ルドルフ・ディットリッヒ

  モーツアルトのオペラ「魔笛」は意外にも日本と関係があって、Interview_vol9_04その初演の台本では王子タミーノが「きらびやかな日本の狩衣をまとって」登場するとされています。しかしながら、本格的に日本を舞台にしたオペラと言えば、やはりプッチーニの「蝶々さん」でしょう。

 ただ、日本人の演出家によるものでない限り、我々日本人が見ると登場人物の服装や所作などが噴飯もののことが多いのです。蝶々さんの着物が左前なのは、西洋のドレスの感覚からして止むを得ないとしても、綿入れのどてら風だったりするのは戴けません。その他、畳間に椅子とテーブルが並べられていたり、土足のまま居間に上がり込んだりと、違和感を覚えるシーンが多々あります。

ところで「蝶々さん」には、「君が代」を始め、「宮さん、宮さん」、「お江戸日本橋」など日本のメロディーがあちこちに出てきます。日本に来たことのないプッチーニがどうやって、日本の音楽を知ったのでしょうか。それには当時の大山久子駐伊日本大使夫人が果たした役割が大きいのです。

大山夫人は、プッチーニと再三会って日本の音楽や文化について貴重な情報を提供するとともに、自ら日本の歌を琴で演奏したり、日本から楽譜やレコードを取り寄せたり、自分が所有するレコードをプッチーニに貸したりしました。また、最近Nippongakuhu_image2の研究では、西洋と日本の音楽の橋渡しをしたお雇い外国人、 オーストリア人のルドルフ・ディットリッヒ(Rudolf Dittrich:1869-1919)が出版した日本歌曲の楽譜集が大きな影響を与えたようで、プッチーニは、楽譜集所載の端唄、さくら、お江戸日本橋、地突き歌の4曲を取り 入れています。

我が国の近代化を進めた明治政府は、学生や政府高官を海外に派遣する一方で、多くの外国人専門家を大学教授や政府顧問として我が国に招聘し、欧米の諸制度や科学技術、芸術・文化のRudolfdittrichlores吸収に努めました。こうしたお雇い外国人の中のひとりが上野音楽学校(現在の東京芸術大学)で教鞭を取り、日本における西洋音楽の発展に貢献したディットリッヒなのです。当時、日本に派遣する音楽家の選任の任にあったのがウィーン駐在の日本国公使、戸田伯爵でした。当初、彼が白羽の矢を立てたのは、ワルツ王ヨハン・シュトラウスでしたが、これはいかにも無理で実現しませんでした。その代わりに音楽教授として招聘されたのがブルックナーの薫陶を得ていたディットリッヒでした。

バイオリンとパイプオルガンの演奏に秀でていた彼は、上野音楽学校で教鞭を執って優れた日本の音楽家を育成する一方、鹿鳴館の舞踏会で指揮を務めたりピアノやバイオリンの演奏をしたりしています。このように素晴らしい功績を収めたディットリッヒでしたが、1894年の日清戦争の勃発が日墺関係に影を落とし始めたことから、故国に戻ります。その後も音楽活動を続け、1906年から亡くなる1919年までウィーン音楽大学でパイプオルガンの教授を務めました。

 ところで、彼にはPetronellaという奥さんがいましたが、任期半ばの1891年に亡くなってしまいます。そして、彼に日本の音曲を教えたことが切っ掛けだったのか、三味線師匠の森菊と関係ができ、1893年8月に息子の乙(おっと:独名、Otto)が生まれます。このあたり蝶々夫人のピンカートンを彷彿とさせますが、違うのは、帰国するにあたり「非嫡出子Ottoのため毎年少なくとも銀貨60円を菊に前払いする。ただし、私の求めに対してOttoの引き渡しを拒む場合、この義務は無くなる。」との誓約書を領事館で書いていることです。G2005102508negami

 結局、森乙がオーストリアの父の元に加わることはありませんでしたが、彼は、父の才能を受け継いでプロのバイオリニストとして活躍します。そして、なんとその長男が、歌手ペギー葉山とおしどHirasawa_image1り夫婦として有名だった根上淳でした。

  ディットリッヒの伝記を著してこのことを明らかにした平沢博子女史は、2007年9月に彼の子孫を訪ね(ウィーンに戻った彼は1900年に再婚、息子二人が誕生しています)、ウィーン中央墓地にあるその墓に根上淳の遺灰の一部を収めています。なんとなく心温まるお話しですね。

             甲斐晶(エッセイスト)

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ダイエット奮戦記

 それは、全て、数年前の夏の日に始まりました。毎年1回、定期的に人間ドックに行くことにしているのですが、お盆休みの前後は比較的空いることから、特にこの時期を選んでいます。行きつけ(?)の人間ドックでは、夫婦一緒に受けるとかなり割引となるので、家内ともども出かけるのが常です。035

 いつもでしたら、検査結果のご託宣は、担当医から夫婦別々になされるのですが、その時は、一緒に結果を聞かされることになりました。その結果、「えっ、そんなにあったの。」と、たとえ夫婦間であってもそれまではマル秘事項であったお互いの体重を知るところとなったのです。しかも、2人とも、標準体重を超えており、次のドックを受けるまでにそれぞれ7kgの減量を命じられてしまいました。250pxhorace_fletcher_1210x300

 さて、どうしたらお金をかけず、面倒なことをしないでダイエットが出来るのか?すなわち、食事の度ごとにカロリー計算をしたり、定期的に運動をしたり、ダイエット用補助食品を摂取したりしなくても済むような方法はないものかとインターネットで検索し、色々なダイエット法を調べてみました。その結果、行き当たったのがフレッチャー法だったのです。

 この方法は、時計商であった米国人のフレッチャー氏が考案したもので、彼はこれで100kgを超える体重を40kgも減らすことに成功したそうです。その物語が日本語で絵本になっていて、優良図書に選定されていることも知りました。

 51dbbyf4l__ss500_ では、一体どんな方法でしょうか。それは、「良く噛んで食べる」とういう、すこぶる単純なものです。ゆっくり食事をすると、血糖値が上がって満腹感が得られるまでに摂取する食べ物の量が少なくて済むという理屈なのです。

これに加えて、毎朝、寝起きに素っ裸で体重を量って、その変化をグラフにつけることも始めました。こうすると、大いに励みになるからです。もうひとつ、時折、己の裸の姿を鏡に映してじっ

くり眺める(しかも、正面からではなく、横向きで!)と良いとのアドバイスがあるサイトに出ていました。しかし、我ながらとても直視するには耐えない姿であって、自己嫌悪に陥るのが関の山なので、これは採用しませんでした。Gpf3photo220070823020126

 さて、その結果、何と、5ヶ月で5kgの減量に成功したのです。フレッチャー法を続けているうちに、胃の大きさ自体が自然に小さくなって、少しの摂取量で満腹となるようになったようです。

しかし、好事魔多し。順調にダイエット作戦が進行中だったのに、長期の国外出張が入ってしまいました。節制はしていても外人に付き合って高カロリーの食事を3度々々、しかもデザート付きでしっかり摂る生活が続きました。体重計が部屋についているような高級ホテルには、逗留していません。帰国後、はやる心を抑えて体重計に乗ってみると、何と出張中に1kgも増加。1ヶ月間の努力が水泡に帰していました。毎朝の体重計測を欠いたためコントロールが効かなかった結果です。

41kbdc9obdl__ss500_ そこで、今度は、携帯用の体重計探しが始まりました。あったのです。両足を乗せる必要があるので、ある程度の大きさは避けられませんが、厚さ1cm、重量1.5kgで、B5型パソコンよりも小振りのものが見つかり、ネット・ショッピングで取り寄せました。ある時計会社製のものです。爾来、国外の会議に出張する際には、スーツケースに忍ばせています。

その甲斐があって、1年後の人間ドックまでに目標を達することが出来ました。

ただし、このフレッチャー法には、欠点があります。物を良く噛むということは、その間、話が出来ないことを意味します。我が家では、夫婦二人が食事中ひたすら黙々と噛み続け、会話の少ない味気ない食卓になってしまいました。

あのフレッチャーさんも、自分のダイエット法を普及するために、全米各地を回ってプロモーションのためのパーティを開催したのですが、こうした事情のために盛り上がりを欠くものとなってしまい、長くは続かなかったそうです。

   甲斐 晶(エッセイスト)

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ヴィッレンドルフのヴィーナス

 F_296_1 ユネスコの世界文化遺産に登録されたオーストリアの名所旧跡のひとつにヴァッハウ渓谷があります。バロック様式の修道院で有名なメルクから下流のクレムスまでの約30kmにわたるドナウ河両岸の一帯で、大変風光明媚な地域です。その南斜面にはぶどう畑が広がり、穏やかな気候と軽土壌がブドウやその他の果実の生産に理想的な条件を作りだしており、オーストリア有数のワインや果実酒(シュナップス)の産地となっています。

Img_0551 春先には、河畔の並木に桜の花に似た美しい杏の花が咲き乱れるので、ウィーン在任中には、「お花見」に良く出かけたものです。最近、日本からウィーンに戻ったオーストリアの友人からも、春を迎えて日本の桜が恋しくなり、ヴァッハウまで杏の花を見に行ったと聞いて、同様の感じを抱くのは日本人だけではないなと思ったりしました。

Willendorfpanorama そんなヴァッハウ渓谷にある小さな村、ヴィッレンドルフにおいて、20世紀の初頭に考古学上重要な発見がなされたのです。

既に19世紀後半には、この村の名は、考古学的遺物の名品が出土することで個人蒐集家の間において知られるようになっていました。そして1908年のことです。ドナウ河北岸に沿ってヴァッハウ渓谷のクレムス-グライン間に鉄道の建設が進められました。これに伴って、発掘現場での掘削が行われ、「ヴィッレンドルフのヴィーナス」の発見となったのです。それは、石灰石に彫られた大きさが11cmほどの女性の裸像で、現在では、ウィーンの自然史博物館に展示されています。最近のカーボン14による年代測定では、紀元前2万5千年前後のものと推定されています。

「ヴィーナス」という名称からは、Venus_of_willendorf美しい均整のとれた女性の姿を想像し勝ちですが、実際にはその名とはほど遠い、ふくよか過ぎるほどの女性の姿なのです。しかし、その古い推定年代と女性の身体的特徴を強調した形状から有史以前の美術品の象徴となり、旧石器時代を代表するものとして、芸術史の入門書に登場するようになりました。

ご覧になれば分かるように、まず、大きくせり出した腹部と著しく豊満な胸に目が止まります。胴回りには、たっぷり脂肪が付き、見事に発達した腰と巨大ながらも平坦な臀部へとつながっています。立派に太い大腿部の先には、申し訳程度の下腿部と足の部分が省略気味に表現されています。

一方、両方の前腕と手も極端に細く、大きな胸の上部にそっと置かれています。お臍まで達するかに見えるその豊満な乳房には、張りがあり、決して垂れたような感じはありません。要するに超肥満な中年女性のような裸像なのです。

その頭部は、編んだような髪が頭頂から始まってぐるりと7重に巻かれ、本来顔である部分の半分以上が覆われている結果、顔自体は省略された形になっています。

さて、この「ヴィーナス」像は、どのような目的で作られたのでしょうか。色々な説がありますが、手足や顔が省略され、豊満な女性的な部分のみが誇張されていることから、子孫繁栄、豊饒のシンボルとして使用されたのではとか、単に石器時代の子供の玩具用人形だとか考えられています。

Venussoap_001 インターネットを検索すると、この像をモチーフにしたブローチやオーナメントなど各種グッズが売り出されているのにはびっくりですが、この像の持つ神秘性を利用して、これを所有すると癒しの効果があるとか、幸運になるとかの謳い文句が並んでいるのにはいささか苦笑させられます。

傑作は、この像を型取った石鹸で、使っているうちに細身のヴィーナスに変わることから、使用前・使用後の両方の写真を掲げて、ダイエットの補助用品としているのは、アイデア商品でしょう。

Venusiumimg_1410 ある春の日、杏の花を愛でがてらヴィッレンドルフ村に出かけ、発見場所の巨大な「ヴィーナス」の記念碑の前で写真を撮っていると、妙齢のオーストリア女性が通りかかりました。眼前の像に勝るとも劣らない彼女の体型に、時代を超えて不変なものもあるのだなとの感を強めたものです。

甲斐 晶(エッセイスト)

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ウィーンの森の嫌われ者

 1244478808919東京の23区もの広さがあるウィーンの森は、ウィーン子達の憩いの場として大いに親しまれています。季節を問わず、休日ともなると、四通八達した小径を散歩する市民で賑わいます。しかし、春先や秋口にウィーンの森でハイキングを楽しもうとするなら、この森に棲む真ダニ(Zecken)に注意が必要です。これに咬まれると脳炎などを発症する可能性があるからで十分な対策を要します。

S_zecken_map オーストリアのみならず、近隣のドイツ、ハンガリー、チェコ、スロバキア、スロベニア、さらにはポーランド、バルト3国などの中・東欧諸国では、森や草むらの真ダニがウイルス性脳炎を媒介しており、これに感染する恐れがあるのです。この脳炎には効果的な治療法が無く、罹患すると麻痺が残ったり、場合によっては命を落としたりすることがあります。幸いにして極めて効果的なワクチンがあるので、事前に予防接種を受けることと、ダニに咬まれないなどの対策が有効です。

ダニ媒介性の脳炎は日本脳炎と同じフラビウイルス属のウイルスによって引き起こされますが、日本脳炎と違って蚊ではなく真ダニがウイルスを媒介します。また、ヤギも感受性を有し、乳腺中で増殖したウイルスが乳汁中に移行し、これを生で飲用して罹患する例もあります。Fsme_h3

世界のダニ媒介性脳炎の患者は、毎年6000人の発生が報告され、多い年には1万人前後の感染が報告されています。主なものには、ロシア春夏脳炎や中部ヨーロッパ脳炎(初夏髄膜脳炎[FMSE]とも称される)などがあり、後者が中・東欧諸国に分布します。ロシア春夏脳炎は我が国でも10年ほど前に北海道で罹患例が報告されて、道南地域のイヌにウイルスの分布が判明しました。

IAEA職員に採用されると採用研修の一環として、オーストリアでの生活上必要な医療知識を学び、必ずFMSEのことも触れられます。私の時には、講師のインド人医師が、問題のウイルスは、日本脳炎が起源でロシアを経由して中・東欧に伝来したと言っていましたが、その真偽のほどはDNAを調べればすぐに分かることでしょう。Iv122_links

FMSEに罹患すると7~14日の潜伏期を経て、二期にわたる症状を呈します。第一期はインフルエンザのような発熱、頭痛、筋肉痛が1週間程度続き(約半数では第一期が認められない場合がある)、解熱後2~3日間で症状が消えて、第二期に移行。脳炎、髄膜脳炎、髄膜炎の形を取って、痙攣、眩暈、知覚異常などの中枢神経系症状を呈します。麻痺が3~23%で認められ死亡率は1~5%とされています。3560%の頻度で知覚障害、平衡感覚障害、難聴などの後遺症が残り、運動麻痺で車椅子生活を余儀なくされる場合もあります。

さて予防策ですが、まずはFMSEワクチンの接種です。2~4週間間隔で2回接種し、1年後に3回目の追加接種を行います。これで基礎免疫が獲得され(免疫効果99.6%と言われている)、最低3年間の持続効果があるので、以降は3年ごとに追加接種をすることになります。

50390_m3w468h320q75v50006 ただし、全ての真ダニがウイルスを有するわけではなく(10005000匹に1匹と言われている)、また、ウイルスに感染した場合でも30%程度の発症率ですから、FMSEの汚染地域で真ダニに咬まれてもパニックの必要はありません。真ダニは人の体に移ると、頭や首、肩、脇の下など血管が集まっていて皮膚の薄いところを狙って血を吸います。私の秘書の場合も咬まれたことに全く気付かず、シャワーを浴びていて初めて脇の下を咬まれていることを発見。慌てて除去したそうです。

Zeckweg 真ダニに咬まれたら、反時計回しにネジって除去するのが肝要で、呉々も無理に引きちぎって頭部が皮膚内に残らないようにと(肉腫を引き起こすとか)巷間では言われており、専用の除去ピンセットが市販されています。

日本人でこのFMSE にオーストリアで罹患し、命を落とした例も報告されています。2001年6月にオーストリアに住む娘さんを訪ねた61歳の日本人男性が田舎でダニに咬まれ、髄膜炎による四肢麻痺、意識障害を生じ、右大脳半球の出血にて死亡しました。真ダニは決して侮れないのです。

甲斐 晶 (エッセイスト

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カラスのチター

 Pdvd_0366 映画「第三の男」は、敗戦後のウィーンの街並みを見事に映し出したC・リード監督(19061976)の素晴らしいカメラワークと哀愁に満ちたA・カラス(19061985)のチターの調べにより、1949年9月、カンヌ映画祭のグランプリを獲得しました。枯れ葉の散る寒々とした中央墓地の並木道を無表情で立ち去るアンナを描いたラストシーンは印象的ですが、いかに名場面が連続していたとしても、そのバックにカラスのチターが無かったなら、その魅力も半減していたことでしょう。

カラスは、ハンガリー人の家系の次男としてウィーンに生まれ、8才の時に屋根裏部屋で見つけたチターと初めて出会います。その後、正規にチター奏法を学び始める一方、鍛冶職人の見習いとしても働き始めましたが、結局、プロのチター奏者の道を選び、16才にして既にその名はウィーン各地のホイリゲで知れ渡るようになっていました。Aantonkaras

第二次世界大戦の従軍中もカラスは小型のチターを持参し、将校達のために演奏したそうです。

戦後、194810月、ウィーンの森シーフェリングの自宅でくつろいでいたカラスにホイリゲに来るように電話が入ります。「第三の男」の制作のために英国からやってきたリード夫妻一行がウィーンの音楽を聴きたくて、カラスを呼んだのです。

Karasカラスのチターに魅了されたリードは、これを映画の音楽に使用しようと思い立ち、「後日、連絡する」旨、彼に伝えました。数日後、連絡を受けたカラスは、アストリア・ホテルに向かいます。リードの求めに応じて、次々に違った曲を引き続け、ついに4時間に及ぶに至ってようやく解放されたそうです。その時初めて、リードがウィーンを舞台にした映画を制作し、その音楽としてチターを採用したいとの意向をカラスに示したのです。

その後、ロンドンに来て欲しいとの連絡がリードから入り、気が重かったのですが、1949228日、ロンドンのリード邸に向かいました。

出来るだけ快適にとのリード夫妻の配慮にも拘わらず、ロンドン到着から2ヶ月たっても作曲は上手く進まず、ついにカラスはホームシックに罹ってしまいます。あの有名なハリーライムテーマの誕生の経緯については、内藤敏子著「激動のウィーン『第三の男』誕生秘話、チター奏者アントン・カラスの生涯」(マッターホルン出版)に詳しく述べられており、読む者の心を打ちます。119409434c57f76912139552874b1aa0f51

家族から離れ、一人、言葉の分からぬ異国に来させられ、朝から晩まで見慣れた故郷ウィーンの街並みの景色を見せられて、それに曲を付けるように言われるのですから、ホームシックになるのも無理ありません。そんな時に、リード夫人が気分転換にと、海のない国から来たカラスを大西洋の船旅に誘い、結局これが功を奏するのです。

実は、「第三の男」の主題曲、ハリーライムテーマ冒頭の4小節は、ロンドンに来てから思いついたのではなく、彼が「昔からこのテーマを時々口ずさんでいた。」とお嬢さんが証言しています。

映画の成功とともに、そのテーマ曲も世界を制覇します。彼は、バッキンガム宮殿や法皇庁での御前演奏の栄誉を受ける一方、世界各地にチターの演奏旅行に出かけ、日本にも3度来ています。

1 カラスは、自分の演奏を聴きたい人たちのためにホイリゲを作ろうと決意し、19531015日にシーファリングで開店します。大いに流行っていたのですが、1965115日に閉店に追い込まれます。その理由を、内藤敏子氏は、「演奏旅行のために不在がちで、折角来られたお客さんをがっかりさせることが多かったから。」とのお嬢さんの言葉を引用していますが、それなら演奏旅行を止めれば良いのであって、ちょっと腑に落ちません。20090726150553むしろ、裁判記録等から郡司貞則氏が指摘しているように(「滅びのチター師」(文藝春秋))、にわかに成功したカラス氏を妬んだ同業者に刺されたのではないでしょうか。

カラスはこうした妬みと中傷に耐えながら、昔の栄光を取り戻すことなく、1985110日、世を去ります。彼は、シーフェリング墓地第228に葬られ、その希望通りチターの形の墓石に、ハリーライムテーマの冒頭部分が刻まれています。Qtumb_cimg0079

甲斐 晶(エッセイスト)

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第三の男

第二次世界大戦後のウィーンを舞台にした映画、「第三の男」は、私にとって単にウィーンが好きだからと言う以上に特別な意味のある作品です。

Greene40年前に英国留学をした際に同じ奨学金制度で一緒だった友人が、この映画の原作者G・グリーンを研究していて、私の留学先がロンドンの南にある海岸の町ブライトンであることを言うと、彼の作品に「ブライトン・ロック」があるので良く知っているとのことでした。一体どんな作品だろうかと思って、それが収められた彼の全集を読んだことがありましたが、そこには、「第三の男」も入っていたのです。Bpbookcoverimage

廃墟となったウィーンに、親友ハリー・ライムを訪ねてきたアメリカ人作家ホリー・マーチンは、いきなりハリーの葬列に遭遇します。アパートの前で車にひかれたとの話にホリーは釈然とせず、ハリーの愛人アンナやアパートの管理人などに彼のことを聞き回りますが、謎は深まるばかり。そんな彼に英国占領軍の少佐キャラウェーは、ハリーが病院かPdvd_1066 ら横流ししたペニシリンを水で薄めたものを闇取引し、莫大な利益を上げており、このために多数の犠牲者が出ていると告げます。アンナのアパートからの帰路、ホリーは闇の中に浮かび上がるハリーの姿を目撃。彼は生きていたのです。結局、彼らは、プラター公園の観覧車の中で再会しますが、Pdvd_1077_2 自首を勧めるホリーをハリーは拒否。ホリーは、ハリーの逮捕への協力を決意し、彼をおびき寄せることに成功します。Pdvd_0366 罠だと気付いたハリーは、地下下水道へ逃げ込みますが、逃げ切れず、ホリーに自分を撃つように合図。ついに彼に撃たれます。中央墓地での葬式が終わり、アンナが墓地の並木道を無表情で立ち去るのです。

Dritmanさて、映画「第三の男」にゆかりの地を徒歩で辿る観光ツアーに参加したことがあります。「懐中電灯を持参し、汚れても良い服装で、滑りにくい靴を履いてくるように。」との指示が事前になされます。参加者は、まず、指定の場所に集合後、まず、ドナウ運河沿いの地下鉄駅に向かいます。駅の脇を流れるドナウ運河への階段を下りると、あの有名な地下下水道の一部が運河に流れ込んでおり、これを見学することが出来ます。照明もなく、足下も危ないので、前出のような注意書きとなる次第です。Amhof

次いで、冒頭の葬列の場面であるパラビチーニ宮殿(ハリーの住居)、ホリーに見つかったハリーが忽然と姿を消した広告塔(内部が地下下水道に通ずる螺旋階段となっている)の場面のアム・ホフ(アンナのアパート前との想定)、そして、アンナのアパートの場面となった、シューベルトゆかりの「3人姉妹の館」などを歩いて回ります。その間に、ガイドが次のような映画撮影にまつわる逸話を紹介するのです。3manncover2

        ハリー役のオーソンウェルズは潔癖性で、汚水の流れる下水道やネズミが大嫌い。毎日オーデコロンをたっぷり使っていた。

        ホリーがハリーを待ち伏せる場面で風船売りと愛らしい子供が現れて、緊張感を一瞬和らげますが、この子役は全くの素人で、お菓子を上げるからと釣って出演させた。

        現地ロケは限定的で、ほとんどの場面がロンドンでのセットで撮影された。ハリーがホリーに撃たれ、地上に逃げようとして、格子状の鉄枠の蓋を掴み、彼の指が鉄枠の先に突き出Halbig るシーンがあるが、本物の鉄枠は厚すぎて、掴んでもとても指は出ない。

        ホリーが待ち合わせの場としたカフェー・モーツアルトは、爆撃で破壊していたので、カプチーナ教会の広場にセットを作った。

映画に登場する立派な地下下水道は、実際にはカール広場の下にあります。映画ではウィーン市内の地下を下水道が四通八達している印象を与えていますが、実は同じ場所を何度も違った角度から撮っているのです。私もウィーン市の施設開放日に整理券を入手し、実際にこの目でその様子を確認したことがあります。

甲斐 晶(エッセイスト)

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最後の晩餐

382pxleonardo_self イエス・キリストが十字架に架かる前の晩に行った弟子たちとの「最後の晩餐」のシーンは、古今の多くの画家によって取り上げられて来たモチーフですが、中でも傑作として有名なのは、レオナルド・ダ・ヴィンチの作品でしょう。

 ミラノのサンタ・マリア・デレ・グラツィェ修道院の食堂の壁に描かれたこの名画を初めて見たのは、今から約30年前のことでした。家族でローマ、ピサ、フィレンツェ、ヴェニスと飛行機で回った時に、ミラノで乗り換え時間が3時間ほど出来ました。急いで空港から市内まで往復して見てきましたが、Santamariadellegrazie当時、大修復作業の真っ最中で、絵の一部に布や櫓が掛けられていて全体を見ることができませんでした。ところが数年前、修復後の甦った名画を見る機会に恵まれました。

  ダ・ヴィンチは、時間を掛けてじっくり描くために伝統的なフレスコ画の手法(漆喰の乾かないうちに手短に描く必要がある)を捨てて、テンペラ画の手法をとりました。そのため、絵の完成した1498年の20年後には既に湿気、カビなどが原因で絵が傷み始めていたとの記録が残っています。

 その後さらに痛みが進み、この名画を保存しようとこれまでに何度と無く修復の手が加えられました。原画を油絵と勘違いして保存のために油絵の具やニスが上塗りされたり、原画を再現しようと油絵の具で破損部分が加筆されたりしました。

1979年から20年を掛けて行われた一番最近の修復作業では、顕微鏡、赤外線写真、レーダー、ソナーなどの現代技術を駆使することによって、ダ・ヴィンチの原画の絵の具の成分分析ができ、上塗りされた絵の具との区別が可能となりました。上塗りされた絵の具が剥げ落ちる際に、原画の絵の具も一緒に剥離させることも分かりました。

C0094808_19271186 そこで、今回の修復では、カビや埃だけでなく、上塗りされた絵の具も顕微鏡的な細心の注意を払いつつ除去する作業が続きました。1日わずか切手の大きさしか修復出来ないことがしばしばだったそうです。従来あった原画の部分を当初の色に加筆する一方、劣化して空白になった部分には、あえて手を加えなかったため、今回の修復後の絵は、完全な原画の再現ではなく、痛んだ部分はそのままに仕上がりました。しかしながら、原画の持つ迫力が見事に再現されています。 

まず気づくのは、12弟子がキリストを中心に3人ずつ4つのグループに配されていることです。しかも従来の古典画家の手法のように、テーブルの周りを囲んで配する(こうするとどうしても後ろ姿の弟子が出てきます)のではなく、個々の弟子の表情や仕草が生き生きと描けるようにと、テーブルの片側に全員を配しています。

 その結果、「あなた方の内の一人が私を裏切る」とのイエスの宣告に、一体自分たちの内の誰なのだろうと、水面を行く波紋のように弟子たちの間に伝搬する驚きの様子が見事に描き出されていて、見るものを大いに魅了します。

 Image1 どれが誰かを想像するのも興味深く、イエスの傍にいたとされるヨハネ、彼に「誰なのかイエスに聴け。」と迫る年輩者ペテロの両人は直ぐに判ります。ユダは、この3人の近くにいて、イエスの言葉にぎくりとした様子が描かれています。心なしか貧相な面容なのは、私の思い入れでしょうか。

 ダ・ヴィンチは、他の弟子たちも見て直ぐ判るように描いたとしているのですが、残念ながら、誰が誰やら見分けがつきません。展示室の外にある売店で解説書を見てようやく判断できました。

この絵は、キリストのこめかみを消失点とする透視法で描かれており、あたかも壁画の描かれた食堂の奥に更に空間が広がっているような見事な錯覚を与えています。

さて、最後に鑑賞上のアドバイスです。この名作を見るには、予約が必要です。見学者は、25人ずつ食堂に入場させられ、15分間の鑑賞が許されます。多くの人は、貸し出し用の音声ガイドを耳にしていますが、そうしたサービスを知らないで入場した私の場合、5分も経てばもう十分で、時間を持てあまし気味でした。ですから、くれぐれも入り口で、音声ガイドの借用をお忘れ無く。

甲斐 晶(エッセイスト)

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日本の心を伝える

10060004741_s_2 グレッグ・アーウィンという米国人歌手をご存じでしょうか。彼は、日本の唱歌や童謡の魅力に惹かれ、これらに描かれている日本の心を世界に伝えたいと願い、日本語の原詞を英訳するとともにこれらを自ら歌ったCDを出すばかりか、色々な機会に演奏を行って数々の賞を受けています。

これまでに2冊のCD本「英語で歌う日本のうた」がジャパン・タイムズ社から出され、「さくらさくら」、「花」、「早春賦」、「仰げば尊し」、「竹田の子守歌」「椰子の実」、「かあさんの歌」など全部で16曲を収録しています。本の体裁は、まず、それぞれの歌にふさわしい大変美しい写真が見開きで掲載され、次いで左の頁に原詞、右の頁に英訳の歌詞が載っています。さらに巻末には、それぞれの歌についての解説があって、日本独特の風物、風俗、習慣、考え方、自然観などの紹介や訳出に苦労した点の披露がなされています。それぞれの曲は、軽快なアップビートのポップ調に編曲されていて、楽しいものに仕上がっています。9784270002018_1l_2

そもそも翻訳とは、単なる言語の置き換えで済むものではなく、文化・習慣の相違の翻案も必要です。加えて、英語の歌詞の場合には、歌い易さや韻にも配慮しなければなりません。

英語に訳された歌詞を見ていると、その辺の苦労が伝わって参ります。日本語の歌詞では、一音符一音節ですが、英語では、一音符に一単語を充てることが可能です。したがって、英語では、同一数の音節に対して日本語の原詞よりも長い文章にする必要が出てきます。ですから、原詞にない内容を補充して訳出しています。「花」の英訳では、原詞に無い恋人たちが隅田川の川岸に現れます。Akatonbo_03_ll_2

また、日本語には単数、複数の概念がありません。ところが英語では、これを明確にしなくてはなりません。「赤とんぼ」の日本語の歌詞のイメージでは、竿の先に止まっていることから、一匹の赤とんぼと思われるのですが、これが英訳では複数。とても一つの竿の先には、止まれません。したがって、この部分は訳出されていません。

Gentaikenkoramu42nanatunoko1_2 同様の問題が、「7つの子」の解釈です。お母さんカラスが鳴くのは、山の古巣に可愛い眼の7つの子がいるからという趣旨の歌詞なのですが、これを英訳では、「子ガラスが7羽」としています。果たしてそうでしょうか。これは、「7歳の子」ガラスと言う意味ではないでしょうか。日本語では、カラスは7つではなく、7羽と勘定するのです。ただし、人間ならまだしも、7歳になっても親から自立しない子ガラスでは、困りものです。きっと原詞に無理があるのでしょう。なお、原詞で、可愛いと鳴くのは、お母さんカラスですが、英訳では子ガラスに「Caw」と鳴かせています。

P1000846_2 日本語の歌詞を直訳するととんでもない内容になる歌もあります。「夏の思い出」で、尾瀬の水芭蕉を歌っていますが、この植物の英名は、何と「スカンク・キャベツ」。これが臭ってくるのでは、歌のイメージは台無しで、コメディ・ソングです。

ともあれ、いずれも良くできた英訳で、特に、「故郷」は、秀逸で、読んでいてじんと来ます。Furusatonousagi

Back in the mountains I knew as a child

Fish filled the rivers and rabbits ran wild

Memories, I carry these

Wherever I may roam

I hear it calling me, my country home

Mother and Father, how I miss you now

How are my friends

I lost touch with somehow?

When the rain falls or the wind blows

I feel so alone

I hear it calling me, my country home

I’ve got this dream and it keeps me awayWyominggrandtetonnationalpark_2

When it comes true

I’m going back there someday

Crystal

waters, mighty mountains

Blue as emerald stone

I hear it calling me, my country home

ただし、訳詞のイメージは日本のような山紫水明、箱庭のような景色ではなく、ロッキーの雄大な山並みを想像してしまうのではないでしょうか。

甲斐 晶(エッセイスト)

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ノイジードラー湖

 Main_karte ウィーンからハンガリーに向けてドライブを続けて行くと、なだらかな丘陵地帯に入り、次第にステップ風の景色に変わります。そんな中に、長さ36km、幅7~15km、面積320km2のヨーロッパ最大のステップ湖、ノイジードラー湖があります。

湖の真ん中には、オーストリアとハンガリーの国境線が走っており、その周辺には130㌶の葦原が広がっています。ハンガリーと共同で設置された自然保護区は、面積が2万㌶(うち約12千㌶はハンガリー側に)あって、Neusiedlerseecard世界的に重要な生態系を形成していると同時に、海のないウィーンの人たちには、湖水浴場として親しまれています。実際、湖水は僅かに塩分を含み、葦原で幹線道路から隔てられていることから海のような印象を与え、「ウィーン子の海」とも呼ばれています。

2001年に、この地域は、ハンガリーと共同でUNESCOの世界自然・文化遺産に指定されました。貴重な動植物の宝庫で、珍しい蘭の種類が生育していたり、チドリ、サギなど10数種の渉禽類や水鳥が生息し、Nseeヨーロッパとアフリカを渡る鳥の重要な中継地となっています。300種もの珍しい鳥がこの湖に引き寄せられ、また、150種ものツル、コウノトリなどが繁殖のために飛来します。したがって、バード・ウォッチャーでなくとも、鳥の観察には格好の場所で、双眼鏡は必携です。ここは、産卵のためにやって来る灰色ガンを研究し、「刷り込み」現象を見出してノーベル生物学賞を受賞したローレンツ博士の主たる研究の場でもありましたDia_konradlorenz

 湖畔の道路は、ほぼ平坦でサイクリング道も整備されていますし、歩きやすい道ですので、特別な靴を履いていなくてもウォーキングに最適です。湖水浴場のポーダースドルフからイルミッツへのサイクリングの途中では、野鳥保護区で小休止をして、水鳥の観察をする楽しみもあります。

 Csc_0109 日照時間が長いことから湖畔の丘陵地帯には、無数のワイン畑があり、イルミッツ、ノイジードル・アム・ゼー、ルスト、メービッシュなどは、ワインの産地としても知られています。そういえば、アフリカから飛来するコウノトリが屋根に巣をつくることでも有名なルストでは、その昔、不凍液入りの高級ワイン騒ぎがありました。ワインの品評会で最高賞を取ったルスト産のアウスレーゼが、実は、まがい物だったのです。

 メービッシュなどでは、ハンガリーとの国境が近いことから、観光客用ではありますが、居酒屋でジプシー音楽を楽しむことが出来ます。Reise_osterreich_neusiedlersee_pustまた、イルミッツでは、広大なステップ草原を背景にジプシー風の釣瓶井戸、あの独特の巨大な天秤のような井戸を見ることが出来ます。

ハンガリーがまだ共産圏であったときには、国境の町メービッシュのはずれには、高い監視塔と湖水の中まで延々と続く鉄条網が物々しく、Austrianeusiedlersee重苦しい雰囲気がありました。当時、国境に関係なく自由に行き来できる鳥や魚が羨ましいとの話を聞いたものです。それが、自由化直後に訪れたときには、あの鉄条網は廃止され、人々がハンガリーに続く湖畔の道を三々五々行き来しているのを見て、隔世の感を抱きました。

  Zugesch_v5j64633792 メービッシュは、夏の夜に湖上オペレッタが開かれることでも有名です。湖上に舞台セットが設けられ、これと相対して湖畔に観客席がしつらえられます。楽しいオペレッタの演目が7月中旬から8月下旬にかけて上演され、人気を博しています。呼び物は、公演が終わった後に湖上に次々に打ち上げられる華やかな花火なのですが、残念ながら日本の花火の比ではありません。

2010年の出し物は、すでに「ロシアの皇太子」(Der Zarewitsch)と決まっています。Derzarwitsch来年夏にお出かけの予定の方はインターネットで予約が可能です。ただし、気を付けないといけないのは、気温が高ければ蚊に刺されますので、虫除けスプレーを持参する必要があります。逆に、8月下旬にもなると、陽が落ちれば湖畔は急激に気温が下がります。一応、膝掛けを貸してはくれますが、セーターなど防寒具の用意は欠かせません。

甲斐 晶 (エッセイスト)

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マイ・フェア・レディ考

 Q1083_019529 5年ほど前のことですがミュージカル「マイ・フェア・レディ」を本場ロンドンで見る機会がありました。バーナード・ショー原作のこの作品は、オードリィ・ヘップバーン主演のミュージカル映画(1964年)で一躍有名になりましたが、元々は、「Pygmalion」と題する彼の戯曲に基づいています。この戯曲には、思い出があって、40数年前に英国に留学していたときのことです。きっと、当時、その映画が大ヒットしていたからでしょう。英国人の友人からペーパーバック版の「Pygmalion」をプレゼントされ、苦労しながら原語で読んだことがあります。

 Vw20071126 その後、1980年代にウィーンに赴任した際には、フォルクス・オペラで、「マイ・フェア・レディ」をドイツ語でやっていて、これを見たり、物価の安かった東ドイツに出張した折に、ドイツ語版レコードを安価で求めた記憶があります。

 ご存じのように、お話の筋は、音声学の大家ヒギンズ教授が下町訛りの賎しい花売り娘イライザを6ヶ月間で貴婦人に仕立て上げて見せると友人のピカリング大佐と賭け、見事に勝つというものです。ロンドンでのミュージカルを見て、改めて原作の戯曲を読みたい衝動に駆られ、ロンドンの書店で原作を求めて読んだところ、驚いたことにミュージカルと戯曲ではその内容が大きく異なるのです。Pygmalion

 まず、ミュージカルにおいて重要な役割を担っている、イライザのコクニィ(「アイ」を「エイ」と発音したり、「h」が発音できない)を矯正するのに苦労する場面(とりわけ、あの有名な”The rain in Spain stays mainly in the plain.”などのせりふ)や、イライザが上流社会の喋り方をある程度会得した段階でアスコット競馬に出かけたものの結局馬脚を現してしまう場面は、原作には全く存在しません。これらは皆、ミュージカル脚本家アラン・ジェイ・ラーナーの創作だったのです。

また、ミュージカルでは、イライザとヒギンズ教授の結婚を示唆するエンディングとなっていますが、原作では、ハッピィ・エンドとすることを拒むショーがわざわざ「続編」を付記し、イライザと一途に彼女を慕う没落貴族のしがない子息フレディとをゴールインさせています。

 Pygmalion_galatea さて、原題のPygmalionとは、ギリシャ神話に登場するキプロス島の王のことで、彼は、象牙で作った理想的な女性の像を恋するあまり、女神アフロデテに願ってこれを人間の女ガラテヤに変えて貰い、結婚します。ヒギンズがイライザを自分の思い通りの女性に変え、ついには彼女に惹かれて行く様子をその題名に込めたのでしょう。

 しかし、原作におけるイライザは、ヒギンズの手ほどきで公爵夫人への変身を成し遂げますが、同時に自立心をも獲得し、ついにはヒギンズの言いなりにはならなくなってしまうのです。

 原作を読むと、ショーが英国の階級社会を痛烈に批判し、女性の権利向上に熱心であったことを窺い知ることができます。すなわち、貧民階層からの変身を遂げ、ひとつの人格として自分の頭で考え行動し始めるイライザ像と、貴族階級に属しながら常に不作法で、女性を物としか扱わない噴飯物のヒギンズ像を見事に対比して描き出しています。実際、彼は、穏健的社会主義活動家でした。Shaw_2

 ところがショーの経歴を見ると、彼自身、貧しい花売り娘から貴族への変身を遂げたイライザを地で行くような生涯でした。彼は、1856726日、アイルランドのダブリンでうだつの上がらない商人の家に生まれました(アイルランド人は、おつむがちょっと弱い存在としてしばしば英国人の嘲笑の対象となっています)。正規の学業もそこそこに(図書館が彼の学業の場と言われています)、15歳で地元の不動産会社に就職。そこから身を起こして、先にロンドンに出ていた歌手の母の元に身を寄せ、音楽・舞台評論に始まって、ついには、英国を代表する作家となり、ノーベル文学賞を受賞し、貴族に任ぜられるまでに至ったのです。

さて、意外だったのは、戯曲Pygmalionの初出版がドイツ語で、しかもその初演はウィーンでなされたことです。フォルクス・オペラで、「マイ・フェア・レディ」がドイツ語で掛かっていた背景がようやく分かった次第です。

甲斐 晶(エッセースト)

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