地球をほぼ3分の2周して来たアンティーク・シュガー入れ

ウィーンに駐在していた頃、日本からの出張者を食事に招いたり、友人をお茶に招いたりしたものです。そんな時、食後にクリストッフルの銀製ポットで紅茶やコーヒーをお出しするのですが、お客様には必ず我が家のささやかなアウガルテンやマイセン、ウェッジウッドなどヨーロッパの名陶のコレクションの中から、お好きなデザインのカップを選んで戴いておりました。そして、添えのお砂糖やクリームもやはり銀製の入れ物でお出しして、優雅な気分に浸って戴いたものです。

 

 Sl1600_2そんなわけで、当時、家内は色々な銀製や銀メッキのシュガー入れや茶漉しのセットを収集しておりました。ところが、古希を迎えるに当たって、早めの形見分けをと願って、嫁に行った娘と息子の嫁さんの二人にどのセットが欲しいかサウンドしてみたところ、二人とも同じ英国マッピン&ウェッブ社製(王室御用達)の石炭入れの形をした素敵なシュガー入れを所望し、バッティングしてしまいました。このシュガー入れの凝っているところは、お砂糖を掬うスプーンが石炭スコップの形をしているのです。

 

ウィーンにいた30年ほど前には、紅茶はちゃんとポットに茶葉を入れて出すのが普通でしたので、茶漉しやシュガー入れも需要がありました。実際、我が家の石炭入れ形のシュガー入れは家内に頼まれて英国出張の際にロンドンのリージェント通りのマッピン&ウェッブのお店で求めたものでした。しかしながら今や、簡便にティーバッグで入れるのが普通であり(こだわりの紅茶党にとってはとても我慢がならないのですが・・・)、マッピン&ウェッブ社のHPを見てももう作っていないようです。

 

Il_570xn_1118748579_ef0l_5どうしても同じものをもう一つ欲しいとの家内からの相談を受けて、海外のオークション(ショッピング)サイト、eBayで"Mappin & Webb"及び"Sugar Pot"で検索してみましたが、残念ながらヒットしません。同じ検索単語でGoogle検索してみると、Etsyというこれまで知らなかったオークション(ショッピング)サイトに正に求めていたものが出ていました(上図)。英国からの出品で、アンティークとなっています(商品説明は”A charming vintage hand engraved Mappin & Webb silver plate ’coal scuttle’ sugar bowl with scoop”)。

 

Simg_0888今年の1月中旬にカード決済で購入し、待つこと1ヶ月。2月中旬にようやく英国から商品が届きました。日本の税関で内容確認のために開けられてしまったようで、税関が新たに作ったパッケージの中に送り主のオリジナルの梱包(これまた二重の封筒)が入っていました。三重の梱包を注意深く開封して出て来たのが左の写真の商品で、Estyに掲載されていた上の商品写真とはとても似ても似つかない代物です。

Estyでは、売り手と買い手のコミュニケーションはgmail経由です。早速、売り主に対して、届いた商品がネットに出ていた写真と異なっている旨上の写真を添付してメールで連絡。すると、上の商品は本来米国の買い手が注文したものなのに手違いで私宛に、そして私が注文したものは米国に間違って送ってしまったとの返事。一応申し訳ないとは言っていますが、こんなことは今まで無かったことだと、全く悪びれる様子はありません。日本で同じようなことが起こったなら、「着払いで早速売り主に送り返してくれ。」と言うところだと思うのですが、何と、「誤ってそちらに送った品を米国に転送してくれ。米国に誤って送られたものは、そちらに転送するように言うから。掛かった送料は払い戻す。」との提案。国民性の違いなのかと呆れてしまいました。

250pxhurricaneutahしかし、他に選択の余地はありません。出品者に米国の買い手の送り先を照会したところ、ユタ州のハリケーンという人口約1万4千人の小都市。早速、EMSで発送して、送料が2,000円であった旨を出品者に連絡するとともに、当方の連絡先を米国の買い手に知らせるように依頼しました。

待つこと更に1ヶ月。ようやく3月中旬になって、当初私がネットで注文した品物がユタ州の買い手から届きました。田舎町のためか、緩衝材のポチポチが手近に無いのでしょう。パッケージを開けてみると、コストコで扱っているKirkland印の黄色いハンドタオルに注意深く包まれたシュガー入れが出て来ました。そして、一緒にお手紙と、地元名産のフレーバー付き角砂糖が素敵なガラス容器に入っていました。こうした暖かな心遣いに、出品者の手違いでやや傷ついていた心が癒やされた気がしました。

Simg_0172こちらからユタ州の買い手には、お礼状と共に日本的なデザインの布巾と手ぬぐいをお送りした次第です。

さて、この話には後日譚がありました。英国の出品者から、送料を払い戻すからメールアドレスを教えろというので、これまで連絡用に使用していたgmailのアドレスを教えたところ、そこにPayPal上で払い戻しをするための案内が参りました。

早速、PayPalにアクセスして払い戻し手続きを開始しようとしたところ、PayPal上の私のプロファイルでは、別のアドレスが登録されていたため受け付けてくれません。仕方なく、お客様センターに電話すると、中国語なまりの日本語の女性が応対。一抹の不安がありましたが、指示されるままに本人であること(住所、氏名、生年月日)を証明する書類を電子媒体で送付。一週間ほど経って、自宅宛にgmailアドレスも登録された旨の手紙が届きました。改めてPayPalにアクセスし、払い戻し金を私のアカウントのクレジットとすることが出来ました。ただ、日本円では無く、出品者が指定したポンド建てなのが玉に瑕でした。 

甲斐 晶 (エッセイスト)

 

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ウィーンの水道水

 海外ではたとえ水道水であろうと生水は飲むべからずとのアドバイスが旅行ガイドブックに良く出て来ます。でもウィーンの水道水ならご安心下さい。遙かかなたのオーストリア・アルプスの水源地から引いてきた天然のミネラル・ウォーターで、その美味しさには定評があります。鯖田豊之氏の書かれた「都市はいかにつくられたか」(朝日新聞社、1988年)にウィーンの水道整備の事情が詳しく述べられています。

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 ウィーンで上水道が整備され始めたのは、1841年の皇帝フエルディナンド水道でした。これはドナウ運河の伏流水を蒸気機関でくみあげて集水池に集め、これを再度蒸気機関によって高台の配水池に圧力送水。配水池からは自然流下でしたが、ウィーンにとって初の水圧のある水道の誕生で、一部では各戸給水も行われました。

 しかし、伏流水を濾過せずに配水したことや集水池が完全には被覆されていなかったことから、水道の拡張とともにコレラや腸チフスの流行が却ってひどくなり、早くも1861年には別の水源を求める声が出始めました。そこで注目されたのが、ウィーンの南西約100kmにあるオーストリア・アルプスでした。

Kaiserbrunn2697462ラックスとシユネーベルグにはさまれたシュヴァルツァ渓谷のカイザーブルン(「皇帝の泉」の意)一帯は良質な泉水がたっぷり湧き出している上にあたりは皇帝領でしたので、フランツ・ヨーゼフ一世が無償供与を申し出たのです。

 これが現在でも利用されているウィーンの第一高地泉水水道で、1869年から工事が開始されました。水源地とウィーンの標高差280mを利用した自然流下による導水でしたが、途中、丘あり谷ありの地形が介在するため、岩をトンネルで穿つとともに、連通管の原理によるサイフォン橋や水道橋などの工夫によって高さ2m、幅1.6mの石造導管が延々とウィーンまで敷設されたのです(総延長120km)。18931024日、シュヴァルツェン広場の噴水とともにフランツ・ヨーゼフ一世によって開通式が行われ、第一高地泉水水道の供用が開始。ウィーンの各戸給水が普及し、水系伝染病の流行は治まりました。今でも水源地のカイザーブルンとシュヴァルツェン広場の噴水には立派な記念碑が存在しています。Hochstrahlbrunnen
 しかし、ウィーン市街の拡大に伴い、第一高地泉水水道だけでは市の水需要を全て満たすことは出来なくなります。新たな水源探しに迫られた当局はラックス、シュネーベルグの西方50kmの地点において、同様に良質で豊富な泉水の存在を突きとめました。これが第二高地泉水水道計画です。第一高地泉水水道が水源地から東に向かうのに対し、第二高地泉水水道はまず西に迂回してから北東方向へ向かう、延々200km近い水道工事が1900年から1910年にかけて進められました。水源地とウィーンの標高差は361mで、第一高地泉水水道と同様にトンネル、サイフォン橋、水道橋が敷設されましたが、全部が石造導管ではなく、一部にコンクリート管が使用されています。

Aquaedukt_moedlingウィーンは通常これら二つの泉水水道で水需要を賄って来ていますが、これほど遠距離の導水はヨーロッパでも余り見られません。また、普通は泉水、地下水に多い鉄、マンガン、石灰分もさほどではなく、第二次大戦に敗れるまではずっと塩素消毒なしで、ウィーンの水道水はどこよりも美味しいとの評判を得ていました。

しかし、第二次大戦後にウィーンを占領した連合国軍、とりわけアメリカ軍の強い要求で折角の泉水水道を塩素消毒せざるを得なくなりました。同様な立場に置かれたミュンヘンが独立回復後は塩素消毒を廃止したのに対して、ウィーンは今なお塩素消毒続行中です。このあたり、一度決めるとなかなか方向転換し難いウィーン気質の表れなのでしょうか。ただ、注入量はごくわずかなので塩素が気になることは余りありません。むしろ、折角のアルプスの雪解け水がIAEAの建物内ではなんとなく青臭い味がするのは、残念至極です。水源が別であるとの話も聞きませんので、給配水設備に問題があるのでしょうか。

 

 

 

甲斐 晶(エッセイスト)

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サイボクハム

Saiboku_86_4埼玉県日高市に「農」のディズニーランドと呼ばれる牧場、サイボクハムがあります。年間400万人近くもの人々が訪れるというその魅力の秘密は、何と言っても美味しい高品質の豚肉と本場ドイツ仕込みのハム・ソーセージ類、本格的なドイツパンにあります。

サイボクハムの正式名称は「埼玉種畜牧場」と言います。東京ドーム約3個分もの広大な敷地内に、レストランを始め、工場直売のミートショップ、カフェテリア、自社製パン工場、ハム・ソーセージ製造工場、特産品販売所、農産物マーケット、そして温泉施設までが併設されていて、一大「豚のテーマパーク」、「食のテーマパーク」となっています。

その存在を知ったのは、約20年前のこと。ウィーンへの赴任から戻って日高市の近くに居を構えたことから、近隣在住の知人に教えられたことによります。当Photo01時はまだ小規模な手作り感のある施設で、季節によっては近くの豚舎から得も言われぬ香りが漂ってくるほど。また、時折、二代目社長笹崎静雄氏の姿(写真上:日経ビジネス )をミートショップでお見かけし、声をお掛けすることもありました。

サイボクハムは戦後まもない1946年に先代社長の笹崎龍雄氏が日本の食料事情を改善しようと、養豚業をこの地で始めたことに由来します。龍雄氏は立志伝的な人物で、「養豚大成」という養豚業のバイブルともいえる本を著し、我が国の養豚業の普及に力を尽くした方です。(以前は、その著作本のほか、経営理念などが書かれた機関誌「心友」がミートショップの店頭に並んでいました。)

Sgp_86_6畜産と言えば牛(酪農)と鶏(養鶏)が主であった当時にあって、養豚業を唱えることには大変な努力と苦労があったようです。社名に「種畜」があるように、種豚の品種改良によって高品質の豚肉を開発し、これを消費者に届けようとしたのです。その結果、世界に誇る品質の豚肉「ゴールデンポーク」や「スーパーゴールデンポーク」そしてこれらを使った本場ドイツ仕込みの美味しいハム・ソーセージを生み出しています。しかもその評価は世界的に認められており、ドイツ農業協会(DLG)食品コンテスト「国際食品品質競技会」では、3年連続で[最優秀ゴールド賞]を受賞しているほどです。

原料となる豚の育成から加工、販売までを一貫して行うという、現在のユニークな畜産スタイルを生み出すとともに、食と健康のユートピア(ミートピア)を創造するというテーマに取り組んできたのは、龍雄氏のご子息で現社長、静雄氏なのです。インタビューにこう答えています。

「周囲は大学を卒業して入ったばかりの若僧が何を言っているのかと反発の嵐です。そこで、一度会社を出て食肉センターと売り場で1年あまりゼロから精肉を学びました。しかし、1000軒を超える精肉店を回った結論は、サイボクハムの品質はトップレベルだということでした。再び会社に復帰した後、さらに提案を繰り返し、そこまで言うならとようやく父が認めてくれ、小売りがスタートできました」。

オープンした6坪の店の初日の売り上げは僅か2000円だったそうです。それが今や年間来訪者400万人、売り上げ約60億円となるまでに発展したのは、やはりジューシーで美味しい豚肉と本物志向のハム・ソーセージの味でしょう。

Hamsausage_86_1日本人好みの甘い味に仕上げられた大手メーカーNハムやIハムの製品に満足できないオーストリア駐日大使ご夫妻に私からサイボクのハム・ソーセージをお送りしたことがあります。早速お眼鏡に叶い、以来、大使館のパーティには必ずサイボクの品を取り寄せておられたという逸話が残っているほど、その味は大使館のお墨付きです。

ところで、2013年の秋に困ったことが起きました。いくつかのTV番組で相次いで紹介されたことから、お客が殺到して品不足となってしまったのです。オーストリアに住んだことのある友人に本物のソーセージを送ろうと遠路はるばる訪れたのですが、生憎と全製品売り切れ。TV放送の威力を思い知らされた次第です。(写真:嶋田淑之氏のブログ から

甲斐 晶(エッセイスト)

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商社殺油地獄余話

前回、「落語の楽しみ」と題して、落語に親しむようになったいきさつや好みの噺家について書きました。現在活躍中の3人、柳家小三治、春風亭小朝、桂文珍の名前を挙げて、それぞれの人柄や噺の特徴などを紹介しました。

 その中のひとりで上方落語の雄、文珍師匠の持ちネタのひとつに「商社殺油地獄(しょうしゃごろしあぶらのじごく)」があります。初めて聴いたのは、何年か前のANA国内線の機内でした。奇想天外な展開に抱腹絶倒したことがあります。帰宅後早速AmazonDVDを求め、聴き直して見ました。

 104このDVDは、2008年春に大阪で行われた「桂文珍10夜連続独演会」をDVDに録画したシリーズの第4夜に収録されたもので、「包丁間男」という噺と一緒に収められています。

 従前から文珍さんは、日本全国、各都道府県を訪れては、その地の公会堂などで独演会を開催するという地道な活動を続けています。東京でも毎年春先に国立劇場小劇場で「桂文珍大東京独演会」を数日間開催して、好評を博しています。

特に2010年には、46日から15日まで、1600人を収容する国立劇場大劇場で10日連続独演会を実施。その人気からチケットは即日完売し、連日満席の会場は大爆笑の渦となったという、半ば伝説的なものとなっています。この熱演の模様がやはりDVDシリーズ「桂文珍大東京独演会」として発売され、くだんの「商社殺油地獄」はその第6夜に「高津の富」とともに収録されています。

Photo_5「商社殺油地獄」は、ある産油国、駐在員3人だけの日本商社の小さな出先の噺です。新国王の就任1年記念イベントを取り仕切っているのがアラマ・ハッサンさん。彼は、新国王が日本留学の経験もある大の親日家であって、能狂言にとても関心が深いことから、記念レセプションで狂言をやるように駐在員に注文を付けます。

そうした事情を全く知らない日本人商社マンは、もともと狂言には疎いのですが、どうせ王様には分かりっこないと高をくくり、あわよくば油の割り当てを増やして貰いたいとの下心をもって、にわか勉強で新作狂言『天才バカボン』を国王の前で演ってみせるという筋です。結局は、目論見どおりには行かずに落ちになるのですが、あの有名な漫画の主人公達を狂言に登場させて、パロディ化。これが、滅茶苦茶に可笑しいのです。

文珍さんは浄瑠璃や謡曲の素養があるようで、賑やかな鳴り物入りの狂言の場面になると、見事な節回しで「謡い」を披露します。

ところで、噺の中味がパロディであるばかりではなく、「商社殺油地獄」というタイトルも、近松門左衛門が人形浄瑠璃のために書き下ろし、明治になって歌舞伎に翻案して大当たりを取った作品「女殺油地獄(おんなころしあぶらのぢごく)」の演題をもじったものなのです。

歌舞伎の方のあら筋はこうです。油商河内屋の次男坊で札付きの不良息子与兵衛は、義父の徳兵衛が番頭上がりで遠慮がちなのをいいことに放蕩三昧。ついには家を追い出されますが、両親は、親心から与兵衛が来たら渡してくれと、同業で懇意にしている豊島屋のお吉の元に金を届けます。それを目にした与兵衛は、借りた金の返済期限が迫っていたことから、お吉に金を融通してくれと頼みますが、そんな大金は貸せないとお吉に断られて逆上。油樽を倒して油だらけになりながら、逃げるお吉を殺害し金を奪いますが、結局捕らえられてしまうのです。

さて、是非とも「商社殺油地獄」を生で聴きたいものと、ここ数年来「桂文珍大東京独演会」に出かけるのですが、いつも空振り。一昨年など、リクエストを求められて「商社殺油地獄」と叫んだのですが、その日の昼の部でやったばかりということで駄目でした。

そして、満を持して臨んだ昨年4月、幸運にも手を挙げた私のリクエストが採用され、「商社殺油地獄」を演じて戴けました。話の筋は分かっていながらも抱腹絶倒で大いに堪能いたしました。

甲斐 晶 (エッセイスト)

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落語の楽しみ

ジャニーズ系タレントが落語修業に打ち込む民放の連続TVドラマ「タイガー&ドラゴン」が高視聴率を上げて以来、落語ブームが続いていると言います。実際に、寄席やホール落語などに出かけてみると、高齢者に混じって、結構、若い人の姿を見かけます。これに、NHKの連続朝ドラ「ちりとてちん」が小浜出身の女流落語家の物語を取り上げたことが拍車を掛けたようです。

Photo_4ラジオしか無かった時代が幼少期であった筆者にとって、早く寝なさいという親のことばを尻目に、頭から被った布団の中で周波数分離の悪い鉱石ラジオから聞こえる演芸番組に懸命に耳を傾けていた頃が懐かしく思い起こされます。そんなわけで、大概のはなしの筋は覚えてしまい、まくらの部分を聞けばオチが分かる程です。しかし、何度聞いた話であっても、その都度大いに笑えるのは、歴史の篩いに掛けられて生き残ってきた古典芸能の力でしょうか。

長ずるに及び、今は故人となってしまった志ん生(五代目)、小さん(五代目)、圓生(六代目)など、それぞれ味があって、寄席やホール落語会に出かけては、堪能したものです。志ん生の2人の息子、馬生(十代目)と志ん朝にも、話のうまさに早くから注目していたのですが、残念ながら2人とも相次いで早世してしまいました。

現在、活躍中の噺家の中では、柳家小三治、春風亭小朝、桂文珍の3人が好きです。

小三治は、ちょっと間抜けな役柄の与太郎ものをやらせれば秀逸です。高校教師であるご両親の期待に反して大学受験に失敗。本来の反骨精神からか、落語家を目指して小さん(五代目)に入門。めきめき頭角を顕し、小さん亡き後は、その名跡を継ぐのではと目されていたのですが、結局は、小さんの長男の三語楼が六代目に就任。してやられた感がありましたが、これも無理押しはしないという彼の人生哲学の表れなのでしょうか。

Photo_2彼は大変な凝り性で、熊の胆、蜂蜜、石鹸、バイク、語学と次々にそれぞれの究極を求め、涙ぐましいまでに探求。その体験談などをはなしのまくらにするのですが、これが本題よりもすこぶる面白く、時には1時間近くもやるのです。ついには、このはなしの「まくら」だけを集めた本を出版(「ま・く・ら」講談社文庫)。お読みになれば抱腹絶倒すること請け合いです。自宅のバイク置き場にホームレスが住み着いた顛末記では、彼の見かけに依らない心の優しさが窺えますし、語学修行にニューヨークに出かけた時の苦労譚は、努力家である彼の一面を知ることが出来ます。

小朝は、古典落語も上手ですが、新作物や古典を現代風にアレンジした噺も大いに笑えます。クールな語り口のあちこちに「くすぐり」が用意されているのです。越路吹雪が亡くなって間もない頃、飯野ホールで「越路吹雪物語」を聴きました。関東では珍しく釈台を使いながら、不世出の歌姫の生涯を、ある時は可笑しくある時はしんみりとした語り口で描き出し、お客の喝采を浴びていました。彼の「源平盛衰記」も聞き物です。

Photo_3関西落語の文珍は、老人問題やコンピューター社会を巡る悲喜こもごもの人間模様をとぼけた口調で面白可笑しく語ります。古典と新作の融合も狙っているようで、いつかANAの機内で聴いた「商社殺油地獄(しょうしゃごろしあぶらのじごく)」には、涙が出るほど笑わされました。

ある産油国、駐在員3人だけの日本商社の出先の噺です。新国王となるアラマ・ハッサンは、日本留学の経験もある大の親日家。能狂言に関心が有り、王位就任レセプションで狂言をやるように注文しますが、狂言に疎い日本人商社マンは、にわか勉強で国王の前で新作狂言『天才バカボン』を演ってみせるという筋です。これが、滅茶苦茶に可笑しいのです。もう一度聴きたいと思い、彼の独演会に出かけて見るのですが、空振り続きでした。東京近郊での独演会を聞きに行った際、駅前でぱったり文珍さんに出会い、二言三言、言葉を交わしましたが、その際のやりとりが当日の高座のまくらで紹介され、面はゆい気持ちをした記憶があります。サービス精神旺盛な噺家です。

甲斐 晶 (エッセイスト)

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きよしこの夜伝説

 Oberndorfchapel世界で一番愛唱されているクリスマス・キャロルが「きよしこの夜」であることに異論はないでしょう。300以上の言語に訳されているそうです。

 オリジナル曲がギターの伴奏であったことから、パイプオルガンのふいごがネズミに囓られて壊れてしまい、急遽、副司祭のJ・モールが自作の詞をオルガニストのF・グルーバーに見せて作曲させたとの伝説が生まれたようです。(1943年に米国で出版された「きよしこの夜物語」にこの逸話が紹介されたのがその始まりとされています。)

しかし、最初の演奏がなされたオーベルンドルフ聖ニコラス教会の跡地に立つ、きよしこの夜記念堂のHPにはその由来に関しこう書かれています

Gruber18541030日付けのグルーバー自筆の由来記には『18181224日のこと、モールが自作の詞をグルーバーに渡し、ギター伴奏で合唱隊と二声ソロの曲を付けるように依頼した。』とあります。その日遅くグルーバーがモールに作品を渡し、気に入ったモールがこれを夕拝の一部に使用。モールがテノールを歌ってギター伴奏をし、グルーバーがバスを歌いました。グルーバーは、参列者(ほとんどが船舶運送人や船大工とその家族)のみんなが『この歌に満足』したと言っています。

「グルーバーの由来記には、この歌の創作の切っ掛けについて具体的な事情は書かれていません。ひとつの推測では、教会のオルガンが壊れてしまったので、モールとグルーバーがギター伴奏の曲を作ったことになっています。この「きよしこの夜」の初演をめぐっては、多くのロマンチックな物語や伝説が作られ、知られている史実にそれぞれ逸話に富む詳細を付け加えているのです。」

「モールの署名入りの自筆譜が1995年に発見され、そこに『作詞、副祭司J・モール、1816年』とあることから、作詞は既に1816年になされていたと考えられています。また、この自筆譜の右上に『作曲、F・グルーバー』と明記されています。」

『きよしこの夜』が作られたのは、ナポレオン戦争(1792-1815)直後の厳しい社会情勢下でした。ウィーン会議の結果、新たな国境線が画定し、『きよしこの夜』が初演されたオーベルンドルフは1818年にザルツァッハ川の向こう側のラウフェン(ドイツのババリアに帰属)から分離されてオーストリアのザルツブルグに編入されたのです。何世紀にもわたり、岩塩の船輸送が地域経済の基盤でしたが、ナポレオン戦争中に衰退の一途を辿り、回復することはありませんでした。この結果、地元は不況となり、運送業、造船業とその労働者が職を失い、将来に不安を抱くような困難な時期(1817-1819)にモールはオーベルンドルフで過ごしたのです。また、モールの前任地マリアプファールは、ババリア占領軍の撤退(1816及び1817年)に際し大きな痛手を受けました。モールはこれらのことを目撃し、それを念頭に1816年、『きよしこの夜』を作詞。そこには、平和と慰めに対する大いなる切望が表現されているのです。」

Ii現在、歌われている歌詞は3節までしかありませんが、グルーバーの原詞は6節まであります。そのうちの3、4、5節は歌い継がれるうちに失われてしまったようです。賛美歌研究者の川端純四郎氏は、「三つの節は、かなり重い内容なので、とても即興で作れるような詩ではありません」とした上で、第4節をこう訳されます。「今夜、父の愛のすべての力を注いで、私たちすべてを兄弟として恵み深く、イエスは世界の民をだきしめる。」

川端氏は「長く続いた戦争が終わり、待ち望んだ平和をたたえた歌だった」と説明します。チロルの手袋職人やコーラスグループによって紹介され、各地に歌い継がれ、19世紀中ごろには、ドイツ・ベルリンの宮廷や一般家庭で愛唱されるようになります。そして米国に伝わり、世界の隅々へ。「世界で広く歌われるようになるにつれ、政治的、社会的状況にかかわる歌詞が削除された」というのが川端氏の解釈なのです(川端純四郎「さんびかものがたり Ⅱ」日本キリスト教団出版局)。

毎年クリスマスイブに記念堂で6節版のオリジナルの「きよしこの夜」が演奏され、その様子はネットで紹介されています。

甲斐 晶(エッセイスト)

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コンチータ・ヴルスト

 Eurovisionlogoユーロビジョン(Eurovision)をご存じですか?

欧州および北アフリカの放送局からなる組織、欧州放送連合European Broadcasting Union)が提供する特別なTV音楽番組の冒頭に表れる統一ロゴです。有名なのは、毎年、元日の朝(日本では夜)に全世界に向かって放映される、ウィーンフィルのニュー・イヤー・コンサートでしょう。ロゴとともに流れるテーマソング、マルカントワーヌ・シャルパンティエの「テ・デウム」の前奏曲でお馴染みなことでしょう。

Eurovisionsongcontest2014ユーロビジョンの名を上げたのは、なんと言っても欧州統一の象徴として1956年に始まったユーロビジョン・ソング・コンテストでしょう。その優勝者にはABBAやセリーヌ・ディオンなど、その後世界的なアーティストとして活躍している歌手が多いことでも知られています。


さて、今年5月にデンマークのコペンハーゲンで開催された
2014ユーロビジョン・ソング・コンテストで、実に48年ぶりにオーストリアの歌手が優勝しました。48年前の優勝者は、Udo Jurgensで、オーストリアのさだまさしと私が勝手に呼んでいるシンガー・ソング・ライターです。時事問題などシリアスなテーマを取り上げながらも軽快な曲に仕上げてドイツ語圏で人気があります。

Conchita_wurst_2ところで今年の優勝者Conchita Wurstの舞台姿がとても奇妙であったことから、その歌唱力は別にして、大いなる議論を地元オーストリアは勿論、ヨーロッパ中に巻き起こしてしまっているのです。(その伸びやかで澄んだ歌声はYouTubeで検索して聴くことができます。あわせて、その奇抜な舞台姿もどうぞご覧下さい。)

ひと言で言えば、彼女(実は彼)は「ひげ面美人」なのです。生まれはれっきとした男性で、本名はThomas Neuwirthと言うのですが、はるな愛などと違って性転換はしておらず、マツコ・デラックスなどのような女装タレントに属します。ムキムキなのに厚化粧とど派手な衣装なのはいわゆる典型的なdrag queen(男性が女装して行うパフォーマンス)なのですが、とても濃いひげ面なのが違和感を呼びます。多分それで自分と他のdrag queenとの差別化を狙っているのでしょう。

彼女は198811月、オーストリアのグムンデン生まれ。学校時代には同性愛者であることから常にいじめられるのではないかとのおそれを感じ、休憩時間にトイレに行くのもためらうほどであったと語っています。2007年にオーストリアのタレント・オーディション番組「Starmania」で決勝に進出する一方、20112月にグラーツの服飾学校を卒業。この経験が彼女の舞台衣装姿に影響を与えているのかも知れません。

2011年からdrag queen「コンチータ・ヴルスト」として登場。この姿は「すべての人々に差異に対する寛容を呼びかける、重要なメッセージである」として、同性愛者、同性婚、性同一性障害者などへの差別の撤廃を訴えています。 ちなみに、「ヴルスト(Wurst)」とはドイツ語で「ソーセージ」を意味しており、「Das ist mir doch alles Wurst」(どれも同じ、気にしないの意)というドイツ語の慣用句に由来しているそうです。

 優勝後、故郷に錦を飾った彼女は、何千人ものファンを前にしてウィーンの新王宮前広場でコンサートを実施。大成功を収めました。コンサート前にはファイマン首相(社民党)と面談し、彼女が寛容を推進していることに謝意が表されました。

しかし、批判がないわけではありません。現政権の連立相手の国民党は、家族制度を重んずる伝統的価値観に立っており、首相の発言は歌手を政治目的に利用するものと激しく非難しています。

Eurovisionlsongcontest2015実は、彼女が昨年9月にオーストリア放送協会の内部選考によりユーロビジョン・ソング・コンテスト2014のオーストリア代表に選出された直後から、国内でも大論争となり、フェイスブックの「反ヴルスト」のページは31千を超える支持が集まったそうです。

規定により、来年のコンテストは優勝国オーストリアでの開催が決まっています。来年はどんな歌手が登場して優勝するのか今から楽しみです。

甲斐 晶

(エッセイスト)

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オイゲン公の冬の宮殿

 Eugen
昨年は、名将オイゲン公(16631736)の生誕350周年の年でした。彼は、オスマン・トルコ軍との戦いで名を挙げ、その優れた軍事的才能によって、ついには帝国軍の総司令官となるとともに、宮廷軍事会議議長、枢密顧問官などを歴任し、オーストリアで最も政治的影響力を有する人物となりました。多くの富と権力を得た彼は、いくつかの豪華な宮殿を建てましたが、その1つが彼の夏の離宮ベルベデーレ宮で、今日クリムトの「接吻」などの名画を展示する美術館として有名です。

一方、彼が住居兼接客用として使用した冬の宮殿の方は、旧市内ケルントナー通りの脇を入ったHimmelpfortgasse 8にあります。彼の死後、莫大な遺産を相続する子がおらず、姪の所有となります。ところが、彼女は1738年オイゲン公の財産を全てオークションに出し、結局、マリア・テレジアがこの冬の宮殿を宮廷の用のために購入。1848年まで彼女の所有となっていたのです。その後長らく財務省が使用していましたが、2007年から改装が開始され、オイゲン公の350回目の誕生日である昨年1018日に一般公開されました。そして、本年4月27日まで(ちなみに彼の命日は4月21日です)生誕350年を記念する特別展「サヴォイのオイゲン公-350年」が開催されました

Winterpalace_3昨年の晩秋にウィーンを訪問した際、知人からこのことを耳にして、私もこの冬の宮殿と特別展を見に出かけてみました。冬の宮殿は、オイゲン公の依頼によって、バロック建築家ヨハン·ベルンハルト·フィッシャー·フォン·エルラッハが1695年から1700年にかけて建設。その後、ベルベデーレ宮を設計した建築家ヨハン·ルーカス·フォン·ヒルデブラントによって増築されたものです。
 
新装なった冬の宮殿は純白の外観で瀟洒な佇まい。大きく開いた戸口から入り、右手の大階段を進むと正面の踊り場の壁にオイゲン公と覚しきレリーフとヘラクレスの像が我々を迎えてくれます。この階段を上りきった2階が展示会場です。

Entrance_3展示は、彼の生涯、その家柄、宮殿の建築、軍事上の功績などに焦点を当てています。また、展示の説明は、ドイツ語と英語の両方で書かれていましたが、30年前に初めてウィーンに出張したときには、美術館や博物館の説明は全てドイツ語だけだったことを思うと、このあたりは観光立国オーストリアの面目躍如というところでしょうか。

オイゲン公はイタリア起源のフランス貴族の息子としてパリで誕生。長男ではなかったため家督を継げず、ほとんど無一文でウィーンに辿り着いて、ハプスブルグ宮廷入りを果たします。当時、フランスと敵対するオーストリアに来ざるを得なかったのには、それなりの事情があったのです。

まず、彼は、1683年トルコ軍による第2次ウィーン包囲に際し、ロートリンゲン公カールの指揮下の皇帝軍に入って一将校として参戦。その後、武勲を重ねて目覚ましい昇進をし、1697年のゼンタの戦いでは最高指揮官として勝利を収めます。その後、カルロヴィッツの和約(1699)によってオーストリアがハンガリー全土を獲得して戦争が終結するまでに、有力な将軍の1人となり、ついには帝国軍の総司令官にまで上り詰めたのです。

Schlachtenbildersaal冬の宮殿には豪華な部屋が数多くあります。すなわち、ルイ・ドリニーが描いた天井フレスコ画がある青の間、かつての謁見室で皇帝ヨーゼフ1世、カール6世、それに愛馬に跨るオイゲン公の等身大の肖像画で飾られた赤の間、金色に輝く見事な金色の間などなど。中でも圧巻なのはイグナス・ジャック・パロセルによって壁一面に描かれたトルコ軍との戦闘の場面です。ドナウ河畔に展開する双方の多数の軍団を克明に描いた大スペクタクル画によって彼の武勲を偲ぶことが出来ます。

ところで、ここには江戸時代のものとされる総漆の和戸棚が展示されていましたが、これはトリノ市からの借り物のようで、残念ながらオイゲン公とは無関係のものでした。

特別展終了後はこの宮殿もベルベデーレ宮同様に美術館として利用され、オーストリア内外の現代芸術家の作品が展示されることになっており、新たな観光スポットとなることが期待されます。

斐 晶(エッセイスト)

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比翼連理

 比翼連理と言う四字熟語をご存じでしょうか。白楽天がその長編詩、長恨歌において、玄宗皇帝と楊貴妃の仲睦まじさを描くのに、「天にあっては比翼の鳥、地にあっては連理の枝とならん」と表現したことから、相思相愛の夫婦仲のことです。

 今から80年ほど前に国際結婚した中国人男性とオーストリア女性の夫婦が激動の51xbkfdxwpl
時代変化の中で、お互いに深い愛情を育んで生きた姿を描いた映画「愛に架ける橋」(英語名:
On the Other Side of the Bridge2002年中国製作)を見て感動し、この言葉を思い出しました。かなり脚色されていますが、この作品は実話に基づくもので、故国オーストリアを捨て、当時は文化の果つる地で生きることを選択した女性、Getrude(映画ではFannyという名:1916-2003Wagnerの一生を描いています。

  彼女がウィーンの警察学校に留学中の中国人青年Du Cheng-Rong (杜承榮、当時24)と出会ったのが19301月。(彼女の父は警察学校の教官の1人でした。)若い二人はいつしか惹かれ合い、愛情が芽生えます。ところが193312月、Du帰国。日増しに恋焦がれるGetrudeは、「中国に渡って、彼と結婚したい。」と父に告げますが、許されません。しかし、彼女の決心は固く、18歳になった193412月、計画を実行。Duの財政的支援を得てイタリアから船で上海に渡ったのです。

彼女の両親は遠い国に旅立つ娘を良しとしませんでしたが、彼女は5年後には戻るからと約束して故国を離れたのでした。そして、19352月、風光明媚な浙江省杭州で結婚。Getrudeは中国名のHua Zhi-Ping (華知萍)を得ます。25834_w470_h470

彼らは、Duの故郷、浙江省東陽市上盧鎮湖滄村でも伝統に従った結婚式を挙げ、田舎の農村生活を開始。Getrudeは優しい思いやりのある夫に助けられ、不便ながらも次第に土地の風俗習慣に溶け込んで行きます。Duは、結婚して数年したら、彼女を連れてその両親に会いに行くつもりでした。

しかし、平穏な生活は長く続きません。混乱と災難が次々に到来。国民党と共産党との抗争に加え、1937年の日本軍の侵略により一家は国内を転々。重慶では日本軍による空襲を受け、命拾いをします。そして、1944Duは国民党の支配下だった温州の警察学校長を拝命します。

1945年日本軍の降伏によって第2次世界大戦が終わりますが、国民党軍と共産党軍による内戦が勃発して、Duは故郷に帰還。混乱の中、貧困生活を余儀なくされ、Getrudeは母から貰った腕輪を仕方なく売って長男の学費などに充てたのです。この頃、国民党に協力的だったとしてDuは共産党の反革命分子狩りや大躍進運動(1958-1961)の標的となって迫害されます。また、政治運動や悪天候による大凶作(1960-1962)のため、困窮の度が増します。この間、1950年代初めや1960年代初めには、オーストリア政府やGetrudeの両親が帰国の手筈を整えますが彼女はこれを拒み、夫や家族と一緒の道を選ぶのです。

そして文化大革命(1966-1976)が追い打ちをかけます。裕福な家庭の出身で、国民党の親派、しかも西欧人と結婚していることで、Duは紅衛兵からの厳しい追及、総括を受ける羽目に。余りにもひどい責め苦にDuは自殺を考えますが、Getrude の愛に接して思いとどまるのです。1979年文革が終わり、Duはやっと72歳で名誉回復を遂げます。Gertrude_wagner

ようやく彼ら二人の平穏な生活を取り戻せました。そして、彼女の弟が中国にあるオーストリア大使館に働きかけて彼女へのオーストリア旅券の再発行を求めたのです。

幸福な生活は10年ほど続きましたが、1989Du は癌に冒され、健康が衰えて行きます。翌年4月、最愛の妻が手に入れたばかりのオーストリア旅券を眺めながら83歳で息を引き取ります。

その年の末、Getrudeはウィーン市長Zirkの招きで56年ぶりに帰国。55年間一緒に暮らし、二男三女をもうけた最愛の夫が一緒でなかったのが唯一悔やまれたことでした。

「愛に架ける橋」が中国で封切られたその前日の2003219日、彼女は86歳の生涯を終え、愛する夫の傍らに安らかに眠っています。

甲斐 晶 (エッセイスト)

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大坂図屏風

 
 オーストリア第2の都市グラーツは16世紀の街並みがSchloss_13461_2ほぼそのまま残された古都で、旧市内が全域、世界文化遺産に登録されています。その郊外にエッゲンベルグ城がありますが、このお城も世界遺産となっていて、神聖ローマ皇帝フェルディナント2世の顧問をつとめた公爵ヨハン・ウルリッヒ・フォン・エッゲンベルグが1625年に全宇宙をモチーフとした建てさせた平城です。すなわち、4つの塔が四季を、12の門が12ヶ月を、365の窓が一年の日数を表しているのです。
 2006年9月、このお城で250年以上にもわたって居室の壁に描かれた画の一部と思われていたものが、実は豊臣秀吉の没した慶長年(1598)前後の大坂城とその城下町の様子を詳細に描いた屏風絵(「豊臣期大坂図屏風」)で、日本国内にも残存例の少ない、大変貴重なものと判明しました。調査を依頼されたケルン大学エームケ教授が関西大学にその写真を持ち込んで判ったのです。一体、どうやって日本の屏風絵がはるばるオーストリアのグラーツで発見されるに至ったのでしょうか?この屏風絵の数奇な運命を辿ってみましょう。

 時はオランダの東インド会社が盛んに東洋の事物をヨーロッパに紹介していた頃に遡ります。日本との関係では1609年、平戸にその商館が出来て交易が始まります。記録によると1642年6月に初めて屏風の注文がなされました。屏風は壁面を飾る装飾品として紹介されましたが、紙製のため、虫食いとか船旅の途中で蒸れたり濡れたりして損傷するリスクが高いのです。あまり儲からないためか、わずか4年で取引が終了してしまいます。90双輸出したうちヨーロッパに着いたのはわずかに12双。こうした屏風の1枚をエッゲンベルグ家が入手し、市内の宮殿で使っていたようです。

 ヨハン・ウルリッヒの玄孫のマリア・エオノーラが1750年の城内改修にあたり、東洋趣味を盛り込んだロココ形式の小部屋を三つ造りました。ひとつは、磁器の間で、主に伊万里の色絵皿を部屋の壁一杯に埋め込みました。次は、中国風の布飾りの壁の間で、清朝の宮廷風景を描いた絹布をばらして、これまた部屋の壁一杯に貼り付けました。Saal_13292_2

 そして、3つ目がインドの間です(当時のヨーロッパ人にとって、東洋=インドだったようです)。

八曲一隻であった豊臣期大坂図屏風(高さ182cm、幅480cm)がばらばらにされ、8枚のパネルとして壁面に埋め込まれ、西洋人の画工が想像して描いた中国趣味の絵と交互に飾られたのです。

こうした思いがけない扱いを受けたことがかえって幸いして、屏風絵を現代まで生き延びさせたのです。2000年にパネルのByobu_1790修復が行われたのが再発見のきっかけでしたが、パネルを外してみると枠の合間ごとにカンバスが張られて和紙が補強されており、パネルに入れられた事で湿気や温度の変化による劣化から守られました。また、城は第二次世界大戦中に侵攻したソ連兵の略奪に遭って多くの美術品が持ち去られましたが、壁と化していた屏風絵は略奪者の手から無事守られたのです。

お城のサイトに屏風絵の詳細な説明があります豪奢な大坂城の城郭のみならず、秀吉にゆかりの神社仏閣や町屋が描かれるとともに、500人もの老若男女が詳細に描かれ、当時の武士や町人などの生活ぶりを覗うことができます。この屏風絵については、その発見に関わった三者、エッゲンベルグ城を含むシュタイアーマルク州立博物館ヨアネウム、関西大学、大阪城による共同研究が2007年に立ち上げられその成果が広く発表されています。また、日墺修好140周年の20099月、オーストリア大統領の来日の際にエッゲンベルグ城と大阪城の姉妹城郭提携が結ばれました。

共同研究の成果を紹介したBShi特集番組を見て、機会があればこの目で見たいものと願っていましたが、ある秋の日、その願いが叶いました。ただ、くだんのインドの間は防犯警報装置が厳重で、屏風絵を間近で眺めることが出来ませんでした。せめてもレプリカの展示でもあればなあと思った次第です。

    甲斐 晶(エッセイスト)

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