2025年4月1日の夜に開催された日本モーツァルト協会の例会では、とても珍しい楽器、グラスハープの演奏が披露されました。
グラスハープとは、濡らした指の先でワイングラスの縁(口の部分)を擦ると、グラスが振動・共鳴して、神秘的で独特の、天上の響きを思わせるような澄んだ音色の音が出るという原理を利用した楽器です。異なる音程の音を得るために、大きさや形状、材質などの異なるワイングラスを多数用意するとともに、グラスに注ぐ水の量を調整することで、お望みの高さの音が出るようにして演奏します。従って、演奏者には、毎回の演奏会の前における「調律」作業が負担となります。すなわち、演奏会の開始に先立って、個々のワイングラスに入れる水の量の調整、グラスの配列の工夫などが求められるほか、曲目によっては一度に複数のグラスの縁に触れて擦るという難易度の高い奏法も求められますし、常に指先が濡れた状態に保たれるよう、演奏中も時折指を専用の水を張ったグラスに浸す必要があります。
こうしたグラスハープ演奏に伴う労苦のためからか、我が国でももっぱらグラスハープだけを演奏するプロはほとんど見られず、ほとんどが他の楽器もプロとして手掛けています。そんな中にあって、その夜は、日本グラスハープ協会の会長でもある大橋エリさんが、モーツァルトの作品だけで構成される、オールモーツァルトプログラムによって、チェロとの重奏、またはフルート・オーボエ・ヴィオラ・チェロとの重奏でグラスハープの魅力を余すところなく伝えてくれました。
ところで、ヨーロッパ文化史研究家である小宮正安横浜国立大学教授の言葉を借りるならば、
「モーツァルト(1756ー91)の生きた18世紀後半、そうしたグラスハープの原理自体が、時代の特徴をきわめて映し出したものだった。それまでの旧弊な時代を抜け出て、新たな世界を作り上げようとする希望に裏打ちされた啓蒙思想や実験精神が徐々に広まりつつあったからである。特にモーツァルトが後半生を過ごしたウィーンでは、この街を都とするハプスブルク家の支配者、皇帝ヨーゼフ2世(1741ー91)が、そうした新たな世界への動きを汲んだ上からの改革を積極的に推し進めていた。またそうした中でモーツァルト自身、音楽活動においても様々な実験精神を発揮し、楽器についても最先端のものを採り入れていった。
その1つこそ、グラスハープのいわば改良版であるグラスハーモニカ、別名アルモニカだ。これは、グラスハープに不可避の演奏の困難さをなるべく簡単にし、誰もが最先端の神秘的な音を奏でられるように工夫を施したもの。発明者は、雷のメカニズムを解明し、避雷針を発明したほか、『自由・平等・友愛』に基づく理想社会の実現を目指し、アメリカ合衆国の建国にも携わった、啓蒙思想と実験精神の体現者であるベンジャミン・フランクリン(1706ー90)。具体的には、大きさの異なるグラス(の口:引用者補足)を水平ではなく垂直に、しかも鍵盤楽器のように左から右にかけて低い音から高い音になるように並べ、ペダルを使ってグラスが回転するようにした上で、濡れた指で自分の奏でたいグラスに触れるというものだ。」(当日のプログラム解説から引用。)
「その後19世紀に入ると楽器の耐久性や持ち運びの問題(何しろ壊れやすく重い)、さらにその神秘的な音が健康を害するといった噂ゆえ、グラスハーモニカは廃れてしまう。だがこの楽器の響きをモーツァルト自身熟知しており、あまつさえそのための曲も書いている。それを、まったく別の楽器を使うのではなく、いわばグラスハーモニカの原型ともいえるグラスハープで追体験指標というぜいたくな試みが、本日の例会の主眼に他ならない。」(同上から引用。)
当初は天上界を髣髴させるようなその音色に多くの人が魅了され、トーマス・ジェファソン(1743ー1826)やゲーテ(1749ー1832)、パガニーニ(1782ー1840)といった有名人も「天使の声」などと言って称賛したとされています。アルモニカを発明したフランクリンは毎夜のように演奏したため、その音で目を覚ました奥さんが「自分が死んで天国に来た」と勘違いしたとの逸話が残されている程です。ところが、19世紀に入ってこの楽器固有の不便さからその使用が衰退するようになると、今度は、その独特の音が「人間の神経に悪影響を及ぼし、精神障害を引き起こすのではないか」などと言われるようになり、ついには悪魔の楽器として禁止されるまでに至ったのです。
果たしてグラスハープは天使の楽器なのでしょうか、それとも悪魔の楽器なのでしょうか。これに結論を得るべく、グラスハープの演奏家でもあり研究者でもある田村治美氏がグラスハープの音が人体に与える生理的、心理的影響を実験・調査した結果がネット上に紹介されています。
すなわち、色々なワイングラスを擦って発する音の周波数分析を行った結果、いずれも人間の可聴範囲を超える20kHz以上の高周波音(いわゆる超音波)が多く含まれていることが分ったのです(左図参照。クリックすると拡大されます)。また、グラスの組成(鉛の含有量)の違いで音色が異なり周波数特性も異なることが判明しました(赤い線の右側が20kHz以上の高周波成分)。
さらに、高周波成分を含んだグラスの音と含まないグラスの音を被験者に聞かせて人体への生理的影響及び心理的影響を複数の観点から調べた実験では、「生理的には心地よさを得られているはずなのに、心理的には不快に感じている」という矛盾した結果が得られたとのこと。すなわち、生理反応では高周波を含むグラスの方が精神性発汗が抑えられ、α波もより多く出たが、一方、音を聞いた時のアンケートでは「心地悪い」、「不快だ」との感想が多かったのである。こうした二面性が、グラスハープに対する評価が分かれる一因なのかも知れません。
その夜の大橋エリさんのコンサートの演目は、冒頭のグラスハープを伴わない、フルート、オーボエ、ヴィオラ、チェロの4重奏によるアイネ・クライネ・ナハト・ムジーク(K525)の第1楽章の演奏に加え、例会直前の3月26日にリリースされたばかりのCD「Rality-glassharp mozart-」(左図:CDのジャケット画像参照)に収録されている以下の曲目でした。
1.トルコ行進曲 K331,III(グラスハープ、チェロ)
2.きらきら星変奏曲 K265(同上)
3.恋とはどんなものかしら K492(グラスハープ、フルート、オーボエ、ヴィオラ、チェロ)
4.自動オルガンのためのアンダンテ K616(同上)
グラスハーモニカのためのアダージョとロンド K617(同上)
5.アダージョ
6.ロンド
7.グラスハーモニカのためのアダージョ K356(グラスハープソロ)
8.アヴェ・ヴェルム・コルプス K618(グラスハープ多重録音)
なお、最後のアヴェ・ヴェルム・コルプスはアンコール曲としての演奏でした。
その夜の聴衆にとって、このグラスハープという楽器はとても物珍しいものと見えて、例会開始の前や休憩時間には、楽器の前に大きな人だかりができて、皆さんその写真をスマホに収めていました。(この記事のトップの写真も客席から撮ったものです。)
最後に、演奏者側から客席方向に向かって撮った貴重な1枚の写真をご紹介します(左の写真参照。クリックすると拡大写真が別ウィンドウに現れます)。拡大写真をご覧になると、実に大小さまざまな大きさのグラスが並べられ、中に入れられた水の量もそれぞれ異なっているのが分かります(空のものも見られます)。ところで、前列の中央にシャンパングラスがあるのが見えますが、どうして他と違うものが1つだけここにあるのでしょうか?答えは、演奏に際して、常に指先を濡らしておく必要があるため、時折指先を水に浸す目的のグラスで他と瞬時に区別しやすいようにと、シャンパングラスを選んで水を張っているのです。
甲斐 晶 (エッセイスト)
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