SERVUS!

娘が、私にとって初孫となる長男を出産したのを機会に、その成長記録のブログを始めたのに刺激されて、私もブログを始めて見ようと思い立ちました。現在、ある機関誌に「SERVUS!」という主にオーストリアやウィーンの事物、そこでの異文化体験などを綴ったエッセイを連載しています。書き始めたのが1994年ですから、かれこれ13年になります。そこで、これまで書き溜めたものの中から、これから少しずつご紹介しようと思います。

 

さて、このブログのタイトルをエッセイのタイトルと同じ「SERVUS!」(セアヴス)としました。これは、南ドイツやオーストリアで日常的に交わされる挨拶の言葉です。極めて親密な間柄の人たちの間でなされる、とても気軽な挨拶で、「こんにちわ」にも「さようなら」にも使える大変便利な表現です。英語では、出逢ったときの「Hi!」や、お別れの時の「Cheerioh」(英俗語)や「Bye!」といったところでしょうか。

 

では、次回まで、「SERVUS!」。 甲斐 晶(エッセイスト)

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EXPO 2025 オーストリア館

__20250529220701 大阪・関西万博(EXPO 2025)が2025413日から1013日までの日程で大阪市の「夢洲」で幕を開けました。158の国と地域が参加しており、オーストリアも後述するようなユニークな形のパビリオン(オーストリア館)を建設して参加しています。

 修好156年を迎える日墺関係において、万博は特別な役割を果たしてきました。1873年のウィーン万博の際には、明治政府は文明国たる日本を世界にアピールする絶好の機会と捉えて、初めて自らのパビリオンを建設して参加。その結果、西洋にとってとてもユニークな文化であるジャポニズムが全ヨーロッパ、さらには世界へと大きく広がり、西洋の芸術・文化に多大な影響を及ぼしました。

 一方、オーストリアは、日本で初開催の大阪万博(1970年)は勿論、自然と共存する21世紀社会の創造を目指した愛知万博(2005年)にも、自らのパビリオンを建設して参加し、オーストリアの文化・芸術を幅広く紹介する場としました。

 Alexander_van_der_bellen_13072021_croppe 今回のEXPO 2025では、523日のオーストリアの日(ナショナル・デー)に行われたオーストリア館での式典に参加するため、アレクサンダー・ファン・デア・ベレン墺大統領が来日。これを記念して、日墺二国間の経済フォーラムが521日、目黒の雅叙園において開催され、同大統領も基調講演を行いました。

 このフォーラムでは、多くの演者から、①150年を超える両国関係を通じて、相互に相手国に対する敬意が醸成されており、②両国は、自由、人権、平和、安定、発展、開放、イノベーション、国際感覚などを重んじるlike-minded countries(志を同じくする国同士)であり、③すでにオーストリアから日本には約80社、日本からオーストリアには約100社が投資しており、④オーストリアはEUに展開する上での門戸、また日本はアジアへ展開する上での門戸であることなどが指摘されました。

 Takedaaheadaustria715x328 オーストリアと言えば、ともすればその文化・芸術だけをイメージしがちですが、実は官民を挙げてイノベーションに力を注いでおり、これに着目した武田製薬が、オーストリアの研究開発力と連携するため、20239月にウィーン郊外にバイオ関係の研究所(左上写真参照)を設立していることも紹介されました。

 先に述べたように、本年523日のオーストリアの日には、オーストリア館においてファン・デア・ベレン墺大統領の臨席のもと、ウィーン少年合唱団が両国歌を歌いました。またオーストリア観光大使のHYDE氏も大統領と交流。翌24日には大統領が兵庫県の姫路城を訪れ、同城とシェーンブルン宮殿の「姉妹城」締結式が行われました。(ちなみに大阪城は、「豊臣期大坂図屏風」(リンク先のServus!の記事を参照)が縁で2009年にグラーツのエッゲンベルク城と「友好城郭」提携を結んでいます。)

 Photo_20250529220001 さて、オーストリア館は、大阪・関西万博のシンボルである大屋根リングを時計回りに15分ほど歩いた位置にあり、木製の帯である五線譜がらせん状にぐるぐると17メートルの高さまで空に伸びて行くという、ユニークな外観で一段と人々の目を引きます(五線譜には、ベートーベンの「歓喜の歌」の一節が記されています)。同館は、万博の総合テーマ、「いのち輝く未来社会のデザイン」にちなんで「未来を一緒に作曲」するとのコンセプトで、入館者を両国関係に関する旅へと視覚的、音楽的、情緒的に誘って呉れます。

 Bsendorfer-grand-piano-under-lobmeyer 館の内部は3部構成になっています。まず、「両国関係」がテーマの第1の部屋に入ると、1869年に皇帝フランツ・ヨーゼフ1世から明治天皇に友好の印として送られたベーゼンドルフ社製グランドピアノにちなんで制作された、自動演奏機能を有するグランドピアノがあり、ロブマイヤー社製のシャンデリアの光に包まれています。その反響版にはあの有名な北斎の「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」の版画が描か38817_expoaustrianpavilionboesendorferkl れており、このモデルは世界に16台しか存在しないとのことです。この部屋では、1869年から今日に至るまでの両国関係の歴史における主な出来事が鮮明な動画でスクリーン上に映し出されています。

 やや狭い回廊となった第2の部屋は「人々」がテーマで、オーストリアの著名人が紹介されるとともに、現代オーストリアの様々な科学技術・現代文化がデジタル技術で紹介されます。

 これに続く第3の部屋では、オーストリア館のテーマ「未来を一緒に作曲」を入館者が実体験します。複数のスクリーンで、多数の入館者が同時に異なるSDGsを選択すると、その組み合わせに応じて独自の曲が作曲され、バーチャル・オーケストラによって演奏される仕組みです。

 パビリオン内部の見学を終えた入館者は、らせん状の帯に設けられた階段を登って屋上階に出ると、サウンド・オブ・オーストリアという音響装置があって、これに触れると、教会の鐘の音、ラデツキー行進曲、牧場の牛の鳴き声などを聞くことが出来、オーストリアのランド・スケープならぬサウンド・スケープを味わうことが出来ます。また、屋上からは、EXPO会場の素晴らしいパノラマ景観を眺めることが出来ます。

 Menyu-image17453119442871024x707 パノラマの展望を楽しんだ後は、カフェでオーストリアのグルメを楽しんで見ては如何ですか?定番のヴィーナー・シュニッツェル(左の画像をクリックして拡大して現れるメニューのNo.6)からグーラーシュ(同No.5)、そしてデザートのカイザーシュマーレン(同No.7)、アプフェルシュトゥルーデル(同No.8)、ザッハトルテ(同No.9)、リンツァーシュニッテ(同No.10)に至るまで何でも揃っています。そして、お食事の後には、本場のウィンナー・コーヒー(クライナー・ブラウナーまたはグローサー・ブラウナー、それぞれNo,11、No.12)を是非どうぞ。

甲斐晶 (エッセイスト)

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天上の響き、グラスハープ

 2025年4月1日の夜に開催された日本モーツァルト協会の例会では、とても珍しい楽器、グラスハープの演奏が披露されました。

 L_20250404140001 グラスハープとは、濡らした指の先でワイングラスの縁(口の部分)を擦ると、グラスが振動・共鳴して、神秘的で独特の、天上の響きを思わせるような澄んだ音色の音が出るという原理を利用した楽器です。異なる音程の音を得るために、大きさや形状、材質などの異なるワイングラスを多数用意するとともに、グラスに注ぐ水の量を調整することで、お望みの高さの音が出るようにして演奏します。従って、演奏者には、毎回の演奏会の前における「調律」作業が負担となります。すなわち、演奏会の開始に先立って、個々のワイングラスに入れる水の量の調整、グラスの配列の工夫などが求められるほか、曲目によっては一度に複数のグラスの縁に触れて擦るという難易度の高い奏法も求められますし、常に指先が濡れた状態に保たれるよう、演奏中も時折指を専用の水を張ったグラスに浸す必要があります。

 Photo_20250403181301 こうしたグラスハープ演奏に伴う労苦のためからか、我が国でももっぱらグラスハープだけを演奏するプロはほとんど見られず、ほとんどが他の楽器もプロとして手掛けています。そんな中にあって、その夜は、日本グラスハープ協会の会長でもある大橋エリさんが、モーツァルトの作品だけで構成される、オールモーツァルトプログラムによって、チェロとの重奏、またはフルート・オーボエ・ヴィオラ・チェロとの重奏でグラスハープの魅力を余すところなく伝えてくれました。

 Interviewkomiyamphoto1 ところで、ヨーロッパ文化史研究家である小宮正安横浜国立大学教授の言葉を借りるならば、

「モーツァルト(1756ー91)の生きた18世紀後半、そうしたグラスハープの原理自体が、時代の特徴をきわめて映し出したものだった。それまでの旧弊な時代を抜け出て、新たな世界を作り上げようとする希望に裏打ちされた啓蒙思想や実験精神が徐々に広まりつつあったからである。特にモーツァルトが後半生を過ごしたウィーンでは、この街を都とするハプスブルク家の支配者、皇帝ヨーゼフ2世(1741ー91)が、そうした新たな世界への動きを汲んだ上からの改革を積極的に推し進めていた。またそうした中でモーツァルト自身、音楽活動においても様々な実験精神を発揮し、楽器についても最先端のものを採り入れていった。

Harmonica_de_verre_cropped その1つこそ、グラスハープのいわば改良版であるグラスハーモニカ、別名アルモニカだ。これは、グラスハープに不可避の演奏の困難さをなるべく簡単にし、誰もが最先端の神秘的な音を奏でられるように工夫を施したもの。発明者は、雷のメカニズムを解明し、避雷針を発明したほか、『自由・平等・友愛』に基づく理想社会の実現を目指し、アメリカ合衆国の建国にも携わった、啓蒙思想と実験精神の体現者であるベンジャミン・フランクリン(1706ー90)。具体的には、大きさの異なるグラス(の口:引用者補足)を水平ではなく垂直に、しかも鍵盤楽器のように左から右にかけて低い音から高い音になるように並べ、ペダルを使ってグラスが回転するようにした上で、濡れた指で自分の奏でたいグラスに触れるというものだ。」(当日のプログラム解説から引用。)

Wolfgangamadeusmozart_1 「その後19世紀に入ると楽器の耐久性や持ち運びの問題(何しろ壊れやすく重い)、さらにその神秘的な音が健康を害するといった噂ゆえ、グラスハーモニカは廃れてしまう。だがこの楽器の響きをモーツァルト自身熟知しており、あまつさえそのための曲も書いている。それを、まったく別の楽器を使うのではなく、いわばグラスハーモニカの原型ともいえるグラスハープで追体験指標というぜいたくな試みが、本日の例会の主眼に他ならない。」(同上から引用。)

 

 Franklin1 当初は天上界を髣髴させるようなその音色に多くの人が魅了され、トーマス・ジェファソン(1743ー1826)やゲーテ(1749ー1832)、パガニーニ(1782ー1840)といった有名人も「天使の声」などと言って称賛したとされています。アルモニカを発明したフランクリンは毎夜のように演奏したため、その音で目を覚ました奥さんが「自分が死んで天国に来た」と勘違いしたとの逸話が残されている程です。ところが、19世紀に入ってこの楽器固有の不便さからその使用が衰退するようになると、今度は、その独特の音が「人間の神経に悪影響を及ぼし、精神障害を引き起こすのではないか」などと言われるようになり、ついには悪魔の楽器として禁止されるまでに至ったのです。

 果たしてグラスハープは天使の楽器なのでしょうか、それとも悪魔の楽器なのでしょうか。これに結論を得るべく、グラスハープの演奏家でもあり研究者でもある田村治美氏がグラスハープの音が人体に与える生理的、心理的影響を実験・調査した結果がネット上に紹介されています

 L_mz_grassharp03 すなわち、色々なワイングラスを擦って発する音の周波数分析を行った結果、いずれも人間の可聴範囲を超える20kHz以上の高周波音(いわゆる超音波)が多く含まれていることが分ったのです(左図参照。クリックすると拡大されます)。また、グラスの組成(鉛の含有量)の違いで音色が異なり周波数特性も異なることが判明しました(赤い線の右側が20kHz以上の高周波成分)。

 さらに、高周波成分を含んだグラスの音と含まないグラスの音を被験者に聞かせて人体への生理的影響及び心理的影響を複数の観点から調べた実験では、「生理的には心地よさを得られているはずなのに、心理的には不快に感じている」という矛盾した結果が得られたとのこと。すなわち、生理反応では高周波を含むグラスの方が精神性発汗が抑えられ、α波もより多く出たが、一方、音を聞いた時のアンケートでは「心地悪い」、「不快だ」との感想が多かったのである。こうした二面性が、グラスハープに対する評価が分かれる一因なのかも知れません。

 Rarityglassharp-mozart その夜の大橋エリさんのコンサートの演目は、冒頭のグラスハープを伴わない、フルート、オーボエ、ヴィオラ、チェロの4重奏によるアイネ・クライネ・ナハト・ムジーク(K525)の第1楽章の演奏に加え、例会直前の3月26日にリリースされたばかりのCD「Rality-glassharp mozart-」(左図:CDのジャケット画像参照)に収録されている以下の曲目でした。

 1.トルコ行進曲 K331,III(グラスハープ、チェロ)

 2.きらきら星変奏曲 K265(同上)

 3.恋とはどんなものかしら K492(グラスハープ、フルート、オーボエ、ヴィオラ、チェロ)

 4.自動オルガンのためのアンダンテ K616(同上)

 グラスハーモニカのためのアダージョとロンド K617(同上)

 5.アダージョ

 6.ロンド

 7.グラスハーモニカのためのアダージョ K356(グラスハープソロ)

 8.アヴェ・ヴェルム・コルプス K618(グラスハープ多重録音)

なお、最後のアヴェ・ヴェルム・コルプスはアンコール曲としての演奏でした。

  その夜の聴衆にとって、このグラスハープという楽器はとても物珍しいものと見えて、例会開始の前や休憩時間には、楽器の前に大きな人だかりができて、皆さんその写真をスマホに収めていました。(この記事のトップの写真も客席から撮ったものです。)

 L 最後に、演奏者側から客席方向に向かって撮った貴重な1枚の写真をご紹介します(左の写真参照。クリックすると拡大写真が別ウィンドウに現れます)。拡大写真をご覧になると、実に大小さまざまな大きさのグラスが並べられ、中に入れられた水の量もそれぞれ異なっているのが分かります(空のものも見られます)。ところで、前列の中央にシャンパングラスがあるのが見えますが、どうして他と違うものが1つだけここにあるのでしょうか?答えは、演奏に際して、常に指先を濡らしておく必要があるため、時折指先を水に浸す目的のグラスで他と瞬時に区別しやすいようにと、シャンパングラスを選んで水を張っているのです。

 

甲斐 晶 (エッセイスト)

 

 

 

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他人の空似

新しい年、2025年を迎えて、早、20日が過ぎました。

毎週金曜日に興味深い視点で書かれたエッセイが配信される、STEAM NEWSというメルマガの1月3日発行の第215号で知ったのですが、2025はとても興味深い数字で、九九の表に出て来る1の段から9の段までのすべての数字を足すと2025になりますし、また、1から9までの数字のそれぞれの3乗の和も2025となります。試してみてください。(計算するには、ガウスの足し算の公式:(初めの数+最後の数)×個数÷2)を使うと早いです。)

Photo_20250120202103 さて、1/16日のX(旧ツイッター)に「権太楼よりお知らせです。」という柳家権太楼師匠からのメッセージがアップされていました。

同日のYahoo!ニュースにも、「柳家権太楼さんはSNSに文書をアップし『昨年の暮れより体調不良を感じ、検査をしましたところ食道癌と診断されました。』と報告。」として、権太楼師匠がXに載せたお知らせの内容を報じていました。

Photo_20250120202102 権太楼師匠は1947年1月24日生まれですから、今年、78歳になります。2010年には腎盂がんと膀胱がんを経験し(11月)、2022年には、心房細動による不整脈での検査入院(4月)や間質性肺炎での緊急入院(11月)をされていました。間質性肺炎の治療で使ったステロイド剤の副作用で一時は顔がまん丸(ムーンフェース)に膨らんでおられましたが、その後それも収まって良かったなと思っていました。ところが、最近高座のお姿をお見かけしたときは、ちょっとお痩せになったのではとの印象を持った矢先での「お知らせ」でした。一日も早い回復を願っております。

Photo_20250120202101 ところで、1月17日には横綱照ノ富士が引退を表明しました。権太楼師匠と照ノ富士が他人の空似でよく似ていると感じているのは私だけでしょうか?

甲斐 晶 (エッセイスト)

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小澤征爾さんを偲ぶ

20162 2024年2月6日、世界的な指揮者で、ボストン交響楽団やウィーン国立歌劇場の音楽監督を日本人として初めて務めた小澤征爾さんが心不全のため逝去されました。享年88歳での旅立でした。その逝去の公表は、9日、所属事務所によってなされましたが、故人の遺志により、葬儀は近親者のみで執り行われ、「後日、お別れの会を検討しています」とされていました。

Omf 小澤さんは、成城学園中学校を卒業後、桐朋女子高校音楽科を経て桐朋学園短期大学に進学しましたが、世界的な指揮者になってからも成城学園と深い関係があったようで、結局、その「お別れの会」が成城学園澤柳記念講堂で執り行われることとなり、本年3月に成城学園のホームページに次のような案内が掲載されました。(https://www.seijogakuen.ed.jp/news/2024/u8ej300000008yza.html)
「今般、下記の通り「お別れの会」を執り行うことといたしました。
当日は、思い思いに故人をしのんでいただきたいとのご遺族のご希望をふまえ、特別な催しを行うことなくご参列者の皆さまにはご都合の良い時間にお越しいただき、献花をしていただくこととしております。
なお、ご香典、ご供花、ご供物の儀はご遺族のご意向により固くご辞退申し上げます。何卒、ご理解の程お願い申し上げます。
     記
日時:令和6年4月14日(日曜日)午後1時から午後3時まで(随時受付)
場所:学校法人成城学園 澤柳記念講堂
午後1時より「コーロ・カステロ」「合唱団 城の音」による献歌を予定しております。
混雑を避けるために時間を拡大してご案内申し上げます。
上記の間でご都合のよい時間に平服でお越しくださいますようお願い申し上げます。」

成城に住んでいる私の友人からのメールによると、お別れの会の情報が「成城学園のHP、町内報、最寄駅や区掲示板に出ている」とのことで、小澤さんが実に気さくでどなたとも分け隔てなく交流されていたお人柄を反映していると感じさせられます。私の友人も、「小澤さんは蕎麦屋や小田急車内でお会いしてもにっこり挨拶に応じられ、鼻歌まじりで自転車に乗るなど、本当に気さくな方でした。」としていて、私の経験とも重なります。

Img_7919 実は、私の2度目のウィーン赴任中のことでしたが、小澤さんが後輩指揮者の秋山和慶さんとサイトウキネンオーケストラのコンサートをウィーンで開催された際に、ゲネプロにウィーン日本人学校の生徒や父兄、先生方を招待してくれたことがありました。楽屋にお二人を訪ねると、気軽に求めに応じて、我が家のゲストブックにサインをしてくれました(別図)。1989年9月11日、小澤さんが54歳の時のことです。

Q-ozawa-kaerntnerstr また、小澤さんがウィーン国立歌劇場の総監督を務めていたころ、2003年の5月のことですが、私がウィーンに出張した際に、たまたま歌劇場でのリハーサルを終えて、ご自分が滞在中であったアパートに戻りつつある小澤さんをケルントナー通りでお見掛けしたことがあります。大道芸人たちに声をかけて親しく談笑している姿をお見掛けして、偉大なマエストロなのに実に気さくな方だとの印象を受けました。(別図)

Trim さらに、10年前、2014年の冬のことですが、奥志賀高原にスキーに出かけた際、そこに別荘をお持ちの小澤さんが、奥志賀高原ホテルの前にある音楽堂のほうへスキーウェア姿でやってこられ、我々の姿を見ると声をかけてこられました。親しくお話してくださり、その後一緒に集合写真に収まってくださったことを思い出します。(左図は、集合写真からトリミングした、スキーウェア姿の小澤さんです。)

実に偉大な指揮者を失いました。まさに巨星墜つです。


甲斐 晶 (エッセイスト)

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CNS年次大会等を訪れて

Cnalogo2022 2023年6月上旬に、原子力発電所のセキュリティに関する調査のため、カナダと米国に出かけました。まず、カナダのセントジョン市で開催されたカナダ原子力学会(CNS)の年次大会に参加し、開会セッション等に出席するとともに、同市に所在、または同大会に参加していたセキュリティ関連のメーカーや原子力関連のエンジニアリング会社等との個別会合を行いました。さらに、米国ワシントンD.Cに移り、セキュリティ関連のNPO.を訪問して所要の調査を行いました。

Moltex CNSの年次大会では、カナダの原子力事業者の発表を通じ、次世代のSMR(中小型炉)の配備を中心にして、クリーンで安定したエネルギー源の活用により、カーボン排出ネットゼロの社会の実現を目指す意気込みを強く感じさせられました(図:カナダで配備が検討されているMoltex炉)。また、個別企業等の会合では、サイバーセキュリティ及び核セキュリティに係る先進技術に接することができ、所期の目的を果たすことができました。

Opening 開会セッション開始の冒頭、先住民の男女2名が、本大会の参加者及びその家族の健康と安寧を祈念する儀式を、先住民の歌や踊り、タバコの煙を鷲の羽で煽いだりする動作を交えて行っていました(左図)。こうした特別な行事を学会の開会冒頭に行っていることを目にしたり、開会セッションにおけるカナダの各州や事業者の発表の中で、その事業の推進において、先住民との共存を図るべく、事業への先住民の参画にいかに腐心しているかの言及を耳にしたりして、先住民との関係に特別な配慮を行わなければならないカナダ特有の事情、すなわち、原子力開発利用においても先住民の理解と協力や参画が必須と考えるカナダの原子力関係者の姿勢が窺えて印象的でした。

Img_5704 ところで、新型コロナが5類感染症に移行して間もないタイミングでの出張だったためか、日本からカナダへ向かう機内では、マスク姿の乗客が日本人以外にも見かけられ、我々の一行も皆マスク姿でした。しかしながら、CNSの年次大会では、レセプションにおいてもマスク姿の参加者は殆ど見かけなかったことから(380人ほどが参加登録した年次大会でマスク姿は、たった一人、白人男性がいただけでした)、我々も、若干の懸念を抱きつつも、郷に入りては郷に従えで、マスクなしで過ごすことになりました。

K10014093381_2306080927_0608093846_01_02 しかしながら、ワシントンD.C.着いてみると、道行く人々にマスク姿が多く見られ、アメリカ人のメンタリティはカナダ人と少し違うのかなどと感じましたが、実はこれは、カナダ東部で続く森林火災(右上図、出典:NHK)の煙が国境を越え米国に広がり深刻な大気汚染を引き起こしてImg_6028 いたためでした。このため、ワシントンD.C.でもひどいスモッグになり、公衆衛生当局がマスクをしないと肺などに健康上の影響を起こす可能性があるとの警告を出したためだと分かりました。左下の図は、自由時間にリンカーン記念館を訪れた際に、カナダの森林火災によるスモッグのために霞んで見えるワシントン記念碑を撮ったものです。森林火災によるスモッグの影響は深刻で、ワシントンDCよりもカナダに近いニューヨークでは飛行機の発着にも遅れがでたほどとの報道がなされていました。

Citylogo347110285_9451800418224260_50374 今回CNSの年次大会が開催されたセントジョンは人口約12万のニューブランズウィック州第2の都市で、ファンディ湾の北、セントジョン川の河口に位置しています。世界最大の干満差を見せるファンディ湾は、1日2回、大西洋の潮の満ち引きでセントジョン川を逆流して約1000億トンの海水が押し寄せることから、「Reversing Falls(逆流する滝)」が見られることで有名で、同市のウェブサイトには、Reversing Fallsを見物するため、その日の干潮・満潮の予報時刻の情報が掲載されているほどです(https://saintjohn.ca/en)。

Reversing-falls70 個人的には、約50年前、ミシガン大学に留学中の夏休みに、ノヴァスコシャへ州へのドライブの途上で、「逆流する滝」の見物にセントジョンを訪れて以来の再訪問でした。今回、宿泊したヒルトンホテルが河口に位置していたので、毎日のように「逆流する滝」を見られるはずでしたが、どうも名前負けしている印象だったのは、50年前と余り変わりませんでした。(左図:「逆流する滝」の様子。出典:Tripadvisor

Cosjlogoblack さて、カナダにはセントジョン(Saint John)と良く似た名前のセントジョンズ(St. John’s)という町があるので要注意です。後者は、カナダ東岸に浮かぶニューファンドランド島東端近くの人口約20万の港町で、ニューファンドランド州の州都です。北米最古のイギリス人入植地ともいわれ、また世界一霧の深い町としてギネス認定されています。そのロゴ(左図)はセントジョンズ湾の幅の狭い深い入り江の形状を象徴しています。

甲斐 晶 (エッセイスト)

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マルチ交渉の心得

 Iaeaflag11140x640 IAEA(国際原子力機関)など国際機関の諮問グループ会合(AGM)や専門家会合、多国間の条約策定会合などマルチの交渉事に参加する際の心得を、この種の会合に実際に参加した経験から、いくつか挙げてみましょう。

 Ihttps253asmile-252f252fs_eximg_jp252fex まず、3S(Smile, Silent, Sleeping)は論外です。日本からは、いつも大勢の会議出席者が来る割には、議場での発言が少ないか、何を聞いても微笑みを浮かべるばかりだったり、居眠りしているばかりとの批判が従前少なからずありました。

July4silentbutdeadly300x300 しかし、最近では、日本の専門家の貢献度が増してきており、こうした批判は当たらなくなってきています。ただ、国内ではそれなりの大家でありながら、国際会議では語学力不足から、せっかく発言しても何を言っているのか理解されず、無視されている方もまま見かけます。

 

Sleeping 今や、rとlの区別が付かず、fやv、thの発音がうまくいかない日本人の英語もそれなりに国際的に認知され、市民権を得ています。先方はそれなりに翻訳して聞いてくれますので、自信をもって、大いに発言して欲しいものです。ちなみに、thがうまく発音できないのは、ドイツ人でもそうですし、中国人の語尾を飲み込む英語やタイ人のファーファーした英語、インド人の喉の奥に籠もった英語も慣れないと聞き取りにくいものです。

 ポイントの第2は、マルチの会議では、発言のタイミングが肝心です。というのは、話題がすぐ変わりがちだからです。これが二国間の交渉では、相手との対話が確保されますから、議長に発言を求めるサインを送ってから実際に発言の許可を得るまでに議場の話題が変わってしまうと言うことはありません。ところが、マルチの会合では、そういうことがしばしば起こりがちです。とにかく、タイミングを失せずに、関連発言をするよう努めることが肝要で、そうでないと、もう既に決着済みの話題を蒸し返していると取られ兼ねない場合があります。

 Qcimg0415 次なるポイントは、マルチの会合では、議場での公式の交渉ばかりでなく、議場外での非公式な「ロビイング」が重要なことです。すなわち、議場裡での根回しが功を奏することが多く、コーヒータイム、ランチタイム、レセプションなどあらゆる機会をとらえての廊下トンビ活動にも力を注ぐべきなのです。公の会議の場では言えないような裏事情も、ざっくばらんに話すことで理解が得られることもあります。

 そして、肝に銘ずべきことは、AGMなど技術会合への参加者は、必ずしも各国の利益代表ではないことです。彼らの「良い格好しい」の発言には、要注意です。例えば、安全基準の策定作業の会議に出てくる各国の専門家は、その分野の「専門家」として来ているのであって、必ずしも行政や規制問題に精通しているわけではありません。従って、その発言は、割と格好の良い、建前論であることが多いのです。このため、専門家同士の審議の結果得られた基準・指針の勧告が法令に基づく規則や技術基準等に焼き直し得るものであるかどうかとの観点からの議論は、欠如しがちです。

基準・指針案に精神論的な規定がまま見られるのにはこうした背景があります。

 ところが、対処方針を背負ってやってくる日本からの出席者は、専門家としての立場のみならず、規制当局や事業者としての立場からの発言をせざるを得ず、議場では、あれも削れ、これも削れと否定的、消極的な発言振りに映りがちです。

 Pacific_heron554x300 出来上がった勧告や条約をしっかり遵守する気がなければ、理想論を格好良く展開することも可能でしょう。例えば、改正前の核物質防護条約策定会合でのスェーデン代表の発言です(改正前の条約では、国際輸送のみが規制の対象でした)。青森港から函館港への輸送のように途中に津軽海峡という国際水路を通過するものは、国際輸送に当たるから条約の対象とすべきと強硬に主張。建前上はそうでしょうが、実効性の観点からは、ナンセンスだという当方の主張に理解を示してくれる国の数を増すのに、大いにロビーイングに精を出しました。

 バイ(二者間)の交渉も大変ですが、マルチは、もっとややこしいのがお分かり頂けたでしょうか。

甲斐 晶(エッセイスト)

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泰西王侯騎馬図屏風

2013年のNHKの大河ドラマ「八重の桜」の舞台会津若松城は、現在、天守閣などが復元され、内部が博物館になっています。数年前に訪れた際Photo_20230426084101 には、「泰西王侯騎馬図屏風」のレプリカが展示されていました。オリジナルは、かつての城主でキリシタン大名であった蒲生氏郷が描かせた南蛮絵を屏風に仕立てたものとされ、数奇な運命を辿ってその後神戸市美術館の所蔵となっています。

 この縦2m、横5mの四曲一隻の金屏風絵は、西洋画の手法である短縮法や陰影法で描かれていますが、金箔の背景、彩色の岩絵の具などは日本画のもので、和洋折衷の見事な作品です。図柄は、堂々たる体躯のアラビア馬に跨って対峙する勇壮な甲冑姿の四名の王侯を描いたもの。それぞれ神聖ローマ皇帝ルドルフ2トルコスルタンモスクワ大公タタール大汗だとされています。Photo_20230426084201

抜き身の刀を振りかざして戦おうとする姿を描いた躍動感溢れるこの「動絵」は、戊辰戦争で鶴ヶ城が落城した際に、城主松平谷保の助命と会津藩に対する寛大な処分を主張した維新十傑の一人、長州軍の前原一誠に感謝して家老山川浩が贈ったものとされ、山口県萩市に持ち出されていました。

Photo_20230426090801 この絵の存在を人づてに耳にしたのが、神戸の有名な南蛮画の蒐集家、池永孟(1891-1955)です。南蛮画とは、桃山時代前後にポルトガル人やスペイン人がもたらした西洋画やこれを模倣して描いたキリスト教的な題材の絵画などのことです。

Photo_20230426084102 若くして財産家となった池永孟は、自らを「南蛮堂」と号するほど南蛮美術に魅せられた人物で、日本で製作された異国趣味美術品の集大成を目指し、昭和初めから私財を擲ってその蒐集に励みました。彼のコレクションは、歴史の教科書に良く出てくるあの有名な聖フランシスコ・ザヴィエルの肖像画やこの泰西王侯騎馬図屏風など、稀代の名品揃い。国際都市神戸に美術館が一つも無いことは国民の教養程度が察せられる国辱的なことと考えた彼は、昭和15年(1940)自分で「池長美術館」を建て、そのコレクションを一般に公開したのです。しかしながら、第二次世界大戦の戦局悪化によって、1944年に閉鎖されてしまいます。敗戦後は、過酷な財産税、固定資産税の課税対象とされ、蒐集品を切り売りせざるを得ない羽目に。コレクションの散逸の危機に直面した彼は、ついに昭和26年(1951)に貴重な7千点以上の美術品や資料を美術館とともに神戸市に委譲し、これが現在の神戸市立博物館に引き継がれて今日に至っているのです。

「泰西王侯騎馬図」を誰がどのような事情で描いたのかは、大いなる謎のままです。一説では、イエズス会の神学校であるセミナリヨで、キリスト教とともに西洋画法を学んだ日本人の絵師が描いたものと推定されており、それを描かせたのもイエズス会の宣教師とみなされています。また、この騎馬図の原図が存在し、アムステルダム刊行のウィレム・J・ブラウ世界地図(1606~1607年)を、1609年に改訂した大型の世界地図(現存しません)の上部を飾る騎馬図を拡大し、全く独自な騎馬人物図に仕上げたものと想定されています。

Suntory1 ところで、会津若松城にあった「泰西王侯騎馬図屏風」は、元来、四曲二双のもので、「動絵」と対をなす「静絵」が存在していました。これには甲冑姿の四名の王侯(ペルシャ王、エチオピア王、フランス王アンリ4世、イギリス王(あるいはカール5世とも)とされています)が、一戦を交える前なのでしょう、馬上で槍や王笏を手にして静かに対峙する姿が描かれています(四曲一双)。こちらの方は、落城後も昭和期まで松平家に残されていましたが、終戦後の混乱期に西宮市の某家の所有となり、現在ではサントリー美術館が所蔵しています。(1953年に、「動絵」、「静絵」の双方とも国の重要文化財に指定されました。)

Suntory2 1965年9月、鶴ヶ城の天守閣が復元され、唆工記念展が開かれたとき、「動絵」が神戸市の好意で城に送られて展示され、ほぼ百年ぶりに里帰りを果たしたのでした。また、2011年11月には、「動絵」と「静絵」が一堂に会した特別展がサントリー美術館で開催されました。

甲斐 晶(エッセイスト)

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iPod nano (第6世代)


_57  いつもの日課となっている1時間ほどのインターバルウォーキングでは、iPod nanoに取り込んだモーツァルトの曲や落語の噺などを聴いたり、FM放送を楽しんだりしています。iPod nanoは2005年5月の発売開始以降、2017年7月に販売を終了するまで、左の図に示すように、その形、大きさ、機能が時とともに大きく変遷してきました

51r7fi0ziil_ac_sy879_ 私の愛用しているのは、これらのうち、タッチパネルで操作し、超小型で(37.5x40.9 
x8.78mm)、クリップ機能の付いた第6世代です(左図。一番上の機種変遷の図では、下段の左から2つ目のモデル)。とても軽く(21.1g)、簡単に襟や袖口にクリップ止めでき、歩きながら聴くのにはとても便利です。
 

 私のモデルは容量が8GBで、音楽ソフトiTunesを使ってPCにCDやApple Musicなどから取り込んだ楽曲や落語をインポートしたものが1100曲/席ほど入っており、プレイリストから適宜選んで毎回違った楽曲や噺を楽しんだり、FM放送でニュースや音楽番組を聴いています。

 こうして長年便利に愛用してきたのですが、今年の初め、突然タッチパネルの画面がフリーズ。操作ボタンも機能しなくなってしまいました。大いに困っていたところ、幸いにも娘が私の喜寿のお祝いにと、アマゾンのギフト券(喜寿の77にちなんで17777円分)を贈ってくれ、記念に好きなものを買ってと言ってくれました。早速、アマゾンで予算内で購入でき、若干の残が出ました。

028941905727  この新しいiPod nano(といっても、第6世代のiPod nanoは10年前に製造中止となっているので、購入したのは新品ではなく、中古品を整備したものなのですが)をPCに接続し、iTunesを使って楽曲や落語の噺をインポートしようとしました。ところが、その昔Apple Musicで購入(ネットからダウンロード)したモーツァルトのホルン協奏曲第1~4番のアルバム(ザイフェルトとベルリンフィルの演奏でカラヤンが指揮)がPCに見当たらないことに気づきました。iTunesのアルバムの画像(上図)は表示されているのに、これをクリックしても、曲が元の場所には無いとのエラーメッセージが出るのです。

 そこで、購入当時に使用していた昔のApple IDとパスワードを使って、再ダウンロードを試みるのですが、IDまたはパスワードが違うとしてハネられてしまいます。仕方なくAppleサポートに電話を入れると、このIDは8年ほど利用されていなかったので無効になっているとのこと。以前確かに購入したことが先方のシステム上で確認できたので、新しいIDを告げて再ダウンロードを開始しました。

 ところが、何度試みても、全11曲中の一部しかダウンロード出来ません。最後の手段として、先方の提案で画面共有セッションを開始。私のPCでiTunesを立ち上げた画面を先方と共有しつつ、先方の指示に従って操作すると、全てをダウンロード出来ました。勿論、画面共有にあたっては個人情報(パスワードなど)が先方に漏れるリスクを危惧したのです が、パスワードを打ち込む際には画面共有を辞めてくれました。

 かくして、ウォーキングでiPod nanoを再び利用できるようになりました。一方、先にタッチパネルの画面がフリーズしてしまい、ボタン操作もできなくなっていたiPod nanoの方は、そのまま長らくほったらかしにしていたのですが、試しに充電してみると、なんと機能が復活。完全に放電したのが良かったのかどうかは分かりませんが、再びウォーキングで利用できるようになりました。

しかしながら好事魔多し。プレイリストを選んでシャッフルに指定しても、同じ曲目が何度もリピートされるという不具合が発生。仕方なく、アマゾンで求めた方に代えてみたのですが、どういう訳か、今度はこちらも同じ症状になってしまいました。ネットで検索して初期化をと調べたのですが、初期化すると全てのデータが失われると知って取り止めに。2_20221023213401 ネットで調べて、試しに、スリープ/スリープ解除ボタンと音量を下げるボタンを同時に押して強制的に再起動してみました(左図。出典:上記リンク先)。すると見事にシャッフル機能が戻りました。何らご参考まで。


甲斐 晶(エッセイスト)

 

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続・伊能忠敬物語

200前回「伊能忠敬物語」では、現役を引退して50歳になってから江戸で学び、正しい暦づくりのため、「地球の緯度1度の正確な距離を知りたい」と、足かけ17年をかけて日本全国を自分の脚で測量。伊能図と呼ばれる『大日本沿海輿地全図』を完成させた伊能忠敬の生涯についてお話しするとともに、香取市佐原にある記念館の展示で伊能図の正確さに感動した立川志の輔が創作した、2時間にも及ぶ新作落語「大河ドラマへの道-伊能忠敬物語」のことを紹介しました。

忠敬が亡くなったのは1818年。伊能図の完成はその3年後の1821でしたから、今年はその200周年にあたります。それを記念して、志の輔はこの4月17日、江東区文化センターにおいて伊能図完成200 年記念落語会で「伊能忠敬物語 -大河への道-」を演じています(左上図)。また、お正月恒例の「志の輔らくごin PARCO」では、新装なった PARCO 劇場における約1カ月間のロング公演、「伊能図完成200年記念『大河への道』」を計画。しかしながら、その直前にご本人が肺炎になってしまい、急遽中止となってしまいました。

Photo_20211225180301このため、200周年には間に合いませんでしたが、来年の1月「志の輔らくご in PARCO 2022」としてリベンジ公演「伊能図完成200+1年記念『大河への道』」が企画されています。1枚7200円と落語会としては破格の高額チケットなのにもかかわらず、発売直後に20公演全てが完売。彼の人気のほどを示しています(左図)。

忠敬の生涯に興味をそそられて訪れた記念館の展示で、衛星画像に基づく精緻な日本全図と伊能図が見事に重なるのを見た感動と、館外で目撃した「忠敬没200年記念に大河ドラマ化を」とののぼり旗から、「伊能忠敬物語 -大河への道-」という大作を創り上げた志の輔の想像力に感服します。

私がこの噺を2014年に初めて聴いた時の演題は、「大河ドラマへの道-伊能忠敬物語」だったのが、今では単に「大河への道」に進化。内容もきっと公演を重ねるに連れ磨きが掛けられているのではと思わせられます。

さて、「大河への道」は起承転結の構成になっています。まず志の輔は、30分にも及ぶマクラの部分で忠敬の非凡な人生、すなわち、50歳で天文学者の高橋至時に弟子入りし、55歳から日本全国を自分の脚で測量、73歳で亡くなるまでに地球一周分の距離を踏破したその生涯を語ります。

次いで「承」では、地元の偉人を主役にした大河ドラマの実現を目指す「伊能忠敬大河ドラマ推進委員会」の一大プロジェクトの顛末が描かれます。委員会は大物脚本家の加藤に脚本の作成を依頼。しかし、最終プレゼンの土壇場になって加藤は「出来ませんでした」と推進委員会の主任池本に詫びます。激怒する池本に加藤は「日本地図を完成させたのは、伊能忠敬ではない。」と思いもよらぬ発見を伝えます。実は地図完成の3年前に忠敬は亡くなっていたのです。

ここから舞台は江戸時代にタイムスリップする「転」の部分へ。主役は高橋景保で至時の息子です。彼は忠敬の死を伏せながらその事業を引き継ぎ、3年後の1821年に伊能図を完成させます。江戸城で将軍に拝謁し、忠敬の死を打ち明けて日本全図を披露します。「これが余の国か」と感動した将軍は、「伊能、大義であった。余は満足じゃ、ゆっくりと休め」と今は亡き忠敬に優しい言葉を掛けるのです。

ここで、再び場面は大河ドラマ推進委員会へ。結局加藤には忠敬の大河ドラマの脚本は書けず、書けたのは景保のものだったのですが、主任はその意味を深く理解し、提出書類にこう書きます。「伊能忠敬なる人物、ドラマにするには大きすぎた」。そして舞台は暗転してこの噺のクライマックスの「結」へ。パラグライダーで空撮した海岸映像がスクリーンに大写しされます。やがて画面上に衛星画像を元に作成された正確な日本地図が出現、続いてその横から歩測で得られた伊能図が現われて、両者がピタリと重なるのです。志の輔が伊能忠敬記念館で感動したシーンの再現です。

Photo_20211225180201ところで、この「伊能忠敬物語 -大河への道-」が映画化され、来年の5月20日から全国で上映されます。主演は中井貴一で、志の輔の落語に感動した中井が「この落語、映画化したら面白いと思うんです。ぜひやらせてもらえませんか」と志の輔に直談判。中井をはじめ、松山ケンイチ、北川景子ら若手からベテランまでの個性豊かな俳優たちを揃えて、それぞれが一人二役で、大河ドラマ制作の行方を描く「現代劇」と、200年前の日本地図完成に隠された秘話を描く「江戸の時代劇」の2つの世界を行き来する不思議な映画となりました。予告編はこちらをクリックすると見られます。https://movies.shochiku.co.jp/taiga/
ちなみに、映画には原作者の志の輔も二役で登場しています。

甲斐 晶(エッセイスト〉

 

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伊能忠敬物語

Photo_20211221104301落語が好きであちこちの落語会に良く出かけます。最近は立川志の輔にはまっていて、YouTubeにある彼の噺をせっせとダウンロードしては、iPodのファイル形式に変換して取り込んで楽しんでいます。彼は新作ものが多いのですが、中でも「親の顔」、「みどりの窓口」、「買い物ぶぎ」などが秀逸で大いに笑わせられます。

そんな中、2014年5月のことです。町田市民ホールで行われた彼の落語会に出かけ、2時間もの長講一席「大河ドラマへの道-伊能忠敬物語」を聴きました。足かけ17年をかけて日本全国を自分の脚で測量し、伊能図と呼ばれる『大日本沿海輿地全図』を完成させた伊能忠敬にまつわる話と2018年の彼の没後200年を記念してその生涯をNHKの大河ドラマにしようとする地元関係者の奮闘ぶりを描いた噺でした。その中で、彼の記念館が千葉県佐原(香取市)にあると知って興味をそそられ、出かけて見ました。

Photo_20211221103801 さして大きくもない記念館に入るとボランティアの方が展示物の説明をしてくれました。団塊の世代が定年退職し、社会奉仕のためあちこちでガイドを勤め始めたのは歓迎すべきことです。

館内最初の展示物は、裃を着て座る彼の肖像画(掛け軸)で、皆様もきっと教科書でお馴染みのことでしょう。その横には、巨大な映像パネルがあって、彼が前近代的な測量器具で実測して完成させた伊能図と最新の衛星画像による国土地理院の日本全図の二つが左右に示されています。見ていると両図は次第に近づいて画面中央でオーバーラップ。何とほぼぴったりと重なり合うのです。彼の仕事の偉大さを感じさせる展示ぶりです。

彼は17歳で佐原の酒造業を営む伊能家に婿入り。その商才によって傾きかけていた家業を見事に立て直すとともに、米取引、運送業、金融業など事業の拡大に成功し、多大な財産形成をします。一方、36歳で名主となった忠敬は、天明の飢饉の際には身銭を切って貧民救済に乗り出し、佐原村からは一人の餓死者も出しませんでした。

Photo_20211221110701 49歳で引退し家業を長男の景敬に委ねると、かねてから興味のあった暦学を志して江戸に出、天文学者高橋至時に弟子入り。その時忠敬は50歳、至時は19歳も年下の31歳でしたので、忠敬の決意のほどを伺い知ることが出来ます。

正しい暦づくりには地球の緯度1度の正確な距離を知る必要があり、日本ではこれを成した人物はいないことを至時から聞いた彼は、この偉業を成し遂げて後生に名を残そうとしたようです。
正確な値を出すためには、江戸から蝦夷地ぐらいまでの長距離を測れば良いとの至時の提案を受け、忠敬は蝦夷地南辺の測量を目指します。当時南下しつつあったロシアに対抗するためにも正確な蝦夷地の地図が必要との幕府の思惑とも合致し、至時の口添えで「御用」(幕府の公務)として蝦夷地測量の旅が忠敬55歳の寛政12年(1800年)閏4月19日に開始されるのです。

180日間の測量の旅(蝦夷地滞在117日)から戻り、約20日で完成させた蝦夷地の地図が幕府から高く評価され、追加の測量を命じられた結果がその後の全国踏破、ほぼ地球一周の4万㎞に及ぶ旅に繋がるのです。全国測量を終えた忠敬は全国図の完成を見ずに73歳で死去。その死は隠され、至時の息子景保を中心に作図作業が続けられ、ついに1821年に伊能図が完成するのです(左上図)。
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記念館を出て「江戸優り」と称された当時の面影を残す町並みを散策していると、忠敬没200年記念に大河ドラマ化をと記されたのぼりが目に付きました。志の輔は噺の中で「一年間、測量姿の場面だけでは魅力が無い。かといって行く先々の名所旧跡の案内では『ぶらり途中下車の旅』と変わらない。各地の名物料理の紹介なら単なるグルメ番組となってしまう。」と揶揄していました。
ところが既に井上ひさしが「四千万歩の男」(全五巻)という長編小説を書き上げ、これが元で加藤剛主演の「伊能忠敬-子午線の夢-」という映画が出来ているのです。小説はどこまでが史実でどこからが創作なのか分からないほど、ドラマチックで面白い作品です。名脚本家を得さえすれば、きっと興味深い大河ドラマとなることでしょう。

甲斐 晶(エッセイスト〉

 

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