長く、年間の日照量が少ないので、冬が明けると短い夏の間に少しでも日の光を肌に吸収しておこうとせっせと日光浴に励みます。彼らはメラニン色素が少なく、陽に当たってもなかなかこんがり狐色にはならず赤くなるばかり。そこで男も女も競って上半身裸になって肌を焼くのです。もっとも、公園の芝生の上で日光浴に勤しんでいるのは白人ばかりで、黒人はあまり見かけません。

 他人に裸を見られること自体にそれほど抵抗感がないのでしょう。ウィーンのドナウ河畔の公園の一角にはヌーディスト用の水浴場がありますが、彼らは大胆にも一般用の地区にまで侵出。彼らに囲まれると水着をつけているこちらのほうが異常に見えてくるから不思議です。ドナウ河畔のレストランのテラスで食事をしていると、いきなりトップレスのうら若い女性が隣のテーブルに座ってきて、目のやり場に困ったこともありました。

 P15070129002 また、市内のサウナでは曜日によって「家族の時間」が定められていて、この時間は男女混浴。日本と違ってお互いに素っ裸で、タオルで体を隠すこともしません。もっともこれがお目当てでサウナ通いに精を出す日本人もありましたが・・・。

 22683742 060514robithumb 日本人にとってはいささかお行儀が悪いと思われることにも割と無頓着です。今や日本でも立食パーティは定着しましたが、初めのうちは立ち食いで、しかも口にものを入れながら話をするという形式に日本人はずいぶん戸惑ったものです。この延長線上にあるのが、ものを手づかみで食べる、他人の食べかけや飲みかけのものを平気で食べたり飲んだりする、道を歩きながら食べるなどです。10_06_texas01_3 ある時など、アメリカ人とおぼしき若者がホカ弁を箸で食べながら歩道を歩いているのを見て、ついにここまできたかと思ったりしました。

 日本人の常識からするとアメリカ人はあまり行儀はよくありません。疲れるとすぐ地べたにそのまま腰を下ろします(日本人なら新聞紙などを敷物にするところです)。また、テーブルの上にも平気で腰掛けたりします。米国留学中のことでしたが、大学教授が教壇に腰掛けながら授業を始めたのにはびっくり。J0407254_2 また、アメリカではハイウェイの路肩のレストエリアにはピクニック用テーブルが用意されていますが、食事を終わった家族が今まで使っていたテーブルに腰掛けている光景などきわめて日常茶飯事のことです。

 22819300 すぐ臭いを喚ぐという欧米人の癖も動物的でいただけません。NHKのフランス語会話でデビューしたフランス人タレントで美貌のD嬢がクイズ番組である品物の正体を当てるのに、鼻をくっつけてしっかり臭いを喚いでいたのは興ざめでした。Smelling_feet 名にし負う美人であっても、本能には逆らえないのでしょう。

 298443329_86d133e970 1062 鼻のかみ方も男女を問わず実に豪快です。日本人なら鼻紙(ティッシュー)で遠慮がちにするところですが、彼らはハンカチをやおら取り出すと未使用部分を探してこれを鼻に押し当てて、片手で(ここも重要なポイントです)上手に左右の鼻孔を交互に塞いで思いっきり力強くかみます。この際に鼻の構造の違いによるのでしょう、実にけたたましい音がします。“blow one’s nose”というのが「鼻をかむ」に対応する表現ですが、“blowとはラッパを吹く場合にも用いる動詞ですから、そのすさまじい音がご想像いただけるでしょう。ちなみに、「鼻をチンとかむ」は“blow one’s nose with a loud trumpeting noise“(ラッパのような大きな音を立てて鼻をかむ)と言います。

 最近の日本人の若者の行動パターンを見ると、歩きながら食べたり、他人の飲みかけを平気で飲んだり、地べたに座ったりと欧米人との差が見られなくなりつつあります。しかしいかに国際化が進んでも美人が音を立てて鼻をかんだり、臭いをすぐ喚いだりというのは願い下げにしたいものです。        甲斐 晶(エッセイスト)

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日本の常識・世界の非常識

 私たち日本人が極く当たり前に行っていることが欧米の常識とは大きくかけ離れているため、ひんしゅくを買ったり、時には犯罪扱いされることもあるので、海外旅行や海外で生活する場合には要注意です。特に子供の扱いや子育ての常識の違いからトラブルに巻き込まれる場合もあります。

 例えば我々日本人は子供に対して寛容で、コンサート、レストランなどどこへでも親と一緒に連れて行く傾向があります。しかも子供は王様で、多少の他人への迷惑は大目に見られます。ところが欧米では子供たちはベビーシッターに頼んで家に置いておき、親たちだけで楽しむのが常識。子供達れで許されるのは子供向けのコンサートや中華レストランぐらいのものです。29

 しかし海外生活においてこのベビーシッターに子供を預けて外出することは日本人の親にとっても子供にとっても慣れるまでは泣きの涙のこと。私の家内なども初めのうちは家に置いてきた子供がベビーシッターに慣れずに泣いてはいないかと気掛かりで、とてもパーティーやコンサートを楽しむどころではなかったと言っていました。

 日本でも子供だけを家に置いていて事故が起きれば当然親の刑事責任が問われますが、欧米では子供をベビーシッターなどの監督者を置かずに置き去りにしただけで親の責任が問題になります。現に何年か前、米国ロスアンゼルス近郊で車内に乳児をおいて買い物をしていた日本人旅行者の夫婦が幼児虐待のかどで逮捕され、罰金刑に処せられたりしました。

 またこれはウィーンでの出来事ですが、日本人の若夫婦が目を離していた隙にその乳児が3階の窓から地上に転落。奇跡的に無傷で後遺症も無くて良かったのですが、事故を知ったオーストリアの警察は両親を尋問。過失はなかったか厳しく取り調べられたそうです。それほど親の監督責任が問われるのです。これは車の運転でも同様で、日本では運転席で膝の上に幼児を乗せて運転しているのをよく見かけますが、欧米では12歳までの子供は後部座席に座らせないと厳罰です。助手席でさえ子供はご法度です。Mouko

 このほかにも我々日本人にとっては常識的なことが欧米では戸惑うこともあります。幼児に特有の蒙古斑が米国で幼児虐待と誤解されてトラブルとなった例を耳にしますし、日本では子供が風邪で高熱を出すと極力暖かくして汗をかかせて熱を引かせるのが常識なのに、米国式では冷水浴を勧められて困惑したこともあります。

 米国留学中のことでした。2歳になる娘が高熱を出したので大学病院に連れて行き小児科の医者に診てもらうと、まずは氷水を入れた浴槽に入れ、しばらく経ってから出し、濡れタオルで体を包んだまま放置するように言われました。日本の常識とはまるで正反対の指示でしたから、自分の娘に対してするのに忍びず、市販の小児用アスピリン(イチゴ昧つきで米国ではポピュラーです)を飲ませただけでした。しかし一向に高熱が引かず、再度見てもらうと、ちゃんと指示通りに冷水浴させないからだとひどく怒られた記憶があります。同じアパートの隣人で日本人の内科医にこの話をしましたが、習慣の違いとはいえ自分も冷水浴はさせられないと言っていました。

 この他何気なくするジェスチャーにも要注意です。日本では平気で他人を指差しながら会話をしますが、人差し指で他人を指すのは欧米ではきわめて失礼なことです。またこぶしを握った状態で中指だけをたてた形は日本では何の意味もありませんが、欧米では男性性器の象徴で相手を侮辱するときにこの形を作ります。Vict0

 ある時、某テレビ局のニュース解説でアナウンサーがフリップを指さすのにしきりに中指を使ってこの形をやっていました。きっと視聴者からの指摘があったためでしょう、番組の途中から指を使うのを止めてボールペンで使うのを止めてボールペンで指し示していました。これを見ていてつくづく感じたのは、日本も国際化が進んで海外経験が豊かな視聴者が増えてきたのだなあということです。     甲斐 晶(エッセイスト)

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ある国際的詐欺事件

 ある日見ず知らずの人からFAXが入って、「おめでとうございます。O夫人の遺言状によりあなたに2,500万円の遺産をお支払いすることになりました。ついては受諾の意志の有無をお知らせ下さい。」と言って来たらどうしますか。何となくうさんくさいとは思いつつも、どうせ損することはなさそうなので「お受けします。」と返事をするのが普通でしょう。こうした心理を巧みに利用した、ナイジェリアと日本が舞台の国際的な詐欺まがい事件が身近でありました。Ng

 上記の内容のナイジェリアからのFAXを受け取ったのは私の知り合いで愛知県A教会のK牧師。発信人は0夫人の遺言状の執行人です。彼女は日本人(旧姓Y本)で、70年代にナイジェリア人と結婚し、74年にナイジェリアに帰国。1年ほど前に逝去。遺言状にA教会に25万ドルを献金するとあり、中央銀行から外貨割当を受け送金手続きを行うので、この遺産を受けるとの意思表明と振込先の口座番号を通報されたい。ナイジェリアは郵便事情が悪いので以後の連絡はFAXに限るとあって、遺言状の写しが添付されていました。

以前ビザで困っていたナイジェリア人を手助けしたことがあり、その関係かなと訝しく思いつつも有難い話なので受諾のFAXを入れると、即座に「了解。早速A教会宛に25万ドルの為替小切手を発出するために、中央銀行に対し外貨割当の手続きを取った」旨の返信がFAXでありました。そして1週間ほど経って、「上記外貨割当の申請は認可されたが、貴教会が宗教団体として登録されている旨の公式文書が欲しい。国税当局に提示し、外国送金に係わる税金を免除してもらうのに必要だ。」とのFAX信が入りました。
 この時点でK牧師から私にどうすべきか相談があり、「法務局で登記簿の謄本を入手し、外務省の領事部などで英語に翻訳してもらったら。」と助言しました。外務省に問い合わせると、翻訳はするがそれで十分かどうか一応ナイジェリア大使館に確認したほうが良いと言われ、先方に電話したところ、同大使館の担当者の反応が意外にも「この遺産の話を本当にお受けになるのですか。やめたほうが良いですよ。」とのこと。その理由を問いただすと、「自分の国の悪口は言えないので、外務省の邦人保護課に聞いてくれ。」と繰り返すばかり。そこで邦人保護課に尋ねて分かったのが、ナイジェリアで多発している国際的詐欺事件で、その手口は多様ですが、以下がその代表例です。419sample

①自分は政府の役人で、大規模な石油契約の手数料として大金(数百万~数千万ドル)を入手。立場上外国に口座を設けて送金は出来ない。名義を貸してくれれば謝礼として2~4割を贈呈するともちかけ、相手が興味を示すと外国送金の許可を得るために関係省庁に手数料を支払う必要があるとして、数百万~数千万円の前払いを要求。これを払い込むと以後連絡は途絶。

②「多額の商品を購入したいが政府の承認を得るので担当者を派遣されたし。政府が本取引に関与してるのでビザは不要」ということで、担当者がナイジェリアに到着すると、ⅤIP並みにビザなしで通関し、「役人」の案内で「政府宿舎」へ。そこで一変して、「ビザなしで不法に入国したので大金を払わなければ出国出来ない」として現金を奪われたり、日本からの送金を強要される。

そこで、K牧師には「いずれ相手が尻尾を出すだろうから様子を見たら。」と助言。案の定その2日後に「9,900ドル送れ」とのFAXが入りました。「25万ドルの外国送金に対し1割(25,000ドル)を国税当局が課税する。相手は宗教法人だからと説明したが駄目で、取敢えず0夫人の遺産残額から15,100ドルを立て替えた。差額の9,900ドルを支払えばA教会宛の25万ドルの小切手を郵送できる。調停委員会に提訴すれば当方の主張が認められ、25,000ドルの税金は戻ってくるので、その暁には9,900ドルを返すから。」というのです。Vol47_01

その後放っておくと、あれほど矢の催促だったナイジェリアからのFAX信も途絶えました。きっともう脈がないと思われたのでしょう。皆さんもどうぞお気を付け下さい。           甲斐 晶(エッセイスト)

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エッツィの謎

  今から16年ほど前の1991919日のことです。オーストリアとイタリア国境のオーストリア・アルプスをトレッキングしていたドイツ人力ップルが氷河から頭と肩を突き出している遺体を発見。地元の山岳救助隊が出動するなど当初は遭難者と思われていたのですが、調査が進むにつれてこれが人類史上最古、約5000年前(日Oetzi 本では縄文時代)のミイラであることが判明しました。

 ミイラと同時に後で詳しく述べるような遺品も多数見つかって、結局は考古学上20世紀最大の発見となりました。身長が160cm、体重が50kg40才代の男性と推定されているこのミイラは発見場所が氷河であったことから一般に「アイスマン」と呼ばれていますが、発見地点がチロル地方のエッツ・タールに近かったことにちなんで「エッツィ」の愛称でも呼ばれています。

 何らかの原因でこのチロルの山中で死んだ中年男性の遺体が長い年月の風雪を経てミイラ化。やがて氷河に埋もれてしまっていたのが近年の地球温暖化による異常気象で氷河が融け出し、5000年もの長い眠りからようやく覚めて、我々の前にその姿を表したのです。

 そのいでたちは革製の下着に毛皮のコート、ブーツ、毛皮の帽子を着用。コートは断熱のため藁のライナーが施され防寒の準備は万全。いくつかの武器と道具を携行していて、肩には14本の矢の入った矢筒を担っていました。このほか短剣を帯び、大理石のペンダント付きの首飾りをし、斧を持っていましたが、この斧は刃が銅製で人類最古のものにあたるとか。西洋スモモの実やアルプス山羊(Steinbock)の骨も出てきましたが、これらは携行食糧の一部だったのではないかと思われています。Oetzi_rekonstr2

 一緒に出てきた植物から推定すると彼の死んだのは 8月ないし10月ということになりますが、武装度が低く、生活者としての遺品が多いことから戦闘で死んだのではないこと、遺体の状況を法医学的見地から判断すると格闘ではなく不意討ちか転倒で死亡したのではないかと想像されています。

 すなわち遺体の所見は頭蓋骨と肋骨3本が骨折。頭は斧の傷と推定されることから犯罪の可能性も否定できないのですが、左の肋骨の骨折は治癒しており、右側のは新しい骨折ですが、全体として比較的きれいな体であることから格闘ではなかったのではとされています。

 また頭部に丸い傷がみられるのですが、生前のものであれば起こるはずの生活反応がみられないことから、死後のものと推定されています。気象考古学によると2000年前のローマ時代に温暖期があったそうで、そのときに氷河が融け、ミイラの頭部だけが露出して破損したと考えられています。

 されに興味深いのはその体に13箇所もの入れ墨が見られることで、人類は5000年も前から入れ墨の風習を有していたことになります。しかしよく観察すると、入れ墨の下には必ず関節炎の症状が見られることから、この人れ墓は関節炎の治蝶の痕ではないかと思われています。

 それでは一体彼はこのアルプスの山の中で何をしていて死に至ったのでしょうか。想像力を駆り立てられる問題ですが、生活者としての遺品が多いことから、この地方に多く見られる羊飼いではなかったかという説が有力視されています。

 ミイラが発見された地点からイタリア側に下ってすぐの南チロル地方にあるフエルナクト村の羊飼いの話では、発見地点は昔の羊飼いが羊を夏季に山に連れていくルートに当たっているそうです。彼の体験談によれば、ある年、秋になって、山から村に下山途中で突然の吹雪に遭遇。雪崩のため500頭いた羊のうち75頭を失ったとのこと。エッツィもこうした天候急変による雪崩にあって不慮の死を遂げたのかも知れません。800pxhauslabjoch_2

 ところで第一発見者がドイツ人、通報を受けて処置したのがオーストリアの救助隊、発見場所がイタリアとの国境だったことから、エッツィの所有権をめぐって三国の間でひと悶着。結局、発見場所はイタリア側に90mほど入った場所と認定され(写真の赤丸の地点)、 現在、エッツィはイタリアのボルツアーノにある南チロル考古学博物館に展示されていますが、この騒動を当のエッツィはどう思っていることでしょうか。

甲斐 晶(エッセイスト)

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引かぬは一生の恥

「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」という諺がありますが、外来語や熟語などに関して辞書をちゃんと引いて確かめず、思い込みやうろ覚えでやったためにとんだ赤恥をかくことがあります。

 大学院時代のことでした。同じ研究室の助手の方がある英語の研究論文の内容を紹介した際のエピソードです。動物実験の結果について記述したものだったのですが、実験に使用した動物が原著では“a guinea pig”となっていたので「ギニア豚」を用いての実験と報告しました。ところがこれがとんだ大間違いだったのです。確かに“Guinea”はギニアで、“pig”は豚ですから、“guinea pig”は「ギニア豚」となるはずです。しかし英和辞典を引けばすぐ分かることなのですが、これはアフリカはギニア産の特殊な豚などではなく、実験用のモルモットのことなのです。ちなみに広辞苑によればモルモットの語源はオランダ語の“marmot”で、Alpine_marmot2 16世紀にオランダ人がペルーからわが国に伝えた時に、これを別種のマーモットと混同したためとしています。(マーモットはヨーロッパのアルプスなどで良く見られる人なつっこい小動物で、リスに似てはいますがこれよりもやや小肥りで尻尾も短めです。)

 Guinea_pig さてこのモルモットでは私の家内もウィーンでとんだ恥をかく羽目になりました。小学校低学年だった子供たちにせがまれて、モルモットをペットとして飼っていましたが、そのエサのレタスを八百屋で買うのが家内の務めでした。

 ある土曜日のこと、週末でお店がお休みになるのでいつもより大量にレタスをまとめ買いしようとしました。お店の女主人が「そんなに沢山?」と訊くものですから、「え、、家でモルモットを2匹も飼っているので」と言うつもりで、モルモット(“Meerschweinchen”)のところをうろ覚えのまま、“Schweinchen”と言ったので相手がびっくり。それもそのはず、これでは「子豚を2頭も飼っている」ことになってしまうからです。

 間違いに気付いた家内は確か“schweinchen”の前に何か言葉があった筈だとまでは分かったのですが、それが何だったのか中々思い出せません。幸い英語の分かりそうなオーストリア人の女学生が横にいたので、「ねえ、guinea pigってドイツ語で何て言ったかしら」と尋ねたところ、今度は彼女が四苦八苦の番。ドイツ語が母国語であり、guinea pigが何であるかも分かっているのですが、度忘れでそのドイツ語がすぐには浮かんで釆ません。苦労の末、ようやく“Meerschweinchen”だと分かって一同大笑い。女主人もああそうだったのかと納得し、後から店に出てきたご亭主に一部始終を解説。ご亭主の方もおなかを抱えて笑っていたそうです。

 日本語でも同じような間違いが起きるもののようです。これは馬鹿丁寧な日本語をあやつることで知られる日系ブラジル人のタレント、マルシアの場合で、ある蒸し暑い夏の日のこと。楽屋で付き人が「こんな日は、きもだめしが一番なんだよな。」と言うのを小耳に挟んだ彼女は透かさず、「それ私にも一人前」と叫んだとか。どうも「肝試し」を「釜飯」や「焼き飯」のたぐいと勘違いしたようです。もっとも彼女の場合、「いいなづけ」を「高菜漬け」や「広島菜漬け」からの連想で漬物だと思ったという前歴の持ち主なので案外食い意地が張っているだけなのかも知れません。

 英語だとばかり思っていた言葉が実はほかの国の言葉だったということもよくあります。イギリス人に対して「ガーゼ」を色々なアクセントで発音してみるのですが全く通じません。どんなものなのかを説明してようやく「ああ、それはゴーズだよ」(“Aha! You mean gauze!”)と言われて初めてガーゼが英語ではないことが分かりました。ドイツ語のGazeに由来しているのです。ピエロも同様で、こちらはフランス語(pierrot)由来で、英語では“clown”なのです。

 日本語になった英単語のアクセントも要注意です。ブルドーザーのアクセントはドにあると思いきや正しくはブにあります。とにかく外来語はこまめに辞書を引いて確かめておくことが肝要です。

甲斐 晶(エッセイスト)

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サマー・タイム考

ある年のこと、3月の下旬にイースター(復活祭)の連休でイタリアを家族旅行していました。ローマ、ピサ、フィレンツェ、ミラノと名所、旧跡を巡っての旅の終りに水の都、ヴェニスヘ。日曜日の午前中の見物が一段落し、サン・マルコ広場でひと休みしながら、有名なムーア人の時計塔を眺めているときでした。Location2_b

 毎正時に2人の青銅製のムーア人が出てきて鐘を鳴らすので、これを見ようと沢山の見物客が集まっています。定刻となり機械仕掛けのムーア人が鐘を叩いたのですが、正午なので12回のはずなのに1回しか叩きません。これは変だ、と思い、近くのイタリア人に“Kaputt?”(壊れているのか)と尋ねました。(このカプットという言葉は大変便利です。本来はドイツ語なのですが、戦争中にドイツ兵によってヨーロッパ各地に広められたらしく、今やヨーロッパのどこの国でも通じます。)

 Clockvenezia13 すると“Uno ora avanti"という答えが返って来ました。イタリア語の素養がないので、何のことか分からず一日舜慌てましたが、窮すれば通ずです。“uno”は“unoduetre123)”と数えますから数詞の「1」です。“avanti”は交差点で歩行者用信号が青になると、この文字が出てくるので「進め」でしょう。残りは“ora”ですが、これは相手がしきりに腕時計を指しながら説明しているので、時間のことのようです。結局、「1時間進んでいる」との意味で、ようやくその日から夏時間(サマー・タイム)に変わったことに気が付きました。

 旅行中でテレビやラジオと無縁の生活でしたから、この情報は大変貴重でした。翌日は早朝に列車でオーストリアに発つことになっており、夏時間に変わったのをそのまま気がつかずにいたら、危うく列車に乗り遅れるところだったからです。250pxbegin_cestsvg

 このサマー・タイムは夏の間、日中の時間をよく利用するために時刻を常時より1時間進める方法で、第1次世界大戦中の1916年にドイツが経済上の理由から最初にこれを採用。次いで同盟国のオーストリアもこれに倣いました。

 実は初めてこの方法を考えついたのは英国人のW.ウィレットで、1908年に英国議会に「日光節約法」(System of Daylight Saving)を上程しましたが結局は廃案に。しかし1916年に敵国が採用するに及んでこの法案が復活して可決され、さらにフランス、イタリアなどの連合出側も採用。その後様々な変遷を経て、現在では70ケ国以上が実施中で、先進国で未実施なのは白夜で時間をずらしても意味が無いアイスランドと日本のみとか。

 しかし夏時間の実施の時期は世界中で画一ではなく、地域によって異なるので注意を要します。米国、カナダなどの北米諸国では3月の第2日曜日から11月の第1日曜日までなのに対し、英国、アイルランドでは3月の最終日曜日から10月の最終日曜日までと、開始が2週間、終了が1週間のずれがあります。

したがって3月下旬や10月下旬に欧米間を旅行する際には、移動先での夏時間の実施の有無による相違に加えて時差も考慮して時計合わせをしなければならず、とても複雑です。

 わが国でも戦後の一時期(194852年)に夏時間(当時は4月の第1土曜日の午後12時から9月第2土曜日の翌日の午前零時までを1時間進めた)が導入されましたが、結局定着しませんでした。しかしサマー・タイムの実施によって①照明、冷房の需要が減って省エネ効果がある、②仕事後の余暇活動の幅が拡がるなどとして、再び夏時間導入の動きが最近見られます。

 しかし低緯度に位置し、高温多湿な気候の日本と、高緯度に位置して冬季の日照量が少なく、昼夜の温度差が大きい欧米諸国との気候風土の差を捨象して導入の是非を論ずるのは適当ではありません。また勤務時間彼の余暇が増えると言っても、アフター・ファイブの拘束が多いわが国の労働環境や通勤に長時間を要する住宅環境を改善し、手頃な余暇設備を増やすなど、サマー・タイムの恩恵を享受するための環境整備が先決でしょう。            甲斐 晶(エッセイスト)

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海外出張を快適に(3)

 さて今回はまず初めに「快適な海外出張をするためのヒント・現地編」の続きです。

 会議や用務の合間の夕方や週末に自由な時間が取れるようでしたら、出来るだけ文化的に過ごしたいものです。同行の出張者や現地の友人・知人達と「飲みニケーション」も良いでしょうが、日本では経験できなかったり、経験できても極めて高くつくオペラ、オペレッタ、ミュージカル、バレー、コンサート、演劇などの観賞や美術館めぐりをお薦めします。10015340319

 特に有名な公演は海外でもなかなかチケットが入手しにくいでしょうが、そうでなければ事前に現地の知人に連絡してお願しておくのも手です。またプレミアム付きを覚悟すれば、現地のホテルのフロントやプレイ・ガイドで注文が可能です。最近では、ウィーンパリのオペラ座の場合、インターネットで直接予約ができます。日本語で申し込みたい場合には、JALのワールド・プレイ・ガイドTel0367176363)が役立ちます。

 1190250571 現地の美術館めぐりで思わぬ得をすることもあります。一昔も前になりますが、パリに出かけた際に、オルセー美術館でたまたま特別展を開催中で、印象派の画家の作品の収集で有名なボストンのバーンズ・コレクションを見ることが出来ました。パリでは大した行列でもなかったのが、上野でバーンズ展が催された際には連日、長蛇の列。最終日には実に5時間待ちだったとか。つくづくパリで見ておいてよかったと思いました。

 用務も終り、いよいよ帰国の段になって頭が痛いのが日本へのお土産。昔は職場向けには洋モクやウィスキーが定番で余り頭を悩ませなくても済んだのですが、身近でタバコを吸う人が減り、安売り店でウイスキーが格安で買えるようになった昨今、これらのお土産の有難昧がぐんと減ってしまいました。

 一方で、ワインやチーズにうるさい人が次第に増えてきましたから、空港などでのラスト・ミニッッ・ショッピングでこれらを買い込むのも一案でしょう。日本人向きにはあっさりしたシャブリの白ワインや、カマンベール、ブリ、マスカポーネなど癖のないチーズがお薦めです。赤ワインやブルー・チーズは一部の通には好評でも、多くの日本人にはまだ馴染み薄です。

 Jubilaeum_gr_2 依然として存在する内外価格差を考慮すると、コーヒー、紅茶、化粧品などが喜ばれます。 例えばヨーロッパの豆コーヒーは日本のものに比べて比較的培煎が強く、味わい深いものがあります。またヨーロッパの紅茶は種類も豊富で、色々な香りを付加したフレイバー・ティーに隠れた人気があります。

 ところでコンパクトや口紅などの化粧品を求める場合には、日本人の肌の色に合ったものを選ぶように注意します。金髪で白い肌の白人が使って素敵なものでも黒髪で肌の黄色い日本人にそっくり合うとは必ずしも言えないからです。選択を誤りさえしなければ、こういうお土産を差し上げた女性秘書から評価が高くなること請け合いです。

 W4912_2 自分の家族のためには、これらに加えて、何か必ず集めているもの(例えば、世界各地の切手、コイン、人形、絵葉書、美術館カタログ、古地図など)があれば話は簡単です。我が家の場合、かっての上司がされていたのを真似たのですが、ヨーロッパ各地の有名な磁器のデミタス・カップを一客ずつ集め始めて、今では40客余りになりました。中にはオークションで競り落としたマイセンの古い花柄のもの、友人の案内で訪れたセーブル陶磁器博物館で求めた、本物のセーブル・ブルーなど自慢の品もあります。

 用務が終われば帰国の途に。成田着のフライトは出来ることなら夕方45時の到着ラッシュ時間帯を避けます。また成田から都心への足は京成スカイライナーが一番安くて迅速です。ただし重いスーツケースを抱えての乗り換えは大変なので、お土産以外はabcサービスなどに託します。

 以上3回に渡って快適な海外出張のヒントをご披露してきました。皆様ぜひお試し下さい。               甲斐 晶(エッセイスト) 

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海外出張を快適に(2)

 前回の準備編に引き続き、快適な海外出張をするためのヒントを御披露いたしましょう。

 2877732 今度は機内編です。まず座席は通路側をお薦めします。目的地への初めてのフライトならば、窓側の方が着陸時に十分景色を楽しめて良いかも知れません。しかし長時間のフライトを考えると窓側の席は比較的狭く、足元の荷物を置くスぺ-スも限られ、トイレに立つのにいちいち通路側の座席の人を立たせることになり何かと不便です。

 機内では是非ゆったりした服装でリラックスを。お偉方のお供をする場合でもない限り、窮屈なネクタイ・背広姿は避け、カジュアルないでたちで居たいものです。ただ夏場は冷房が効き過ぎたりするので、簡単に羽織れるカーディガンやウインド・ブレイカーを機内用バックに入れておきます。(逆に冬は暖房のせいでどうしてものどや鼻が乾きがち。努めて水分補給を心掛けます。)

Img_13_1195309306 機内サービスで洗面道具やスリッパを呉れたりしますが、このスリッパは旅先のホテルでも役立ちます。日本とは違ってスリッパなど用意されていないからです。また機内用に肩の凝らない文庫本や月刊誌などの読み物も用意しておくと、読み終われば出張先の日本人への良いお土産として役立ちます。何しろ日本の活字に飢えていますから。

さて機内編の次はいよいよ現地編です。誰でも悩まされるのが時差。経験則に依れば西回り(日本からヨーロッパへ)の場合の方が東回り(日本から米国へ)よりも楽です。これは西回りの場合、現地時間に合わせて夜まで起きていると、体内時計では完全徹夜をしたのと同じで疲労困憊となり良く眠れるのに対し、東回りだと、実際に日が暮れても体内時計ではまだ昼なので、眠くもないのに無理に就寝ということになり、夜中に目が冴えるのでしょう。一般に時差解消に要する平均的な日数は一時間の時差につき一日と言われています。

 しかし以上はあくまでも若いうちの話で、年を取るにつれて時差調整に要する日数が長くなり、結局日本の時差が取れないうちに帰国するということになります。このためヨーロッパに出張して帰国したのなら東回りとなって本来は大変きついはずの時差の影響が全く無いということが最近多く、自分も年だなあとつくづくと思わされます。

 001354_3 時差の解消法は人によって千差万別。残念ながら誰にも通用する処方箋はないようです。疲れれば眠くなりますから、入浴、サウナ、ナイト・キャップ、ジョギング(ホテルに設備があれば水泳やジムなどの軽いスポーツ)なども効果があるでしょう。 縄跳び用ロープを荷物に忍ばせる方もいます。ともかく眠れなくても気にしない、夜中に目が覚めても時計を見ない、日中眠くなっても仮眠せずに夜まで頑張ることが重要です。Main_2

  さて出張の時間が長くなると、どんなに旅慣れた人でも日本食が恋しくなります。日本料理のお店があるような土地なら問題なしですが、そうでない場合に持参して便利なのが醤油、日本茶のティー・バッグ、投げ込み式の湯沸かしです。Cokkingheater

 何年も前にフランス政府の招待で多国籍の専門家からなるグループでフランス各地の原子力施設を視察したことがあります。もてなし上手のフランス人のこと、昼、夜とフルコースのフランス料理責めです。遂に音を上げた私と韓国人は、それぞれ給仕に醤油とタバスコ・ソースを要求。幸い嫌な顔もせずに出してくれたので、我々ふたりは自分の祖国の味風にして大満足。実際のところ、魚のムニエルにちょっと醤油を差すだけで抜群の味になります。小袋入りで携帯に便利な粉末醤油もありますのでぜひお試しを。

 最近では衛星放送を備えたホテルが増え、英語圏でない国でもCNNなどの英語のTVニュースを見られますが、細かな日本のニュースまではカバーされません。そこで役立つのが、インターネットが現在のように普及する前には、NHKの日本語国際放送(ラジオ・ジャパン)聴取用の携帯短波ラジオでした。アメリカやヨーロッパ向け中継局の設置で格段と受信状態が向上。野球や大相撲の結果などが気になるときには大いに役立ったものです。Radio_title_01

 しかし、今や、どこのホテルでも無線LANなどでインターネットにアクセス可能です。どこのテレビ局でも映像ニュースを配信していますし、NHKは、日本語放送をインターネット用に配信しているので、愛用しています。

 紙数が尽きました。続きは次回(「海外出張を快適に(3)」)としましょう。

甲斐 晶(エッセイスト)

                                       

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海外出張を快適に

 今や若手でも国内出張並みに年何回も海外出張に出かける時代になりました。皆さんそれぞれに工夫されておられるでしょうが、快適な海外出張をするためのヒントを御披露いたしましょう。

 Bsamc11172sm1_2 まずは準備編です。私などともすれば旅先で便利なように小道具や着替えをあれもこれもと沢山持参しがち。結局大きなスーツ・ケースを抱えてひと苦労です。ところが私のかつての上司や恩師の場合、どんな長期の外国出張でもボストン・バッグひとつで、着替えは一体どうしているのかと思うほど。ただそれなりの努力は要るようで、下着やワイシャツは毎夜ホテルで洗濯。これをタオルの間に挟んで脱水し、一晩で乾かすのだそうです。

 Ys69conciseset しかし有難いことに最近では「形状記憶シャツ」なる、速乾性で洗濯しても型崩れしないとても便利なものが出現。これを2枚と下着一式が3組もあって、こまめに洗濯さえすれば何週間の出張でも平気です。洗剤は汚れ物を浸け置くだけでOKというのが、一回分ずつ小分けして売られています。

 荷物のかさを減らすには、パッキングの知恵も重要です。スーツ・ケースに無造作に詰めてしまうと、まるで小錦のおなかのようにやたらと膨らんで鍵が閉らなくなります。そんな時にはシャツやズボンなどはクルクル丸めて入れたり、靴の中に靴下や小物などを詰めたりすると無駄な空間が無くなり、靴も潰れずコンパクトに納まります。

 Img10573796049 スーツ・ケースは目的地の荷物カウンターで自分のを素早く見分けられるよう、ステッカーやリボンなど独特の目印を付けておきます。鍵が壊れて中身が出てしまうのを防止するためでしょう、ベルトをスーツ・ケースに巻いているのをよく見 かけますが、これは日本人だけの習慣で却って盗難やいたずらの的になるのでお勧め出来ません。

 これまで何百回となく飛行機に乗りましたが、私の体験ではただの一度もスーツ・ケースが開いて中身が出てしまったなどということはありませんでした。むしろスーツ・ケースが自分のフライトと一緒に着かず、着替えやシェイバーがないまま一泊せざるを得なくなり、むさくるしくて困ったことが何度かありました。以来一回分の着替えの下着と靴下、電気剃刀を必ず機内持ち込みの手荷物の中に忍ばせることにしています。

  ただし航空会社によっては、そうした場合にレシートさえあれば着替えや剃刀などの購入代金を弁償してくれることもあるので要確認です。またフライト終了後スーツ・ケースが壊れていた場合にはその場で当該航空会社にクレイムすると無料で修理してくれます。ある時などもう使い古したものでしたが、指定のカバン屋に修理に出向いたところ、修理代に少し足せば新品が買えるというので、わずかな差額を自己負担しただけで新品のスーツ・ケースにして貰えたことがありました。

 さて準備段階で頭を悩ますのが現地の日本人の知人・友人へのおみやげ。軽いものをと思うのでどうしても海苔やお茶になり、貰うほうはまたかということになります。紀文が冷凍ウナギを出したころには、出張者が次から次にこれを持参、小さな冷凍庫はウナギで一杯なんてことも。高価な割には有難味は薄いものです。そこで貰って嬉しい日本からのお土産のリストを紹介致しましょう。

 06092702l_2 今やお金さえ出せば外地でも日本食品は何でも手に入るようになりました。そこで上に挙げたような滅多に使わない高級品よりも、かえって柴漬けや「すぐき」の詰め合わせなど良く消耗する日本用品のほうが喜ばれます。「生ラーメン」や明太子なども嬉しいもの。何れも成田で買えます。しかし佃煮詰め合わせはともすれば冷蔵庫の肥やしの運命。避けたほうが無難です。

 Img10251391040_2 植物検疫上は問題があるのでしょうが、シソの葉、柚子、三つ葉、生ワサビなどの香り高い野菜、桧茸、ギンナンなどの季節感のあるもの、牛革、蓮根、ウド、薩摩イモなど外地では手に入り難いものなどもお薦め。またシソや春菊の種などプランターで家庭菜園が楽しめるものも喜ばれます。

さて残念ながら紙数が尽きました。この続きは次回(海外出張を快適に(2)と致しましょう。

甲斐 晶(エッセイスト)

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続々・ウィーンの味覚

 これまで2回にわたりウィーン料理を中心にウィーン旨いものづくしをしてきました(ウィーンの味覚続・ウィーンの味覚)。ところで、実際にウィーンに長く暮らしてみると、身近のちょっとしたものなのですが病みつきになってしまい、その味が忘れられなくなるものがあります。

 例えば、朝食。Semmel まずは Semmel と呼ばれる、アンパンぐらいの大きさの白いパンがあります。焼きたてが命で、毎朝、パン屋に買いに行くのがウィーンの主婦の務めのようです。5枚羽根のプロペラのような独特の形の筋が頂部に入ったパンで、外側はちょっと堅めですが、半分に割ると中は柔らかく、芳ばしい香りがします。バター(ウィーンのものは無塩です。)とジャムを付けただけでとても美味しいのです。ジャムはイチゴばかりではなく、ラズベリー、ブルーベリー、カシス、アプリコット、そしてウィーン独特のシュベチケン(プラムの一種)と色々楽しめます。

 ジャムを付ける代わりにハムやチーズを挟み、サンドイッチにして食べても可。このハムやチーズも種類が豊富で、どれもこれも素敵な味揃い。私の場合、チーズならば Butterkaese というとろけるような柔らかさのもの、Beinschinken_2 ハムならば豚の腿を骨付きのままハムにし、それを大きなナイフでそぎ落として売っている Beinschinken が好物です。

 もっとも、チーズやハムと一緒に食べるのなら、パンは黒パンが最高。初めて黒パンを口にしたときには、何てまずいのだろうかと思ったのですが、「味覚は創られる」です。次第にその深みのある味わいに魅了されてしまいました。しっとりとしていて、噛むとしっかりとした歯ごたえがあり、ほんのりとした酸味が何ともいえません。一般に日本のパンはふかふかで、甘過ぎて、腑抜けです。

 しかし、黒パンには、やはりソーセージが一番合います。Weisswurstウィーンのソーセージ類も色々な種類がありますが、ウィンナー・ソーセージという名のものはありません(何とフランクフルターと呼ばれているのです)。Bratwurst が好きですが、白い色の Weisswurst というのもあります。 オペラの公演の前など時間の無い時には、街角のソーセージ・スタンド(Wurststand)でソーセージと黒パン、そしてコーラを飲んで済ませたことが思い出されます。ソーセージを乗せた紙皿に添えられたちょっと酸っぱい Senf(西洋カラシ)の味が今でも忘れられません(右上のWeisswurst の写真で黄色のもの

 ソーセージ・スタンドで付け合わせに良く頼むGurken(小型のキュウリ)や青唐辛子のピックルス、Sauerkraut(キャベツの酢漬け)なども忘れ得ぬ味となっています。数ある漬物屋さんの中でも良く行ったのは、Naschmarktの中程にあるお店。"Meine Herren und Damen!" と親父さんが道行くお客に呼びかけ、「当店の Sauerkraut はシャンパンのようにまろやか。」と宣伝しているので分かります。良く売れて商品の回転が速いためでしょう。確かに爽やかな良い味。漬け汁がシャンパンのように琥珀色できめ細かに泡の立つ逸品です。ここの Gurken の塩漬けも魅力的です。Krapfen1

 甘党には Krapfen も懐かしいもの。アンドーナツの餡の代わりに杏ジャムが入ったものと思って下さい。本来はカーニバル(Fasching)の時期だけだったのですが、その美味しさから今では一年中いつでも売られています。Oberlaa というお店のものが Kurrier 紙の評価で最高点を得ました。

 良くスキー場でお昼に食べる Germknoedel も逸品。Germknodel これは大きめの餡饅の中味が芥子の種の餡に代わったもの。溶かしバターやカスタードがかかって出てきますが、疲れた体にはこの甘さがたまりません。一緒に飲む、Almdudler というハーブ入りのレモネードも他にはない味覚。初めはひねた味だと思っても、病みつきになる日本人が多いのです。Almdudler    

 この他、Halibo社のコーラやピーチ味のグミ、オーストリアのメーカーではありませんが Milka社のミルクチョコレートなども忘れ得ぬ味です。

 ここに挙げた、ウィーンに住んだことのない人にとっては何の変哲もないようなものを、ウィーンに出張の機会をとらえて、食物検疫に引っかからない範囲で買って帰っては、家族孝行をしている筆者なのです。   甲斐 晶(エッセイスト)               

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続・ウィーンの味覚

前回(ウィーンの味覚)に引き続き、ウィーン旨いもの尽くしの第2弾です。まずは、メインディッシュの続編と行きましょう。

  魚介類がお好きな向きには海から遠い地であるウィーンはお気の毒様です。勿論、冷凍技術と航空輸送の進んだ現代では、お金さえ出せば新鮮な海の幸を Grand Hotel 内にある日本料理店「雲海」やウィーン料理店 Le Ciel、さらには生きロブスターで有名な Kervansaray などで満喫することもできます。しかし、ウィーンの極く普通のレストランではこれは望むべくもありません。いきおい、川魚が主体となります。

  そんな中でお勧めなのが、鱒料理です。Forelle_blau香草と合わせて煮て、鱒の体全体がうっすらと青みがかるよう仕上げた Forelle blau は、溶かしバターで食べるのが普通ですが、醤油を一滴たらすだけで日本人にとっては抜群の味になります。 鱒以外では、Fogosch(川カマス)や Zander(トゲ魚)をニンニクやパプリカなどのスパイスをふんだんに使って仕上げた Zigeuner Art(ジプシー風)もエスニック料理が好きな日本人向きです。市外にある、こうした川魚専門の店 Zum Sachsengangでは、水槽に入った生きた鱒やロブスターをお客が選んで料理してもらうシステム。運河沿いに建てられた田舎屋風の建物の雰囲気と言い、市外にまで足を延ばしてみる価値は大いにあります。

 ウィーンでは鶏肉もお勧めです。ブロイラーが主の日本とは違って、農家の庭先を駆け巡っているような地鶏を使っているのでしょう。Brathuhn16242details_8003 歯ごたえがあるのにジューシィな Brathuhn(ローストチキン)なら期待はずれはありません。Wienerwalt というチェーン店のものが有名です。

 秋から冬にかけての季節なら、ゲーム(野生の鳥獣肉)も悪くありません。市内にある生鮮食料品の市場 Naschmarkt には、その時期になると、雉や野兎、そして鹿までが店頭に吊り下げられ無惨な姿を晒します。珍味を求める向きには最高です。ただし、気を付けないと、野鴨の肉を食べていたら散弾が出てきたなんてことがあります。知らないで呑み込めば鉛中毒になりかねません。

 オーストリアでは1111日の聖マルティンの日に鵞鳥を食べる習慣があります。これは、夜襲を受けた聖マルティンが、騒ぎ立てる鵞鳥のお陰で敵の襲来を察知。危機一髪で助かったという故事に因んでいます。しかし、その故事を記念するのに、命の恩人(?)である鵞鳥の肉を食べるという神経は、日本人である私には今一つ理解できません。

 デザートも種類が豊富で、甘党には魅力です。パイ生地をローラーを使わず、片手でクルクル回しながら極めて薄く仕上げる名人芸で作り上げたアップルパイ(Apfelstrudel)Apfelstrudel アイスクリームや杏ジャムを挟んだクレープにチョコレートソースをかけた Paratschinken、「会議は踊る」で有名なウィーン会議の折りに宰相メッテルニヒのお気に入りとなった Sachertorte(チョコレートケーキ)、甘いアーモンド・ペーストリーにラズベリーなどのジャムを詰め、トップを網目状に仕上げた Linzertorte など枚挙に暇がありません。

 これにトルコ軍のウィーン襲来の際にヨーロッパに初めてもたらされたと伝えられているコーヒーを添えれば申し分有りません。もっともウィーンのコーヒーの種類はおびただしく、ミルクやホイップクリームの混ぜ具合などで色々な名前が付けられていますが、ウィーンナー・コーヒーという名前のものはありません。カフェ・オレがお好きな方なら、ミルクに蒸気を注入して泡立てたものをコーヒーに加えた Melange を。苦みの利いたブラックがお好きなら挽いた豆に蒸気を一気に注いで抽出した Espresso がお勧めです。

 本当は、オーストリアワインについても蘊蓄を傾けるべきところなのですが、料理以上に個人的嗜好が強いもの。一般的には Gruener Veltliner、辛口では Wachau 産の Liesling Burgenland 産の Weissburgunder などが白の代表。赤はオーストリアでは少ないのですが、Blaufrankisch がお勧め。最近では1990年と1992年ものが良いとされているといったことだけに留めておきましょう。

甲斐 晶(エッセイスト)

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ウィーンの味覚

 ウィーンに関して良く聞かれる質問で答えに窮するものが3つあります。

 まずは、「今頃はどんな陽気で、どんな服装をしていったらよいでしょうか。」というもの。簡単そうでいながら、実に難問なのです。基本的には大陸性気候なのですが、アルプスの成れの果てに位置するための山岳気候の影響でしょう。変化が激しいのです。今日は夏のような陽気で上半身裸の人を見かけたかと思うと、翌日はしとしと雨で冬に逆戻り。コート姿の人を見かけると言った具合。その日の気温予測が10℃から20℃などといった大雑把な予報が当たり前のところなのです。

 次は、「ウィーンから日本へのおみやげは何がよいでしょうか。」という質問。色々あるのですが、残念なことにどれも結構な値段がするのに、貰った方はそうとは思わないのが難点。アウガルテン磁器しかり、プチポアン刺繍しかり、Kellnerin_torte2 ザッハートルテ(チョコレートケーキ)しかりです。

 そして最後は、「ウィーン料理は何が美味しいですか。」というもの。美味しいウィーン料理は多いのですが、日本人の味覚に初めから合うものが少ないのです。私は「味覚は創られる」ものだと考えています。日本人でも緑茶やワサビの利いた刺身は子供の時には苦手ですが、成長するに及んで次第に好物になります。欧米人も初めは刺身や鮨に抵抗感があっても、何度か食べるうちに病みつきになるもの。今やウイーンの街角のあちこちに鮨スタンドが見られるのには驚かされます。

 そういう前提でウィーンの旨いものを挙げて見ましょう。まずは前菜。季節なら茹でたホワイトアスパラガスが最高。また、下手物好きならタルタルステーキが美味。味付けした生の牛挽き肉をそのままトーストに付けて食べるのですが、西洋の刺身だと思えば抵抗はありません。ただし新鮮な肉でないと食中毒を起こした場合に、七転八倒の苦しみとか。時には命に関わることもあります。

 スープは、コンソメが主で、小さめのクレペの細切りの入った745pxfrittatensuppe Fritattensuppe やレバーを挽いて団子にして入れた Leberknoedelsuppeがお勧め。レバーのあの臭みが苦手という人の口にも合います。あっさり好みには、挽き割り麦の粟団子入りスープ Griessnockelnsuppe も魅力です。

 さて、いよいよメインディッシュ。お勧めは何と言っても Wienerschnitzelでしょう。Schnitzel子牛の肉を薄く叩き延ばして衣を付けて揚げたカツレツで、レモン汁をかけて食べます。Figlmueller というお店が有名で、居酒屋街 Grinzing にある支店に入ると、台所からとんとんと子牛の肉を叩く音が響いてきます。ここのは、大きなお皿の縁からさらにはみ出るほどのジャンボ・サイズが売りもの。日本人には裕に1.5人前は有ります。

 Tafelspitz も人気があります。上質の牛肉を柔らかく茹であげ、これにリンゴとホースラディッシュ(西洋わさび)を合わせてすり下ろしたソースを付けて頂きます。淡泊な味ながら、牛肉そのものの旨味が口中に広がります。フランツ・ヨーゼフ皇帝の大好物だったとか。シェーンブルン宮殿の脇にある Plachuttaというお店が有名で、ここではメニューに牛の解体図が載っていて、お客は好みの部位の肉を指定します。Tafelspitz 茹で上がったTafelspitz が茹で汁ごと大きな銅の平鍋に入れられ、これまた好みの野菜や付け合わせと一緒にテーブルに運ばれてきます。この茹で汁に牛肉からのダシが程良く出ていて至極く美味しいのです。

 エスニック料理を好むのなら Gulasch です。パプリカがたっぷり利いた牛肉シチューとでも言いましょうか。本来はハンガリー料理なのでしょうが、今やれっきとしたウィーン料理として定着しています。有名なお店は、シュテファン寺院近くの Gulaschmuseum です。写真入りのメニューがあって、10種類以上の色々な食材の Gulasch が選べ、それぞれ少しずつ微妙に味が違います。意外にも豆のGulasch がまろやかで秀逸でした。

 この他にも、鱒のフォイル焼き、川カマスのジプシー風、ローストチキンなど紹介すべき美味しいメイン・メニュやデザートが多いのですが、紙数が尽きました。残りは次の機会と致しましょう。                         甲斐 晶(エッセイスト)                             

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ミチコ・タナカ

 前回(ユリウス・マインル)、有名な「コーヒー王」ユリウス・マインルⅡ世の夫人が日本人声楽家の田中路子女史だったこと、133242_2 そして今でも、ユリウス・マインルのグラーベン店2階にある紅茶のコーナーで、彼女の名前を冠した「Michiko」というシリーズが売られていることを紹介しました。

 私が彼女のことを知ったのは、2度目のウィーン勤務で赴任して早々の1988年5月18日、彼女の逝去の報に接した時のことです。Michiko002 今回、彼女のことをもっと深く調べたくて、今は絶版になってしまった「ミチコ・タナカ 男たちへの賛歌」(角田房子著、新潮社)をAmazonで入手し、読んで見ました。

著者の角田房子が文藝春秋の勧めによって取材のため1960年にベルリンの路子を訪ねます。両者は年齢も近く、戦前に子女を海外に遊学させることが可能な家で育ったという似通った境遇にあったからなのでしょう、すぐに「ミチ」、「フサコ」と呼び合う間柄となります。以来20年以上に渡って交友を重ねた中からこの本が書かれましたが、路子が晩年を過ごした高級老人ホームで会った1981年の記述でこの本は終わっています。

路子は1909年、日本画家田中頼の娘として神田に生まれ、裕福に育ちます。小学校の同級生には中村勘三郎(17代目)がいたそうです。女学校時代から「恋多き女」の片鱗を見せていましたが、声楽を学ぶために入った東京音楽学校の本科1年の時に、当時ドイツから帰国したばかりだった新交響楽団(現在のN響)のチェリスト齋藤秀雄と深い仲になります。彼にはドイツ人の妻があり、道ならぬ恋に驚いた両親は路子をウィーン留学、いわば体のいい「国外追放」としたのです。

C_unt_julius2 当初ウィーンではハープの勉強をするよう新響指揮者近衛秀麿から勧められていたのですが、現地でプリマドンナ、マリア・イェリッツァの「サロメ」を聴いて、歌の道を歩む決心をし、ウィーン国立音楽学校声楽科に入学。後見人役の駐墺公使にかわいがられ、ウィーンの社交界にも出入りするようになるのですが、そこでユリウス・マインルⅡ世と運命的な出会いをし、求婚されます。彼は妻を亡くした身でしたが、路子とは親子ほども年が離れていました。

実は、当時、路子は社交界で自由奔放に振る舞っていてウィーン日本人社会における彼女の評判は芳しくなく、公使館によって「本国送還」命令が下される寸前になっていたのです。いわば、渡りに船で彼女は彼の庇護の元へ。マインルの手筈で彼女はオーストリア国籍と旅券を手に入れ、彼と結婚。この時彼は57歳、彼女は21歳でした。Michikode003

マインルは実業家だっただけではなく、教養ある文化人で、芸術にも大変造詣の深い人物でした。彼女は、彼のもとで文学者や芸術家との交流、声楽の修行を続け、オペラや映画界へのデビューを果たします。しかし、恋多き妻は夫公認で多くの男性との恋の遍歴を重ね、劇作家カール・ツックマイヤー、国際的映画俳優早川雪舟、そしてドイツ演劇界の大スター、ヴィクトール・デ・コーヴァと激しい恋に陥ります。そして、マインルの立ち会いの下、デ・コーヴァと再婚するのです。

社交的で世話好きな2人の性格から、ベルリンのデ・コーヴァ邸は第二次世界大戦の戦中・戦後の混乱期を通じて「私設日本領事館」といわれる存在になり、路子の世話になった日本人は数多いのです。政治家、財界人、学者、芸能人、音楽関係者と実に多彩で、特に音楽留学生に対する面倒見の良さは格別だったようです。そんな一人に、路子の最初の恋人、齋藤秀雄に指揮者としての薫陶を受けた小澤征爾がいます。Ozawaphoto9q Book_ozawa

小澤が指揮者の世界コンクールで次々に優勝した当時の自叙伝「ボクの音楽武者修行」(音楽之友社)には、路子の世話になったことが何と8回も出て来ます。事実、彼女の引きもあって、巨匠カラヤンの弟子入りを果たしたりしています。

路子は好き嫌いの気性が激しく、好きになった人物にはとことん入れ込みますが、一旦、気に入らなくなると徹底的に敬遠したようです。そんなエピソードに小澤の「燕尾服事件」があるのですが、残念ながら紙数が尽きました。原本でどうぞ。

甲斐 晶(エッセイスト)

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ユリウス・マインル

 551081g_2 ウィーンに出かけると必ず立ち寄るお店が2つあります。ひとつは、シュテファン寺院の裏にある紅茶の専門店(勿論、緑茶や中国茶も扱っています)、「ハース・ウント・ハース」です。 ここのフレーバー・ティー「サニー・アイランド」は日本人好みの味で、おみやげとして喜ばれます。

もう一つは、ウィーンの目抜き通りの1つ、グラーベン通りとコールマルクト通りの角にあるユリウス・マインルのグラーベン店です。大変お洒落な高級食料品の専門店で、日本で言えば、紀ノ国屋でしょうか。Pan_willkommen_83803こだわりの品揃えで、オーストリア国内はもとより世界中のデリカテッセンを豊富に取り揃えています。後で述べるように、元来が焙煎コーヒーで名をなしたチェーン店です。日本では高価なパッケージ入りコーヒーが手頃な値段で手に入るので、いつも沢山仕入れて帰ります。Top_1_aそのトレードマークは黄色の地に細長い赤のトルコ帽(フェズ)を被った黒人の坊やの横顔を描いた、「Meinl Mohr」(マインルのムーア人)です。

初めてウィーンに住んだ1980年代には、ウィーンの街のどこにでも見かけた、国内資本の食料品チェーン・ストアだったのですが、残念ながらその後外資との競争に負け、現在ではこの「マインル・グラーベン店」だけとなってしまいました。

ユリウス・マインルの創業は1862年、ユリウス・マインルI世が1区フライシュマルクトに開いたお店が始まりです。当初は、緑の生豆のみを扱っていたのですが、後に、焙煎したてのコーヒー豆を売るようになり、これが当たって商売は繁盛。大資本となり、1939年、ユリウス・マインルⅡ世の時には、ヨーロッパ全土で1000店を超える店舗を有し、様々な高級食料品を扱うまでになりました。このため、ナチスのオーストリア併合に際しては、ユダヤ系の大財閥ロスチルドに対抗しナチスに協力せよとの要請を受けましたが、きっぱりこれを拒否したという逸話が残っています。

しかしながら、第二次大戦を経てオーストリアの店舗と焙煎工場だけが残されたのですが、1960年代末には、280店舗を所有するまでになりました。系列には、もっと廉価なコーヒー分野の食料品を扱う「Brüder Kunz」の店舗78店や大規模スーパー・チェーン「Pam Pam」もありました。

ところが、2000年、オーストリアにおける食料品小売業の財政危機のため、撤退を余儀なくされ、グラーベンの専門店以外の全店舗を売却せざるを得ませんでした。これらは全て、REWE及びSPARによって買収され、元のユリウス・マインルのお店は、ドイツ系の「Billa」や「SPAR」に変わってしまいました。

今日、ユリウス・マインル社は、再び元来のコーヒー業に集中し直し、オッタークリングに焙煎工場を操業しています。また、有名なグラーベンのお店は、2000年に大幅な改装が行なわれ、2フロアーとなって売り場面積も広くなり、デリカテッセン「マインル・グラーベン店」として、再スタート。従来以上に繁盛しています。Pan_restaurant_32743ここに入っているレストランが、2004年、“Gault-Millau(オーストリア版ミシュラン)の三つ帽子(三つ星に相当)に認定され、根強い人気があります。

一方、東欧圏にあった支店網も次第に買収され、1999年にはハンガリーのものが、2005年にはチェコのものが買収され、唯一、ポーランドの支店だけが営業中です。ただし、「マインル・グラーベン店」の成功から、モスクワの赤の広場に、同様のデリカテッセンを開店する構想があるようです。

133242 ところで、「コーヒー王」ユリウス・マインルⅡ世の奥様は、日本人声楽家の田中路子女史でした。彼女は明治生まれの大和撫子でしたが、同様に国際結婚したクーデンホーフ・カレルギー光子とは全く対照的に決して貞淑な妻ではなく、夫も公認の恋多き妻でした。今や、ユリウス・マインルⅡ世も田中路子(「ミチコ・タナカ」参照)も故人となってしまいましたが、現在でも、「マインル・グラーベン店」の2階にある紅茶のコーナーでは、彼女の名前を冠した「Michiko」というシリーズが売られています。親子ほどの年齢差があったユリウス・マインルⅡ世の妻路子に対する変わらぬ愛情が窺い知れます。

甲斐 晶(エッセイスト)

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オーストリー騒動

 At 我が国においては、オーストリアとオーストラリアは、良く混同されます。 英語では、それぞれ、AustriaAustraliaで、発音上は、前者がーストリアで後者がオーストィリアと下線部にアクセントがあり、語尾の子音もRとLと異なるのでAu混同されることは余りないようです。しかし、表記上は微妙な違いなのでやはり混同されるようです。ウィーンに住んでいた頃、日本から投函された我が家宛の郵便物がまず南半球のオーストラリアに送られ、そこで「誤配達」のスタンプを押された上で、ウィーンまで転送されてきたことがありました。こうした間違いは日本からの郵便物に限らず他の国からのものでも多いようで、シドニーには、そうして誤配された郵便物を専門に取り扱う郵便局があるとか。この誤配を避ける工夫として、Austria (Europe)とか、オーストリア(ヨーロッパ)と補筆することをお勧めします。

Austria そもそも、オーストリアとオーストラリアは語源的には全く無関係です。前者は、ドイツ語で東方の帝国を意味する”Österreich”に由来するのに対し、後者は、ラテン語の「南の地」、terra australisが由来です。しかし、そう言って見たところで、オーストリアとオーストラリアの混同は避けられません。Australia_map 実害を受けているのは、大使館関係者のようで、オーストリア大使館には間違って尋ねてくる人のためにオーストラリア大使館への道順を示す地図が用意されているそうです。大使館への間違い電話は勿論のこと、手配したリムジンにオーストラリア国旗が付いていたこともあったとか。

Moser2 騒動の発端は、昨年10月のことでした。同国大使館のホームページに、モーザー駐日「オーストリー」大使とラーシャン同大使館商務参事官名で、 オーストラリアとの混同を避け、違いをより明確にするため、国名の日本語表音表記をオーストリアからオーストリーに変更すると発表したのです。I01「オーストリー」とする根拠として、日本では19世紀から昭和20年まで「オウストリ」と表記されていたことを挙げています。すなわち、我が国初の本格的な国際地理誌「萬國地名往来」(明治6年発行)で同国は「ヲウストリ」とされており、翌年開催されたウィーン万国博覧会も開催国「オウストリ」と宣伝されました。英語読みの「オーストリア」が主流となったのは第二次大戦後なのです。Bankoku Bankoku2

この発表がマスコミに取り上げられたことから、大きな反響を呼びます。発表後1週間で同大使館のホームページのヒット数は10万を越え、大量のメールが寄せられました。商務参事官によれば呼称変更に否定的なものは1通もなかったそうですが、逆に、原語に近い「オーストリヒ」や「エストレイヒ」としてはとの提案があったそうです。一方、ヤフーがネットで呼びかけた投票では、「オーストリー」への呼称変更に対する日本人の賛否の意見は相半ばでした。

Photo ところが、意外にも身内から反旗が翻ったのです。ヤインドル「オーストリア」政府観光局長兼ウィーン市代表は、①「オーストリー」の名称は時代錯誤である、②戦後再興した同国は当時から「オーストリア」と称されている、③爾来、日本の学校では「オーストリア」と教え、この名称が公に定着している、④混同がよりひどい米国においてさえ、呼称変更の提案はない、⑤呼称変更に伴う経費は膨大であることなどを理由に、「名称変更に関する計画は無意味」で、賛同しないと宣言しました。どうも根回し不足だったようです。

モーザー大使の離任が間近だったこともあったのでしょう。結論は以外に早く出されました。昨年1123日付けで「オーストリアの公式日本語表記変わらず」との同大使の声明がホームページに出されました。また、ラーシャン商務参事官も商務部のホームページ「今後も『オーストリア』はÖsterreichの公式名称として使用されます。また、国名の公式変更の申請は現在のところ行われておりません。」と表明しました。でもその肩書きを依然として「オーストリー」大使館商務参事官としていて、いささか未練がましく映ります。 甲斐 晶(エッセイスト)

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ウィーン散歩の本

『ウィーン-おとなが楽しむこどものための街歩きガイド』(B・ヘプラー、A・ボディカ共著、ひやままさこ訳:セバ工房発行という素晴らしい本に巡り会いました。Seba

元々は、子供たちがこの本を片手にウィーン市内、主として旧市内を探索するために書かれたものなのですが、日本語版の書名が示唆するように充分「おとなが楽しむ」ことができます。原著のタイトルは、Wien – Stadtführer für Kinder 子供たちのためのウィーンガイド)ですから、日本語版のタイトルは原著の内容から、翻訳者が意訳して付けたものなのです。

何しろ、イラストがとてもかわいいのです。いずれも無邪気で親しみの持てそうな男の子と女の子の2人の子供達に加えて、一匹のワンちゃんと一羽の小鳥が道案内をするという設定です。

旧市内の中心、シュテファン寺院周辺の探訪(コース1)から始まって、市電を使って途中下車をしながらのリンク(環状道路)の周遊(コース6)に至るまでの6つの街歩きコースが紹介されています。しかも、それぞれのコースには、子供たちの想像力をかき立て、興味を引くような、魅力的な名前が付けられています。例えば、「小さなパンと大きな動物」、「吸血鬼とごみ容器」、「天使と消防士たち」、「皇帝と王様」、「怪獣と聖人」、「大きなメリーゴーランド」といった具合です。各コースともほとんどが歩行者専用区域か歩行者専用地区内ですので、子供たちが歩いて見て回っても極めて安全です。

この本の良いところは、いきなり各コースの見どころの説明が始まるのではなく、まず初めに、ウィーンが小さな村からどのようにして大きな街になったか、人々がこの街でどんな風に暮らしていたのか、そしてその痕跡がどんなところに残っているのかが説き明かされます。この歴史解説の部分も、大人にとって大いに興味深いものです。

すなわち、ローマ帝国の駐屯地であったウィンドボナの時代に始まって、中世の領主の城塞であった頃の様子が紹介され、次いで、絶対王政、バロック時代、ビーダーマイヤー時代、更には、旧市内を囲っていた城壁が取り壊されて都市が拡大したフランツ・ヨーゼフ皇帝の時代へと話が進みます。そして、二つの世界大戦を経て、現代、しかもごく最近の開発の動きまで詳しく説明されています。あの市街地再開発の拠点となったガスタンクのことや水族館になった高射砲塔のこともちゃんと出てきます。

さらに、旧市街での6つの徒歩コースに加えて、ウィーンの中心部以外でも子供たちが見たり、聞いたり、楽しく体験でき、興味を持ちそうな場所が紹介されています。

この本の魅力は、何と言っても、今まで知らなかったような、ウィーンの建物にまつわる謂われや秘密を発見し、新たな知識が得られることです。しかも、コースの所々に、謎解きが隠されていて、読んでいるだけで、早く実際に歩いてみたいとわくわくして来ます。W309009_1

著名な音楽家のサインが壁一杯に書かれた部屋で有名なレストラン、「グリ-ヘン・バイスル」の戸口の下、地下牢のような狭い空間にいるおかしな格好の人形が鉄格子越しに見えるのですが、これが何者かを知らなかったところ、この本にちゃんと出ていました。「愛しのアウグスティン」です。

彼は、歌手でしたが、ペストが流行っていた頃、ある日飲み過ぎて道端に寝込んでしまいました。墓堀人は彼をペストで亡くなった死骸と思い、手押し車で運んで墓地の穴に投棄。彼は酔っていたので全く前後不覚だったのですが、午後になって暗い穴の中で死体に囲まれているのに気付いてびっくり。助けを求めて叫びましたが誰も来てくれません。バグパイプを持っていたことを思い出し、それを吹き始めると、奇跡が起こり、救い出されたのです。ペストに感染すらしなかったと言い伝えられています。そして、今でも、グリーヘン・バイスルの地下通路に座っているのです。

どうです。A580頁の小冊子です。機会があれば、一冊片手にウィーンに出かけて見ませんか。 甲斐 晶(エッセイスト) 

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フラクトゥルム

前回(ガソメーター)は、以前のガスタンクが再利用され、新たな市街地拠点として再開発されたことを紹介しました。ヨーロッパでは昔の建物を再利用することが珍しくないのです。ガソメーターの他にもウィーンでは、第二次大戦中の高射砲塔をどう再利用するかが、熱心に議論されてきていますが、後で紹介する1例を除き、なかなか活用の道が浮かんでこないようです。Flakturmaugarten_2

ウィーン少年合唱団がそこに寄宿舎を構え、有名な磁器工房のあるアウガルテン公園の中には、高さ55mもの巨大な鉄筋コンクリート造りの塔が2基建っています。これが第二次大戦中に首都ウィーンの空を防衛するために建設された高射砲塔(ドイツ語では、フラクトゥルム:Flak=高射砲、Turm=塔)の一部です。

1942年9月9日、当時の統治者によってその建設が決定されて以降、1944年の秋までにウィーン市内に計6基が建てられました。これら全てを手がけたのは、都市計画家で橋梁建築家であったFriedrich Tamms1904-1980)で、彼によってドイツ(ベルリン及びハンブルグ)でもこれに先立って同様の高射砲塔が建設されています。

しかしながら、これらの高射砲塔は完成当時から、既にその軍事的価値に疑問が呈されていました。というのは、より高空を編隊飛行するようになった爆撃機に対して、もはや高射砲塔では対応し切れなかったからです。そこで、防空壕的な機能、すなわち、独自の電力・飲料水供給システム、空調設備などを備え、何千人もの市民がそこに入って生き残るための施設としての役割が注目され始めていました。

戦後、ベルリンの高射砲塔は爆破されたり、展望台として利用されたりし、また、ハンブルグのものはメディア・センターとなるなど大変身を遂げたそうですが、ウィーンのものは相変わらずその異様な姿のまま現在に至っています。その結果、ウィーンの高射砲塔は現在でも街の景観の一部となっており、かえってそれが戦後ずっと「歴史の生き証人」として、黙してはいても格好の反戦記念碑の役割を果たし続けていると感じている市民もいるようです。

とは言え、あまりに巨大で、威圧的です。周囲の景観にとけ込んでいないことから、何とか再利用する道はないか、そのアイデアを市民から募集したりしています。数多く寄せられた提案には、ホテル、レストラン、カフェ、ディスコ、博物館、スイミングプール、ヘリポート、高層ビルなどとしての利用案がありましたがいずれも帯に短したすきに長し。市から却下されたりスポンサーがいなかったり、これまで実現したものはありません

本来は、安全のため立入禁止になっているアウガルテン公園内の高射砲塔の内部に、特別な許可を得て立ち入った探検クラブの体験記がネット上に紹介されていました。内部はおびただしい数の鳩が巣にしており、またかなり荒廃している様子が窺えます。

かくして、ウィーンの高射砲塔はあまりに頑丈に作られているので壊すに壊せず(一説によると、1基の高射砲塔を壊すのにかかる費用は何と1900万ユーロ、約266億円とか)、その再利用の名案も無く、思案投げ首の状況のようです。

Turm_mit_th そんな中にあって、マリア・ヒルファー通りに近いエスタハージィ公園内の高射砲塔は、「海洋館」(Haus des Meeres)と言う名の水族館として、再利用されています。しかし、同館の公式サイトによると、実際に使われているのは地上5階分のスペースだけで、残りの上部4階部分の使い道は未だに「計画中」とのことです。

我が家の子供達がまだ小さい頃、ここを一度訪れたことがあります。入り口から狭い階段を降りて、水槽のある展示室に向かいます。中には、Mamba ピラニヤ、珊瑚礁の熱帯魚、タツノオトシゴ、ウツボ、ワニガメ、毒蜘蛛、蛇、ワニ、カメレオンなどウィーンでは珍しい動物たちが展示されていました。水族館というよりは、ちょっと凄みのある小動物園といった感じでした。  甲斐 晶(エッセイスト)

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ガソメーター

ウィーン空港から市内に自動車専用道路で移動すると、4gasometerimg_1047ドナウ運河を渡って間もなく左手に大きな排気筒の火力発電所が現れ、その背景に巨大な煉瓦造りの円筒形の建造物が4つ一列に並んでいるのが見え始めます。これがガソメーターです。ジェームズボンド007シリーズの第15作、「007 リビング・デイライツ」のロケ地となったこともあります

 ガソメーターとは、ガスタンクを意味するドイツ語です。元来が、ウィーン市内に都市ガスを供給するためのガスタンクとして1896年に建設が始められ、1899年からガス供給を開始し、約100年間に渡ってその役割を果たしてきました。しかし、時代の変化の波はここにも及び、1986年、天然ガスへの転換に伴って、ガスタンクとしての使命を終えざるを得ませんでした。

その優雅な姿から歴史的な建造物に指定されていましたが、お役後免になった後、その再利用についての議論が熱心に行われました。デザインコンペの結果、4基のガスタンクは地域再開発の拠点として、今から5年ほど前にすっかり生まれ変わったのです。Qqgasometer0

ガソメーターは、一基の直径が約65m、高さが約75m、容積は約9万m3もあり、「第三の男」で有名なプラターの大観覧車もすっぽり収まる大きさです。

二重円筒構造になっていて、外筒は煉瓦造り(壁厚は0.95.4m)ですが、要所々々に窓が設けられている上に、全体が茶褐色の中にあって適宜アクセントのために白いストライプ模様が挿入されたデザインになっています。ガスタンクという工業的、実用的なイメージから大きくかけ離れた、とても優雅な外観です。

当然のことながら、窓(開口部)のある外筒にはタンクとしてのガス貯蔵の機能は無く、主に美的外観のためです。その機能は鋼鉄製の内筒が担っていて、貯蔵ガスの容積に応じて伸縮自在なテレスコープ構造となっていました。Gasometerbehaeltergasglocke_oben250

さて、ガソメーターの再利用にあたっては、この古典的な二重円筒構造物の内外部の空間に近代的な建築物を挿入するのを基本方針としました。一列に並んだ4基のガソメーターは、西から(市内に近い方から)順に、ABCDと名付けられていますが、それぞれ別の建築家に担当させ、デザインを競わせたのです。

コンペの結果選ばれたのが、A棟:Jean NouvelB棟:建築家チーム Coop Himmelb(l)auC棟:Manfred WehdormD棟:Wilhelm Holzbauer です。それぞれ独創的な発想で臨み、1999年に建設を開始。新旧の建造物を見事に調和させた斬新な建築物群からなる新たな複合施設、Gasometer Town (略してG-townと呼ばれています)を完成させ、2001年9月30日に正式にオープンしました。

Gasometerchofkomplett 4基は3階(欧州風に言えば2階)部分がブリッジでつながっており、いずれも上層部分は集合住宅となっています。下層部分には、棟により商店やレストラン、事務所、診療所、学生寮、ウィーン市の公文書館、マルチホール、駐車場などがあります。共通部分がショッピング・モールとなっており、そのままA棟の階下にある地下鉄駅に繋がっています。Gasometercnarrenschlossmalll1000109

これら4者中の3者は煉瓦構造の外筒にはあまり手を加えず、円筒内部に増築することで対応していますが、B棟を手がけた建築家チームだけは例外的に外筒に高層棟を付属させています。これまた、横から見ると「く」の字型のユニークな形状です。ガソメーターと道路を挟んだ敷地には、映画館など娯楽・商業施設(E棟)が新たに設けられ、渡り廊下でガソメーターと結ばれています。Qqgasometer2

かくして、ガソメーターはウィーンの新たな観光名所として多くの観光客を呼び込んでいるようで、G-town見学のガイド・ツアーまであります。廃止された高速増殖炉を遊園地にしてしまったドイツ・カルカー炉の例を挙げるまでもなく、ヨーロッパでは昔の建物を再利用することが珍しくないのです。しかし、そんな中にあってガソメーターはかなりユニークな存在と言えるでしょう。    甲斐 晶(エッセイスト)

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カー・ウント・カー

オーストリアの老舗には名前の前に「K.u.K.」(ドイツ語読みでカー・ウント・カー)という名称が付く場合があります。例えば、有名な菓子店、デーメルの場合、K.u.K. Hofzuckerbäcker Demel” K.u.K.宮廷菓子司デーメル)が正式な名称です。

この「K.u.K.」は、日本で言えば「皇室御用達」、英国ならthe Royal warrantに対応する名称で“Der kaiserlicher und königlicher Hoflieferant(皇室・王室御用達)のことです。なぜ、皇室と王室と二重になっているのかは、オーストリアの歴史を紐解く必要があります。それは、オーストリア・ハンガリー二重帝国に由来するのです。648pxaustriahungary_flag_18691918sv Austriahungary1

現在の中欧ほぼ全域とイタリアの一部を版図に収めていた多民族国家であるオーストリア、ハプスブルグ帝国は、有名なフランツ・ヨーゼフⅠ世(18301916)の時代に、領内各地で民族独立の動きが激しくなります。Kaiser20franz20josef事実、ハンガリーでは、貴族を中心とする独立闘争が続けられ、1848年の革命で一時独立を宣言しますが、結局、鎮圧されてしまいます。 一方、スラブ系諸民族の独立運動にも悩まされ続けていたオーストリアは、1866年に普墺戦争に破れると、非スラブ系であるハンガリー人貴族たちと妥協。ドイツ人とハンガリー人によるスラブ系諸民族の支配を図るため、1867年にハンガリーを立憲君主国に昇格させるとともに、その国王をハプスブルク皇帝が兼任する、オーストリア・ハンガリー二重帝国を成立させたのです。

現在でもこの特権的なK.u.K.の名称を用いているお店の業種は多種多様で、Ankerbrot(パン)、 Bösendorferピアノ)、Augarten(磁器)、Freytag & Berndt(地図出版)、L. Heiner菓子)、A. Heldwein宝石)、Lobmeyrガラス器)、E. Sacher菓子)、Zum schwarzen Kameelレストラン)、Zum Weißen Storch(薬局)といった具合。その多くは、目抜きのGrabenKörntner通りにあります。

ただ最近、これらの老舗が高騰する家賃のため廃業する例があり、Graben高級紳士服店、E. Braun & Coも庶民的な婦人服店H&Mに替わってしまい、大いに嘆くウィーン子も多いのです。

Kanda さて、一昨年3月赤坂に、その名も「カー・ウント・カー」というオーストリア料理のお店が開店。小泉前総理大臣も官邸から抜け出して、お出かけになったことが新聞報道されたりしました。

シェフは、弱冠30歳の神田真吾氏で、一生に一度しか受験できないという超難関のオーストリア国家公認料理マイスター試験に、2004年5月、日本人で初、いやヨーロッパ人以外で初めて合格された方です。4420310138

如何に難関かは、ご本人の体験談をまとめた「世界のマイスターをめざして」神田真吾著(創美社)に詳しいのですが、筆記試験は16科目。料理だけでなく、語学、栄養学、簿記などの知識も求められ、実技試験は5日間にも及びます。しかも実技では、自分で料理を作るのではなく、くじ引きであてがわれた助手をどう上手く使いこなして料理を完成したか、その「親方」としての資質が問われるのです。

日墺協会主催の夕食会が「カー・ウント・カー」で開催された際に、直接、神田シェフからご苦労話を伺いました。やはりオーストリア料理に適した食材探しが、一番の悩みのようで、日本では魚類は最高なのですが、牛肉は脂身が多く、オーストリアの味に近づけることが出来ないそうです。12_060525_h_006

レストランは黒とダーク・ブラウンを基調とした大変落ち着いた佇まいで、ウィーンの雰囲気そのもの。食器類はK.u.Kの称号を有するAugartenLobmeyrのものを使用。お料理も全てが本物志向で、ウィーン料理がこれほど洗練され、上品なものだったかと、改めて感服しました。ハプスブルグ家の宮廷料理はフランス料理の流れを汲んでいるようです。

お店の名前は、共同経営者で神田シェフが師と仰ぐ、我が国初のオーストリア国家公認お菓子マイスター、栢沼稔のイニシャルもKであることに由来するとか。素晴らしい料理を堪能した夕食会の参加者からは、Kultur und Kunst(文化と芸術)の略でもあるとの賞賛の声が聞かれました。 甲斐 晶(エッセイスト)

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SERVUS!

娘が、私にとって初孫となる長男を出産したのを機会に、その成長記録のブログを始めたのに刺激されて、私もブログを始めて見ようと思い立ちました。現在、ある機関誌に「SERVUS!」という主にオーストリアやウィーンの事物、そこでの異文化体験などを綴ったエッセイを連載しています。書き始めたのが1994年ですから、かれこれ13年になります。そこで、これまで書き溜めたものの中から、これから少しずつご紹介しようと思います。

 

さて、このブログのタイトルをエッセイのタイトルと同じ「SERVUS!」(セアヴス)としました。これは、南ドイツやオーストリアで日常的に交わされる挨拶の言葉です。極めて親密な間柄の人たちの間でなされる、とても気軽な挨拶で、「こんにちわ」にも「さようなら」にも使える大変便利な表現です。英語では、出逢ったときの「Hi!」や、お別れの時の「Cheerioh」(英俗語)や「Bye!」といったところでしょうか。

 

では、次回まで、「SERVUS!」。 甲斐 晶(エッセイスト)

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